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女25歳の転換期

「あー、望月くんコピーまだ?」

でっぷりと太った部長が、鼻毛を抜いている。

(ったく、コピーくらい自分でとれっての!)

望月さくらは、内心毒づきながらも愛想笑いを浮かべた。

「はい、こちらです」

頼まれていた明日の会議の資料を部長の前に置いた。

部長は熊みたいな手で資料を繰っているのだが、資料から視線を外さずにぽつりと呟いた。

「望月くん、お茶」

(あたしはてめえの嫁じゃねえぞ! このメタボ)

それでもこめかみにぷちっと血管が浮き出そうになるのを必死でこらえながら、望月さくらは笑顔を取り繕った。

顔が浮いている、

そんな感じがした。

給湯室の窓に額を押しつけると、ひんやりとして気持ちがいい。

そうしてさくらはどっと押し寄せてくる疲労感に懸命に耐えた。

疲れた。

明日行われる重役会議の資料作成のため、今日は朝から働きづめだった。

自分たちが今いる六階のフロアから、最上階の重役室を一体何回往復したことだろう。

さくらは午後になってかわいそうなことになっている自分の(ふくら)(はぎ)に目をやって、溜息を吐いた。


仕事が嫌いなわけではない。

どんな雑用だってそれは誠心誠意でやり遂げたいと思っている。

職場の対人関係だって、そりゃあ良好なものを築きたいって思うから、こうやって疲れを押して、部長をはじめ同じフロアの皆のお茶を淹れにきているわけだ。

大学を卒業して早三年の月日が経とうとしている。

就職難の超氷河期の中にあって、奇跡的に就職ができて、一応安定した収入がある。それは感謝すべきことなのだろうとさくらは思う。

ヤカンに火をつけ、換気のためにさくらは窓を開けた。

二月の凍てつくような冷気がまともに入ってきて、さくらは身震いした。

コンクリートに切り取られた狭い空は、鉛色の重い雲を垂れこめて、さくらの気分をさらにブルーにさせた。




◇  ◇   ◇




「えっ由美子が結婚?」

さくらにとって、それは寝耳に水の話だった。

その夜、さくらは大学の同級生との女子会であったのだが、その席で友人の由美子が結婚することを告げた。

そのことは、さくらを少なからず動揺させた。

由美子は気のいい優しい子ではあるが、とびきりの美人と言うわけでもなし、さりとて頭が切れるというわけでもない。ゆえに同性からは好かれたが、異性関係はとんとうとい子だったのである。

女の25歳は多感な時期である。

結婚に焦りを感じ始めるのもこの時期で、いくら仲の良い友人であってもその胸中には複雑なものがある。

「そっか、おめでとう由美子」

そういって微笑んだのはクループのリーダー格の麻衣だった。明るい色のボブショートが軽やかに揺れた。

「じゃあ、お互いに新しい門出だね」

麻衣のその言葉に、なんとなく焦りを覚えてさくらが口を挟む。

「え? もしかして麻衣も結婚……とか?」

さくらは上目づかいに斜め向かいに座る麻衣を見た。

「だったらいいんだけどね、あたしは仕事を辞めて留学することにしたの」

麻衣は少し肩をすくめて見せた。

黒いバタフライスリーブから華奢な鎖骨が覗いて、同姓であるさくらもなんだかどぎまぎとしてしまう。

タンブラーを弄ぶ麻衣の白く形の良い指が、なんだか艶めかしい。

良く手入れされているネイルも、さりげなく服装と合わせた黒を基調としたもので、そのなかに色とりどりの水玉をあしらったシェルが煌めいていた。

「なんかさ、このままだったら息がつまっちゃいそうでさ」

そういって麻衣は少し疲れたように吐息を吐いた。

「あたしがあたしでなくなちゃう。そう思ったらいつの間にか辞職届を出していたのよ。でさあ、なら、これを機にずっと憧れてた海外留学しちゃえって思ったの。今でないと、きっともうできないから」

酒と夢に少し酔っているような口調だった。


さくらは俄かに麻衣に対しても焦りを覚えた。

いつも一緒にバカをやって、青春を語り合い、失恋しては一緒に泣いてくれた友たち。

大学を卒業するまでは同じ位置に立っていたはずなのに、いつの間にか慣れ親しんだ彼女たちがとても遠くに感じられて、さくらは自分一人が立ち止っているように思えた。

その夜は、酒を飲んでもちっとも酔えなかった。

ひとり冷水を頭から浴びたように、どこか冷めた目で友人たちをただ見つめていた。

――――みんな変わっていく……あたしは、これでいいの?――――

さくらは締め付けられるような焦燥感を苦い酒と共に飲みほした。




◇  ◇   ◇




まだ終電までには時間がある。

女子会の終了後、さくらは駅の近くにある公園に立ち寄った。

この公園には、古い桜の大木がある。

さくらは自販機で缶珈琲を買って、桜の木の下にあるベンチに腰かけた。

プルタブを引いて一口飲むが、どうにも味気ない。

さくらは小さく溜息を吐いて、桜の巨木を見上げた。

葉も、勿論花もない冬の桜は、なんだか惨めに見えた。

「お前はあたしと同じだね。葉もなければ花もなくってかわいそう……」

そう思わず呟いたさくらの横に初老の男が腰かけた。

「そうですかねぇ? 私はそうは思いません。こいつはね、こう見えてもしっかりと生きているんでさぁ。今は枯れ枝のように見えても、春に満開の花を咲かせるために準備をしているんですよ。試しにこいつの枝を折ってごらんなさいよ。この枯れたようにみえる枝から桜色の樹液がでるんですよ」

男の声は少し低くて掠れた、耳に優しい声色だった。

夜の公園に見知らぬ男と二人きりだったが、不思議とさくらは警戒心を抱かなかった。

まるで何年来知り合いであったかのような、心やすさすら覚える。

「そっか、お前はえらいね。春になったら満開の花を咲かせるんだもんね。がんばれ!」

さくらはそういって立ちあがった。

なんだか少し元気が出てきたような気がした。

しかし、刹那吹きつけてきた空っ風が、容赦なくさくらの体温を奪い、さくらの身体を小刻みに震わせる。

「はっ……はくしょん!」

さくらは盛大なくしゃみをした。

その様子に初老の男は、微笑を浮かべた。

「おや、すっかり身体が冷えてしまったようですね、お嬢さん。もしよかったらこのすぐ近くに私の経営するカフェがありますので、珈琲を飲んで行きませんか?」

それはなんだか抗いがたいような、優しい微笑だった。


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