8章(3)
「駅はどこにつけますか」渋滞に苛立ちながらも駅が遠くに見えた時、タクシーの運転手が恵美に尋ねた。恵美は記憶を辿り、浩一と初めて会った改札を思い出した。
「北口につけてください」恵美が答えると運転手は黙って頷いた。交差点を曲がると正面に北口がある。しかし、どこかおかしい。恵美が目を凝らすとあたりには赤い光が、暗く成りかけた駅前の人ごみの影を浮き上がらせていた。その赤い光は点滅しているようにも見えたのだ。恵美の頭に浮かんだ答え。それは救急車両。そして浩一からのシグナル。恵美は自分の直感を信じたくはなかった。恵美とジュンは顔を見合わせた。
早く降りたい衝動に駆られながらも、渋滞する車両が動くのを今か今かと待っていた。ジュンはタクシー用に2枚の千円札を握り締めていた。
人ごみの間から白地に赤いラインの車両が見えた時、恵美とジュンはタクシーから飛び降りた。
浩一が駅に着いた時、時間の早さも有って乗客の顔ぶれはいつもと違って見えた。通勤のサラリーマンが少ないのだ。それは仕方がないことだ。
本来ならば浩一も就業時間中だ。その代り、駅は学生と若い男女でいっぱいだった。浩一は浩二の行き先を思い浮かべながら、人ごみの間を縫って改札を抜けた。頭を金髪に染めた若者に、多くのピアスをつけた派手な女の子。その間を通り抜け、浩一はいつものホームに向け階段を降りていった。ホームも人でごった返していた。雑踏の雰囲気は違うが、浩一は慣れている。ホームの人ごみを避け浩一は白線の近くを歩いた。その時一つのボールが線路に落ちた。ホーム中ほどで騒いでいた学生のボール。ジャージ姿の学生。バスケット部員のようだった。
(ドン!)ボールが落ちると同時に電車が到着し、さらに鈍い音がホームに響いた。ボールは考え事をする浩一の頭に当たってから、線路に落ちたのだ。そしてよろけた浩一を到着した電車が跳ね飛ばしたのだ。浩一はホームの中央あたりまで人にぶつかりながらも、一瞬で飛ばされた。そしてベンチの近くで動きを止めた。僅かに身体を痙攣させているが、頭部からは血が流れ、真赤な血の池を作り出した。
恵美とジュンが駅に着いたのは、丁度浩一がホームから搬送された時だった。野次馬を掻き分け、恵美は救急車両に乗せられるキャスターに飛びついた。白い布が首までかけられ、酸素吸入器で顔は見えない。
「名前は、名前はわかりますか」恵美は救急隊員の腕を揺さぶり叫んだ。一瞬怪訝そうな表情だった隊員は、想像通りの名前を言った。
「所持していた定期の名前では、山田浩一さんとあります」恵美は最後まで聞く前にその場に座り込んだ。
「知人です。状態は」恵美に代わりジュンが尋ねた。
「危険です。電車に撥ねられたようで、心肺停止状態です」ジュンもその場に座り込んだ。恵美の頭にもジュンの耳にも『心肺停止』の言葉が重く伸し掛かった。それに気が付いた警備の警官が、二人を駅前の派出所へと連れて行った。二人は放心状態だった。警官の問いかけにも、満足に答えることが出来ずに、黙って俯いていた。話を聞こうとした警官が静かに首を振ったとき、突然恵美は叫びだした。
「いやー。いやよ。浩一さん。いやよー」派出所は恵美の泣き声で充満した。通りからも中を覗く通行人が後を立たなかった。ジュンはゆっくりとだが放心状態から目覚め始めた。目が頬を伝う。ジュンは涙を拭いて、恵美を抱きかかえた。恵美は激しく泣き続けた。ジュンも泣きたい気持ちを抑え、恵美をきつく抱きしめ、警官に尋ねた。
「は、搬送先は、わ、わかりま・・すか」精一杯の声だった。
「搬送されれば、連絡が来ます。気を落とさないで下さい」警官の優しい言葉も、今の二人には無意味な優しさだった。恵美はジュンの胸でなき続けた。ジュンも声こそ出さないが、次々に涙が頬を流れた。道を尋ねに来た人も、二人の存在で何も言わずに立ち去る有様だ。
15分ほどした時に、搬送先から連絡があった。二人は病院の名を聞くと、警官の制止も聞かずに飛び出し、タクシーに飛び乗った。ジュンは浩二に連絡を入れた。
「兄貴・・・・」浩二はそれ以上言葉を発しなかった。それでもジュンは、伝えることだけは浩二に伝えた。電車に撥ねられたこと。搬送先の病院名。そして現在、心肺停止状態だと。ジュンにもそれが今言える全てだった。
浩二は東京行きの特急電車の中で泣いた。『なぜ、兄貴が。自分のせいか・・』そう思うと涙が止まらなかった。もはや人目など気にも止めていなかった。それでも社の重役として、しなければならないことを実行した。まず浩一の秘書に連絡を入れた。秘書は力なく答えながらも浩二の指示を繰り返した。
「では、今入っている予定を全てキャンセルし、業務の引継ぎを営業部長に一任します。よろしいですか」秘書の声も、浩二の声も震えていた。
それから自分の秘書、そして父に連絡を入れた。気の強い父だが、さすがに出てくる言葉が見つからないようだ。かなり長い沈黙のあと
「わかった。病院に顔を出す」とだけ答えた。浩二は浩一の身を案じながら、窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺めるしか出来なかった。
しかし、頭の中では幼い頃からの思いでが次々と蘇り、堪えきれずに浩二は俯き、流れる涙を袖で拭い去った。
恵美とジュンが病院に着いた時には、既に緊急手術が始まっていた。廊下のソファに腰を下ろしたが落ち着かない。恵美はまだ小さな嗚咽を漏らしていたが、ジュンは一旦病院の外に出た。『来夢』のママに電話をするためだ。ママの驚きも半端ではなかった。どうにか搾り出した言葉は
「浩二さんは」その一言だけだ。
「こちらに向かっています」ジュンも答えは一言。ジュンが待合廊下に戻ると、浩一の父が来ていた。恵美は泣き疲れたのか、ソファに横になっていた。浩一の父は怪訝な表情で恵美を見下ろしている。仕方がない。浩一の父、康之は恵美を知らないのだ。ジュンは駆け寄り康之に声をかけた。
「会長・・・」社長は外部の人間を引き抜いたため、康之は会長職に就いていた。
「おお、ジュンか・・」声にはいつもの張りも元気もない。当たり前のことだが、目まで真赤に染めていた。康之は目だけで恵美を見た。ジュンは躊躇った。どう紹介しようか迷ったのだ。浩一が話してないのであれば、余計ないことは言えない。そう思ったのだ。
「店の子です」咄嗟に出た答える。
「新しい子か・・」その言葉だけで、恵美への興味は失せていった。やがて、浩一の会社の重役や秘書。恵美の会社からも専務と部長が駆けつけた。浩二が連絡を入れた後、噂はたちまちに広がり、恵美の会社にも知らされたのだ。浩二の失踪の時といい今回の早い対応といい、どうやら恵美の会社と通じている者がいるようだった。恵美はゴソゴソと起きだしたが、立ち上がることも出来ずに、ソファの隅に身を寄せるだけだった。そんな行動を、浩一の父、康之は、じっと見つめていた。ジュンと恵美は抱き合い、じっと下を見ていた。一通りの挨拶を済ませた専務が、恵美に気がつき駆け寄った。浩一の秘書も恵美に挨拶を送った。康之は首を傾けた。それだけではない。遅れて現れた浩二の秘書も、軽く頭を下げたのだ。
「一緒だったのか」専務は恵美に尋ねたが、無言で首を振るだけだった。先ほどから恵美に興味を持ち始めていた康之は、この会話を聞き漏らさなかった。
「ジュン、ちょっと」康之に呼ばれたことで、恵美の素性が『ばれた』とジュンは思った。