5章(4)
恵美が寝付いて一時間ほどした時に、部屋のドアが静かにノックされた。時間はまだ9時前だが、訪れる人などいないはずだと、恵美は眠い目を擦りながらドア越しに話した。
「どちら様ですか」
「すいません。僕です。浩二です」恵美の眠気は一瞬で消え去った。
「はい、今開けます」恵美は自分の衣服を整え、ゆっくりとドアを開けた。確かに浩二だ。でも、なぜ?そんな疑問を持ちながらも、恵美は浩二を招きいれた。
「すいません、お休み中に・・」心なしか緊張しているようにも見えた。
「いえ、どうぞ」女中はなんの疑いもなく浩二を通したのだろう。浩一と思い込んでも仕方なかった。恵美は布団を押しのけ、座卓を中央に引き寄せ浩二を座らせた。
「どうしたんですか。こんなところまで・・・」浩二が来た理由は見当もつかなかった。『まさか浩一さんが、言いふらした?』そんな考えも浮かんだが、すぐに打ち消された。兄弟として報告したかも知れない。しかし仮に話したとしても、浩二がわざわざ来る必要などないと思ったのだ。恵美がお茶を入れ始めると、浩二は姿勢を正して恵美に向き合った。
「兄を好きですか?」いきなりの質問に、恵美はお茶をこぼしそうになった。しかしその顔はすぐに真赤に染まっていった。恵美は返事も返せずうつむいてしまった。浩二は恵美の気持ちを察したらしく、弱々しく答えた。
「そうですか・・・。残念です」浩二の言葉の意味はわからない。なぜ、残念なのか・・。
「浩二さん・・・」恵美の言葉を浩二は遮った。
「僕も貴方が好きでした」その声はいつもの浩二に戻っていた。そう感じただけかも知れない。
「でね、兄と約束したんです。抜け駆けはやめようって」恵美はさらに赤くなった。浩二の言っている事は、浩一とのあらたな関係を示していると解ったからだ。
「頭に来て、兄を殴ってやりました」浩二は大きく笑い出した。
「浩二さん、ごめんなさい」恵美には謝るしか出来ない。浩二はそんな恵美に優しく微笑んだ。
「あの兄が女性に惚れるなんて、始めは信じられませんでした。兄には幸せになってほしい。しかも相手が恵美さんならば、僕は何も言いません。兄を、兄をよろしくお願いします」浩二は畳に額が付きそうなほど頭を下げた。そしていきなり立ち上がると、踵を返しドアに向かった。
「夜遅くに、すいませんでした」そう言って部屋を出て行った。浩二の後姿は力なく寂しそうに見えた。しかもチラリと見えた横顔には、涙さえ光って見えたのだ。『ごめんなさい』恵美は心の中で何度も浩二に詫びた。突然の浩二の来訪と告白で、恵美の心は激しく揺れた。浩一が好きな気持ちに偽りはない。しかし浩二に対する気持ちはどうなのか?恵美は浩二の気持ちを知ったがために、考えもしなかったことが頭を占領し始めた。もし、今回浩一ではなく、浩二が同行していたらどうなっていただろう?恵美はそんなことを考え始めた。浩二も、浩一に劣らず優しい心の持ち主だ。浩一と同じ様に恵美に付いて来たかも知れない。そして同じように宿に泊まり、同じような配慮と優しさを示しただろう。そうなれば、浩二と結ばれていたかも知れないと恵美は思った。恵美は2人を同じように愛していたからだ。浩二が求めればおそらく拒むことなく受け入れただろう。いや、浩一と同じく恵美から誘ったかも知れない。浩二も浩一も抜け駆けはしないと約束を交し合っていたからだった。
恵美は眠れぬ夜を過ごした。いくら頭から拭い去ろうとしても、浩二の言葉と涙。浩一の肌と温もり。3人で飲んだ銀座のクラブ。それらの映像や感覚が頭を駆け巡り、疲れているにも関わらず、一睡も出来なかったのだ。浩一と結ばれはしたが、恵美の不安定な心は恵美の疲れ切った身体を容赦なく痛めつけた。女中が床上げに来たが、恵美は丁寧に断わった。寒気と激しい頭痛が恵美を襲い、とても起き上がることが出来なかったのだ。薬はもらったものの、食事もとらない恵美には効かなかった。恵美は携帯を引き寄せた。浩一の携帯を呼び出そうとしたが、恵美は戸惑った。昨夜の浩二の言葉が思い出され、恵美の手を止めたのだ。京子は病院。残るは雅子?無理だ。恵美は布団をかぶり寒さに震えた。用意された昼食も取れずに恵美は布団に包まっていた。3時過ぎ。いつもの女中が出勤してきて、恵美の状態を知ると慌てて部屋にやってきた。
「大丈夫ですか」女中は恵美の額に手を当てた。
「ひどい熱・・・。今、医者を呼びますからね」慌しく部屋を出て行く女中を、恵美はぼんやりと眺めるだけだった。