4章(4)
京子の頭は真っ白とまではいかないが、霧に包まれたようだった。アパートを出た後の記憶はほとんどない。手探りで歩き続け、手に触れるものに引き寄せられ、自分の意志とは関係なく行動しているようだった。京子が旅館に着いたのは6時を回っていた。『熱海に行かなくては』そんな思いだけで辿り着いたのだ。京子を出迎えた女中さんは、恵美たちを応対した女中だった。『驚かせたい』と、恵美たちの到着は内緒にされていた。しかし、女中はいくばくかの不安を感じた。それほどまでに、京子の様子は異様だったのだ。青白い顔で言葉少なく、発した声も消え入りそうなのだ。もしも恵美たちがいなければ、それこそ警察に通報するところだった。自殺志願者に共通する何かを女中は感じ取っていた。京子を部屋に案内しお茶を入れている間も、京子は黙ってソファーに座り外の景色をじっと眺めるだけだった。部屋を出ると女中は慌ててフロントに戻り、浩一たちの部屋に連絡を入れた。
「はい、たった今お着きです。でも、ご様子が・・・」女中は言葉をにごした。
「わかりました、ありがとうございます。部屋はどこですか」浩一はそれに気づき、言葉を早めた。
「わかりにくいでしょう、御案内いたします」この旅館には部屋番号はない。花の名や山の名、伊豆名所の名が付けられているため、不慣れな人には探しづらいのだ。
「では、フロントまで行きます。待っていてください」浩一は受話器を置くと恵美を見た。それまでの恵美の顔は不安で一杯だったが、とりあえずは京子の到着で安心したようだった。
「はい、お待ちしております」女中は安心したが、京子の様子は気になった。長い女中経験の間には、夕刻に会ったお客が翌朝遺体となって発見されたり、いまだに行方知れずのお客をその目で何度も見てきたのだ。そのお客達の生前の様子は、今しがた案内した京子と似たりよったりだった。恵美と浩一がフロントに現れると、女中は急いで飛び出し足早に二人を案内した。
「失礼します」そう言って京子の部屋に入ったが。京子の姿は部屋には無かった。
「お風呂ですかね」そう言って部屋を見回したが、京子が持っていた小さな鞄すら見当たらなかった。
「あれ見て」浩一に言われるままに座卓を見た恵美は、引き付けられる様に部屋へと踏み入った。そこには1枚のハンカチが置かれていた。小さくたたまれた白いハンカチには、赤と黄色の花の刺繍が施され、いかにも京子が好みそうな柄だった。恵美はあらためて部屋を見回した。荷物らしきものは1つも無い。出されたお茶さえ、手付かずのまま冷め切っていた。なぜだか寒気を感じた。恵美はハンカチを取り上げた。ひらりと開かれたハンカチには、口紅らしきものが付着していたがどこか不自然だった。恵美は浩一にハンカチを見せた。浩一はハンカチを手に取ると、赤いシミに鼻を近づけた。隅の方に僅かに残る赤色は口紅ではなかった。血だ。京子のものかは分からないが、その赤いシミは確かに血だった。恵美と浩一は部屋を飛び出した。女中も浴場を見ると言って走り出した。
玄関から飛び出すと、表はすっかり闇に包まれていた。玄関前から見える範囲に京子の姿は無い。旅館の敷地は広い。池もあれば裏山に通じる道もある。以前来たときに、3人で散策したのを思い出した。
「ここで待ってて」そう言うと、浩一は建物の裏手に向かい走り出した。玄関前でオロオロする恵美のところへ、女中も戻ってきた。しかし、女中は静かに首を振るだけだった。やがて浩一が反対側から戻ってきた。どうやら敷地を1周したらしかったが、息を切らせながらやはり首を振るだけだった。女中はフロントに戻ると、車のキーを差し出した。
「運転出来ますよね」浩一はしっかりと頷いた。
「裏にトラックがあります」女中の考えも恵美と同じのようだ。恵美もずっとあの名所が気になっていたのだ。あの、自殺の名所が・・・・。曲がりくねった坂道を、二人を乗せた車は勢いよく下って行った。国道135号の交通量は少なかった。熱海方面に向かい走り出したが、浩一は急に速度を落とした。
「どうしたの」恵美の問いかけに、浩一はダッシュボードの時計を指差し答えた。
「まだ30分足らずです。徒歩であそこまでは行けないでしょう」浩一の言うとおりだった。京子は運転免許を持っていない。レンタカーにしろ車で来ることは無いはずだ。徒歩であるならば、到底30分であの名所までは歩けないだろう。恵美も浩一の意見に賛成だった。ならば、あそこに向かいまだ歩いているか、どこかほかに向かったとしか考えられなかった。浩一と恵美は京子の姿をさがして、ゆっくりと走る車から歩道に目を凝らした。時折後続車が激しくクラクションを鳴らして、恵美たちの車を追い越した。やがて、右手には人気の無い海水浴場が見えてきた。
「あそこ・・・」恵美はなんとなくその場所が気になった。入り口には鉄の鎖が張られていた。恵美と浩一は車を降り、徒歩で海水浴場に足を踏み入れた。砂が小さく音を立てる。20軒ほどの海の家はそのまま残ってはいるが、荒れ果てたまま人の気配は無かった。砂浜には多くのゴミも流れ着いていた。流木はもちろん、タイヤやバケツ、そして無数の缶類。それらが所狭しと転がっていた。
「気をつけて」砂に足をとられ、つまずきそうになった恵美を浩一は優しく押さえた。
「ありがとう」恵美は小さく微笑んだが、顔には絶望感が漂っていた。『京子を見つけるのは無理なのでは・・』そう思い始めていたのだ。恵美の瞳に涙が光った。月明かりに照らされた涙は、それこそ真珠のように光っていた。不謹慎だと思いながらも、浩一は恵美の姿に見とれてしまっていた。月に厚い雲がかかり始め、あたりは更に暗くなりだした。しかし、その最後の月明かりが消える前に、砂浜を動く何かの影を、浩一は視界の隅で捉えていた。振り向いたが影は見えない。恵美にも見えてのか、浩一と同時に振り向いた。だが、あたりは完全な暗闇に包まれ、波の打ち寄せる音だけが闇に響いていた。