9章(1)
浩二の家は下町の一角にあった。土地は広いが母屋はいたって平凡で、取り立てて目立つ家では無い。ただ応接間だけは広く取ってあるようだった。
「初めまして、浩一の父です」康之は恵美の正面に腰を下ろした。二十畳ほどの部屋には、対面式の応接セットが配置され、テレビと本棚、そしてサイドボードがあるだけだった。恵美は深く頭を下げて自分を紹介した。恵美の紹介が終わっても、康之はじっと見つめるだけで、何も言わない。
恵美の緊張は高まった。
「父さん・・・」とうとう浩二が口を開いた。恵美への無言の攻撃に感じたのだろう。その時、不意に恵美の後ろから声がした。
「まあ、良くいらっしゃいました」浩一の母だろうか、笑顔の女性がお茶を持って現れた。こんな時に笑顔になれるものかと恵美は驚いたが、その笑顔は作り笑いには到底見えなかった。
「うむ、うちの家内です」」茶碗に手を伸ばし、一口お茶をすすってから康之は恵美に尋ねた。
「浩一とはどういう関係ですかな」落ち着いた口調だが、意味の重さを恵美は痛感した。
「お付き合いさせて頂いています」恵美ははっきりと答えた。この先のことを考えれば、はっきりと言わなければと思ったのだ。
「僕も、保障します。彼女はとても良い女性です」浩二が横から口を出すと、康之は浩二を見据えた。
「お前の話など、聞いてはいない。その程度の事は少し話をすればわかることだ」言葉は荒いが、言っている言葉は恵美を喜ばせるには十分だ。
「浩二、お前も聞いただろう」康之の言葉は急に柔らかな口調に変わった。
「・・・・はい」浩二は俯き答えた。恵美もジュンも二人の会話の意味が掴めなかった。
「恵美さん・・・」そこで、康之の口が塞がった。必死に何かを考えているのが、傍から見ても痛々しかった。恵美の脳裏に不安がよぎったが、あえて意識を遠ざけた。
「浩一を、想って下さるのは、ありがたい。しかし、お付き合いはこれまでにしてもらいたい」康之の気持ちは想像すら出来ないが、言葉には苦悩と悲しみが含まれていることを、恵美は敏感に感じ取った。
「あの、どういうことでしょうか、それでは・・・」恵美が話し終える前に、浩一の母が口を挟んだ。
「貴方、浩一の意見も聞かずに、お嬢さんに失礼ですよ」口調は厳しいが、それは恵美に対する優しさだと、誰もがそう思った。
「しかし、お前・・、浩一は・・・」康之は言葉を濁した。
「恵美さん、浩一を好いて下さってありがとう。夫の無礼も許してね。でも、悪気は無いのよ」浩一の母は恵美に頷くと共に、ゆっくりと目を瞑った。そして康之に振り返り話を続けた。
「貴方の気持ちも理解した上で言いますが、せめて浩一の気持ちも聞いてあげて下さい」浩一の母は康之に語りかけるように話した。
「しかし、浩一は・・」康之はぐっと下唇を噛み締めた。
「私には、わかるの。あの子は絶対元気になります。母親ですもの。しかも、女性のお友だちなんて初めてなの、私は嬉しいの。浩一だってきっと、嬉しいはずよ」そう言うと浩一の母は遠くを見つめるような素振りを見せた。
「浩二、代わりを頼む」康之は浩二に見向き直り、膝を軽く叩いた。浩二も、父、康之の気持ちが解かるのか、しっかりと頷き、恵美の顔を見据えた。二人が看護婦から聞かされた話だと、恵美はすぐに理解した。ジュンも隣りで緊張の面持ちを隠しきれなかった。
「恵美さん、よく聞いてください、兄は・・・、兄は恐らく一生歩けません」浩二は一旦言葉を区切った。そして恵美の顔を覗き込んだ。
ところが恵美は動揺すら感じさせなかった。浩一の母の言葉が恵美の心の動揺を抑えたようだ。『母親だからこそ感じる何かがある』恵美もそう思った。
「背骨に受けた損傷が激しいらしく・・・・下半身に麻痺が残る確立が高いそうです」浩二は気丈な態度の恵美に、最悪の場合に起こる状況を説明した。
「では、残らない確立もある訳ですね」恵美はあくまでも気丈な態度を崩さなかった。
「恵美さん・・・」浩二は、恵美の意外な一面を垣間見た気がした。まるで自分の母と同じような気丈さで、恵美はしっかりと対話しているのだ。その態度には、浩二だけでなくジュンも驚いた。
「私は、それでも構いません。元気になるまで、浩一さん付き添わせてください」
「恵美さん、それでは仕事が・・」
「辞めるつもりです」恵美は躊躇することなく即答した。それは恵美の決心が固いことを物語っていた。
「そんな・・」浩二は、恵美との接点が消えてしまいそうで怖かった。と同時に、まだ恵美さんを好いている自分にも驚いた。
「お父様、お願いします」恵美は康之に向き直り、深く頭を下げた。それまで、じっと聞いていた康之が恵美に言った。
「・・・うむ。恵美さんの気持ちは十分理解しました。では、付き添いをお願いします」そうして、頭を下げた。それから浩二に向き直り、
「浩二、恵美さんを雇いなさい」と言ったのだ。
「え?」浩二は一瞬驚いた。
「仕事を辞めて付き添ってもらうのだ、当たり前なことだろう」康之は恵美の生活を心配したのだ。
「いいえ、お父様そんなことは・・・」確かに恵美の生活は楽ではない。ここには居ない浩二のせいだ。しかしお金を貰うつもりなど、端から無いのだ。ただ、側にいたいと願っただけだ。
「恵美さん、良いんです。どうせ誰かを頼むつもりでした。私も浩二も忙しい体、そして・・・」康之は妻の方にチラリと目を向けた。
「母は、目が見えないんです」浩二が話の続きを受け取った。恵美とジュンは目を丸くした。お茶を運んできた時にも、話をしている時にも、そんなことは微塵も感じなかったのだ。目が見えないと他の感覚が鋭くなる。そんな言葉を思い出したが、浩一の母はそれ以上のものを持っている様に恵美には感じられた。
「驚かれたでしょう。でも、子供の頃からですから」浩一の母に、恵美は信頼と尊敬の念を抱き、浩一が元気に退院するまで、毎日付き添うことを誓った。ジュンも出来る限りは病院に顔を出すとは言ったが、何故そこまで自分も言ったのか理解に苦しんだ。康之の立派な態度か、恵美の熱心さか、浩一の母の心がそう言わせたのか、それははっきりと答えの出るものではなかった。ただ、ジュンも浩一に付き添いたいと、切に想ったのだ。