6章(2)
恵美は閉まるドアの音を聞いていた。浩二が出て行く足音も聞いた。布団の中で背を丸め、暗闇の中研ぎ澄まされた耳は、些細な音も聞き逃さなかった。遠くで聞こえる車のエンジン音。何処かの部屋の宴会の騒音。柱時計の時を刻む音。木材のきしむ音まで聞こえそうだった。しかし、自分の嗚咽に気づいたのは、随分経ってからだった。はじめは誰の泣き声かさえも解からなかった。濡れた枕でやっと気づいたほどだ。恥かしくて泣いた訳ではない。まして浩二に対しての怒りでもない。自分の不甲斐の無さに涙したのだ。病気だったとはいえ、双子だからとは言え、浩二を浩一と間違えた自分が許せなかった。浩一への不貞に対して泣いたのだ。浩一と結ばれてから、間もないと言うのに、浩一の温もりが残っているにも関わらず・・・。
ところが、意外な自分に驚いた。浩二だとわかってからも、恵美の興奮は収まらなかったのだ。浩二との出来事を思い出すと、体の芯が疼くのだ。さらに恵美を驚かせたのは、触らなくても解かるほどに濡れていたことだった。恵美の女は、いまだに濡れ続け浩二を求めていたのだ。下着の中は熱いほとばしりで一杯だった。頭から振り払おうとしても、溢れる自分を抑えられなかった。恵美は自分で慰めた。浩二のことを忘れるためにも、この興奮を抑える必要があると思った。恵美の頂点はすぐに訪れた。僅かな刺激で一気に上りつめ、そして興奮の下降線と共に恵美は眠りの深淵へと落ちていった。
浩二はロビーのソファに座っていた。フロントに人が来るのを待っていたのだ。時間的にも今から来る客はいない。フロントの証明は落とされていたのだ。浴衣姿の宿泊客は、1人佇む浩二に不快な表情を向け通りすぎた。浩二は待ち疲れて館内電話に手を伸ばした。やがて女中がやってきた。浩二の顔を見るなり不思議そうな顔をしたのだ。現れた女中は浩二に連絡をした、いつもの女中だった。慣れた手つきで宿帳を出しながら浩二に尋ねた。
「あの〜、お部屋を広いところに変えましょうか」館内電話で『部屋は空いているか』と浩二は尋ねたのだ。狭いとは言え、恵美の部屋は2人で泊まるには十分な広さがあったのだ。それなのにと不思議に思ったのだ。浩二はこの時始めて気が付いた。自分に連絡をくれた電話の主がこの女中で、自分と兄、浩一とを勘違いしているのだと。
「すいません、宿帳を・・・」浩二は宿帳を受け取ると、スラスラと自分の名前を書き込んだ。そして女中に見せつけた。女中はそれでも意味が通じないらしく、不思議な顔で浩二と宿帳を見比べた。浩二は宿帳を取り上げるとページをめくった。女中は慌てて取り戻そうとしたが、その前に浩二が見つけたページを見せ付けた。浩一と恵美の宿泊の日のページ。そして、今浩二が記入したページ。女中は何度も見比べて、その時やっと気づいたのだ。
「そう、双子です」その一言で、女中の顔は真赤になった。今まで、ずっと勘違いしていたとは、いくら双子だとは言え、そんな言い訳は通じる事ではなかった。
「すいません。と、と、とんだ勘違いをいたしました」動揺する女中に浩二は優しく笑いかけた。浩二には女中を責める気など、微塵も持ち合わせていなかった。今までも、何度も経験したからだ。恵美でさえ、気が付かないづかないくらいだ。『恵美』浩二は心の中で呟いた。大きく息を吐いて浩二は笑った。
「部屋、空いてますよね?」
浩二は離れの部屋に案内された。食事は済ませてきたので、少しにつまみとお酒を頼んだ。眠れそうになかったのだ。恵美のなまめかしい裸体は、瞼の奥から消え去りそうもなかった。兄との幸せを願いながらもここまで黙って来た自分。勘違いとは言え、恵美に抱き付かれ理性を失いそうになった自分。中でも1番の気がかりは、恵美を泣かしたこと。浩二は手酌で酒を煽り続けた。酔いに任せて眠るつもりだったが、眠気は一向に浩二を襲ってはこない。浩二の意思とは裏腹に目は冴える一方だった。浩二は早朝宿を出た。恵美に合わせる顔も無く、眠れぬ夜を過ごしたからだ。出勤時間にもほど遠い暗い中を、浩二は東京へと帰って行った。