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4章(3)

季節柄、日の光は薄れ始めていた。駅前のタクシー乗り場から、恵美と浩一はタクシーに乗り込んだ。行き先を告げると、僅かに運転手は喜んだ。それもそのはず。近場の温泉場に比べると行き先はかなり遠い。長距離とまでは行かないが、市内を流すよりは売り上げにつながるからだった。国道135号を海沿いに南下する。熱海城は山の中腹で夕日を一身に浴び、壁面を朱に染めていた。見える海面は穏やかで、こちらも日の光を受け無数のきらめきを放っていた。熱海城を越え、道は急激に海に近づいた。錦ヶ浦。恵美の脳裏に不安がよぎる。ここは、自殺の名所でもあるのだ。

「すいません、ちょっと止めてください」恵美が言うと、タクシーは無料駐車場へと滑り込んだ。よくあることなのだろう。運転手は心得たとばかりに微笑んだ。もしかしたら京子がいるのでは?そう思ったのだ。駐車場の手摺のむこうはすぐに海。しかも断崖絶壁の海岸線だ。恵美は恐る恐る覗き込んだ。20メートル。いや、もっと、30メートルくらいだろうか、眼下では波が絶えず絶壁に打ち寄せ、白く泡立っていた。髪は吹き上げる風で激しく乱れていたが、恵美はただじっと打ち寄せる波を見つめ、そこに立ち尽くしていた。引き込まれそうな不思議な気持ちを抑え、恵美はゆっくりと歩き出した。髪を押さえながらあたりを見回す。場内には4,5台の車と2組のカップル。家族連れに若い集団。女一人の京子は見当たらなかった。恵美は小さく胸を撫で下ろし、浩一に向かって僅かに微笑んだ。浩一はその一部始終をタクシーの脇に立ち、黙って見守るだけだった。恵美はぶつかる様に浩一の胸に額を押し当て、静かに深呼吸を繰り返した。浩一はそんな恵美の肩を優しく、そして呼吸の邪魔にならない程度に軽く抱きしめた。タクシーは更に南下していった。左手には誰もいない海水浴場がゆっくりと通り過ぎる。恵美は浩一の腕を抱きしめた。やがてタクシーは山に向かって上り始めた。くねる道は、徐々にその高度を上げていった。5時10分。タクシーが旅館の玄関に滑る込むと、3人の女中さんが出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。遠いところありがとうございます」そう言って招きいれると、恵美と浩一をフロント手前のゆったりとしたソファーに案内した。すぐにお茶と小さな和菓子が出された。浩一は軽く頭を下げ、予約の旨を伝えた。熱海に着く前に、電車の中から追加の予約は取っておいたのだ。

「はいはい、承っております」そう言って、フロントから宿帳を持ってきた。

「それでは、こちらのほうに、御記入をお願いできますか」浩一は宿帳に記入しながら一瞬戸惑った。同伴者の記入欄だ。浩一は自分の名前と、ただ、恵美とだけ記入した。普通に見れば夫婦に見えるだろう。だが、恵美のフルネームを記入することには抵抗があった。女中さんは顔色一つ変えずに、宿帳を受け取るとフロントに戻っていった。熱いお茶は、冷えた身体をゆっくりと温めてくれた。駐車場で冷えたのか芯から暖かさが広がった。やがて女中さんは1つの鍵を持ってきた。

「よろしければ御案内いたします」恵美は少し身体を乗り出し、女中に尋ねた。

「すいません。友達と待ち合わせなんですが、もう着いていますか」そう言って京子の名を告げた。

「女性お一人のお客様ですね、少々お待ちください」どうやらこの女中さんは見ていないらしい。フロントに戻り、すぐに引き返してきた。

「はい、予約は承っておりますが、まだお着きでは無いようですよ」

「そうですか・・・」京子はどこかに寄り道でもしているらしい。

「お着きになりましたら、お部屋の方にご連絡を差し上げます。それまでごゆっくりとどうぞ」女中さんはそう言ってニコリと笑った。

「お願いします」恵美は軽く頭を下げた。2人が通された部屋は離れの立派な部屋だった。どうやら浩一の手配のに依るものだった。

「お夕食は何時頃がよろしいでしょうか」女中は座卓にお茶を並べながら、浩一に尋ねた。浩一は恵美を見てから尋ねた。

「友達の分もこちらで一緒に食事が出来ますか」恵美の気持ちを察して尋ねた。

「ええ、大丈夫ですが」女中さんは嫌な顔一つ見せない。

「では、とりあえず、7時頃でお願いします」二人が通された部屋は、3人どころか6人でも泊まれそうな広さがあった。3人分の食事など雑作も無いことだった。浩一が小さく折った紙幣を渡すと、女中さんは深々と頭を下げて部屋を出て行った。恵美は立ち上がり窓に近づいた。山腹に建つ旅館の窓からは、海も遠くまで見渡せた。『京子・・・』恵美は呟いた。いつの間にか浩一も恵美の後ろに立ち、一緒に海を眺めていた。浩一は無駄な話は一切せずに常に恵美の後ろにいた。つまずき転びそうになる恵美を、いつでも助けられるように、付かず離れず、守っているようだった。恵美はゆっくり振り返り、浩一の胸に顔を埋めた。そして恵美は静かに浩一を見上げ、眠るように目を閉じた。夕日を浴びた浩一の顔がゆっくりと近づき、無言のまま恵美の唇に重ねられた。今にも溶けだしそうな感覚に包まれ、恵美の身体は静かに崩れた。



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