鳥羽とさくらとナポリタン
「よう、さくらちゃん」
マスターと呼ばれる初老の男は、にっこりとさくらに笑いかけた。
「どうも……て……っ!」
さくらの後について店に入った鳥羽が、マスターの顔を見て絶句する。
マスターはさくらの見ていない所で、意味ありげに鳥羽に目配せをした。
店内は満席で、マスターは客の応対に追われている。
「あっ、マスター、私もお手伝いします」
そう言ってさくらは上着をぬいで、カウンターに立った。
さくらは手際よく洗い物をすませて、客の注文を取りに行く。
鳥羽はそんなさくらを目で追った。
くるくると良く変わる表情ときびきびとした動作、客への対応や心配り。
(うむ、悪くはない)
鳥羽はふと、さくらが近い将来に自分の横に立ち、仕事関係の客人の接客をしている様を思い描いて微笑んだ。
「なにをニヤけているんです?」
いつの間にかマスターがカウンター越しに鳥羽の前に立っていた。
「あっ、いや……」
鳥羽は少し照れたように赤面し、小さく咳払いをした。
「もうっ、鳥羽さん! 店忙しいんですから、ちょっとくらい手伝ってくださいよ」
さくらはそういって、鳥羽の前にエプロンを差し出した。
「なに?」
鳥羽はあっけにとられたように、ぽかんと口を開けた。
「お前、天下の鳥羽建設の御曹司をなんだと思っていやがる」
「知りませんよ、そんなの。でも誰かが困っているとき、それを助けるのは人として当然のことでしょう?」
そういってさくらは腰に手を当てた。
二時間後、ようやく閉店を迎えたこの店のカウンターに、鳥羽がげっそりとした表情で寝そべっていた。
「お疲れさまです」
そういってさくらは鳥羽に珈琲を差し出した。
「は~、旨い」
鳥羽はさくらの淹れた珈琲を一口飲んで、大きく息を吐いた。
体は疲れていたが、不思議と心は軽かった。
それどころか無報酬のこの労働に充実感すら感じている自分自身に鳥羽は驚いた。
ここは不思議な空間だった。
寒さと疲れに少しこわばった表情ではいってきた客が、マスターの珈琲を飲んで笑顔で帰って行くのだ。
確かに鳥羽はそこに妙な達成感を感じたのだった。
さくらもまた、そんな客の表情を隣で嬉しそうに眺めていた。
他人の笑顔というものを、鳥羽はずいぶんと久しぶりに見たような気がした。
生まれ落ちた境遇のゆえに、自分は大会社の御曹司という肩書を持ってはいるが、
それは自分で掴み取ったものではなかった。
そしてまた大会社の舵取りは、鳥羽にとって決して楽しい事ではなかった。
会社を守るためには、業績が悪化すれば台規模なリストラをすることを余儀なくされ、
その地位を守るためには、数多のライバル社だけではなく、血のつながった親戚や家族とも死に物狂いで戦わなければならなかったからだ。
だからこそ、自分に向けられた客の笑顔が純粋に嬉しかったのだ。
「さくらちゃんも鳥羽君もありがとう。お疲れさん。これはほんの私からのお礼だ」
そういってマスターはナポリタンの皿を二人に差し出した。
「うわー美味しそう」
さくらは舌包みを打った。
口の中に仄かに広がるトマトの酸味が絶妙だ。
「お前、よく食うなあ」
さくらの食べっぷりを鳥羽がやたらと甘い眼差しで見つめていた。
「あたしたち総務の下っ端は、なにせ体力勝負ですからね。食べれるときに食べておかないと体がもたないんれふ」
ナポリタンを口に頬張りながら、さくらが言った。
「はっはっは、そうか、そうか。お前を見ているとどんどん食べさせてやりたい気持ちになる」
「いや、でもさすがにこれ以上は……さっきハンバーガーも食べたし」
さくらは目を白黒させながら、鳥羽を見た。
そんなさくらに鳥羽は思わず微笑を誘われる。
「ではマスター、デザートは俺からのプレゼントということで、なんかある?」
「エクレアがまだ確か残っていたはず」
マスターはそう言って、硝子のショーケースを覗きに行った。
「わーい、甘いものは別腹です」
そういって無邪気に笑うさくらの顔に、鳥羽の顔が近付く。
「えっ?なに?」
鳥羽から表情がすっと消えた。
少し色素の薄い前髪がはらりと散って、硝子玉のように透き通るダークグレイの瞳がさくらだけを映しこむと、さくらの心臓が不用意に跳ねた。
微かに香水の匂いが鼻を掠め、一瞬眩暈を覚えた。
「ケチャップ……ついてる」
鳥羽の指がさくらの唇に触れた。
「なっ……なっ……なにするんですか!」
さくらは真っ赤になって鳥羽を突き飛ばした。
「いっ痛ぅ」
壁で強かに頭を打ちつけた鳥羽が涙目でさくらを睨んだ。
「お前、この俺の立場を理解してる?」
不意の出来事に一瞬理性が吹き飛んださくらの意識下に、再び『接待』の二文字が浮かび上がった……しかし……。
「でも、でもだって、これは明らかにセクハラで……」
さくらは口ごもった。
マスターはおやと言う風に少し眉を怪訝そうに吊りあげて、鳥羽の前にショーケースから取り出してきたエクレアを置いた。
「うん? セクハラ? なんのこと?」
鳥羽は余裕しゃくしゃくと微笑を浮かべた。
「この分の償いは来週の日曜日のデートで手を打つ」
「なっ、なっ、なっ……」
呆気にとられてぽかんと口を開けたさくらに、鳥羽はフォークに突き刺したエクレアを放りこんだ。
「むがっ」
さくらはエクレアとともに、鳥羽への抗議の言葉を呑みこんだのだった。