その男、要注意人物につき
「しかし……」
初老の男の目に一瞬狡猾な光が宿った。
「この話がまとまれば、鳥羽建設の次期後継者にはあなたが指名されることになる」
革張りのソファーに組んだ足を組み変えながら、初老の男が総一朗を見据えた。
「はあ……まあ…それは一族の決まりごとみたいなものでして、社長に就任するためには30歳の誕生日までにどうしても伴侶を娶らなければならないのです」
総一朗は気が重そうに小さく溜息を吐いた。
自身が30歳を迎える日まで、あと三カ月をきった。
この日を見越して、今までありとあらゆる努力はしてみたのだ。
いくつもの見合いクラブにも入会したし、金にものをいわせて名の通った仲人のもとにも何度も通った。しかし……無理だった。
あの何ともいえない殺気立った、人のことを獲物みたいにぎらぎらと値踏みする目が、媚びた口調が、塗り壁のごとき厚化粧が、きつい香水も、なにもかもがいたずらに総一朗の恐怖心を煽りたてた。
総一朗は大概の女性と一緒にいると、三分立てば体中に鳥肌が立ち、五分で吐き気がこみあげて限界な状態になる。
「この呪われた体質から、救っていただけるのなら、その報酬は惜しみません」
総一朗は目の前の老人の手を握りしめ、涙ながらに訴えた。
◇ ◇ ◇
やがてドアのノックとともにさくらが珈琲を持って入って来た。
「失礼します」
と目礼をして歩き出した瞬間である。
さくらは絨毯に足を取られてつんのめった。
「あっ」
さくらの悲鳴が喉で凍りつく。
その光景がスローモーョンでとさくらの脳裏に刻まれる。
手に持つ盆からティーカップが空を舞った。
さくらは思わず息を呑んだ。
そして……。
ティーカップから琥珀色の液体が……液体が……。
哀れ、総一朗の股間にまともに直撃した。
「熱っう!!!」
総一朗が飛び上がり、必死の形相で股間を押さえている。
「あのっ、すいませんでした」
さくらは慌ててハンカチを取り出し、それを拭こうと手を伸ばす。
「い……いや、いいからっ」
総一朗は顔を赤らめて後ずさった。
「あの、あたし氷とってきます」
そういってさくらは走って給湯室に走って行った。
(俺っ、格好悪っ)
ソファーに寝そべり、天井を眺めながら総一朗は深い溜息を吐いた。
そんな総一朗を、意味ありげに横目でみながら初老の男が言った。
「ではこの老いぼれめは退散することにいたしましょう」
総一郎は焦ったように、初老の男を呼び止めた。
「待って下さい、社長。この状況をわかっています? このままではこの話はまとまりません。彼女は僕を恐らく好きにはならないでしょう」
初老の男は満足げに、笑った。
「ふぉっふぉっふぉっ……ですから良いのです。自分に色めきたった女性は苦手なのでしょう? だったら、自分にその気のない女性を口説き落としてみなさいな」
「うぐ……」
総一朗は押し黙った。
「では、健闘を祈っております」
そういって初老の男は一度だけ総一朗を振り返り、部屋を出た。
部屋にひとり残された総一朗は、むっつりと黙りこんだ。
(さて……どうしたものか)
熱さはもう感じなかったが、スーツのズボンはまるでお漏らしをしたみたいな染みになってしまっていた。
こんな格好では、もはや女を口説けるわけはない。
総一朗はまたも溜息を吐いた。
そのとき、ドアをノックする音とともにさくらが部屋に入って来た。
「あの……氷です。もしよかったら冷やしてください」
そういってさくらは総一朗にビニール袋に入った氷を手渡した。
「いや、もういいよ」
総一朗はさくらにそれを突っ返した。
「そうですか……ほんとうにすいませんでした。ではせめてこれを」
そういってさくらは五千円札を総一朗に渡そうとした。
「クリーニング代です。えっと、今財布に持ち合わせがこれしかなくって、もし、もっとご入り用でしたらすぐにATMに走ります」
さくらは愁傷気に頭を下げた。
「いや、いらない」
総一朗はふいと顔を横に向けた。
「こんなことじゃ、僕の怒りはおさまらない」
ダークグレイの総一朗の瞳が冷たくさくらを射抜いた。
さくらは恐怖に身をすくませた。
全身の血の気が引いていくのがわかる。
「あの……では一体どうすればよいのでしょうか?」
青ざめた顔でさくらは総一朗を見た。
悪魔という生き物がもし実在したなら、きっとこういう顔をしているのかもしれないとさくらは思った。
美しく整い過ぎた、あまりにも冷たい容貌。
うちの会社の最大手の取引先の社長令息。
総一朗がさくらの腕をつかんだ。
「そうですね、では僕の奥さんになってください」
総一朗がさくらを見つめてにっこりと笑った。
「はっ?」
さくらの目が点になる。
「僕の奥さんになってくださいといったんです。日本語わかりますよね?」
総一朗に爽やかに微笑まれて、さくらのこめかみにプチっと怒りの血管が浮き上がった。
「ええ、わかりますとも。では御返答を……」
さくらはこほんと咳払いをした。
「お断りいたします。そういうお話は股に染みのないときにおっしゃらないと様になりませんものね」
さくらはにっこりと微笑んだ。
総一朗は首筋まで真っ赤になって、さくらを睨んだ。
「だっだっ誰のせいだと思っているんだーーー!!!」
さくらはこのとき知らなかった、自分がなんの違和感もなしに総一朗と3分以上話をしてしまったことを……。
そしてこれがさくらにとって新たな受難の始まりであったことを……。