序章
時間はすでに40分を過ぎていた。周りの人はそのほとんどが待ち合わせの相手が現れ、みな笑顔でどこかに消えて行った。恵美だけが取り残されていた。浩二はまだ来ない。携帯に電話をしたが繋がらない。『約束したのに。何度目だろう、浩二のすっぽかし』恵美は駅に向かって歩き始めた。付き合って2年。恵美はいつも待たされた。時間にルーズな浩二。もう沢山。恵美は思った『もう許さない、終わりにしよう』浩二の身勝手さに恵美は疲れ果てていた。ルーズなのは時間だけではなかった。女にもルーズ。恵美と付き合いながらも、何度浮気したことか。確かに浩二はかっこよく、女にもてた。でも、お洒落な服も、売れないバンド活動に熱中できるのも、全て恵美のお陰だというのに、浩二は完全にのぼせ上がっていた。出会ったとき浩二はまだ学生で、就職すら決まっていなかったが、バンドがあるから就職しないと言い切っていた。バイトの金はほとんどをバンド活動に費やしていた。当時は学生だったため、仕送りも有ったが、今では恵美に頼っていた。ギターの腕は恵美にはよく分からない。でも、下手ではないらしい。当初は、浩二に目もくれなかった。恵美には好きな人がいたのだ。しかし実際はその男に振られ、自棄酒を飲んだときに付き合ったのが浩二だった。よく訪れたバーのカウンター。その中でも浩二は注目を浴びていた。恵美の友人が浩二目当てで一緒に通いだした店。それでも浩二はほかの客とは違う恵美に興味を持っていた。そして自虐に陥ってる恵美と、仕事が終わってから飲みに行ったのだ。その時浩二はしきりに『そいつは馬鹿だ』と連呼していた。『恵美さんを振るとは見る目がないなあ』と恵美を励ましてくれたのだ。それがきっかけとなり、いつの間にか付き合いだしたのだ。だからお互い好きとも言わずに、時間だけが過ぎていった。駅に向かう恵美の足どりは、次第に早くなっていった。恵美は怒ると早足になるのだ。喧嘩をした日には、決まってヒールを駄目にした。切符売り場は混んでいたが、恵美には定期がある。真っ直ぐに改札を抜けようとした時、早足の恵美は誰かの足に引っかかり、つまずき転んだ。またもヒールを駄目にしたようだ。
「痛〜い」どうやら、足首もひねったらしい。目の前には、ぶつかった相手の定期入れが落ちていた。足首を摩りながら定期を拾い、表を見て驚いた
「山田浩二!?」
「あっ、すいません僕のです」声の主は、恵美の知る浩二とは、似ても似つかなかった。同性同名にしても、何もかもが違っていた。学生でも通りそうなほど可愛い顔をしていたのだ。
「大丈夫ですか」こっちの浩二は甘い声をしていた。
「ええ、大丈夫」そう言って立ち上がろうとしたが、足首の捻挫はひどかった。結局、初めて会った浩二に送ってもらう羽目になった。タクシーで送ってもらったが、初めて会った浩二は、一言も喋らなかった。気が弱いのか、恥かしがりやなのかは分からないが、下を向いたまま顔も上げなかった。恵美は興味をもったが、新、浩二は恵美の名前さえも聞かなかったのだ。
「どうもありがとう」アパートまで送ってもらったが、新、浩二は、軽く頭を下げただけで、そのままタクシーで去って行った。新たな出会いを予感したが、思い過ごしで終わったようだ。恵美は小さくため息をついて、自分のアパートに入っていった。旧、浩二のことは、既に頭から消え去っていた。