OLのブルース
「ふぁ……眠っ」
さくらは給湯室で大きな欠伸をひとつした。
結局昨夜は終電で帰宅することになってしまい、就寝時間は深夜になってしまったのだ。
寝不足のため、頭にぼんやりと霞みがかかったようで、いまいち調子が出ない。
シンクの前にある鏡に映る自分の顔には、クマがくっきりと出てひどいことになっている。
そこに女子社員が二人やって来た。
広報課の北沢と御村である。
彼女たちはさくらの後輩に当たるのだが、地味に日々雑用に埋もれるようしてに生息するさくらとは違い、その容姿とポジションから男性社員の視線を日々集めているのである。またその仕事柄、社内の情報に関して、隅から隅まで知り尽くす恐るべき情報網を持っていた。
「おはようございます、望月先輩。あれ? 寝不足ですか……さては……」
北沢がそういってニヤリと意味深に笑った。
「さては……ってなによ?」
心外そうな顔をして、さくらが北沢を見た。
「もうっ彼氏さんと……でしょ?」
そういって御村が興味津津といった顔つきでさくらの顔を覗きこんでいる。
両腕で挟んだ格好になった御村の巨乳が、ゆっさゆっさと揺れている。
さくらはそんな彼女たちの視線に、溜息を吐きたい衝動に駆られた。
自分には現在、恋人がいない。
別にそれを恥じだとは思わないが、なんとなくそう白状するのは気が引ける。
かと言って、見栄を張って『そうよ! 私彼氏とヤリまくりなの!』とはさすがにいえない。
女二十五歳の微妙なプライドを取るべきか、しかし迂闊なことを言って、彼女たちに変な噂を流されても困る。
さくらはその場でしばらく考え込んだ。
「……先輩? 望月先輩?」
「え? ああ、はい」
名前を呼ばれて、さくらはしどろもどろに答えた。
「まあそんなことはどうでもいいのですが」
北沢が急に話題を転換させた。
(っていうかどうでも良かったんだ……)
さくらは、うっと言葉を呑みこんだ。
「さっき私、エントランスでツンデレ王子を見ましたよ」
御村が声を落とす。
「は? 誰それ?」
さくらが間の抜けた声を出した。
「もう……一級建築士の鳥羽さんですよう。うちの会社の女子社員はみんな熱を上げてるんですよ」
そう言って御村は徐に口紅を取り出した。
北沢も鏡の前で髪をとかしだす。
「本当に稀に見るイケメンですもんねぇ~。鳥羽さん」
そういいながら、御村はせっせと脂取り紙で顔を抑え始めた。
「しかもうちの会社の取引先の中で最大手の鳥羽建設のご令息ときちゃあ、女はみんな色めきたちますって」
北沢はうっとりと溜息をついた。
(なんだろうこの秋波は……)
さくらは彼女たちに口を挟めず、恋する乙女というよりは、むしろ獲物を前にした猛獣のような殺気って、きっとこんな感じなんだろうなと、なんとなく思った。
そこに部長が額に汗を噴き出しながら走って来た。
「は~、ひー、は~、ひー……望月くん、ここにいたのか。うちの取引先の鳥羽建設から大事なお客様が来られたのだが、至急応接間にお茶を持ってきてほしい」
部長の発言に、その場の空気が凍りついた。
後輩たちの視線が痛いと感じるのは、けっしてさくらの思い過ごしではないはずだ。
「どうして望月先輩なわけ?」
「窓際総務なんて、所詮お茶を汲むくらいしか能がなのよ」
それは小声であったけれど、しっかりとさくらの耳に届いていた。
あからさまな悪意というものは、ときどき対処に困る。
言葉を返せば、きっと何倍にもなって攻撃されるだろう。
しかしこのまま黙っていることも、辛い。
さくらは重い溜息をひとつ吐いて、その場を後にした。
◇ ◇ ◇
「話はすでにあなたのお父上から聞いていますよ。鳥羽総一郎くん」
応接室の革張りのソファーに腰かけ、初老の男は目の前のイケメンをじっと見つめた。
少しだけ色を抜いた、さらりとした前髪をワックスで流し、二重のくっきりとした瞳はダークグレイで、その顔立ちは少し日本人離れしていた。
「お恥ずかしい話なのですが……」
そういって総一朗は下を向いた。
「俺……女性恐怖症なんです」
そうして総一朗はぽつりぽつりと身の上を語りだした。
四歳のとき、保母さんに告白されて以来、その類い稀な美貌のゆえに女性に追いかけまわされる日々を送り続け、数多くの修羅場に遭遇し、すっかりトラウマになってしまったのだという。
「じゃあ、君は男が好きなのかね?」
初老の男がそう問うと、総一朗は首を横に振って少し顔を赤らめた。
「いえ、そうではないんです。女性が恐しいという思いがある半面、身体はやっぱり女性に反応してしまうっていうか……あっ、でも僕は別に不埒な思いを抱いているわけではなくて……あのっ……そのっ……自分の妻となる女性だけを一生涯愛するつもりでいるのです」
総一朗の話を聞いて、初老の男は頷いた。
「わかりました。ではまあ、軽く見合いでもセッティングいたしましょう。今お茶を持ってくる子がそのこです。そうですね、今時の若い子ですから、見合いだなんていっただけで拒否反応を起こしてしまうかもしれません。私が一計をめぐらしましょう」
そう言って、初老の男はニヤリと笑った。