3章(4)
翌日、始業後まもなく、雅子が恵美の元へ飛んできた。
「ねえ、聞いた?」雅子はこれでもかと、目を見開いた。
「えっ?何を」恵美は答えた。
「なにって・・。どうしたの目が真赤よ」雅子は恵美の顔を覗き込み、眉間にしわを寄せた。
「うん、ちょっと・・・。朝方まで本を読んでたから・・・」咄嗟の返事だった。
「ならいいけど・・・。そうそう、京子が辞めちゃったのよ」雅子は恵美の机を2,3度叩いた。
「うそ?何で?」そうは言ったが、恵美にはその理由が思い浮かんだ。『浩二だ』それしか考えられなかった。昨夜のことを見ていなければ、想像もしなかっただろう。しかし恵美は見てしまったのだ。そして、浩二の性格もある程度は把握している恵美だからこそ、直感で思い浮かんだのだ。
「わからないわよ〜、今朝、課長から聞いただけだもの」
「携帯は?」恵美は雅子に言った。
「まだだけど、休み時間に掛けてみるわ」
「うん、私も暇をみて掛けるわ」雅子の手前そう言ったが、おそらく京子は電話には出ないだろうと思った。電話を掛けて出るくらいならば、やめる前に、京子から連絡が来るはずだと思ったのだ。
「じゃあ、頼むね」雅子はそう言って戻っていった。恵美は10時になるのを待った。午前の休憩時間だ。京子に電話を掛けるつもりは無い。浩二に掛けるつもりでいた。京子を追いやったのは、浩二しか考えられなかったからだ。10時5分前。恵美は携帯を持って席を立った。屋上に出ると、既に何人かが煙草を吸ったり、雑談を交わしていた。隅の手摺に寄りかかり、恵美は浩二の番号をプッシュした。浩二のアドレスは消したが、番号はしっかりと覚えていた。2年。長いようで短く感じた。
「もしもし」浩二の声は懐かしく思えたが、同時に平然と電話に出る浩二に、多少なりの怒りが起きた。
「浩二、一体どういうこと?」
「え?あ?恵美か?うるさくて聞こえない。ちょっと待ってて」バンドの練習中らしく、電話越しにも騒音としか思えない音楽が聞こえた。表に出たのだろうか、次の言葉は静かなところから聞こえた。
「なんだよ」あきらかに、すねた話方だった。
「京子と何があったの?」恵美は冷静に尋ねた。
「えっ?なにって、なんだよ」動揺は隠し切れない。
「見たのよ。二人を」怒りを抑え、恵美は尋ねた。
「見たって?・・・・。だ、だからなんだよ」浩二の息が荒くなった。
「恵美には関係ないだろ!!俺は恵美に振られたらしいから」京子から聞いたのだろう。ふてぶてしい言い方に怒りは大きくなるばかりだった。しかし、今はそんなことなどどうでも良かった。
「京子。会社辞めたわよ。あんた以外に考えられないわ。何をしたのよ」恵美の声も荒くなってきた。
「えっ、ま、マジかよ。やべえ・・・」浩二は心底、驚いている様子だった。
「京子は、私と違って繊細なの。傷つきやすいのよ。何かあったら、あんたのせいだからね」恵美は冷たく言い放った。浩二の狼狽ぶりが、手に取るようにわかった。
「と、とにかく、俺からも連絡してみる」浩二は慌てて電話を切った。恵美の目には涙が浮かんできた。浩二が京子を弄んだのは、間違い無さそうだ。京子はそれを話せずに、ずっと悩んでいたんだろう。あの、よそよそしさがその証拠だと恵美は思った。昨日の京子に対する怒りは、微塵も感じなかった。恵美はそのまま、浩一に連絡を入れた。
「珍しいですね。どうしました?」優しい声が恵美の心を和ませた。
「浩一さんでも、浩二さんでもいいんです。お名前を貸してください。お願いします」恵美は思わず携帯を握りながら頭を下げた。
「えっ?どうしたんですか」浩一は、言葉の意味が理解出来なかった。
「どうしても早退したいんですが、仲間の手前もあるし・・・」恵美は言葉に詰まった。とんでもない電話を掛けたと気づいたのだ。相手の迷惑を少しも考えていないことに気がついたのだ。
「いいですよ」ところが浩一はなんの疑いも持たずに答えた。
「すいません、わがままを言って・・・、じゃあ、電話で私を呼び出してください」迷惑とは思いながらも、京子のことが心配で、浩一の優しさに甘えることにした。
「ええ、構いませんよ。でも理由を聞いても差し支えないかな?」恵美は一瞬戸惑ったが、京子のことを差し障り無く伝えた。元彼、浩二のことは話には入れなかった。
「う〜ん、心配ですね」浩一はしばらく考えてから、話を続けた。
「いいでしょ。迎えに行きます。連れ出したほうが真実味があるでしょうから」浩一はやけに喜んでいるようだった。浩二との定期のキセルと同じような遊び心かも知れない。
「いえ、でも迷惑が・・・」しかし恵美は戸惑った。
「構いません。どうせ今日は暇だし、お友達も心配ですから。一緒に行きますよ」
「変な噂が立つかも・・」
「恵美さんとの噂なら、僕は大歓迎です。30分で迎えに行きます」浩一は嬉しそうに電話を切った。浩一の優しさはしっかりと恵美の心に届いた。暇だと言うのは嘘だろう。恵美にはそう思えて仕方なかった。それでも恵美には浩一の言葉が嬉しく、浩一への愛が、次第に大きくなるのを感じ取った。約束通り、30分後に浩一は恵美を迎えに来た。仕事の打ち合わせ、とは名目で伝えたが、誰一人として信じてはいない。浩一にはそんなことは解り切っていた。しかし、浩一は躊躇することなく平然と恵美を連れ出した。その後は消えた二人のことで、部屋全体の騒ぎは収まらなかった。