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7章(3)

恵美は気丈に立ち上がると、浩一に謝った。頭が膝に付くほどの深いお辞儀だ。

「ごめんなさい」髪が逆さに垂れ下がり、今にも床につきそうだ。

「恵美さんが謝る必要はありません」浩一は何度の首を横に振り、恵美の身体をゆっくり起こした。恵美は僅かに顔をほころばせ消え入りそうに言葉を発した。

「化粧室、貸してくれますか」恵美の言葉に浩一は急いで立ち上がると、恵美の手をゆっくりと取り、エスコートを申し出た。片方のヒールが取れたパンプスで、バランスを崩しそうになったのだ。恵美は浩一の手を取り体勢を立て直した。化粧室は扉を出てすぐ左手にある。

重役専用と書かれた化粧室。磨きこまれた鏡に映った恵美は、それこそ無様な姿だった。走ったせいで衣服は乱れ、いくら薄いとは言え、化粧の崩れた顔は人には見せられたものでは無かった。恵美は浩一の事務室に入るまで、自分が泣いていたことさえ自覚していなかったのだ。しかもハンドバックさえ持っていなかった。二つ折りの財布だけが恵美の手に握られていた。壁に付けられたハンドペーパーを引き抜き水に浸して顔を拭った。情けない姿に一瞬恵美の手が止まり、今にも泣き出しそうになったが、必死に堪えて全ての化粧を拭い去った。『私のせい・・』恵美は鏡を見つめ呟いた。情けない思いで、胸は誰かにわし掴みにされたようだった。その時浩一は電話を掛けていた。

「いいからすぐに来い」相手は銀座のクラブ「来夢」のジュン。

「待ってよ、起きたばかりなのよ」明らかに眠たそうな声だったが、浩一は臆せず話を続けた。

「とにかく、化粧品と、靴・・・・サンダルでいい。それをもって早く来い」

「化粧品とサンダル?一体どう言う事」ジュンはさすがに驚いた。こんな昼間に会社の中で何があったのか。想像すら出来ない様子だった。浩一は手っ取り早く答えた。

「恵美さんがいる。泣き顔で化粧は落ちた。ヒールも片方折れた」まるで何かの暗号でも語るように簡単に説明したが、そこはさすがに水商売の女。大体の見当をつけたらしく『30分で行くわ』と電話を切った。恵美は裸足で戻ってきたが、靴はどこにも見当たらなかった。

「ハイヒール・・・捨てちゃった」恵美はほんの少し頬を赤く染めた。化粧を落としたからかも知れないが、頬はいつもより赤く見えたのだ。付け加えるならば、鼻の頭も赤く染まっていた。

「コーヒーは?」浩一は受話器を持ち上げ恵美に尋ねた。

「ええ、ありがとう」浩一はコーヒーを2つ、電話の相手に持ってくるように伝えた。

「座ってください」浩一はソファーを指差した。恵美はこの時初めて部屋を見回した。立派なデスクと飾り棚。どちらも木目の綺麗な重厚な作りだった。8人は座れるほどのゆったりとした応接セットは、窓の近くで黒い表面を光輝かせていた。絵画などの美術品は無いが、広く明るい清潔なオフィスだった。浩一は忙しそうに電話を掛けていた。毛足の長いカーペットで、裸足の足でも気持ちが良かった。恵美は窓に近づき遠くを見渡した。高層ビルの隙間に恵美の好きな山が見てとれた。富士山。末広がりのなだらかな山腹、白い帽子を被った優美な姿が好きだった。浩一はあまり心配してはいないよう。よくある事だと言っていた。それでも恵美は気がかりだった。誰も知らない秘密があるから。すぐにコーヒーは運ばれてきた。あまりコーヒーを飲まない恵美でも、その美味しさは十分に堪能できた。一段落したのか、浩一が向かいのソファに腰を下ろした。何かを言いたげなのは、その表情から伝わったが、恵美は目を背けてしまった。その行動がいかに愚かなことか、恵美には十分理解できたが、浩一の真っ直ぐな視線に耐え切れなくなったのだ。『何で、来たんだろう』今更ながらに後悔の念が頭を持ち上げた。浩一は恵美を信じていた。いや信じようと努力をしていた。そして浩二も信じたかった。しかし恵美は顔を背けた。ただ、外を見ただけかも知れないし、恥かしいだけかも知れない。見詰め合う必要はどこにもないのだ。そのタイミングが丁度自分と同調してしまっただけのことだ。言葉も交わさずただ時間だけが過ぎていく。恵美はとうとう立ち上がった。

「ごめんなさい、帰ります」泣き顔の赤みはすっかり収まっていた。

「もうちょっと待ってて」浩一は時計に目をやった。そろそろジュンが来てもいい時間だった。そう思った時、部屋の扉が大きく開け放たれた。

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