9章(3)
雅子はショックを受けたようだ。京子に続いて恵美も辞めると聞かされたのだ。恵美は雅子は不憫に感じた。基本的人間性は良いのだが、詮索好きと、噂好きから恵美と京子以外に友人は居なかった。昼食をとりながらもしきりに恵美に悲願した。
「まだ、辞めること無いじゃない〜。結婚が決まったら辞めなよ〜」今まで雅子が見せた事のない弱さに感じた。
「ごめんね。でももう決めた事なの」恵美は浩一の退院後のことも考えた。浩一の母の言うように、必ず元気になるだろう。しかしその後の期間も、浩一に付いていようと思ったのだ。恵美の心の中では、浩一が社会復帰するまでの仕事と決めていたのだ。その先・・・。
笑みはその先は、考えなかった。意識的に頭から除外したのだ。今に気持ちを集中するためだ。もしもその集中力が無くなれば、恵美は立ってもいられなかっただろう。今の段階では、さすがに雅子には浩一の事故の話は出来ないでいた。それこそ無関係な人にまで話が広がりそうだ。ただ結婚話は課長にも言ってある。そのことだけを話したのだ。
「とにかく、すぐに辞める訳ではないし、辞めても友人でなくなる訳じゃないよ」
「そうね・・・。そうよね」雅子は納得出来ないような様子だが、恵美に押し切られた。ここでも恵美の強さが浮き彫りにされた。
「いいわね、将来は副社長婦人か〜」雅子も普通に結婚を夢見る女。大げさではないため息が、雅子の口から知らずに漏れた。
午後には専務が血相を変えて恵美の元を訪れた。恵美は予期していたために、それほどの驚きは見せなかった。
「一応はおめでとうと言っておこう・・・」それから専務は声を低くし、恵美を部屋の外に連れ出した。
「彼がよくなるにしても、かなり先の話だろう。まだ、早いのでは?」恵美は思わず笑ってしまった。恵美の想像を、丸写ししたような受け答えだったからだ。
「専務。私、彼が元気になるまで、付き添うことにしたんです。何か問題でもありますか」恵美は胸を張った答えた。
「いや、問題などありはしないが・・・・」専務にはそれ以上言えなかった。プロジェクトは順調に進んでいるが、今直ぐ結果が出るもの出見ない。
それまで恵美を縛り付けるのは、もはや無理だと悟ったようだ。そして続いた言葉は、まさに陳腐で大きなお世話以外の何者でもなかった。
「生活費はどうする気かね」恵美は笑いながら平然とその場を立ち去った。残された専務は硬直したまま動かなかった。専務は自分でも気づいたのだ、いかに愚かな発言だったかを・・。
昼は仕事の残務整理に追われ、夜は浩一の病院に通った。ICUには立ち入れないが、ガラス越しの対面だけは許された。それでも浩一には、恵美の来院はおろか、目も開けない様子だった。看護婦の話では、徐々に意識は戻ってきているらしい。手を触れば僅かに動きき、網膜反応も回復しつつあるらしいが、いまだ昏睡状態との話だった。それでも毎日面会の許す限り恵美はガラス越しに佇んだ。包帯を巻かれた頭部。ベッド脇の数々の機械。そして点滴チューブ。元気な姿はどこにも無い。それでも恵美は涙すら流さなかった。じっと見つめ続けて帰る恵美は、看護婦の間でも不思議な人と噂されていた。
恵美は毎日一人アパートで泣いていたのだ。病院では、絶対に泣かないと誓ったためだ。もしも泣き顔の時に浩一の意識が戻ったら、恵美は顔を合わせられないと思ったのだ。浩一の帰還の時には、笑顔で迎えたかったからだ。浩一の母のような大きな笑顔で・・・。
五日目。ようやく残務整理が片付いた。大方の予想通り、恵美の後任はプロジェクトチームに来ることは無かった。その分引継ぎ作業が無いために、予想した日よりも恵美の退社は早まった。利用価値の無い道具は、チームに持ち込まれなかったのだ。最後の日には、チームのメンバーが恵美に優しい言葉と陳謝を申し出た。孝子からの言葉は、知らなかったとは言え疑いの目と、攻め立てたことへの謝罪と、この後の幸せを願う言葉だった。恵美は流れる涙が止まらなかった。張り詰めていた糸がプツンと切れたように、溜め込まれた感情が溢れだしたのだ。
「恵美さん、頑張ってね」孝子の最後の言葉は短かったが、こころのこもった優しい口調だった。
涙を拭いて経理課に現れると、一目散に雅子が駆け寄ってきた。
「とうとう、辞めちゃうのね」雅子は恵美に抱きつき泣き出した。その行動は課員の気持ちに変化をもたらせた。雅子は虚勢を張っていたに過ぎなかったのだ。雅子の今後は、課員とも上手くやっていけることだろう。恵美はそう思うと、雅子への不憫な気持ちが和らいだ。
「お疲れ様、書類は用意してあります。お幸せに」課長から退職に必要な書類を受け取り、恵美は課員全員に頭をさげた、長いようで短い時間。恵美の経理課員としての仕事は今、しっかりと幕を閉じ終わりを告げた。