9章(4)
恵美は会社を出た途端に、涙を流した。自分の中では割り切っていたはずなのに、実際に辞めてしまえば寂しさが募った。社屋を振り向く恵美の脳裏に楽しい思い辛い思い、そして京子と雅子の顔が蘇った。この建物はその全てを包んでいるのだ。毎日通った建物・・・。恵美は居たたまれなくなり走り出した。いつもは電車で通う病院も、今日だけはタクシーを利用した。泣き顔なのが自分でも分かったからだ。恵美はタクシーの中で更にもう一泣きした。運転手は怪訝な表情でルームミラーで見ていたが、やがて涙を拭き化粧を直す恵美を見て、運転に注意を戻した。
「お世話になります」いつものナースステーションを通り抜けようとした時、当直の看護婦に恵美は呼ばれた。
「おめでとう。今朝、意識を取り戻し、夕方には一般病棟に移ったわよ」看護婦の笑顔が、天使にさえ見えた。
「本当ですか。ありがとうございます」腰が折れそうなほどお辞儀をすると、急に振り向き立ち去ろうとした。気持ちは既に一般病棟に向いていた。そんな恵美に看護婦はあわてて声をかけた。
「病室は、三階の302よ」恵美は駆け出しそうな足を止めて振り返り、小さな照れ笑いを浮かべた。焦る気持ちを抑えられずに、病室さえ聞くのを忘れたのだ。
恵美はまたも腰が折れそうなほどにお辞儀をすると、小さく頷き、そして踵を返し立ち去った。病室入り口のネームプレートを確認し、恵美はゆっくりと扉を開けた。特別病棟らしく、ベッドは一つそして小さな応接セットも配置されていた。恵美が顔を覗かせると、座っていた浩二が気がついた。
「恵美さん、どうぞ入ってください」恵美は軽く頭を下げると、遠慮がちに病室に入った。浩一の父、康之も居たが、二人に遠慮した訳では無かった。特別病棟に気が引けたのだ。よく芸能人や政治家などは使うらしいが、恵美は今までの付き合いで、そんな人種との接点が無かった。因って特別病棟とは無縁だったのだ。
「こんばんは。お邪魔します」恵美は浩一のベッドに駆け寄りたい気持ちを、必死に抑えた。ほかにも、浩一の会社の重役や秘書が居たからだ。もちろん紹介されたわけではない。見るから重役顔なのだ。応接テーブルに書類を広げて、なにやら相談中の様子だった。そんな恵美を康之が気遣った。
「さあ、恵美さん、浩一に会ってやって下さい」恵美は応接セットの脇をすり抜け、浩一のベッドの側に近づいた。浩一の頭には、まだ包帯が巻かれている。その包帯は顔の鼻頭辺りにまで及んでいた。目の周りは開かれていたが、光の加減で浩一の目はよく見えなかった。
「今は、眠っています」康之が小声で教えると、静かにストールを引き寄せてくれた。ストールに腰を掛け、恵美は浩一の顔を覗き込んだ。
確かに眠っているようだ。静かな寝息が聞こえ、瞼は閉じられていた。胸はゆっくりと上下運動を繰り返している。恵美は浩一の手を取った。
あの時と同じ、大きくて柔らかく暖かい手。恵美の頬を涙が伝った。五日間ガラス越しに見続けた姿。やっと触れることの出来た嬉しさ。
そして今日の退社。涙は一気に溢れ出した。我慢を重ねた末の浩一との対面。恵美は浩一の手に優しく口付けを残し、病室から逃げるように飛び出した。みんなが居る手前、泣きたくても泣けない。しかし涙は止まらない。そんな心の葛藤に耐え切れず、恵美は飛び出したのだ。
廊下の隅。全面に張られた大きな窓に寄りかかり恵美は泣いた。声を出して泣いた。ガラスに映る恵美も泣いていた。ガラスの恵美と抱き合うように、その身体は床に崩れた。泣きながら恵美は自分に向かい話しかけた。『今日は泣かせて、明日から泣かないためにも』浩一の前で涙は見せられないと、恵美は固く自分に言い聞かせた。どのくらいの時間泣いていたのか解からない。ふと、背後から声をかけられた。
「恵美さん・・・」白いハンカチを手に、浩二が立っていた。浩二は恵美から見えないところで、泣き止むのをじっと待っていたのだ。
「浩二さん・・・」恵美は浩二にすがりついた。収まりかけた涙がまたも溢れた。浩二は恵美を抱きしめようを肩に手を回した。が、浩二は静かに手を下ろした。『恵美さんは、ただ、泣きたいだけなんだ』そう言い聞かせ、抱きしめたい衝動を必死に抑えたのだ。そこでも浩二はじっと待ち続けた。気持ちは何度も恵美を抱きしめていた。気持ちだけは・・・。やがて恵美の嗚咽が収まり始めた時、浩二は顔を覗き込むように恵美に話した。
「さあ、兄に付いてやって下さい」恵美は受け取ったハンカチで、涙を拭いしっかりと頷いた。
「明日、昼にはジュンも来ます。そのとき社のほうに来てもらえますか。手続きしたいので」康之に雇えと言われた以上、正式な手続きを踏む必要があった。形式上は浩一の第2秘書扱いにするつもりだったのだ。そのため、人事課や秘書課にも顔を出してほしかったのだ。無論、そんな面倒な手続きを取らなくても、雇い入れは簡単だった。しかし浩二には、これから恵美が担う役目はことのほか重要に思えたのだ。
大げさに言ってしまえば、社の運命を担う存在になるのでは、と言う予感さえあったのだ。その予感はどこから来るものなのか浩二にも、皆目見当が付かなかった。恵美が病室に戻ると、申し合わせたように皆が一斉に立ち上がり、社の重役と康之までもが入れ替わるように出て行った。
「恵美さん、浩一をよろしくお願いします」通りすがりに康之が残した言葉。その言葉をかみ締めるように、恵美はストールに腰掛けて浩一に寄り添った。病室には二人だけ。静まり返った病室には、機械の微かな音と浩一呼吸する音。空調から聞こえる僅かなモーター音。それらの音に同調するかの様に、浩一の手を握っていた恵美はやがて静かに寝息を立て始めた。