5章(3)
京子はうっすらと目を開けた。しかし目を開けただけで、意識は朦朧とし、思考もほとんど働かなかった。視界に入った浩一の顔を京子は無表情で見つめるだけで、意識はどこか遠くに引き離されているようだった。浩一は思わず声をかけた。
「京子さん、大丈夫ですか」京子は2,3度ゆっくりと瞬きをしたが、その表情からは何も読み取れなかった。浩一は京子の手をとり、ゆっくりとだがはっきりと話しかけた。
「大丈夫ですか。言葉がわかりますか」京子の表情は相変わらずだが、その手は僅かに浩一の手を握り返した。浩一はひとまず胸を撫で下ろした。言葉は聞こえているようだ。
「京子?」恵美も病室に戻ってきた。恵美も京子の視界に飛び込んだ。
「京子、聞こえる?」何度か呼びかけたが、うつろな表情は変わらなかった。浩一はナースコールを押した。駆けつけた看護婦が京子の顔を覗き込み、脈を取り聴診器を胸に当てた。恵美は心配そうに看護婦の動きを目で追った。やがて優しく微笑むと浩一に説明をはじめたした。
「大丈夫でしょう。薬で意識ははっきりとしていませんが、脈も呼吸も正常です。そのうちに話せるよう
になります」浩一と恵美は深く頭を下げた。『良かった』恵美は何度も呟いた。京子はいつの間にか眠りについていた。規則正しく上下する胸が、京子の無事を死からの生還を実感させた。
「じゃあ、帰るけど、何かあたら連絡して」浩一はそう言い残し、東京に戻っていった。11時を少し回ったときだった。浩一が病室を出る前に、二人は熱い口付けを交わして別れた。
「今の人は?」恵美は驚いて振り返った。京子が目を開け恵美に話しかけたのだ。
「大丈夫?」恵美は顔を覗き込み尋ねた。
「うん、・・・恵美、ごめん」京子の目から流れた涙が、枕に小さな輪ジミを作った。
「ううん、いいの。ビックリしただけ。だって・・・だって・・・」涙が恵美の言葉を遮った。何度涙を拭えども、流れ出す涙は押さえ切れなかった。
「ごめんね・・・。ごめんね・・・・」京子は何度も呟き、2人は長い間抱き合い泣き続けた。
浩一が会社に戻ったのは、3時近くだった。当然、多くの社員が働いており、エントランスホールにも多くの社員がいた。その社員が浩一に気がつき挨拶をするが、目は驚きで見開かれていた。昨日と同じスーツ。浩一が同じスーツで出勤したことはなかったからだ。それは外泊を意味し、ショックを受ける女子社員も多くいた。先だっての女性への気楽な挨拶。その話が社内で広まってからは、女子社員の間では密かな待感も広がっていたのだ。ところが、そんな事など些細に思える事件が、今、目の前で起こったのだ。イラついた表情で座っていた浩二に、何かを話そう近づいた浩一をいきなり浩二が殴り、さっさと何処かへ消えてしまったのだ。異様な雰囲気のホールで浩一は注目を浴びた。しかし動じた様子もなく、口元の血を拭うとゆっくりとした足どりでエレベーターに乗り込んだ。浩一の姿が見えなくなると同時に、ホールは喧騒に包まれ数々の憶測が飛び交った。双子といっても、この点だけはあきらかに違ったのだ。行動的な浩二は手が早い。喧嘩をすれば、先に手が出るのはいつも浩二だった。しかも今回、非は浩一に有った。そのため、浩一は殴られたことには少しの怒りも感じなかったのだ。ただ今回は、浩二の機嫌が直るには、かなりの努力が必要だと浩一は覚悟した。
恵美は一人で旅館に戻った。京子の母が駆けつけたのだ。もちろん自殺未遂とは言ってはいない。足を滑らせ転落したと説明をしたのだ。警察も余分なことは言わなかったらしい。恵美は小さな部屋に移っていた。1人だからと、朝の時点で変更したのだ。浩一はそのまま使えばいいと言っていたが、広すぎる部屋に一人では心細さもあり、本館の小部屋に移ったのだ。昨夜の女中が引き続き恵美の相手をしてくれた。ゆっくりと風呂に浸かり恵美は疲れを癒した。部屋に戻ると女中が食事を並べていた。
「でも、よかったですね。お友達」
「はい、今は落ち着いたみたいで、お母さんも駆けつけてきました」
「お母さんが・・・」女中は自殺のことを気にしていた。
「大丈夫です、言ってませんから」恵美の答えに、女中は笑顔になった。
「さあ、お風呂上がりに一杯」そう言ってビールを傾けた。恵美は恐縮しながらもグラスを持ち上げた。
「いえ、お気遣いなく」恵美はなぜビールがあるのか不思議に思った。恵美の視線を感じたのか、女中がビールを注ぎながら話した。
「お昼頃、ご主人が寄られまして、頼んでいったんですよ。いい、御主人ですね」恵美は顔が真赤になるのを感じた。そう見られても仕方ないが、いざ面と向かって言われると、全身に鳥肌が立ち、首筋はくすぐられているような錯覚に襲われた。気分はいい。恵美は一気にビールをあおった。
「そうそう、お友達のも宿代も頂いております。気を使わないように言って置いてください」
「京子の分ですか」恵美は驚いた。
「はい、忙しい時期でもないし、お泊りにならなかったのでいいと言ったのですが・・・」恵美は浩一の心遣いに感謝すると同時に、浩一の優しさを感じた。あらかた料理が片付くと、恵美は眠気を覚えた。それを察してくれたのか、早々に布団の用意をし女中は部屋を出て行った。恵美は疲れていた。しかし、充実感もあり幸せな気分で布団に潜り込んだ。二人が結ばれたときを思い出し、恵美はクスクスと笑い、やがて眠り落ちていった。