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7章(2)

「大丈夫かね」部長の声で恵美は目を開けた。気を失ってしまったらしい。孝子もみんなも回りに集まっていた。ぼんやりと眺める恵美の目が、現実に戻され急に大きく見開かれた。

「大変」恵美は飛び起きた。『どうした』『何があったの』みんなの声も恵美には一切聞こえなかった。デスクの下から紙袋を取り出すと、投げつけるように部長に渡し走り出した。

「あちらの会社に行って来ます。それ、お土産・・・」恵美の声と走り去る足音は聞こえなくなった。

「部長、説明してくれますよね」孝子が詰め寄った。そこの全員が孝子にならうように、部長に一歩詰め寄った。部長の顔は引きつりながらも、必死に笑いを作ろうと無駄な努力を重ねているようだった。

 タクシーを下りると、恵美は玄関ホールに向かう階段を駆け上がった。浩一の会社の洗練された外装には目もくれず、一点を見つめ自動ドアを通り抜けた。いつの間にか片方のヒールはなくなったいた。しかし恵美は気に掛ける様子もなく、エレベーターへと足早に向かった。恵美は皆の注目を無視した。既に恵美は、この会社でも顔の知られた人物になっていた。受付カウンターの女性も、恵美に声をかけようとしたが、そのまま見送ってしまった。エレベーターに乗り込むと、恵美は呼吸を整えた。しかし、いくら整えようとしても一向に落ち着く気配はなかった。浩一のオフィスがある階に止まり、恵美は飛び出した。

浩一の秘書らしき男性が、オフィス前のデスクに腰を下ろしていた。この秘書も恵美を知っていた。浩一とエレベーターで鉢合わせした時、一緒に乗り合わせていたのだ。その顔は、恵美を認めると僅かに口を開き、驚きで半ば放心状態に陥ったようだ。

「こ、浩一は。い、いますか」息を整え声を発したつもりだが、恵美の言葉はつまり気味だった。秘書は恵美の顔を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。恵美は深々とお辞儀をすると、両開きのドアを勢い良く開け放った。驚いたのは浩一だった。電話中だった浩一は恵美の姿が目に留まるや否や、驚愕の表情で言葉を失ったのだ。それも仕方のないことだった。恵美はといえば、涙で顔がくしゃくしゃになっていたのだ。目の周りはアイライナーが黒く流れ、鼻水が口紅を大きくにじませ、片方のヒールがなくヨタヨタとしていたのだ。浩一は慌てて立ち上がると

「すいません、また掛け直します」そう言って受話器を置いた。受話器を置くなり恵美に駆け寄り、浩一は恵美を窓際のソファに座らせた。

「恵美さん、一体どうしたんですか」浩一は恵美の肩を優しく揺すった。恵美は浩一の顔をじっと見つめ、やがて声を出して泣きついた。堰を切ったように泣きじゃくる恵美を浩一はしっかりと抱きしめた。30分もなき続けただろうか、嗚咽が収まりを見せた時、浩一はもう一度恵美に尋ねた。

「一体どうしたんですか」恵美は何度も鼻をすすってどうにか言葉を発した。

「こ、浩二さん・・・」浩一はなぜ恵美が知っているのか不思議に思ったが、泣き出す理由は解からなかった。たとえ浩二が行方知らずとしても、恵美の取り乱し方が普通には思えなかったのだ。

「聞いたんですか」恵美は黙って頷いた。

「昔は、よくありました。心配は無いと思いますよ」浩一は出来る限り、おどけて見せた。心配していないわけではないが、それほど一大事だとも思っていなかったのだ。実際、浩二は時たま姿を眩ませることがあったからだ。ここ数年、家出癖は出なかったものの、昔は『ふられた』と言っては居なくなり、『兄貴なんか嫌いだ』と言っては姿を眩ませる事があったからだ。それでも、2,3日すれば、何事もなかったようにひょっこりと戻ってきていたのだ。そんな浩二を知っているからこそ、恵美の取り乱し方には只ならぬ疑問を覚えた。

「何か知っているのかい」優しい声が恵美の耳から心に届き、恵美は落ち着きを取り戻し始めた。

「・・・はい」恵美は大きく深呼吸を繰り返し、浩一に渡されたハンカチで、目の周りを拭った。

「浩二さん・・・。旅館に来ました」浩一は一瞬言葉を失った。

「い、いつですか」声が震えているのが、浩一自身にもはっきりと解かった。

「一昨日の、晩です」浩一は頭の中をサッと整理し、一昨日の晩の記憶を引っ張り出した。その晩確かに浩二は居なかった。秘書に聞いても行き先もわからず、携帯にも出なかったのだ。『思いつめたような表情で、かなり急いでいたようです』浩二を見た部下はこんな報告をしていたのだ。恵美は自分が熱を出した事、女中が勘違いして浩二に連絡を入れた事。そして最後に、浩一を殴り気持ちを確かめに訪れ、浩二の気持ちも知った事を話した。だた一つ、浩一と間違え浩二に抱きついた事は話せずにいた。『すると僅か数日の間に二度も熱海を往復したのか』浩一は心の中で呟くと同時に、動揺が心の底から湧き上がるのを感じた。浩二は今まで以上に真剣だったのだ。浩一はそこまで真剣な弟を今まで見たことがなかった。大抵は『どうでもいいよあんな女』で終わってしまうのだ。ところが恵美には無礼な言葉を掛けたこともなく、常に紳士的に振舞っていた。『僕も恵美さんが好きだ』そう聞いた時でさえ、ただ単に、自分に対抗しているだけだと思ったのだ。しかし実際は自分を殴り、わざわざ熱海まで出向いていたと思うと、浩二の真剣な恵美への愛を認めざるを得なかった。恵美への愛と弟への愛が複雑に混ざり合い、浩一の心を無情の嵐が吹き荒れ、息が苦しくなるほどに締め付けた。


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