1章(1)
翌朝、携帯の呼び出しで起こされた。
「もしもし」いきなり起こされた恵美は、発信者も確かめずに電話に出た。
「恵美か?悪い、悪い。仲間と飲んでさ〜約束してたっけ」恵美は、無言で電話を切った。5時半、恵美は猛烈に頭にきた。ほんとうに、自分勝手な男。どうせほかの女とホテルにでも行っていたのだろう。恵美は浩二の番号を着信拒否にし、アドレスを消去した。昨夜の怒りも覚めやらぬうち、1時間も早く起こされ、恵美の怒りは頂点に達した。もう寝むれない。恵美は仕方なしに起き出した。
「イタ、イタタ」足首に手を伸ばすと、足はかなり腫れ上がっていた。浩二に対する怒りで、すっかり足のことなど忘れていた。しかし、仕事を休むほどではなかった。いや、休めなかった。誰かのせいで、財政難にも陥っていたのである。救急箱から包帯を引っ張り出し、腫れた足首に強く巻きつけた。動かさないための包帯だが、靴は履けそうもなかった。天気は良い。これで雨でも降られた日には目も当てられない。ところがテレビの天気予報では、夕方には雨になると放送していた。踏んだり蹴ったり。全てあいつが悪い。「浩二のバカヤロー」恵美は何度も呟いた。食欲も湧かずコーヒーだけを飲み、出かける支度に取り掛かった。化粧のノリも悪い。お洒落な服を着てもヒールが履けない。恵美は心底落ち込んだ。元凶は浩二。恵美は呟いた。「浩二のバカヤロー」・・・・。
恵美は早くに家を出た。この足では、通勤に時間がかかると思ったのだ。かと言ってタクシーを使う金銭的余裕はない。またも誰かのせいである。アパートの前には、タクシーが止まっていた。黒塗りのハイヤーだ。客待ちらしく、ほかの車が動き出しても、ハイヤーは止まっていた。ボロアパートには珍しい。そう思ったが、恵美は気にせず通り過ぎようとした。ところが突然、恵美の前で扉が開いた。
「どうぞ、乗ってください」昨夜の浩二。新、浩二だった。恵美が戸惑った様子でいると、新、浩二が降りてきて、頭を下げながら名刺を差し出した。
「うっかりしてました。驚きますよね」名刺には、名前の上に取締役専務、と書かれていた。会社名は知らないが、IT 系の会社のようだ。
「かなり、悪そうだったので、心配で来て見ました」昨夜の、新、浩二とは別人みたいに見えた。昨夜は下を向いたまま、名前さえ聞かなかった。
「どうぞ、会社まで送ります」恵美は、戸惑いながらもハイヤーに乗り込んだ。正直、歩くのが辛かったからだ。ハイヤーの座り心地は最高だった。
走り出しても、滑るような感覚で違和感は少しも感じなかった。
「でも、いいんですか」恵美は尋ねた。
「ええ、もちろん。昨日はすいませんでした」
「いえ、私がいけないんです」恵美は慌てて答えた。予感は見事的中したようだ。恵美の関心は目の前の男へと注がれていた。見れば見るほど可愛い顔をしている。それでも専務なのだ。取締役専務。結婚したら専務婦人。恵美は思わずにやけてしまった。昨日とは別人と思えるほど、よく話しよく笑っていた。どうやら親が社長らしい。うまくいったら社長婦人。恵美はまたもにやけた。単なる出会いでは無さそうだ。恵美はそう信じ込もうとした。声も優しく話しているだけで、心の優しさまでもが伝わってきそうだった。旧、浩二は何度かけても繋がらない携帯にイラつき、恵美のことを気にはしたが、やがてバンドの練習へと向かった。しかし、振られたなどとは微塵も思わない、心底めでたい男だった。