6章(1)
医者はすぐに現れた。旅館という業種柄、常にお客の不調には、迅速に対応が出来るようになっていた。
「大丈夫ですよ。きっと、疲れたんでしょう」医者は補聴器を診療バッグにしまいながら女中に言った。
「そうですか、ありがとうございます」女中は丁寧に頭を下げた。食後に飲ませるようにと、医者は数種類の薬を置いていった。恵美も起き上がりお礼を言おうとしたが、医者は両手で恵美の動きを制した。
「寝てなさい。寝てなさい、いいから いいから」深く刻まれた皺は、笑うと一層その数が増えた。その笑い顔は、長年患者に尽くした誇りと優しさが溢れていた。
「何か、召し上がってください」薬を飲むためにも、女中は軽い食事を恵美に勧めた。
「すいません。お世話になりっぱなしで」恵美はすまなそうな顔で答えたが、女中は少しも気に病んではいなかった。やがてお盆に粥を持って戻ってきた。卵だけが入ったお粥だけだが、さすがに美味だった。食欲のない恵美でもすんなりとお腹に収まり、心なしか力が湧いて来るような気になった。
「じゃあ、お水、置いておきますから、しばらく経ったら薬を飲んでくださいね」女中はそう言って部屋を出て行こうとしたが、思い出したように振り返った。
「旦那さんに、連絡しておきましたよ」女中は笑顔で部屋のドアを閉めた。恵美は浩一とのひと時を思い
し、顔の筋肉が緩んだ。薬を飲むと、熱は少し下がったようだ。しかし、頭の重さと視界の霧は晴れなか
た。ボーっとする思考回路。視点の定まらない目で、恵美は天井を見つめていた。『浩一は来てくれるかしら』『でも、迷惑よね』そんな自問自答が繰り広げられたが、答えは浮かばなかった。期待と不安が交差する中、薬も効きウトウトし始めたとき、部屋のドアが激しく開け放たれた。
「恵美さん、大丈夫?」部屋に飛び込み恵美に駆け寄った。
「うん、ぼ〜ッと、してるけど・・・」軽く恵美の額に手を触れた。
「うん、ちょっと熱はあるみたいだね」手の温もりを感じとった途端、熱以外の理由で恵美の顔はたちどころに紅潮した。恵美は額に置かれた手を取り、頬に摺り寄せた。
「恵美さん・・・・」言葉は続かなかった。恵美は目を閉じ、至福の顔で眠りについてしまった。手はしっかりと握られたままで、仕方無しに恵美の隣りに横になった。
添い寝をしながら恵美の顔を見ていたとき、規則正しい寝息を立てていた恵美が変貌した。いきなり首に手を回し、むさぼるように唇を押し付けてきたのだ。寝呆けているようではない。息使いも荒く、恵美はあきらかに興奮していたのだ。戸惑った。好きだとは言え、今の恵美は病人だ。心が葛藤を続ける間も、恵美の行動は激しく、さらに荒々しく求め始めた。シャツをめくり胸に唇を這わせる。唇が胸を刺激する。男も乳首は敏感なんだと、この時はじめて気が付くほどだった。欲望に炎が灯るのを、はっきりを自覚した。しかし、虚ろな目で恵美が浴衣を脱ぎだし、ブラを外して胸をはだけたところで我に返り、とうとう大声で叫んだ。
「恵美さん、僕は、僕は浩二です」
女中が連絡したのは浩二だった。前日に訪れたときに浩二が残していった名刺に連絡したのだ。『余計な事かも』そう思いながらも『何かあったら、連絡ください』と、浩二が残していったのだ。浩一が支払いに使ったカードの写しは残っている。しかし、同一人物だと思い込んでいた女中は、疑いもせずに、連絡してしまったのだ。浩二は連絡をもらって戸惑った。浩一に言うべきかを。そのとき浩一は丁度外出中だった。もちろん連絡を取ろうと思えば取れたはずだが、浩二はためらった。『なぜ、自分に?』との疑問もあったが、小さな期待も沸いたのだ。もしかしたら、自分に連絡したのは恵美の希望かも知れないと思ったのだ。結局は仕事を放り出し、浩一にも告げずに電車に飛び乗ったのだった。
恵美は、何度も目を擦った。目を細め浩二の顔を覗き込むのだが、ようとしてはっきりとはしなかった。
「え?浩一さんじゃないの?」恵美はどうには言葉を発した。『やはり兄と勘違いしていたんだ』浩二は自分の愚かさに嫌気が差した。『願わくは』の期待も、もろくも崩れ去ったのだ。
「ええ、浩二です」恵美は慌てて衣服を抱え、布団に潜り込んだ。やがて布団の中からは、僅かに泣き声が聞こえてきた。浩二はいたたまれなくなり、部屋を飛び出した。