8章(2)
「わかりました。東京に戻ります」浩二は聡子に言った。聡子は微かに笑ったつもりでも、その顔にはどこか暗い影が差していた。浩二は知恵の頭を撫ぜながら、一言付け加えた。
「明日の朝でも構わないですか」これには聡子もすぐさま答えた。
「いいえ駄目よ。すぐに戻られたほうがいいわ」男と女が長く一緒にいれば、情が出ても仕方がない。事実、浩二も聡子も互いに生まれ出る感情を意識していたのだ。本心では居てほしいと思いながらも、聡子は厳しい口調で答えた。
「しかし・・」浩二は困惑した。胸の奥から湧き上がる感情は、聡子にも有ると思っていたのだ。
「わかりました。では、1万円置いて行って下さい。私は仕事をしただけ。気にせず戻られて下さい」聡子は悪びれた様子で浩二に言った。浩二を諦めさせるつもりだ。浩二はうな垂れるように肩を落とし、やがてゆっくりと立ち上がった。浩二にはわかっていた。聡子がわざと悪役に徹しようとしているのを。その優しさが浩二の心を締め付けたのだ。その時浩二は、急に抑え切れない恐怖と不安を感じた。こんな不思議な気持ちは初めてだったが、聡子の顔を見ても収まることはなかった。『恵美さん』浩二は恵美の顔を思い浮かべたが、心の中に渦巻く不快な感覚は拭えなかった。『兄貴・・』浩二が呟いた。まさしくそれだった。兄貴に何かが起こったのだ。浩二ははっきりとそれを感じ取った。双子はどこかで繋がっている。そう断言できるほど確信に満ちた想いが、浩一の心から浩二へと流れ込んだ。
「すいません。聡子さん、駅まで送ってくれますか」浩二の不安な顔と早口で捲くし立てる強い口調に、聡子は思わず聞き返した。
「駅まで?、でも、子供が・・・」浩二は既に靴を履いていた。聡子も浩二の狼狽振りに何か良からぬことがあったのかと気が付いた。
「わかりました。子供を抱いてください」聡子はバッグから、車のキーを取り出した。
恵美はジュンと靴屋にいた。もう何足目だろうか、恵美の座る椅子の周りには、何足もの靴が並んでいた。新調したワンピースに合うパンプスを探していたのだ。
「これはどう」ジュンが新しい靴を持ってきた。
「まあ、可愛いわ」ワンピースと同じピンク系のパンプスだが、色合いは白く、桜の花びらのようだった。足首まで締め上げるタイプだが、ぴったりと巻きつき足と同化するように軽かった。ヒールは7センチほどで、ワンピースの丈にも合っていた。
「いいわね。これにしましょう」ジュンはそう言って店員に頼んだ。新しい箱に入れられたのは、ジュンが持ってきたサンダル。
恵美はそのままパンプスを履いて店を出た。衣装も調い化粧も施された恵美は、皆が認める美人に変身を遂げたのだ。デパート1階の喫茶店に入り、二人はコーヒーを注文した。
「どう。足は痛くない」ジュンが恵美に尋ねた。試着しても、実際に歩くと痛くなることがある。それを心配しての問いかけだった。
「ええ大丈夫です。全然痛くないの」恵美は足を斜めに差出し、ジュンに見せるように答えた。足からつま先まで、スラリ伸びた直線は、恵美にも十分満足のいく物だった。
「よかったわ。私もあの店では、いつもいい物と出会っているわ」女性にとって買い物とは、いかに良い商品と出会えるかが、最大の関心と望みだ。
「今日は、本当にありがとうございました」恵美がジュンにお礼を言った時、恵美の脳裏に浩一の声が聞こえた。叫んでいるようでもあり、悲鳴にも似たような声だった。『あれ・・』恵美は周囲を見回した。ところが驚いたことに、ジュンも同じ動作をしていたのだ。恵美もジュンも同じ感覚を捕らえたのだ。
恵美とジュンは顔を見合わせ頷くと、急いで店を出た。途中浩一のオフィスに連絡を入れたが、『もう帰られました』と秘書が答えただけだった。ジュンも恵美も浩一の家は知らない。歩道に立ち尽くす二人の前に、信号待ちのタクシーが止まった。どこにでもいるタクシーだが恵美には何故か見覚えがあるように感じたのだ。『そう、あれは・・・』恵美は勢い良くタクシーのドアを叩いた。空車のタクシーはお客と思いドアを開けた。恵美が乗り込むとジュンも後に続いた。そして乗り込んでから恵美に行き先を聞いたのだ。
「どこに行くつもり」尋ねはしたが、言葉は冷静だった。
「私と浩一さんが初めて会った駅」乗り込んだタクシーのマークは、捻挫した恵美を翌朝迎えに来たハイヤーと、同じマークが付けられていたのだ。そして思い出したのが、恵美が拾い上げた定期の駅名。とにかくその駅まで行こうと、恵美は考えたのだ。不吉な予感に恐怖しながら、恵美とジュンは浩一が乗り込んだであろう駅に向かったのだ。その間何度も浩一の携帯に連絡を入れたが、繋がる様子はなかった。
「あん。駄目だわ。全然繋がらない」ジュンがそう言った時、恵美の携帯が音を立てた。着信表示は行方知れずの浩二だった。
「もしもし・・」恵美は恐る恐る口を開いた。
「兄貴は・・」浩二の声は怯えていた。どうやら、3人同時に何かを感じ取ったのは確かなようだ。恵美は全身から血の気が引いていくのを、自分でもはっきりと感じ取った。まるで頭から冷水をかけられた様に身体の心から冷たさが広がった。『浩一さん、何があったの・・・』恵美のその呟きは言葉にはならなかった。