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9章(2)

 翌朝、恵美は辞表を持って出社した。浩一が一般病棟に移るまで、どの程度の期間が掛かるかわからない。その前に片付けなければならないことが山積みだった。急な退社はみんなに迷惑がかかる。せめてちゃんとした引継ぎだけはしたかったのだ。雅子や課長、そしてプロジェクトの面々にも、きちんとした挨拶もしたかった。無論部長や専務は止めるだろう。しかし、恵美の気持ちは既に固まっていた。この早い行動には別の理由も有った。京子のことも心残りだったのだ。医師の話では、長期入院の必要は無いと言っていた。退院すれば田舎に戻る京子に、帰る前にもう一度会いたいとも思っていた。そして最大の問題は浩二。恵美の元彼の浩二だ。本当はもうどうでも良かった。でも、京子のことを考えると、頬に一発

食らわせてやりたい気持ちで一杯だった。散々自分を馬鹿にし翻弄した挙句、友人の京子にまで害を及ぼした極悪人。そう考えると、浩二だけは何があっても許せなくなった。浩一の両親にも認められたせいか、恵美は凛とした態度で課長に向き合った。

「恵美君。どうしたんだ」課長には昨日の騒動は耳に入っていないようだ。結局は課長も歯車のひとつであり、必要時以外は蚊帳の外なのだ。恵美はそう思ったが、課長には罪はなく普通に接してくれていたのだ。恵美は大げさと思えるほどの笑顔を作った。

「課長、何も言わずに納めてください」その声は出社している全ての課員に伝わるほどだった。もう、隠し事は必要ないと思ったからだ。課長は眉間に皺を寄せ、恵美が差し出した封筒を受け取った。そして書面の字に驚きの声を上げたのだ。

「恵美君、こ、これは、辞表じゃないか」その声に課員全員が振り向いた。中には、興味本位で聞き耳を立てていた課員もいたが、恵美の威風堂々たる姿に唖然としていた。

「もちろん、急には辞めません。ちゃんとした手続きを踏まえ、業務引継ぎを終了させるつもりです」恵美の言葉には文句が付けられない。無責任な辞め方ではないのだ。課長は黙って封筒を受け取るしかなかった。

「わかった。早急に処理をしましょう。でも、理由はどうしますか。退職理由は人事部で聞かれますが」

「結婚すると言ってください」飲みかけのお茶をこぼす者、ペンを落とす者、課員の反応は様々だった。恵美はそんな外野の反応をすべて無視し、深く頭を下げると経理課から出て行った。次はプロジェクトのメンバーだ。メンバーは昨日の出来事を知っている。どんな反応を示すのか、内心波乱を期待する自分に正直驚き、つい、笑ってしまった。案の定、部屋に入るなり出社している社員が集まってきた。

「恵美さん」孝子だ。一番厄介なのが皮切りか、と思ったが、孝子の口から出た言葉に恵美は驚いた。

「ごめんなさいね」すまなそうに胸の前で手を合わせ、悲願するような顔で恵美と向き合った。

「なにがですか」恵美は拍子抜けた感じで尋ねた。

「昨日、部長から全て聞いたわ。無理やり引っ張ってこられたのね」どうやら昨日恵美が部屋を出た後、部長は皆から槍玉に上げられたようだ。一波乱の覚悟していた恵美は、照れくさそうに顔をしかめた。

「いえ、良いんです」そうは言ったものの、残りのメンバーもしきりに頭を下げていたのだ。しかし、これで辞める理由も堂々と言える。恵美はそう思い背筋を伸ばして話を始めた。

「そこで、皆さんに報告があります」恵美はみなの顔を見回した。

「なんですか」孝子が尋ねた。しかしその表情は怖がっているようにも見えた。仕返しされるとでも考えたのか、何度も意味の無い瞬きを繰り返した。

「私、会社辞めます。お世話になりました」恵美の笑顔さえ不気味に思えただろう。メンバー全員が一瞬身体を硬直させたのだ。

「何で、急に」どうにか声を出したのは、昨日食って掛かった研究員だ。

「山田副社長のためです」にこやかな笑顔で答えたが、研究員の息を呑む音まで聞こえてきた。

「部長は納得したの」またも、孝子だ。今度ははっきりと不快な表情を作っている。無責任とでも思ったのだろう。

「私は経理課員です。今朝、直属の上司に手渡し、受理されました」そんな孝子を無視するかの様に、恵美は元気に答えた。

「ここはどうなるの」孝子も所詮は皆と同じだった。恵美は臆することなく答えた。

「安心してください。直ぐには辞めません、ちゃんと引継ぎをしてから辞めますから。もちろん部長が新しい課員を必要としていればですが」恵美の答えに誰も反論できなかった。昨日の話を聞いていたからである。利用するための道具でしかないことも解かっていた。その利用価値のある道具がなくなったとき、利用価値の無い道具を用意するかと言えば、答えはノーだ。そのことは誰もが理解していた。新しい経理課員は補充されないだろう。メンバー全員の意見は言わずとも一致した。

「おはよう。恵美君ちょっと」そこに部長が顔をだし、恵美に手招きをした。しかし恵美は動こうともせずに、自分のデスクに腰をおろし大きな声で言った。

「部長、どうぞここでおっしゃってください」恵美は笑っていた。部長はしばらく返事も出来なかった。

しかし、その場の雰囲気から自分の不利を悟ったのか、ゆっくりと恵美に近づいていった。


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