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風邪気味

作者: 竹仲法順

     *

「ゴホンゴホン」

 喉がイガイガして咳が出る。風邪を引いているのだった。今日も本当なら自宅マンションにいて、ベッドの中でゆっくりと眠っていた方がよかったのだが、大事な会議などがあるので無理を押して出社してきた。風邪薬は市販のものでビン入りだったが、携帯している。俺もこの冷え始める季節、風邪を引くことがあった。毎年のように風邪の症状が出て、出端で止まっているのだが、今年の風邪は一際性質が悪い。

「課長、大丈夫ですか?」

「ああ。この程度の風邪なら平気だ。風邪薬も持ってきてるし」

「あまりひどいようでしたら、病院に駆け込んでくださいね」

「うん。気遣ってくれてありがとう。でも現時点でそこまではひどくないよ」

「だといいんですけど……」

 部下で課長補佐の前原がそう声を掛けてくる。俺も応じるようにして課内で仕事をしていた。ずっとパソコンに向かいながらキーを叩く。大事な書類等を作成する必要性があるからだ。風邪を引いたぐらいで会社は休めない。何かあった時の場合に備えて有給などは使っていなかったのだし、風邪も移れば他人の迷惑になるのだが、別に現時点で症状がそこまでひどいことはない。

 午後からの会議前に昼食を取る。ゆっくりする時間は食事休憩の時ぐらいだ。後はずっと仕事が続く。だが逃げないつもりでいた。目先の多少のことに対しては目を瞑る。別にこれと言って気にならないのだし……。俺も未だに学生時代の貧乏性が続いていた。部屋やトイレで使うティッシュなども節約していたのだし、昔からそういった生活感で来ている。その日も鼻を噛むためにポケットティッシュを持ってきていたのだが、枚数が限られているので、極力少ない枚数ずつ使っていた。それに咳をしないよう注意する。周囲の人間が不快になるからだ。

     *

「山橋君」

「はい」

「君、顔色が悪いね。風邪でも引いたの?」

「ええ。……なぜ社長はお分かりで?」

「そりゃ君と私とじゃ年齢差があるじゃないか。私なんか、過去に風邪引いたまま出勤してきた人間なんかいくらでも見てきてるよ」

 社長の岡口は六十代後半で昔の人間だったが、よく人間を見ているようだった。俺の風邪の症状などを一発で見抜いたらしい。

「無理を押してきたんだね?」

 と岡口が訊いてきたので、

「ええ」

 と答えるしかなかった。さすがに一つの上場企業を束ねる社のトップだ、人間を見る目は鋭い。俺もその指摘通り、今日の午後からの会議のため、無理を押してきたのだから……。

「風邪に効くいい栄養ドリンクがある。後で一本あげるから、飲みなさい」

「ありがとうございます」

 俺もそう返し、すぐに会議室へと向かった。岡口も続いて部屋へと来るようだ。ゆっくりとしていて言動が落ち着いている。俺も四十代で妻帯していたのだが、子供はいない。いつも妻の多佳子には世話を掛けていた。妻は三十代後半だったが、妊娠した兆候はない。俺も子供がいないならいないでいいと思っていた。現段階では、夫婦二人での生活が一番いいのだから……。

     *

 前原が会議で使う資料等をパネルに提示し、俺や岡口がそれを見始める。普段からずっとキーを叩きながら、そういったものを作っていたのだし、部下たちもしっかりとやってくれていた。昼食を取り終わってから、風邪薬を飲んだのである。今、若干喉が痛む程度で済んでいた。俺も人間だから過労が響けば風邪などを引いたりする。それにしても社会人になってから久々に本格的な風邪を引いてしまった。

「……山橋君」

「はい」

 会議の途中で岡口が囁いてきた。俺も呼びかけられたので応じる。

「会議が終わったら、すぐに社長室に来なさい。さっき言った通り、風邪に覿面効くドリンクを一本あげるから」

「お気遣いありがとうございます」

「そんな改まった言葉を使わなくていい。俺も昔風邪引いてて、肺炎になりかけたことがあるんだ。そのとき先代からドリンク剤をもらった。確か当時の価格で四千円ぐらいだったと思う。今はそんな値段のドリンクなんかほとんど売ってないがね」

 驚いた。四千円もするドリンク剤があったのである。俺もそういったものは想像がつかなかった。だが実際あったのだから、びっくりしている。岡口が俺にくれるドリンクは一本がいくらなのだろう……?多分、三千円以上はするものと思われた。この会社で舵を取る人間なら、それぐらいのものは簡単に用意できるだろう。俺も甘えるつもりでいた。風邪を引いている事実に変わりはなかったのだから……。

     *

 会議終了後、岡口が普段いる社長室に行った。課長の俺もほとんど社長室などに入ることがない。デスクトップ型のパソコンが一台置いてあり、マウスやプリンターなども併設されていた。さすがに社長室に来たことはほとんどなかったのだし、岡口が普段どんなことをしているのか、気になっている。おそらくパソコンを立ち上げてネットに繋ぎ、メールボックスに届いている資料や書類などの文書を読み続けているのだろう。

 さっき食後に薬を飲んでいたので、少し症状は治まっていた。だが風邪は治りかけにこじらすことが多い。特に俺のような働き盛りのサラリーマンは夜でも無理して仕事をするので、疲れてしまう。こういった風邪気味の時は早めにベッドに入った方がいいのだが、そうも行かないのだ。

 その夜、帰宅した後も多佳子が、

「あなた、風邪引いてるんでしょ?無理しないで寝たら?」 

 と言ってくるのだが、俺も、

「気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫だよ。何とかなる」

 と返す。

「あまり無茶しないでね。ちゃんと風邪薬飲んだでしょ?後はなるだけ睡眠取って」

「ああ」

 俺も仕事が溜まっている夜は、どうしても無理してしまう。サラリーマンとして働き続けている以上、気を抜けなかった。健康には気を遣うつもりなのだが、仕事の方を優先してしまうのだ。今日すべきことは今日中に、と思っていたからである。それが仕事で最前線にいる人間の実態だ。別に昔も今も変わりなかった。さっき岡口からもらっていたドリンク剤を一本飲み、幾分回復している。

 多佳子は寝室で眠っているようだった。俺もずっとキーを叩き続ける。パソコンは使い慣れていたのだし、新しいOSは何かと使い勝手がいい。どこの企業も順次導入するようである。俺も新品を一台支給してもらって、それを使っていた。普通のパソコンに加えて、タブレット型のマシーンも一台もらっている。外で仕事をする際、便利だった。

 ずっと深夜から明け方の午前四時前ぐらいまで作業する。苦になることはなかった。単に午前四時過ぎから午前七時ぐらいまで仮眠を取れる時間が最高に気持ちよかったのだし……。起き出すと、多佳子がすでにキッチンに立ち、朝食を作っていた。トントンと包丁が鳴る音が聞こえる。そしてコーヒーも一杯淹れてくれているようだった。

「……おはよう」

「ああ、おはよう。……あなた寝不足でしょ?」

「まあな。明け方まで作業してたし、しんどかったよ」

「風邪治った?」

「うん、だいぶね。薬飲んで、快適になったし」

「そう。よかった」

 妻はいつも笑顔でいる。俺に生気がない時でもサポートしてくれるのだ。人生の伴侶――、まさにその通りだろう。俺も多佳子がいないと、苦痛でしょうがない。子供こそいないにしても、夫婦二人で歩いていけるのだった。朝食を二人分用意し、揃って食ベる。ささやかながら、家庭の幸福と呼べるものだった。近所にも嫌な人間はいるのだが、別に何も言ってこない。この街の自治会など、あってないようなものだからだ。

     *

 俺もその日、変わらず出勤する。カバンにノートパソコンやデータの詰まったフラッシュメモリ、作成した書類などを入れ、家を出て歩き出す。会社に行けばきついことだらけだ。俺も出社すれば、ずっとパソコンのキーを叩き続ける。やはり無理は祟るのだ。仕事しながらそんなことばかり考え続けていた。だがドリンクと風邪薬でだいぶ調子がいい。フロア内は絶えず慌しかった。もうすぐ十一月であっという間に年末がやってくる。また年の瀬になるなと思いながら、欠かさず出勤し続けた。

 一週間ほどで風邪が治った。長引いたのだが、侮れない。万病の元だからである。無理しないでしばらくは夜ゆっくりしようと思っていた。多佳子と一緒のベッドに眠りながら、寛ごうと考えている。俺ぐらいの働き盛りのサラリーマンは一々病院に行かずに、市販の風邪薬や岡口がくれたドリンク剤程度で凌ぐ。ずっと仕事が続いていたのだが、休む時間になれば、ある程度休んでいる。

 夜は多佳子と抱き合いながら一夜を過ごす。別に気にしてなかった。俺も生身の人間だから、妻に対し愛情を注ぐのは当然だ。別に不自然なことじゃない。極自然だった。昔学生時代から金に困ることは多かったのだが、今は違う。会社で課長職にいる以上、給料もかなり取っていた。一部を貯蓄し、将来困らないようにしようと思っている。俺もささやかながら、そういった幸福感を味わえているのだった。今回の風邪引きは想定外のことだったが、仕事にメドが付けば、無理しないでゆっくりしようと思っている。現に公私共に余裕が出来つつあるのだし、会社に行ってもパソコンのキーを叩くのが俺の仕事だ。   

 多佳子と体を重ねながら、ゆっくりと夜を過ごす。愛妻を抱けるのはとても愛おしい行為だったし、俺もずっと仕事しながら、想うこともたびたびあった。いつもは職場と家じゃ離れているのだが、別に気に掛けてない。ふっと立ち止まることもあった。歩き疲れたときは太陽を見ることにしている。それで気分が変わるのだ。一つ深呼吸すれば、街の空気が肺に入ってくる。通常通り業務は続く。風邪が完全に治ってしまった後でも。

                           (了)


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