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7章(4)

その頃浩二まだ熱海にいた。旅館やホテルではない。狭いアパートの布団に包まっていたのだ。一旦は東京に戻る素振りを見せたが、途中で引き返したのだ。小さな女の子が、浩二の布団を引き剥がした。

「ねえ、遊んでよ」浩二は身を起こし、少女に笑った。

「いいよ。何しようか」

「じゃあ、これ」少女が持ち出したのは、汚れた小さな人形だった。部屋は6畳に台所。トイレ一体式の風呂があるだけだった。和室に括り付けられた一つしかない押入れをかき回し、取り出したのがその人形だった。テレビの上にも人形はあったが、少女はその薄汚れた人形がお気に入りの様子だった。男の子と女の子の一対の人形。おそらく父親から貰ったものだろう。父親の記憶は無くとも、人形には愛着を感じていたようだ。

「じゃあ、私がお母さん。おじさんはおとうさんね」そう言って差し出された男の子の人形を、浩二は笑って受け取った。少女は自分が持つ人形を布団に座らせると、唐突に泣き出した。

「ちょっと、どうしたの」浩二は慌てて少女の顔を覗き込みなだめる様に尋ねた。

「ダメじゃない。夫婦喧嘩よ。おとうさんをやってよ」浩二は大きな声で笑い出した。どうやら少女はおままごとでも始めたらしい。しかし夫婦喧嘩は、喜べる題材ではない。幼稚園で教わったのか、あるいは過去の記憶が残っているのか。浩二一瞬悲しい目をしたが、少女に付き合って人形を動かし始めた。

「ごめんなさい。遅くなって」買い物袋を抱えて聡子が戻ってきた。

「ママ〜」少女は駆け寄り聡子に飛びついた。

「知恵、ただいま」聡子は知恵を抱きしめた。

「お土産は」聡子は袋からキャンディーを渡すと、浩二に頭を下げた。その頬ははっきりと恥じらいによって朱に染まっていた。浩二も照れ笑いを浮かべて、小さく頷いた。

 あの夜浩二は酔いに任せて聡子を抱いたのだ。いくら飲んでも眠れない浩二を、心配した聡子が訪れた時、半ば強引に聡子を抱いたのだ。聡子は自分のミスが原因ではないかと思っていたのだ。浩一と浩二を取り違えた結果、浩二は酒を飲み眠れない夜を過ごしている。全ては自分のせいだと思っていた。お客が女中を買うのは、温泉旅館ではよくあることだ。聡子の同僚も金銭のやり取りでお客と寝ていたのだ。もちろん聡子は初めてだし、この先もそんな事などしないと心に決めていた。浩二が差し出したお金には、指一本触れなかったのだ。聡子は悲しそうに浩二を見つめた。恵美を中心とした何かが、この3人にあるのだと直感したのだ。浩二も酒の勢いとは言え初めて自分のしたことを後悔した。涙を浮かべて謝る浩二を、聡子はいとおしいと思ったのだ。浩二の強引さは本当の姿ではない。そう思ったとき、聡子は浩二の本心が無性に見たくなった。手を付いて謝る浩二の身を起こし、その手を自らの胸に誘ったのだ。そこで終われば何も問題はなかった。だが浩二は聡子を抱いた。狂ったように聡子を抱いた。朝が来るまで2人は求め合ったのだ。一度は東京に戻ろうとしたが、浩二は聡子の元に向かったのだ。戻れば兄にも恵美にも会うことになるだろう。それが耐えられなかったのだ。そして恵美を送ってほしいと浩二は頼んだ。聡子には悪いと思っていた。結果的には聡子を利用し、恵美を忘れようとしたのだ。このまま身を隠しても良いとさえ思っていた。会社は兄貴がいるから転覆することは無いだろう。聡子と知恵には、少なからずも好意を抱き始めていた。このまま3人で生きていくのも良いとさえ思い始めていたのだ。

「いつ帰るの」聡子は前触れもなく浩二に尋ねた。

「え、僕が邪魔ですか」浩二は答えた。

「いいえ、でも、貴方のいるところは、ここではないわ」聡子の顔は真剣だった。浩二はその顔に圧倒された。今しがたまで、知恵を囲んで笑っていたのが、知恵が眠りに付いた途端の問いかけだった。

「貴方は将来を約束された人。私は生きていくだけで精一杯。この違いがわかる」浩二は答えなかった。

「私はこの子と生きていくだけ、野心もないし争いもしない。ここでのんびり暮すのが似合っているの。でも貴方は違うわ。第一線で活躍する人。いいえ、活躍しなければダメになるわ。だから、東京に戻って」聡子の言葉は強かった。反論は許さない。それほどの気迫に満ちていた。浩二は何も言えなかった。この二日の間、浩二は何一つ生産的なことはしなかった。食べて寝るだけの生活。のんびりしているつもりでも、心のどこかに物足りなさと苛立ちを感じていたのだ。聡子はそれを見破っていた。このままでは浩二が駄目になることは、聡子には手に取るように理解できたのだ。別れた亭主のようにだ。聡子の亭主はまじめな営業マンで、成績はよかった。そのため、得意先からの勧めで独立したのだ。独立当初はそれなりの成果を挙げて順調な滑り出しだった。ところが、薦めた得意先の頼みで、共同経営者の名前を貸したのだ。それが間違いの元だった。共同経営に連ねた会社は、破綻寸前だったのだ。しかも当の社長は姿を晦まし、しわ寄せを一身に受けてしまったのだ。そして事業は失敗。酒に溺れて暴力を振るい始めた。自分だけならばと我慢していた聡子だが、暴力は幼い知恵にも向けられた。職場を失った男の末路を、聡子は身をもって見てきたのだ。浩二にはそうなってほしくは無かった。少々強く、これきりになってもいいとの思いで、浩二に話したのだ。浩二はしばらく知恵の頭を撫でていた。聡子は決して答えを急がせない。浩二が口を開くまで、黙って見つめるだけだった。

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