8章(1)
「ちょっと、困ります」飛び込んできたのは浩一の秘書。その後をクラブ『来夢』のジュンが我者顔で進んでくる。
「浩一さん、この分からず屋に何とか言ってよ」ジュンは御立腹のようだった。それも致し方ない。電話で起こされた上に『急いで来い』と言われ、満足に化粧もしていないのだ。サングラスを取ったジュンは、殆ど素顔に近かった。
「すまん、すまん。言い忘れていた」浩一は笑いながら、秘書に両手で合図を送った。秘書は『それならば』と、部屋を出て行った。ジュンはソファに近づき、恵美の顔を覗き込んだ。
「御機嫌よう。本当ね。どうしたの」嫌味な言い回しではない。恵美もジュンに挨拶をし、浩一に振り返った。
「いや、恵美さんは。バッグも持っていないようだし、ヒールも折れているようなので・・・」余計なことをしたのかと、浩一は言葉を濁した。恵美の驚きの顔が、怒っている様に見えたらしい。
「どうも、すいません、気を使っていただいて」恵美は急いでお礼を言った。浩一の気持ちが嬉しかったが、気の付き過ぎるところには正直驚いた。と同時に、状況判断の早さとその能力にも驚いた。普通の男は、ここまでは気が回らないだろうと思ったのだ。
「じゃあ、これを履いて。行きましょう」ジュンは持参したサンダルを取り出すと、恵美を化粧室へと連れて行った。
「ねえ、何があったの」この時ジュンは、てっきり浩一兄弟が原因で、恵美が泣いたと思っていたのだ。しかし、恵美は返事が出来なかった。『それは誤解。私が悪いの』何度その言葉が出そうになったか解からない。ジュンも長く水商売をしている。そこは恵美の表情から有る程度は感じ取ったが、恵美と浩二の関係までは想像すらしなかった。第一に、ジュンは浩二を狙っていたのだ。願わくば専務婦人として、水商売から足を洗おうと思っていたのだ。専務婦人として商売から卒業することは、十分に仲間からも一目置かれ堂々と止める理由になるからだ。それほど水商売は甘くはない。長年の経験からジュンが築き上げた哲学だった。誰に恥じることなく卒業するために哲学。そう思っていたのだ。仮に、中途半端な男と一緒になり失敗しても、銀座に戻ることは許されない。銀座どころか、名の知れた店には2度と戻れないのだ。だから皆慎重に相手を選び、銀座を卒業する日を夢見ている。ジュンもその一人には違いなかった。ジュンは無言の恵美に化粧を施し、自分の顔にも化粧を施した。『夜の蝶の出来上がり』ジュンは鏡に映
った自分に言い聞かせた。毎日鏡に向かって唱える呪文だ。この時からジュンは、銀座の一流ホステスに変身するのだ。二人は一緒に浩一の部屋に戻った。
「お待たせ。これで良い」ジュンは恵美を前に押し出した。
「ジュン、悪かったね。ついでに、二人で買い物でも行ったら」ジュンは言葉の意味をすぐに理解した。浩一は恵美の服と靴、お礼として自分の服も買って来いと言っているのだ。恵美には二人の会話とジュンの笑顔の意味が理解出来なかった。ジュンに促され恵美は訳も解からずに部屋を出た。
「今日は早く上がる、予定は明日に回し調整してくれ」秘書にそう告げると浩一は会社をあとにした。浩一と浩二の家は隣同士。同じマンションの同じ階を二人が使用していた。名目上は会社の社員寮となっており、低層階には独身社員の寮としてワンルームの部屋が用意されていた。浩二がいるのではと、浩一は自宅に急いだ。相変わらず浩二の携帯は音信不通だが、戻ってきている可能性は否定できなかった。普段は浩一も浩二も電車通勤だ。都内での車移動は急ぐ時には不便極まりない。時間的に言っても、電車のほうが正確で時間は掛からない。それらの理由で常に通勤だけは電車を使っていた。駅までは車で向かったが、その時も浩一は電車で帰宅した。いつもより2時間以上は早い時間。その普段と違う行動のせいで、浩一の身に予測できないことが降りかかろうとしていた。
「どこに行くんですか」先を歩くジュンに恵美は尋ねた。
「恵美さんの、靴と洋服を買うのよ。もちろん浩一さんのお金でね」ジュンはそう言うと通りでタクシーに手を挙げた。
「そんな、私はいいです」恵美はジュンに駆け寄りそう言った。
「駄目よ。私も買ってもらうんだから。恵美さんのを買わないで、私のだけ買えないでしょ」ジュンは悪びれた様子もなく平然と言い除けた。やはり良くある事なのだろうと、恵美は思った。しかし自分まで浩一に甘えて良いものか、恵美には判断が付かなかった。ジュンは新調する服の予定でもあるのか、楽しそうに歌まで口ずさみ始めた。ジュンを見ているととても辞退できる状況ではない。ジュンとしては当たり前の報酬である。『なるべく安いものにしよう』それが恵美の出した答えだった。ジュンは真っ直ぐに銀座のデパートに向かった。その6階に有るデザイナーズブランドのお店。ジュンは常連のようだ。店員がすぐに駆けつけて来た事でもわかる。恵美はこんな高級店で買ったことはない。チラリと見た値札は、恵美の想像をはるかに超えていた。
「これ、これ。これがほしかったのよ」ジュンは一着のドレスをハンガーごと持ち上げ、透かすように電灯の前に掲げた。
「どう、透き通るようなブルー。ちょっと生地は薄いけど、お店で着るには丁度いいわ」その服はお店の中でも奥に飾られた、いかにも高額な衣装に見えた。確かにシルエットと良い、デザインと良い、恵美も憧れる様な服だった。
「これ、包んで」店員に言うと、ジュンは恵美に向き直った。どうやら試着は済んでるようだ。
「さて、貴方の服ね」そう言うと恵美の周りを一周した。
「う〜ん、サイズは私ぐらいかしら・・・。7号じゃきついかしら」
「ええ・・・。」恵美は頷いた。
「でも、9号じゃ、大きいわね」そう言って店員をみると、承知しましたとばかり、奥から数着の衣装を運んできた。
「全部着てみて」恵美は一着ずつ衣装を渡してもらいながら、出された七着全てに袖を通した。着るたびにジュンの前でポーズを取り長い時間をかけて試着した。恵美も年頃の女である。そのうち試着が楽しく感じ始めた。ジュンの品評の上手さも拍車をかけた。問題は値段である。しかしまだ付けていないのか、値札は付いてはいなかった。もし付いていたら、恵美は袖を通せなかっただろう。ジュンが選んだ二着の値段は、それこそ目の玉が飛び出しそうな値段だった。お金は払っていない。浩一のツケのようだが、レシートだけは渡された。万が一の時の返却用にだ。恵美はその一着を着て店を出た。ジュンとは違い普通のOL。派手ではないが覚めるようなピンク系のワンピースで、裾にはぐるりと手刺繍が施されていた。ジュンの服を見る眼は確かだと、恵美はつくづく感心させられた。次に向かったのは靴屋。恵美もいつしかショッピングを楽しみ出し、一瞬だが悩みを忘れることが出来たのだ。恵美とジュンがショッピングを楽しみ、浩二と聡子が知恵の頭を撫ぜ、4時の時報が流れようとしていたその時、浩一の身に危険が迫っているとは、誰一人として想像もしていなかった。