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TRACK,8

『ミミック』のライブ当日、開場時間は17時にも関わらず 翠は朝8時には『rock shooter』に着いた。


半月前から置いていたチラシの反響も大きく、写真が『トレジャーボックス』のメンバーだと気付いたファンはサプライズのライブではないかと歓喜の声を上げ、その場でSNSに書きこむ場面も翠は見ていた。さらに情報操作をする事で混乱が生じると古賀は告げて、いつもより早く入らないと巻き込まれる可能性を翠に示唆したのだ。

翠が入口の鍵を開けていると、背後に気配を感じた。振り返るとそこに居たのは駿のマネージャーである遠藤 沙也加だった。彼女は笑顔で「おはようございます」と言い、続けて翠を問い詰めた。

「アナタは当然今日の事知ってたんですよね?いつから知ってました?まさかこの前お会いした時より前じゃ無いですよね?」

どうやらお怒りのご様子だが、翠には何故かが分からない。自分が内部事情を知っている事にだろうか。それにしたって彼女が怒る事では無いはずだ。

「あの…、今日の事は成り行きで決定した時に居合わせましてですね、無理に聞き出したとかでは無いので…。」

そこまで説明した時に、沙也加は恐ろしい目つきで翠を見て言い放った。

「何でアナタが知ってて私が昨日まで知らなかったワケ⁈しかも本人からじゃなく会社から聞かされるなんて信じらんない‼アナタ、SHUNさんの何なの?何でアナタだけ特別なのよ‼その辺の一般人のくせに、ウチのSHUNにチョッカイ出さないで‼だいたい、彼と上手くいくとでも?アナタはそれで良いかもしれないけど、アナタとスキャンダルにでもなったらどうしてくれます⁈うちのアーティスト潰す気ですか⁉」

沙也加はそうヒステリックに言い終わると、乱れた呼吸を整えるように肩で大きく息をした。そして彼女は面食らっている翠を見て我に帰る。

「あっ…すみません、ついカッとしちゃって…。」

急にしおらしくなった沙也加に 翠はどうしようかと迷ったが、大人としての対応を意識した。

「いえ、おっしゃる事はもっともです。でも特別でも何でも無いですから、ご安心下さい。」

それを聞いて沙也加はコロッと態度を改め、先日のようにケラケラと笑い出した。

「そーですよね‼ただココで働いてるからっていう事だけですよね。ヤダ、私ったら、有り得ないってね。まぁ、SHUNさんも上司から女関係禁止されてるし無いとは思ってたんですけど、やたらアナタの名前が出るから万が一とか思っちゃって。」

翠は沙也加の短時間での変貌に全く着いていけなかったが、とにかく早く彼女から離れたいと思った。面倒だと言う理由もあるが、なぜか沙也加と話すと心がザワついて仕方ないのだ。

勇気を出して翠は切り出す。

「ごめんなさい、準備があるのでもう良いですか?」

沙也加は(いぶか)しげな顔で翠を見たが、これ以上話す必要も無いかと思い直す。

「そうですね、お引き止めしまして申し訳無かったです。では、また後程。」

そう言うと、会釈をして沙也加は立ち去った。

翠は入口を解錠して中に入り、セキュリティのスイッチを切った。階段を上がり始めてすぐに両脚から力が抜け、糸の切れた操り人形のようにその場で身体が崩れ落ちる。まるでフワフワと温かく浮かんでいた感情を鷲掴みにされ、遠くへ放り投げられたような感覚。

自分は一体何を浮き足立っていたのだろう。彼の優しさが自分1人にだけ向いているとでも思っていたのか。よしんばそれが今はそうだったとしても、住む世界が違うのだから上手くいく訳がないじゃないか。それに、自分が関わる事で彼だけの問題ではなく、メンバー全員の問題に発展する可能性が高い。彼は1人の男性の前に「SHUN」と言う1つのブランドなのだ。それを失くすようなことは自分には出来ない。有ってはならない。

翠は手摺りを掴んでゆっくりと立ち上がった。流れること無く瞳に留まる涙で視界は歪んでいるが、確実に一歩ずつ階段を昇った。


『トレジャーボックス』のメンバーが入ったのは翠が来てから3時間後で、本番前に最終の音合わせと要所のリハーサルを行う。翠はなるべく持ち場であるカウンターを離れず、特に楽屋には近づかなかった。勿論、今日は古賀が舞台に上がってしまうので自分の仕事が多く ヘルプで入ってくれるスタッフも開場してからの予定なので段取りが大変だという事もあるが、大きな理由としては当然 駿に会うのを避けているのだ。

一方(いっぽう) 楽屋では、案外リラックスしたムードの中 細かい打ち合わせが行われていた。敦がセットリストを確認する。

「ところでシュン、お前もう全部イケんの?」

駿は口を尖らせた。

「なんか、鬼門みたいな曲が有ってさ。それがヤバイ。1回も完璧に歌えたこと無いんだよな…」

「じゃあ、シュンはそれを時間イッパイまで、な。おれはパソコン設置とDTM調整をスタッフとやっとくから、ケンジと、ゆーと、古賀っち は自分の楽器調整しといて。」

いつもは全曲では無いにしろ、ギターを演奏しながら駿が歌うのだが 今回は歌詞もコードも憶えるのは無理と敦は判断し、ギター1を古賀、ギター2とシンセサイザーはDTMで行う。

各自の作業に取り掛かる中、駿は携帯オーディオプレイヤーにヘッドホンを繋ぎ けだるそうに楽屋を出て行った。

その後 しばらく経ってから悠斗も楽屋を出た。ステージのあるフロアに出て、ドリンクカウンターへ向かう。そこで黙々と仕事をしている翠に声をかけた。

「アキラさん、今日早く来たの?」

突然の悠斗の声に驚き、翠は顔を上げる。

「ああ、悠斗くん。そうなのよ、今朝来たの8時ぐらいかな。古賀くんが人がイッパイ来るかもって言うから。」

悠斗はウンウン、と頷いた。

「僕たち入る時はもう外は取材の人とかでイッパイだったよ。」

「え?こんなに早く⁈…よかった、早く来といて。 あ、ねぇ、事務所の人は?言ってないの?」

「ん?言ってないよ。リークした所には口止めしといたし。バレたらライブ出来ないからネタにならないよ、って脅したせいもあるけどね。でも、もう知ってるでしょ、うちの事務所も情報早いから…。どうして?」

翠は悠斗から目を反らし、首を横に振った。

「ううん、何と無く聞いただけだから。」

そう言って翠はカウンターから出て、横に出してある掃除道具の入ったバケツを手にする。

「じゃあ悠斗くん、頑張って。私 まだ掃除があるから行くね。」

「うん、ありがと。僕も戻るよ。」

手を振った悠斗に背を向けて、翠は言った。

「…ねえ、駿さんは今何してるの?」

「駿?あいつはね〜、まだ歌憶えて無いから楽屋で練習してるよ。開演時間ギリまで出てこれないかも、呼んでこようか?」

振り返り、翠は慌てて悠斗を引き止める。

「いいの!用事無いから。昨日話聞いたから、ちょっと気になっただけ。じゃね。」

フロアを出て行く翠を見送り、悠斗は呟いた。

「…僕はここまで。後は頑張れ、駿。」


翠がフロアを出ると、外から沢山の人の声が聞こえた。窓から外を覗くと、そこには黒山の人だかりが見える。『トレジャーボックス』とはこんなにも注目されているのかと思うと 身震いしてしまう。翠は溜息をついて非常階段へ向かった。

非常階段の扉の前で翠は駿と初めて会った時の事を思い出していた。あれから一月(ひとつき)ほどしか経っていないのに、随分前の事のように感じる。そんな感傷を振り切るように勢いよくドアを開けた。

階段を少し上がり始めると、(かす)かな歌声が聞こえる。翠は以前とは違う意味で恐る恐る階段の折り返した先を見上げた。

前回そこには王子様が頭を抱えて独り言を言いながら苦悩していたが、今回は1人のアーティストがヘッドホンをして何やら紙を見ながら小声で歌っている。

それを邪魔する気は無いが、自分の仕事は後回しには出来ない。

翠は悠斗のセリフを思い出し、「嘘吐き」と呟いた。


駿は足でリズムを取りながら、歌詞で間違える箇所や思い出せなかった部分を何度もリピートする。

今回のセットリストは未発表の曲ばかりなので、例え間違ったとしても誰に気付かれる訳でも無いのだが 歌詞が出て来ないのはマズイ。そんな異様な集中力を見せる駿が翠に気がついたのは、彼女が目の前に立ってからだった。

駿は翠を見て 声も出せず ただ驚いたように目を大きく見開いた。翠も駿に声をかけず 彼の言葉を待った。

ばつが悪そうな顔をしている翠に駿はヘッドホンを外して満面の笑みで口を開く。

「…翠さん、久しぶり。」

その顔を見て翠の心臓は締め付けられる。このまま自分の胸に彼の頭を抱きしめたい衝動に駆られた。

込み上げる愛おしさを抑え込み、翠も笑顔を返す。

「そんなに久しぶりでも無いよ。練習してるの?」

「…実はまだ歌詞ちゃんと憶えててなくて。モップと翠さんの2ショットは初めて会った日以来だね。」

そう言って駿は(うつむ)いて笑った。その様子が翠にはどこか不安げに見えた。

「あの…大丈夫?」

「えっ?何が?」

パッと顔を上げた駿から翠は思わず目を反らす。

「いや、あの…昨日悠斗くんから大変な目に有ったって聞いたから。」

「大変な目…あー、ああ!知らない(ひと)がウチに居たやつか。いや、その事なら大丈夫、もう平気だから。」

駿の言葉尻を掴むように翠は続けた。

「その事以外なら大丈夫じゃ無いことがあるの?」

その翠の言葉に駿は動きを止めた。何か驚いたような、意外な事を言われたような表情。翠が首を傾げると、駿は慌てて返答する。

「あっ、その、歌詞がホラ微妙だから心配で。本番までに完璧にしたいけど、無理そうだなって…。」

「駿さんなら大丈夫だよ。」

翠は優しく駿を元気付けるが、彼は先程と同様の顔をした。

「いやぁ…今回は本当に大丈夫では無いかも。1曲すげームズイ曲有ってさ、全然ダメ。」

弱気な駿を初めて見た翠は、とにかくフォローに徹した。成功して欲しいし、自信を持って臨まないと 上手くいくものもいかないと激励する。

「そんな弱音吐いちゃダメよ。私が大丈夫って言ったら大丈夫。」

駿は頬杖をついて斜めに翠を見上げた。

「…ホントにぃ?じゃあ大丈夫だったら翠さん何かご褒美ちょうだい。」

「い、良いよ?その時は…そうね、何が良い?何でも好きな物を(おご)るとか?」

そうだな、と駿は暫く考えてから、自分の両膝を叩いた。

「俺さ、もうすぐ誕生日なんだ。そん時にプレゼントちょうだい。あ、そうだ、この前アロマの何かくれるって言ってたヤツ。あれちょうだいよ。」

「誕生日なのにアレでいいの⁈ でもアレは元々あげる約束だったしな…。あ、それじゃお高く無い食事ならお付けしましょう。」

これでどうだ、と言わんばかりの翠に、頬杖をついたまま駿はニヤリと笑ってから立ち上がった。

「約束したよ?俺、翠さんを信じて頑張るから。じゃあ戻るね。」

階段を降りて来た駿とすれ違いざま翠はふと気になった。

「あ、ねぇ。誕生日はいつなの?」

踊り場から階段へ降りかけて駿は立ち止まり、素の顔をして振り向く。

「12月24日。」

「えっ⁉Xmasイヴ⁈」

何故かしてやったりな顔をして駿は階段を降りて行った。

「その時は、予約しないと無理じゃん…。」

そう呟いて、ただでさえ特別な日に約束してしまった事に翠はしばらく呆然と立ち尽くした。


階段を降りながら駿は溝落ちあたりをさすった。

「緊張した〜…。」

悠斗から指示された作戦とはいえ、こんなに翠が予想通りの言動を取るとは思っても見なかった。多少の誘導はかけたものの、結果約束を取り付けるという目的は完璧に果たしたのだから やはり悠斗は凄い と駿は改めて感心する。

駿が楽屋に戻ると、古賀が待っていた。

「あ、SHUNさん。もうリハ始めるみたいですよ。皆もう行ってますから。」

「そっか、じゃあ俺らも行くか。」

ヘッドホンを机に置いて、楽屋を出ようと駿がドアノブに手をかけた時 古賀が唐突に言った。

「アキラさんも多分SHUNさんのこと好きですよ。」

駿は手を離し、ゆっくりと古賀を振り返る。古賀は続けた。

「直接聞いた訳じゃないので「多分」なんですが、態度で分かるっていうか。ほら、アキラさんて正直な人じゃないですか。オレ、ここんとこ忙しくて協力するとか言いながら何も出来てないですけど…」

「…サンキューな。大丈夫、俺も簡単に諦めるタイプじゃないし。全然焦ってないから。」

古賀は余程 気に病んでいたのか、その駿の言葉に安堵の笑みを浮かべた。

「さ、行こう!」

駿は古賀の背中を叩いてリハーサルへ向かった。

そうだ、焦ることはない。

自分に言い聞かせるように駿は心の中で繰り返していた。

ステージに現れた駿を見て、悠斗は小走りで側にやって来た。

「ちゃんと自信ないふり出来た?」

「フリじゃなくリアルに自信ねーよっ!」

駿は悠斗を冗談で軽く突き飛ばし、センターに立った。



開演前、すでにフロアは客やマスコミ、雑誌関係者で満員で カメラを持つ報道関係者は細い脚立の上でスタンバイしている。客の殆んどがステージのライトが点くのを今か今かと前のめりになっていて、飲み物を取りに来る客足も落ち着いた。玲奈も友達と観に来てくれたが、丁度こぞって客が飲み物を取りにきている時と重なり 忙しいそうな翠に遠慮して挨拶だけしに来ると客席に紛れてしまった。

その後しばらくして翠はひと段落し、ヘルプのスタッフも自分の持ち場へ戻った頃 カウンターに橘が現れた。

「先日はどうも。盛況ですね。」

にこやかな橘を見て翠は何を言って良いか分からなかった。今朝 沙也加が言っていた通りなら彼も知らされて無かったのだろうか。橘は翠のその微妙な顔を見て察知する。

「ああ、今朝うちの遠藤と話をされたんでしたね。わたしはつい先日 駿くんから聞かされてはいたんですが…」

橘が本人の口から聞かされていた事に翠はホッとした。彼が言うには、あのストーカー事件の日に駿から全ての経緯と計画を聞かされたらしい。ただ、あくまで会社には内密で橘を1人の人間として信頼した結果だったようだ。

橘は意外な事実を口にする。

「まぁ、会社は別として、わたしとしては行く行く彼等の系統を修正していくつもりだったんですが。プライドを持ってやって来た事を、事務所に所属するからと言って無下に否定も出来ないので 時間をかけてと考えていた矢先にこんな形で、ね。」

サラリと凄い事実を聞かされ、翠は尚更どんな顔をしていれば良いのか迷う。そういえば、と橘は話題を変えた。

「遠藤から聞きました、彼女わたしには結論しか報告しませんでしたが あなたにかなり失礼な事を申したのではないでしょうか。申し訳ありません。」

「あ、いえ、そんな事は…」

翠の返事に橘はニッコリと笑う。

「そうですね、あなたは大人だ。何と言えばその場を波風立てず治める事が出来るかを分かっていらっしゃる。困ったもので 遠藤はまだそれが分かっていないようです。彼女、駿くんとあなたの事は自分の力で関係を断ち切ったと思ってますからね。遠藤があなたと何を話したかは憶測でしかありませんが、ただ…遠藤が言った事は正論だと思います。」

「…私もそう思います。」

力無く翠がそう言った時、フロアの照明が消えてステージに眩しい程のバックライトが点いた。前からのライトが無いそのままで1曲目が始まる。黒く人物の(かたち)しか見えない中で客席は大歓声を上げた。

聴き覚えのある短い1曲目が終わり、ステージへ向けた全てのライトが点灯すると駿がMCを喋り出した。

「どーも皆さん、初めまして今晩わ!僕たちは『ミミック』と言います。最初に聞いて頂いたのは『トレジャーボックス』さんのアルバムに収録されているインストに僕が勝手に歌詞をつけちゃった曲です。え〜、ですが、この後聴いて頂く曲は全てオリジナルですので、皆さんが1つでも「これ良いな」って思って貰えると嬉しいでーす!そいじゃ、僕の話は終わり!ここからノンストップで行きましょう!」

合図ですぐ次の曲が始まった。客席はいつもとキャラが違う駿のMCで完全に盛り上がり、聴いた事も無い次の曲でさえ大いに楽しんでいる。

橘はステージを見ながら翠に言った。

「ライブの見せ方なんかも駿くんが考えるそうですよ。今ので掴みはOKですからね、ここからどんどん盛り上がりますよ。彼はただの歌い手ではなくエンターテイナーなんです。そのカリスマたるや… 残酷なことを言いますが、あなたは彼をあれ以上に成長させる事ができますか?普通の男女ならば好き合っているだけでいいが、彼は普通の男では無いんですよ。」

本当に残酷だ。分かっていると言っているのにまだ釘を刺すのか。橘の話は続いたが、聞きたく無いという気持ちが塞いでしまったのか 翠の耳にはもう入っていく余地が無い。

最後はどのように橘が去ったかも分からないまま、翠はただステージを見ていた。そしてフツフツと怒りのようなものが込み上げる。だいたい、なぜ勝手に自分と駿の関係を決め付けるのか。確かに自分は駿に惹かれているかもしれないが、駿にとってはとんだ言い掛かりだ。彼は優しいだけだ、勘違いしてるのは私だと何度も自覚している。それなのに、他人にとやかく言われる筋合いは無い。

アレコレと考えて翠の頭から湯気が出そうな頃、『ミミック』は最後の曲を終えてステージ上に横一列に並び 向かって左端の駿が本名でメンバー紹介をする。ギター 古賀 博から始まり ベース 武田 憲司、キーボード 曽我部 悠斗、ドラムス 中邑 敦。

「ボーカルは田邊 駿でした、有り難う!」

そう言ってステージからはける時、駿は間違いなく翠に向かって手をピストルのようにして撃ち、瞬きのようなウインクをしてニッと笑った。

「⁉」

その瞬間 翠のモヤモヤした感情は吹き飛び、代わりに動悸が激しくなる。

なぜ駿に狙撃されたのかがすぐに理解出来ず、ただドキドキしている翠に構わずフロアの照明が点き再び容赦無く持ち場の仕事が忙しくなった。

押し寄せる客に飲み物を提供していると、注文を待っている女性客同志が話している内容が聞こえる。

「全部良い曲だったよね〜?」

「うんうん!私さ、今までATSUSI押しだったけど今日Uくんメッチャかっこ良く無かった⁈」

「わかる〜!服装も格好良かった!でもやっぱり凄いのはSHUNだよ、カッコイイし 歌も完璧だったし。中に「これ、カラオケ入っても絶対歌えない」って曲有ったよね。」

そのやり取りを耳にして翠は非常階段での事を思い出した。

「あ…ご褒美かっ…」

今日は色々な出来事が有りすぎて 翠はずっと脳みそがパンクしそうだったが、約束を思い出した今は もはや全てを忘れ、果たして何処を予約すればいいのかという事で頭が一杯になった。


ライブを終えてメンバーが楽屋に戻ると、そこに橘が待っていた。

「皆、お疲れ様。手応え有ったな。」

そう言って橘と駿は握手する。駿は汗で貼りついたシャツを着替えながら橘と話を続ける。

「ですが今すぐ『トレジャーボックス』の路線は変えませんよ。ファンの事も有りますし、写真集も基本ビジュアル系でまとめて1部プライベートショット的な物を差し込む形でお願いします。あと、アルバムなんですが…」

次々と駿が話していく要望を 橘は一語一句漏らす事なく手帳に書き留める。話が途切れた時にふと橘は聞いた。

「今回の楽曲はどうする?録音してあるからライブアルバムとして発表するか?」

それを聞いた敦が離れた所から声をかける。

「しませんよ。そうだよな、駿。」

駿は敦の言葉に頷き、橘に言った。

「はい、発表しません。ライブの内容は衛星番組の一部がフルで放送するみたいですし、話題作りでこれ以上金儲けは売名行為でしょ?イメージ悪い。あくまで今回のライブはファンの為のサプライズって事で世間が見てくれた方が都合良いんで。僕らも、もし今回のことをインタビューされても「ただ面白い事したかっただけ」と言うことにしてますから。」

橘は惜しむような顔をしたが、わかった、と納得した。そして駿だけでなくメンバー全員に指示を出す。

「今回のライブで素顔を晒した訳だから、今まで以上にプライベートは慎重にね。」

全員に、と言うのは事実だが 橘が他でもなく駿に言っているのは誰が見ても明白だった。

橘が楽屋を出て行くと、古賀も何か用事があると言って後を追うように出て行った。

駿が神妙な顔つきでタオルを首に掛けて椅子に座ると、隣に憲司がやって来て座り 駿にミネラルウォーターを渡す。

「…お〜、サンキュ。」

すぐにキャップを捻り駿は水をひと口飲んだ。

「…駿、オレさ、確かに お前がウチの顔だって言ったけど…ホントはそんな建前どーでもイイから。お前自身が後悔しない道選べよ。」

それだけ言って憲司は立ち上がり、駿の背中をポンと叩いて戻って行った。

その様子を見て敦と悠斗は顔を見合わせる。何か言いたげな敦に悠斗は首を横に振った。



『ミミック』のメンバーだけでの打ち上げという名の飲み会を終えて 駿が今日から泊まるホテルへ戻ったのは午前3時を回った頃だった。

部屋に入り、コートをベッドの上に放り投げるとポケットからスマートフォンが滑り落ちた。駿は眠い目を擦りながら面倒くさそうにそれを拾うと、電源が切れていることに気づく。

「あれ?携帯いつから電池切れてたんだ…」

ウロウロと部屋の中を探し回って やっと見つけた充電器に差し込み ベッドに寝転ぶと、駿は電源を入れた。凄い数の新着メールを半分寝ながら開いてみると、見に来てくれた友人や知り合いからのメールが沢山届いている。その中に翠の名前が有るのを見つけて駿は目を見開いた。なにせ初めて翠からメールを貰ったのだからテンションも上がる。他のものには目もくれず翠のメールを開いた。

[件名:翠です。

本文:今日はお疲れ様でした、すごく良かったです。お客さん達もとても感動していました。さて、お約束の件ですが 何か食べたい物などご希望はありますか?予定の日がクリスマスイブですから予約が必要かと思いますので、お忙しいとは存じますが なるべく早めにご返答下さいませ。]

メールを読み終えてフフッと駿は笑った。

「堅いな〜…。まぁ 翠さんらしいっつーか。」

すぐに返信をタップし、即効で文章を打ち終えて送信すると 駿はそのまま眠りに落ちた。





つづく


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