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婚約披露の翌朝、私の寝室で財務卿が死んでいました。部屋を動かした婚約者を、信じたいからこそ疑います

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/08/29


 目を覚ますと、寝室の窓から礼拝堂の尖塔が見えた。


 眠る前、同じ窓の向こうにあったのは凍った湖だ。


 部屋の中は何一つ変わっていない。鞄も、夜着も、読みかけの本も、すべて昨夜置いた場所にある。


「セレスティーヌ公女! そこを動かないでください!」


 寝起きに剣を向けられたのは、生まれて初めてだった。


 円形回廊へ出た私を、王国兵が取り囲んでいる。扉を開けたところで鉢合わせた侍女は、朝の水差しを抱えたまま、壁際で震えていた。


「動くなと言われても、事情を説明していただかなければ、驚いて倒れるくらいはするかもしれません」


「昨夜、公女がお入りになったのは北の間です。なぜ北東の間から出てこられたのですか?」


 王弟付きの護衛隊長、バジル・レノーが剣を下げずに尋ねる。


 私も同じことを知りたかった。


 昨夜、私が入った扉口の石枠には、確かに北を示す銀の星が嵌め込まれていた。


 ところが今、背後の星は北東を指している。


「私にも分かりません。目を覚ましたら、部屋ごとこちらへ来ていたとしか……」


 言葉の途中で、北の間の扉が大きな音を立てた。


 兵士たちが、内側から閉ざされた扉を斧で破っている。


 三度目で閂が折れた。室内へ踏み込んだ兵士が、すぐに口元を押さえて戻ってくる。


「デルヴォー財務卿が寝台に倒れています! 息をしていません!」


 北の間の窓の外には雪が積もり、足跡は一つもなかった。


 回廊にいた者たちの視線が、再び私へ向いた。


 私が昨夜入った北の間。


 私の代わりに、エヴラール・デルヴォーが死んでいる。


 そして私は、自分がどうやって密室から消えたのかさえ分からない。


「剣を収めろ、バジル」


 低い声が、兵士たちの背後から響いた。


 アナトール・セヴラック王弟殿下が、乱れた銀黒色の髪を直しもせず歩いてくる。


 昨日初めて会った私の婚約者だった。


「しかし殿下、現状では公女も――」


「彼女が財務卿を殺して、自分の荷物がある別室へ壁を抜けたとでも言うのか? 剣を向ける前に、もう少しましな筋書きを考えろ」


 バジルが苦い顔で剣を収めた。


 アナトール殿下は私の前まで来ると、何か言いかけてやめた。昨夜は一分の隙もなく整っていた人が、今は上着の留め金を一つ飛ばし、片手に手袋を二枚とも握っている。


「怪我は?」


「ありません。ただ、状況がさっぱり分からなくて、心臓だけが先に逃げ出しそうです」


「そうか」


 短い返事とともに、殿下の肩から目に見えて力が抜けた。


 私が無事だったことを、本当に喜んでいるように見えた。


 けれど殿下は、次の瞬間、自分から両手をバジルへ差し出した。


「地下機構を動かしたのは私だ。夜半過ぎ、王家の鍵を使った」


「殿下が?」


 声が裏返った。


 殿下は私を見たまま、静かにうなずいた。


「君の部屋が北から北東へ移ったのは、私のしたことだ」


 その告白によって、私の疑いは晴れなかった。


 代わりに、密室殺人の第一容疑者が婚約者になった。


 ◇◆◇


 八年続いた国境紛争を終わらせるため、私とアナトール殿下の婚約は決められた。


 私はヴォークラン公国の公女。殿下はリュシエン王国の王弟。


 両国が一つの家族になれば、次の世代へ戦を持ち越さずに済む。理屈は分かる。けれど、国境を一本の線として眺める人々と、その線を越えて知らない男へ嫁ぐ私とでは、婚約の重さが違った。


 相手の顔を見たのは昨日が初めてだ。


 ただし、彼の文字なら八か月前から知っていた。


 和平交渉の一環として、私たちは何十通もの書簡を交わしている。関税、街道、砦の撤去。色気のない話ばかりだ。殿下は、こちらが質問を三つ書けば番号を振って一つずつ答え、その下に、聞いてもいない問題を二つ追加する人だった。


 腹の立つほど几帳面な人だと思った。


 けれど私が国境市場を提案すると、翌月には税率を下げ、戦で夫を失った商人たちにも店を与えた。


 婚約後に過去八年分の戦時会計を照合する条項だけは、財務卿が強く反対した。それでも殿下は、「疑いを残した和平のほうが長くは続かない」と譲らなかった。


 言葉より先に手を動かす人なのだと知ってから、封書が届く日を待つようになった。


 昨日、星環宮へ到着した私を迎えた本人は、手紙よりずっと不器用だった。


「長旅だったと聞いている。まず休んでほしい。会談は明日でも――いや、延期したいわけではない。君が疲れているなら、という意味だ」


 挨拶の途中で自分の言葉を訂正し、最後には黙り込んだ。


 冷酷な王弟と聞いていた私は、返事も忘れて顔を見つめた。


「何か?」


「いいえ。お手紙より、よくお話しになる方なのですね」


「今のやり取りで、そう思ったのか?」


「訂正を含めれば、四文もありました」


 殿下は真顔のまま、耳だけを赤くした。


 そのとき、私は少し安心したのだ。


 政略結婚の相手が、少なくとも人の形をした氷像ではなかったことに。


 婚約披露の宴は、二百年前の天文学王が建てた星環宮で行われた。中央の観測塔を円形回廊が囲み、その外側へ八つの客室が並ぶ離宮だ。


 両国の使節と護衛は別棟へ泊まり、この八室を使うのは私と、王国側の宿泊責任者として残ったエヴラールだけ。アナトール殿下は中央の観測塔で休むと聞いていた。


 私は幼いころから機械仕掛けの時計や建物が好きで、機巧建築も学んできた。


 公女が歯車へ油を差すものではないと叱られても、工具を手放さなかった。星環宮を訪れると聞いたとき、婚約より建物に心を奪われたことは、誰にも言っていない。


 宴と宿泊の手配を任されていたのは、財務卿のエヴラールだった。


 白い髭を整えた、柔和な老人。戦時中は軍費を一手に管理し、和平交渉でも実務を担ってきた人物だ。


「北の間をお使いください。あの部屋は夜こそ冷えますが、夜明けには宮で最初に暖まります。長旅のお疲れも取れるでしょう」


「どうして夜明けだけ?」


 私が尋ねると、エヴラールは楽しそうに笑った。


「さすが、機巧好きの公女殿下ですな。屋上の鏡が朝日を受けると、北壁の送風弁が開くのです。細かな仕組みは私にも分かりませんが、暖かな部屋で目覚める心地よさは保証いたしますよ」


 宴でも、エヴラールは親切だった。


 私の国の葡萄酒を用意し、料理に使われた香草まで説明してくれた。一方のアナトール殿下は、向かいの席から何度もこちらを見るだけで、ほとんど話しかけてこない。


 やはり、この婚約を望んでいないのかもしれない。


 手紙に込められていたと思った温かさも、和平のための誠実さにすぎなかったのだろうか。


 そんな不安を抱えたまま、私は北の間へ入った。


 内側から閂を掛け、寝台へ横になる。


 眠れずに何度も寝返りを打っていると、夜半を過ぎたころ、床がかすかに震えた。


 卓上の水に、細い波紋が広がる。


 遠くで石臼を回すような音が続き、やがて止まった。


 地震かと思って身を起こしたとき、壁の中から男の声がした。


『セレスティーヌ公女。起きているか?』


 悲鳴を上げなかった自分を、今でも褒めたい。


「……政略結婚の相手が、真夜中に壁から話しかけてくる可能性までは教わっていません」


『すまない。驚かせるつもりはなかった』


「驚かせないつもりで壁を使ったのですか?」


 寝台を降り、声の出どころを探した。


 扉脇の石枠にある星形の格子へ耳を近づけると、殿下の息遣いまで聞こえる。


『観測塔と客室を結ぶ、古い囁きの管だ。ここなら誰にも聞かれず話せる』


「普通に訪ねてくださればよいでしょう?」


『昼の面会には両国の記録官が同席し、一語残らず議事録へ書く。婚約披露の夜、私が君の寝室へ入れば、明日の朝には両国で別々の噂が完成している。手紙を残せば、君が断ったときに利用されるかもしれない』


 冗談ではなかった。


 殿下の声は、いつにも増して硬い。


『確認したい。この婚約は、君自身が望んだものか?』


 すぐには答えられなかった。


『国のために受け入れたことは分かっている。だが、嫌なら明日の朝、私を拒んでくれ。私が無礼を働いたことにして、責任はこちらで負う。君の国や家族には、一切負わせない』


「そんなことをすれば、殿下のお立場がなくなります」


『なくなって困る立場なら、もう少し大切に扱っている』


「笑うところですか?」


『できれば』


 壁越しに、少し緊張した声が返ってくる。


 私は笑えなかった。


「私は、嫌とも言っていません」


『言えない可能性を聞いている』


「では殿下は、どうなのですか? 私が嫌なら断れとおっしゃるのに、ご自分がこの婚約を望んでいるかは、一度も教えてくださらない」


 管の向こうで、殿下が息をのんだ。


 しばらく待っても、答えはない。


「書簡では、どんな難問にもすぐ答えてくださったでしょう?」


『関税率と婚約者への返事を、同じ速さで決めさせないでくれ』


「八か月もあったではありませんか!」


『君に会う前とあとでは、問題がまるで違う!』


 思いがけず大きな声が管を震わせた。


 私も殿下も黙り込む。


 頬が熱い。今の言葉をどう受け取ればよいのか、もう一度問いただそうとしたとき、管の向こうで扉を叩く音がした。


『殿下、どちらにおいでですか?』


 バジルの声だった。


『続きは明日、必ず話す。今夜は閂を掛けたまま休んでくれ』


「逃げないでくださいね!」


『逃げない。おやすみ、セレスティーヌ』


 初めて名前だけで呼ばれた。


 返事をする前に、管から音が消えた。


 そして約束した朝、殿下の代わりに死体が現れた。


 ◇◆◇


 エヴラールの遺体が見つかった北の間は、昨夜の私の部屋とは中身が違っていた。


 同じ壁紙、同じ寝台、同じ机。それでも衣装棚には彼の礼服が掛かり、机上には老眼鏡と財務書類が残されている。


 部屋の位置だけでなく、床も家具も、丸ごと入れ替わっていた。


 エヴラールは寝台の上に仰向けで横たわっている。苦しんだ痕跡はなく、脇の卓には空になった薬杯と、使いかけの睡眠薬の瓶が置かれていた。


 検分に当たった医師は、暖炉脇の通気口から夜明け花の毒が検出されたと告げた。


 熱を受けると甘い蒸気を放ち、吸った者の呼吸を止める毒草だという。


 さらに星環宮の管理人は、夜明け前の点検で、北外壁の点検蓋に王族の封札が掛けられていたと証言した。封札がある箇所は、たとえ管理人でも勝手に開けてはならないという。


 青灰色の封蝋に刻まれていたのは、翼を広げた鷹。


 アナトール殿下の私印に見えた。


「殿下が地下機構を動かした直後、財務卿が密室で死亡した。毒が入れられた北の送風口には、殿下の私印まで残されている」


 バジルは苦しそうに言った。


「身柄を拘束しないわけにはいきません。王都から裁定官が到着するまで、観測塔でお過ごしください」


「分かっている」


 殿下は抵抗しなかった。


 観測塔へ連れていかれる前、私の前で足を止める。


「昨夜、地下機構を動かしたのは、君の部屋を囁きの管へ合わせるためだ。あの管は北東の位置にある客室としかつながらない」


「それなら、今すぐ皆さんへ説明してください」


「管を使ったことは話せる。だが、理由を問われれば、この婚約を断ってもよいと君に告げたことまで公になる」


「……それは困ります」


「だろう?」


 殿下はわずかに笑ったあと、すぐ真顔へ戻った。


「ただし、君に黙っておくつもりはない。私が知っていることは、これですべてだ。信じろとは言わない。君自身で確かめてくれ」


「もし私が、殿下が財務卿を殺したという答えへ辿り着いたら?」


 聞きたくなかった。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 殿下は目を逸らさなかった。


「そのときは、君の口から聞く。ほかの誰に告発されるより、ずっとましだ」


「怒らないのですか?」


「君には、疑うだけの理由がある。私が欲しいのは、考えるのをやめた君の信用ではない」


 胸の奥が痛んだ。


 信じてほしいと縋られるより、ずっと残酷な言葉だった。


 殿下は護衛に囲まれ、観測塔へ向かった。


 王国の重臣たちは殿下を庇う者と疑う者に割れ、公国側は私を狙った暗殺だと騒ぎ始めている。日が暮れるまでに真相が分からなければ、双方の護衛が武器を抜くのは時間の問題だった。


 婚約どころか、ようやく結ばれた和平まで、一つの死体で崩れようとしている。


「公女殿下は、お部屋へお戻りください」


 バジルが言った。


「どちらの部屋へ?」


 尋ねると、彼は言葉に詰まった。


「北へ戻れば毒があり、北東へ戻れば私がどうやって移ったのか分からない。どちらも安心して休めそうにありません」


「ですが、調査は我々の役目です」


「では、日暮れまでに解決できますか?」


「それは……」


「私は機巧建築を学んでいます。部屋が動いたのなら、誰より役に立てる。両国の兵が殺し合う前に終わらせたいのは、あなたも同じでしょう?」


 バジルは奥歯を噛み締めた。


「殿下が犯人ではないと、最初から決めているのですか?」


「決めていません。だから、自分の目で調べます」


 疑いたくない人を疑うのは怖い。


 それでも、昨日会ったばかりの婚約者へ人生を預けるなら、目を閉じて信じるより、目を開けたまま選びたかった。


 ◇◆◇


 星環宮の管理人、オルタンス・ベレールは、八つの部屋の合鍵を腰から提げていた。


 七十を越えた小柄な女性だが、兵士二人が持ち上げられなかった工具箱を一人で引きずってきた。


「お嬢さんが機巧を読めるというのは本当ですか?」


「歯車なら、踊り方を見れば大抵の性格は分かります」


「人間よりは素直ですからね。気に入りました」


 オルタンスは工具箱を開け、私へ作業用手袋を投げた。


 八室の敷居には、円周に沿った擦り傷があった。壁と床の継ぎ目へ薄い金属板を差し込むと、指二本分ほど奥まで入る。


「回廊の壁と、客室の床がつながっていません」


「二百年前の王様は、寝室で星を巡らせたかったそうですよ」


 オルタンスは工具箱の丸い蓋へ八つの留め金を並べ、蓋だけを少し回した。


「回廊と外壁は動きません。動くのは、この八部屋です。扉も窓も家具も載せたまま、一つ隣へ滑ります」


「つまり、『北の間』は部屋そのものの名前ではなく、北にある扉口の名前なのですね?」


「そのとおり」


「そんな重要なことを、なぜ最初に言わなかったのですか?」


「王家の鍵を預かる方と、代々の管理人しか知らない秘密です。この三十年は一度も動かしていません」


「今も守るおつもりで?」


「死人が出た朝まで、秘密へ義理立てする気はありませんよ」


 八室を確かめると、荷物も、暖炉の灰も、飾り布も、すべて一つ隣へ移っていた。


 彼女は北の間へ戻り、暖炉の炉床に積もった灰を指で掬った。


「これは杜松ですね。財務卿は、この香りと強い眠り薬がなければ眠れないと言っていました」


「私が昨夜使ったのは白樺です。北東へ移った部屋の暖炉には、白樺の灰が残っていました」


 私の部屋だけではない。八室すべてが、丸ごと一つずつ動いていた。殿下の言葉どおりだった。


「ゆっくり回せば、眠っている人は気づきませんか?」


「満杯の杯なら波立つでしょうが、寝台から落ちるほどではありません。昨夜はあたしが水門を開け、殿下が王家の鍵を回しました」


 オルタンスはためらわずに言った。


「なぜ協力したのです?」


「あの方は、北東の囁きの管を使いたいとおっしゃった。それ以上は聞いておりません。婚約披露の夜に未来の花嫁の部屋へ忍び込むよりは、壁と話すほうが行儀もよいでしょう」


「壁から声を出すのも、十分怖かったですけれどね」


 思い出すと、頬が熱くなる。


 私は床下の機構を確認するため、オルタンスと地下へ下りた。


 巨大な環状歯車の歯には、新しい油が薄く伸びていた。操作盤の王家の鍵穴にも、無理にこじ開けた傷はない。


 殿下とオルタンス以外が、客室を動かした形跡はなかった。


 ただし、殿下が毒の存在を知っていたなら、回転そのものが殺人になる。


 その考えに気づいた瞬間、地下の冷気が背中へ染み込んだ。


「お嬢さん。顔色が悪いですよ」


「考えたくない答えを考えていただけです」


「それを考えられるなら、頭はまだまともです。惚れた相手を疑えない者より、疑っても最後まで見る者のほうが信用できます」


「惚れたとは言っていません!」


「では、あの方の名前を出していないのに、誰の話だと思ったんです?」


 反論できなかった。


 オルタンスは意地悪そうに笑い、北側へ延びる細い点検路を指した。


「顔を冷やしたければ、こちらへ。北壁の送風装置につながっています」


 点検路の先には、固定された北壁の送風筒を開くための鉄扉があった。


 取っ手には細い鎖が巻かれ、青灰色の封蝋を押した銀札で留められている。翼を広げた鷹は、アナトール殿下の私印にしか見えなかった。


「今朝、私が見たのもこれです」


 オルタンスが銀札を指した。


「夜明け前には必ず送風筒を点検します。ですが、王族の封札があれば管理人でも開けられない。殿下が何かお命じになったのだと思い、触れませんでした」


 バジルが銀札を証拠袋へ収め、鎖を外した。


 鉄扉の下には、黒い油の跡が残っていた。


 環状歯車の透明な油とは違う。鉄扉の蝶番から垂れた黒い油だ。その上に、右の爪先だけ三角形に欠けた靴跡が残っている。


 北の間へ戻り、寝台の下に揃えられたエヴラールの長靴を確認した。右足の靴底に、同じ欠けがある。


「財務卿は昨夜、ここへ来ています」


 バジルが厳しい顔で靴を見下ろした。


「送風装置を調べていた可能性は?」


「宴の夜に、正装のまま?」


「では、何のために……」


 私たちは北外壁の点検口を開いた。


 中から温かな空気と、夜明け花の甘い匂いが流れてきた。腕一本しか通らない送風筒の奥に、細い銀の籠が引っかかっている。


 籠には毒の溶け残りがこびりつき、口を縛っていた糸はほどけている。糸を留めた蝋が温風で溶ければ籠が開き、毒が客室へ流れる仕組みだ。


 私の指が震えた。


「この毒は、部屋の中へ置かれたのではありません。固定された北壁の送風筒へ仕掛けられたんです」


 バジルが送風筒から私へ視線を戻した。昨夜、北の間にいたのは私だ。


「靴跡だけで、エヴラールが毒を仕掛けたとは断定できません」


 そう答えながら、私はエヴラールの言葉を思い出していた。


 北の間は、夜明けには宮で最初に暖まる。


 彼は、温風がいつ流れるのか知っていた。


 ◇◆◇


 観測塔の扉は施錠され、前には王国兵が二人立っていた。


 私は中へ入らず、北東の間へ戻った。


 バジルから検分のために借りた銀札を机へ置き、殿下から届いた封書を鞄から取り出す。


 扉脇の石枠にある星形の格子へ口を寄せる。


「アナトール殿下。聞こえますか?」


 すぐに返事はなかった。


 塔まで届かないのかと思い、もう一度呼ぼうとしたとき、管の向こうで椅子が倒れる音がした。


『いる。少し待て。今、机に膝をぶつけた』


「大丈夫ですか?」


『君の声がしたので、急いだ』


 あまりに正直な返事で、緊張が少しほどけた。


『何か分かったのか?』


「客室が一室分、動いたことは確認できました。北の外壁には、夜明けに開く送風筒があります。そこへ毒が仕掛けられていたんです」


 管の向こうが静かになった。


『昨夜のままなら、毒を吸ったのは君だった』


「はい」


『……そうか』


 声がひどく掠れていた。


「殿下は、毒のことをご存じでしたか?」


 逃げずに尋ねた。


 昨夜の優しい声を思い出しても、証拠は証拠だ。


『知らなかった』


「財務卿を北へ移すことになるとは?」


『部屋の並びは知っていた。だが、誰かを危険へ移すとは考えなかった。すべての扉には内側から閂があり、夜中に訪ねる者もいない。君の部屋を囁きの管へ合わせることしか、考えていなかった』


 苦しそうな声だった。


『私が宮を動かしたせいで、彼は死んだのか?』


「まだ答えは出ていません」


『君は、どう思っている?』


 私は星形の冷たい金属へ額をつけた。


「殿下が毒を知らなかったという言葉を、信じたいです。でも、信じたいから結論を決めたくはありません」


『それでいい』


「少しくらい、傷ついた顔をしてもよいところでは?」


『している。壁越しで見えないだけだ』


「それは便利ですね」


『ああ。昨夜は便利だと思った。今は、君の顔が見えないことが腹立たしい』


 胸が強く鳴った。


 返す言葉を探しているうちに、殿下が続けた。


『セレスティーヌ。私を庇う必要はない。だが、君を殺そうとした者がほかにいるなら、そちらを見失わないでくれ』


「分かっています。北の点検口には、殿下の私印を押した封札がありました。あれも、殿下が置いたものではないのですね?」


『置いていない。私印の指輪を貸したこともない』


 私は殿下の封書を、現場の銀札と並べた。


 封書の鷹は右を向き、左脚で星をつかんでいる。銀札の鷹は左向きで、星は右脚にあった。


「殿下。この八か月、私へ送った封書を誰かに見られましたか?」


『和平交渉の封書は、財務局の台帳へ印影を一つ残してから発送される。デルヴォーなら、すべての印影に触れられた』


 印章は、押せば図柄が反転する。人に頼めば足がつくため、偽造者は本物の印影を見た向きのまま、自分で偽の印章へ彫り写した。だから銀札の鷹だけが左右逆になったのだ。


「現場の封印は、殿下の指輪ではなく、財務局に保管された印影を見本に彫った偽の印章で押されています」


 管の向こうで、殿下が長く息を吐いた。


『君へ手紙を送り続けたことが、私の無実を証明するとは思わなかった』


「まだ無実と決まったわけではありません」


『分かっている。だが、少しは喜ばせてくれ』


 笑いを堪えきれなかった。


「では、一つだけ。手紙を捨てずに持ってきてよかったです」


『一通だけか?』


「事件と関係のない質問には答えません」


『それでは、全部持っていると受け取っておく』


「殿下!」


 声を上げたあと、自分が笑っていることに気づいた。


 まだ事件は終わっていない。


 それでも、壁の向こうから聞こえた笑い声を、疑うことはできなかった。


 ◇◆◇


 婚約披露の翌朝から、両国の戦時会計を照合する予定だった。


 私が持参した、公国で押収された軍需品の記録と、エヴラールの机にあった王国側の損失報告書には、同じ工房印と製造番号が並んでいた。


 輸送中に焼失したはずの剣や弩が、二週間後には公国で売られている。そのうえ王国は、失った武器の補充費まで支払っていた。すべてにエヴラールの承認印がある。


 売却代金の受取先は、彼の私領を管理する執事名義の商会だった。


 戦が続くほど、同じ武器から何度でも金を抜ける。だが両国の記録を重ねれば、最初の照合で露見する。


「財務卿には、婚約を壊す理由があった」


 バジルは、二つの記録を握り潰しそうな力で持っていた。


 毒の仕掛けられた送風筒の前には、エヴラールの靴跡が残っている。一方、彼自身は北西の間へ閂を掛け、いつもの眠り薬を飲んでいた。


 私は紙に八つの部屋を描いた。昨夜は北西にエヴラール、北に私。矢印を一つずつずらすと、私の部屋は北東へ、彼の部屋は北へ来る。


 部屋は動いた。


 北壁の毒は、動いていない。


 バジルが図を見つめ、何かに気づいた顔をした。私は答えを口にせず、紙を畳んだ。


 殿下は、言葉だけでは自分を許さない。ならば、見せるしかない。


「バジル卿。日暮れまで、両国の方々を円形回廊へ集めてください。事件が起きた夜を、もう一度作ります」


「毒を使うつもりですか?」


「まさか。死体が増えたら、説明が面倒になります」


「そこは命を心配するところでは?」


「もちろん心配しています! 面倒なのも本当です!」


 オルタンスが喉の奥で笑った。


「人間らしくてよろしい。では、あたしは宮殿を元の位置へ戻しましょう」


 ◇◆◇


 日没前、両国の使節と護衛が円形回廊へ集まった。


 アナトール殿下も観測塔から連れ出され、兵士の間に立っている。


 私は八室の扉をすべて開けた。


 客室は昨夜の位置へ戻してある。北に私の部屋、北西にエヴラールの部屋。暖炉に残る灰と家具が、それぞれの部屋であることを示していた。


「昨夜、デルヴォー財務卿は北壁の送風筒へ毒を仕掛けました。夜明けに温風が流れれば、北の間で眠る私が死ぬはずでした」


 ざわめきが広がる。


 私は北外壁の送風籠へ、毒の代わりに紫煙草を入れた。


 舞台や祭礼で使われる、鮮やかな煙を出すだけの草だ。


「これから、殿下が昨夜なさったことを再現します」


 オルタンスが地下の水門を開く。


 低い音とともに、足元がゆっくり震え始めた。


 石枠の銀の星は動かない。その奥で、開け放した扉も、床も、家具も横へ滑り、壁の陰から隣の部屋が現れた。


 悲鳴を上げる者もいた。


 誰も立っている場所を変えていないのに、目の前の寝室だけが入れ替わっていく。


 やがて回転が止まった。


 北にはエヴラールの部屋。私の部屋は北東へ移っている。


 オルタンスが、夜明けの送風弁を手動で開いた。


 北の間だけに、紫色の煙が流れ込む。


 煙はエヴラールの寝台を包み、ほかの七室には一筋も入らなかった。


「密室へ入った犯人はいません。密室のほうが、毒の前へ動いたんです」


 私は紫煙に包まれた寝台を示した。


「財務卿は北の間にいる私を殺すため、送風筒へ毒を置きました。自分は北西の部屋に閂を掛け、いつもの眠り薬を飲んだ。あの方は北壁の送風弁を知っていても、三十年動かなかった客室の輪までは知らなかった。『細かな仕組みは分からない』という言葉だけは、本当だったのです。深く眠っている間に、八つの客室が一つずつ隣へ動いたことにも気づかなかった」


「私は毒から逃れ、代わりに彼の密室が毒の前へ来たんです」


 黒い油のついた長靴、左右が逆になった封札、製造番号が一致した両国の記録を並べる。


「封札は点検を止め、事件後には殿下へ罪を着せるためのものでした」


 私は殿下へ目を向けた。


「被害者に見えた人物が、私を殺そうとした犯人でした。財務卿を殺したのは、彼自身が仕掛けた毒です。殿下は、その毒があることさえ知らなかった」


 誰もすぐには声を出さなかった。


 窓の外では日が沈み、紫色の煙が金色に染まっている。


 最初に動いたのはバジルだった。


 殿下の前へ進み、深く頭を下げる。


「疑いを向け、身柄を拘束したことをお許しください」


「謝る必要はない。あの証拠なら、私でも私を拘束する」


「ですが――」


「職務を果たした部下を責めれば、次に私が誤ったとき、誰も止められなくなる。顔を上げろ」


 殿下はそう言いながら、私を見ていた。


 安堵より先に、苦しさが浮かんでいる。


 皆が退出したあとも、殿下は紫煙の残る北の間に立ち続けた。


「私が宮を動かさなければ、彼は死ななかった」


 やはり、そう言った。


「殿下が宮を動かさなければ、死んでいたのは私です」


「結果を入れ替えただけかもしれない」


「違います。殿下は誰も殺そうとしていない。エヴラールは私を殺す場所も、毒が流れる時刻も、自分で選びました」


 殿下は黙って、煙の消えた通気口を見つめた。


「それでも、簡単には納得できないのでしょうね」


「すまない」


「謝らないでください。今すぐ納得できないなら、私が何度でも説明します。図面が必要なら描きますし、もう一度煙を流しても構いません」


「もう一度、宮殿を動かすのか?」


「殿下が勝手に動かさなければ」


 少し強く言うと、殿下はようやく笑った。


「それは、二度としない」


「困ります。二度とではなく、次からは私にも相談してください。私はこの機構がかなり好きです」


「人が死んだ宮殿なのに?」


「宮殿は人を殺していません。使う人間が間違えただけです。歯車まで罪人にしたら、直す人がいなくなります」


 私は殿下の隣に立った。


 肩が触れそうで触れない距離だった。


「昨夜の続きを、覚えていますか?」


 殿下の表情が固まった。


「忘れられると思うか?」


「では、今度こそ答えてください。殿下は、この婚約を望んでいるのですか?」


 殿下は口を開きかけ、また閉じた。


「まだ関税率より難しいですか?」


「比べものにならない」


「また壁の向こうへ逃げます?」


「逃げたい。君の顔を見ていると、用意した言葉が全部役に立たなくなる」


「それでも、今度は顔を見て聞きたいです」


 殿下は深く息を吸った。


「婚約が決まる前から、君の手紙を待っていた。国境市場の案に感心し、税の計算間違いを指摘されて腹を立て、余白に描かれた歯車を見て笑った。会ったこともない相手へ惹かれる自分は、和平に浮かれているだけだと思おうとした」


「余白の歯車まで見ていたんですか?」


「すべて見ていた。君から届いた紙は、一枚も捨てていない」


 今度は私が黙る番だった。


 殿下は困ったように笑う。


「昨日、実際に会った君は、手紙よりよく笑い、思っていたより容赦がなかった。だから困った。国が決めた婚約を利用して、君を手に入れたくなる自分が嫌だった」


「それで、私に断らせようと?」


「断らせたいわけではない。断れると知ったうえで、それでも君が選んでくれる可能性に賭けたかった」


 殿下はまっすぐ私を見た。


「私は、この婚約を望んでいる。国境のためでも、王家のためでもない。君と生きたい」


 胸の奥にあった不安が、音を立てて崩れた。


 うれしい。


 それなのに、すぐ答えるのは少し悔しかった。


「私の部屋を勝手に動かしたことは、まだ許していません」


「一生かけて謝る」


「壁越しに破談を勧められたことも、かなり腹が立ちました」


「それも謝る」


「では、一生そばにいていただかないと、謝り終わりませんね」


 殿下の目が大きく見開かれた。


「それは……婚約を受けるという意味でいいのか?」


「この期に及んで、まだ確認なさるんですか?」


「君は言葉の穴を見つけるのがうますぎる。間違って期待したら立ち直れない」


 その正直さがおかしくて、私は笑った。


「はい。私も、あなたとの結婚を望んでいます」


 殿下は目を閉じ、長い息を吐いた。


 朝、私が無事だと知ったときと同じだった。


「口づけても?」


「壁越しではできませんものね」


「壁を壊してでも行くつもりだった」


「宮殿を壊したら、婚約を考え直します」


「危なかった。先に聞いてよかった」


 殿下が笑い、そっと私の頬へ触れた。


 唇が重なる直前、回廊の向こうで盛大な咳払いが聞こえた。


「申し訳ありませんが、こちらはまだ事件現場です!」


 バジルだった。


 殿下が額を押さえ、私は思わず吹き出した。


「続きは、事件現場ではない場所でお願いします!」


「聞こえています。二度も言わないでください!」


 返すと、バジルは逃げるように回廊を去った。


 殿下と顔を見合わせ、今度は二人で笑う。


「では、場所を変えよう」


「また私の部屋を動かすおつもりですか?」


「もう動かさない。君が望む場所まで、一緒に歩く」


 差し出された手を取った。


 昨夜、殿下は私の部屋を声の届く場所へ動かした。


 今夜は宮殿に運んでもらわなくてもいい。


 私は自分の足で、選んだ人の隣へ歩いていける。


 ◇◆◇


 エヴラールが横流ししていた軍需品と資金は、両国の共同調査で押収された。


 彼と取引していた商会も裁かれ、奪われた金は戦で壊れた国境の町を直すために使われることになった。


 婚約を壊すはずだった事件は、結果として両国が初めて同じ机を囲み、同じ罪を裁くきっかけになった。


 一年後。


 私とアナトールは、星環宮で結婚式を挙げた。


 婚礼の客たちは式を終えると別棟へ戻り、この夜、円形回廊の客室を使うのは私たちだけだった。


 北の送風装置は作り直し、外から異物を入れられないよう三重の網を取りつけた。客室を回転させる機構は残したが、動かすには王家とヴォークラン家、二つの鍵が必要になるよう改修した。


「これなら、もう勝手に花嫁の部屋を動かせませんね」


 その夜、オルタンスが水門を開き、新しい操作盤を叩いた。


「夫婦喧嘩を宮殿全体でやらない限りは安全です」


「喧嘩をしても、鍵は回しません!」


 私が答えると、隣でアナトールが小さく咳払いした。


「私は、回してもよいと思っている」


「どうしてですか?」


「意見が違っても、二人で同じ方向へ鍵を回せるか確かめられる」


「うまいことを言ったつもりですか?」


「少しだけ」


 オルタンスが呆れた顔で機関室を出ていく。


 二人きりになると、アナトールは王家の鍵を取り出し、片方の鍵穴へ差し込んだ。


「今夜、動かしてみるか?」


「私の部屋を囁きの管へ?」


「いや。二人の部屋を、朝日が最初に見える東へ動かしたい」


 アナトールが、少し照れたように私の手を取る。


 私は自分の鍵を操作盤へ差し込んだ。


「では、同時に回しましょう。今度は、私も望んで動くのですから」


 目を合わせ、二つの鍵を一緒に回す。


 足元で歯車が動き始めた。


 一年前と同じ低い振動の中、アナトールは私の手を離さないまま、何か言いかけて黙り込んだ。


「また、言葉を選んでいるのですか?」


「君の顔を見ていると、どうもうまく選べない」


 私は彼の襟をつかみ、少しだけ引き寄せた。


「それでは困ります。今夜は、壁の向こうへ逃げられませんよ」


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