カフェにて
「ここですよ」
駅前の通りを奥に一本入ったところに、そのビルはあった。
路地を一本入っただけなのに、夜の街の喧騒がまるで嘘のように感じられる静けさが、あたりを包んでいた。
街が眠っている。
さくらはふとそう思った。
葉の落ちたケヤキの並木が整然と並び、やわらかい街灯の明かりが頼りなくそれを照らしている。
見慣れたはずの街並みの違う面持ちに、さくらは云い知れぬ寂しさと人恋しさを覚えた。
しかし次の瞬間、はてと首を傾げた。
「あれ、このビル何かの雑誌で見たことがある」
さくらは思わず呟いた。
確か自分が愛読している女性雑誌でカフェの特集が組まれていたのだ。
『知る人ぞ知る隠れ家カフェ』なんかそんなタイトルだったような気がする。
建物自体はどこにでもある何の変哲もないありふれたもので、ここが雑誌で特集が組まれるほどのカフェなんだろうかと、さくらは内心不思議に思った。
ビルの二階のフロアに、そのカフェはあった。
すでにドアには『close』と書かれた小さな看板が掛かっており、カーテンが引かれてあった。
「お店閉めちゃった後なのに、すいません」
さくらはぺこりと男に頭を下げた。
「なあに、どうせ私の老後の趣味で始めた店です。厳密な閉店時間があるわけでなし、構うことはありません」
男は気さくに笑って店を開けてくれた。
「あの、あなたはこのお店のマスターなんですか?」
「まあ、そうです」
店は不思議な空間だった。
鉄パイプがむき出しになったままの天井に、古びた床材はまあ味があるといえばそうなのかもしれないが、てんでバラバラの形のソファーが四つほど置かれて、テーブル席が設けられている。
マスターが入って行ったカウンターには年代物の白黒テレビが置かれており、アンティークなレコードなんかもある。
さくらはカウンターの前の使い込まれた赤い丸椅子に腰を下ろした。
それはおしゃれとは程遠い全く統一されていない空間であるにもかかわらず……。
落ちつく。
どうしようもなく落ちつくのである。
不思議な感覚だった。
まるで時間の流れがこの場所だけ他と違っているかのように、ゆったりとしているのである。
やがて部屋にブルマンの芳香が立ち上った。
でこぼことした白い有田焼の珈琲カップに、湯気を燻らせた琥珀色の液体が注がれた。
「まあ、これでも飲んで元気を出してよ」
そういってマスターはさくらにそれを差し出した。
「ありがとうございます。頂きます」
そういってさくらは、男が淹れてくれた珈琲を飲んだ。
「おいしい」
今まで飲んだ、どの珈琲よりもそれは美味しく感じられた。
温かな珈琲に、きゅっと縮こまっていた心がほぐれていくような、そんな気がした。
ほっと幸せそうな吐息を吐いたさくらをみて、マスターは満足そうに笑った。
「若い間はそりゃあ、みんな色んな事がある。悩んだり落ち込んだりもするだろうさ。けれどきっと、そのぶんだけいい事も待っているってもんだ」
「本当ですね。私も少し人生に疲れてみたり、焦ってみたりしましたけど、そのおかげで、こんなに美味しい珈琲をいただけたのですから」
さくらは少しリラックスした表情で、カウンターに頬杖をついた。
自然と笑みが込み上げる。
「そうそう、その意気。そうだ、もう一つ元気のでる弦担ぎをしてあげよう。この歌を聴くと元気になるんですよ」
マスターは、ほっほっほと笑いながら、レコードの電源を入れた。
年代物のレコードデッキから、懐かしいイントロが流れる。
「もうずっと昔のヒーローソングなんですけどね。お嬢さんは知らないでしょうなあ」
そういって男はレコードから流れてくる曲に合わせて歌い始めた。
(あっ、この曲、もしかして!)
さくらはテンションが上がるのを抑えられなかった。
「マスターこれひょっとして未来宇宙刑事☆銀シャリバーンじゃないですか。うわー懐かしい」
さくらがそういうと、マスターは一瞬意外そうな顔をしたが、嬉しそうに目を輝かせた。
「へえ? お嬢さん今時、未来宇宙刑事☆銀シャリバーンを知ってるの?」
「えっと、私の兄がちょっとそっち系のマニアでして……知らない間に覚えちゃったって言うか……あのっ私はちがうんですよ? オタクとかそんなんじゃなくって、ただちょっと覚えちゃっただけっていう感じで……」
目線を泳がせて、さくらが歯切れの悪い返事をするが、マスターはますます嬉しそうにテンションを上げていく。
「いやー嬉しいよ。こんなところに同志がいたなんて。さあ、一緒に歌おうじゃありませんか」
さくらはいつの間にか、マスターと未来宇宙刑事☆銀シャリバーンのオープニングを熱唱していた。
「いやーさくらちゃん。串本アキラのちょっとジャイアンに似た声とか、すんごい上手に真似するよね」
上機嫌のマスターはさくらに拍手を喝采した。
後にこのさくらの串本アキラのモノまねは、このカフェの名物となる。
『それでもいいじゃないか 夢があれば……』
「夢……ねえ」
さくらはふと、この歌を口ずさみながら、一瞬胸を締め付けるような焦燥とともに、自分の中に芽生えつつあるなにかに気がついたのだった。