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小さな愛が灯る場所  作者: 浮世雲のジュン


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9/11

第八話 見えないものに名前をつける

気持ちはいつも、きれいな言葉になるとは限りません。

つらい、だけでは足りない日もあるし、うれしい、だけではこぼれてしまう日もあります。

この物語では、見えにくいものや言いにくいものに、そっと名前をつけることもまた、生きてい

く知恵のひとつとして描いていきたいと思っています。

今回は、灯台荘の「ことば」の話です。

雨の降る日は、言葉が少し遅れてやってくる。

朝から細い雨が続いていた。

強くはない。けれど止みそうでもない。軒先から落ちる雫が、同じ場所を何度も打っている。

窓ガラスに流れる水筋を見ながら、雫は、今日は外の輪郭も自分の内側も、少しだけ曖昧だと思

った。

台所では文子さんが大根を煮ている。

透は居間で録音図書を聞いていて、 真昼は雨で洗えなかった洗濯物の置き場を考えていた。 蓮

は仕事が休みで、食卓の端で電池の予備を整理している。

何かが起きたわけではない。

ただ、気持ちが晴れきらない日だった。

昨日は笑えた。

たこ焼きもおいしかったし、親玉も妙に堂々としていて可笑しかった。

でも、人の心は便利にはできていない。笑えた翌日に、また少し沈むこともある。

雫は窓の外を見たまま、自分の胸の中を探る。

重い、とは少し違う。悲しい、とも違う。

何かが薄く、しかし長く残っている感じ。雨の匂いみたいに、部屋の空気へしみてくる。

――にじむ。

その言葉が、先に浮かんだ。

雫は台所の隅に置いてある小さなノートを開いた。

もともとは買い物メモに使っていたものだが、 最近は別の役目が増えている。 気持ちに名前が

ないまま苦しくなる日に、とりあえず言葉を置いておくための帳面だ。

今日の頁に、雫は書く。

にじむ。

理由は分からないのに、気持ちだけがじわりと広がる。

「また、ことば帳?」

文子さんが鍋を見ながら言った。

「はい」

「今日はなんて書いたの」

「にじむ、です」

文子さんは振り向き、ちょっと考える顔をした。

「いいわねえ。雨の日の顔してる」

「雨の日の顔、ですか」

「曇ってるのとは違うの。中までしみてる感じ」

雫は思わず笑う。

それだ、と思った。曇っているだけなら表面の話だ。今日はもっと、内側へ水が入ってきてい

る感じがある。

そこへ、蓮が顔を上げた。

「そのノート、前から気になってたんですけど」

「これ?」

「はい。雫さん、たまに一言だけ書いてるじゃないですか」

「書いてます」

「どういうやつなんですか」

雫は少し迷った。

説明すると子どもっぽいだろうか、と一瞬思う。

けれど、灯台荘ではそういうためらいを少しずつ手放してきた。

「ちゃんとした言葉にするほどでもないときに、仮の名前をつけるんです」

「仮の名前」

「今日は“にじむ”で、前に朝つらかった日は“ぽとん”って書きました」

「ぽとん」

「胸の中に何かが静かに落ちる感じ」

蓮はおもしろそうに眉を上げた。

真昼も手を止め、こちらを見る。

雫は少し照れながら続ける。

「別に辞書じゃないんですけど。 ちゃんと説明できない気持ちを、

そのまま持つのがつらい日に、

とりあえず置く言葉というか」

真昼はすぐにスマホを取り、打った文を見せた。

『わかる』

短い二文字なのに、雫はほっとした。

真昼はさらに続けて打つ。

『私は、“落ちる”って思う日ある』

『会話から、気持ちから、場から』

雫はその画面を見つめた。

落ちる。

たしかに、 会話の途中で周りの笑いに置いていかれたとき、 真昼の表情がふっと遠くなること

がある。あれはたぶん、置いていかれるというより、場から一段落ちる感じなのだ。

「それ、書いたほうがいいですね」

雫が言うと、真昼は少し笑う。

『じゃあ、書く』

自分のスマホのメモに何かを残し始める。

その横で、透が録音図書を止める気配がした。

「名前があると、少し持ちやすくなりますか」

透が訊いた。

雫はノートを閉じずに答える。

「はい。全部は楽にならないですけど、“いまこれなんだな”って分かるだけで、少し乱暴じゃ

くなる感じがあります」

「乱暴じゃなくなる」

「つらい、無理、だめ、だけだと、自分に向ける言葉が強すぎる日があるんです」

透は、ああ、と小さく息をついた。

それから穏やかに言う。

「それは、景色にも少し似ているかもしれませんね」

「また景色ですか」

「ええ。見える人は“雨”で済ませても、実際には細い雨とか、重い雨とか、風のある雨とかあ

でしょう」

雫は窓の外を見た。

今日の雨は、たしかに“雨”だけでは足りない。

「あると思います」

「心も、そうなのかもしれませんね」

その言い方が、雫には好きだった。

透はいつも、言葉を押しつけない。そうかもしれませんね、で置いてくれる。その置き方が、

気持ちを自分の手元へ戻してくれる。

蓮が椅子を引き寄せた。

「俺も、ちょっとあるかもです」

「なにが?」

「名前つけるやつ」

蓮は少し考えながら言う。

「聞き間違いが多い日って、ただ“疲れた”だと足りないんですよね。耳のせいなのか、周りが

わざわしてるせいなのか、自分の集中が散ってるのか、ちょっとずつ違う」

「たしかに」

「で、俺の中で、“砂嵐の日”って呼ぶ日があります」

「砂嵐」

「昔のテレビみたいな。声は来るけど、ざらざらして輪郭が取れない日」

雫は思わず身を乗り出した。

「いいですね、それ」

「よくはないですけど」

「でも、分かる」

蓮は少し照れたように笑った。

真昼も画面に打つ。

『砂嵐、わかる』

『私は口元が速いと、すべる』

「すべる?」

『読もうとしても、意味が手からすべる感じ』

その表現のきれいさに、雫は息をのんだ。

すべる。

取れたと思った意味が、手の中に残らず流れていく感じ。真昼らしい、視覚の言葉だった。

文子さんが煮物の火を弱めながら言う。

「じゃあ私は、“しぼむ”かしらねえ」

皆が振り向く。

「しぼむ?」

「ええ。元気がなくなるってほどじゃないの。気持ちの張りだけが、しゅるしゅるっと小さくな

る日」

「文子さんにもあるんですか」

雫が訊くと、文子さんは少し笑った。

「そりゃあるわよ。 年を取ると毎日達観してるみたいに思われるけど、

そんなわけないでしょう」

その返しに、蓮が噴き出した。

「達観はしてないんですね」

「してたら、たこ焼きにウインナーは入れないわ」

真昼がスマホを見せる。

『そこは認める』

台所に笑いがひろがる。

重たい話になりそうで、ならない。その加減が、雫にはありがたかった。

雨はまだ降っている。

けれど、 さっきまでの“にじむ”は少し形を変えた気がする。

ただ曖昧につらいのではなく、“に

じむ”と呼ばれたことで、少しだけこちら側へ寄ってきた。

雫はノートを開き直し、新しい頁へ見出しのように書いた。

灯台荘ことば帖

その文字を見て、蓮が目を丸くする。

「共有ですか」

「共有、いやですか」

「いや、むしろ面白いです」

透が笑った。

「辞典みたいですね」

「辞典ってほど立派じゃないです」

「立派かどうかより、役に立つかどうかじゃないですか」

その言葉に、雫は一瞬、胸があたたかくなる。

役に立つ。

それは誰かを便利にする道具の話ではなく、人が自分を少し持ちやすくなるための役立ち方

だ。

「じゃあ、書きます」

雫は頁の上へ、ゆっくり言葉を並べていく。

にじむ

理由は分からないのに、気持ちだけがじわりと広がる。

落ちる

会話や場の中から、自分だけ一段下がってしまう感じ。

砂嵐の日

声は来るのに、輪郭がざらざらして取りにくい日。

すべる

読めそうな意味が、手の中に残らず流れていく感じ。

しぼむ

元気がなくなるほどではないけれど、気持ちの張りが小さくなる日。

書いてみると、それぞれの言葉が、それぞれの人の手ざわりを持って並んだ。

同じ“つらい”の中にも、こんなに違う地形があるのだと分かる。

雫はペンを持ったまま、ふと透のほうを見る。

「透さんは、ありますか」

「僕ですか」

「ありますよね、たぶん」

透は少し黙った。

考えているというより、言葉が自分の中でちゃんと座るのを待っている沈黙だった。

「……“遠い”でしょうか」

雫はその一語を、すぐに書けなかった。

「遠い」

「ええ。疲れている日や、気持ちが散っている日は、道や音が分からないわけじゃないんです。

でも、全部が少し遠い」

真昼も蓮も、静かに聞いている。

「手すりの冷たさも、足音の跳ね返りも、いつもならすぐ拾えるものが、一枚向こうにある感じ

です。取れないわけじゃない。ただ、手を伸ばす距離が少しだけ増える」

その言葉に、雫の胸がふっと動いた。

遠い。

それは、見えない人の言葉でありながら、雫自身の沈む日にもよく似ていた。元気がない日の

朝、世界が一枚向こうにある感じ。届かないわけじゃない。ただ、遠い。

「書いていいですか」

「はい」

雫は、少し丁寧に書く。

遠い

分からないわけではない。ただ、全部が一枚向こうにある感じ。

文字になったそれを見た瞬間、透が小さく笑った。

「自分の言葉が書かれるのって、不思議ですね」

「いやでした?」

「いえ。少し照れます」

その照れた声が、雫には妙にやさしく聞こえた。

真昼が、ノートを覗き込みながら新しく打つ。

『果物みたいな日もある』

「果物?」

蓮が首をかしげる。

真昼は少し考えてから、画面を見せた。

『やわらかい日=桃』

『ぴりっとする日=みかん』

『笑える日=いちご』

「それ、かわいい」

雫が言うと、真昼は肩をすくめる。

『気分の味』

蓮が笑った。

「じゃあ俺、砂嵐の日の次にちょっと戻った日は、梨かもです」

「梨?」

「しゃりっとするから」

「何がですか」

「気持ちが」

その理屈の雑さに、文子さんまで笑い出す。

「いいじゃないの。気持ちが梨の日」

雫は、ノートの端に小さく書き足した。

桃の日

やわらかくて、少し安心している日。

みかんの日

ぴりっとしているけれど、まだ明るさがある日。

いちごの日

笑いがこぼれやすい日。

梨の日

しゃりっとして、少し戻ってきた感じの日。

そこまで書いてから、雫はふと思う。

名前をつけることは、分類することではないのだ。むしろ、その日の自分を雑に扱わないため

の、やさしい仮置きなのだと思う。

午後、雨が少し弱くなったころ、雫は洗濯物の様子を見に廊下へ出た。

透もあとから来て、手すりのところで立ち止まる。

「まだ乾きませんね」

「ええ。今日は空気が重いので」

二人で少し、雨の匂いを聞くみたいに黙った。

「透さん」

「はい」

「さっきの“遠い”、好きです」

言ってから、雫は少しだけ頬が熱くなる。好きです、という言い方は、言葉に向けても少し緊

張する。

透はそれをどう受け取ったのか、すぐには返事をしなかった。

やがて、静かに言う。

「ありがとうございます」

「同じ感じの日が、私にもあります」

「雫さんにも」

「はい。人とか言葉とか、嫌いじゃないのに、全部が一枚向こうになる日」

「それは、たしかに似ていますね」

透の声は、今日の雨みたいにやわらかかった。

「名前があると、少し近くなりますね」

雫が言うと、透は小さくうなずく気配を見せた。

「ええ。呼べるものは、置いていかれにくいですから」

その一言に、雫はしばらく返事ができなかった。

呼べるものは、置いていかれにくい。

それは気持ちの話であり、人の話にも聞こえた。

呼べる。名を知っている。どう困るのか、どう笑うのか、どんなふうに遠くなるのかを知って

いる。そういうことはたぶん、人を人のまま見失わないために必要なのだ。

「透さんって、ときどき、すごくいいこと言いますね」

雫がようやく言うと、透は少し笑う。

「ときどき、ですか」

「いつもだと悔しいので、ときどきです」

透は声を立てずに笑った。

その笑いが好きだと、雫は思う。静かで、でもちゃんと近い。

夕方になると、雨はようやく上がった。

雲の切れ間から薄い光が出て、濡れた手すりが少しだけ明るくなる。台所へ戻ると、真昼がノ

ートを覗いてまた何かを書き足していた。蓮は横から口を出し、文子さんは「辞典って育つのね

え」と感心している。

頁は、思ったよりにぎやかになっていた。

ふるふる

まだ言葉にならないけれど、心の中で揺れている状態。

ほどく

固まった気持ちが、少しずつゆるんでいくこと。

わらわら

笑いと余白が混ざって、場の隙間からこぼれる感じ。

雫はその文字を見ながら、静かに息をつく。

今日は朝からずっと“にじむ”日だった。けれど今は、同じ雨の一日でも少し違うところへ来て

いる。

名前がついたから、消えたわけではない。

それでも、抱え方は少し変わる。

誰かと共有できる形になったぶんだけ、孤独の輪郭がやわらぐ。

文子さんが夕飯の皿を並べながら言う。

「この帳面、ちゃんと役に立つわねえ」

「そうですね」

雫はうなずいた。

「説明するためっていうより、自分を雑にしないために」

「それ、大事よ」

文子さんは箸を置きながら笑う。

「人はね、名前がつかないものほど、なかったことにしやすいから」

その言葉を聞いたとき、雫は、この帳面がただの遊びではないのだと改めて思った。

見えないものに名前をつける。

それは気取った作業ではなく、 今日をちゃんと生きた証を、 どこかへ置いておくことなのかも

しれない。

夜、眠る前に、雫はひとりでノートを開いた。

今日の最初の頁には、まだ“にじむ”がある。

その下へ、もう一行だけ書き足した。

ほどく。

名前をつけたら、少しだけ自分へ戻ってきた。

窓の外では、雨上がりの道を誰かが歩いていく足音がした。

世界はまだ完全には晴れていない。明日また遠くなるかもしれないし、砂嵐の日も、落ちる日

も来るだろう。

それでもいい、と思えた。

見えないものに名前をつける。

それは、弱さを飾ることではなく、

弱さを抱えたままでも、自分を見失わないための小さな知恵だった。

気持ちはいつも、

悲しい、つらい、うれしい、だけでは収まらないことがあります。

そんなとき、うまく説明するためではなく、

自分を雑に扱わないために、そっと仮の名前を置くことがあるのだと思います。

にじむ。

遠い。

砂嵐の日。

落ちる。

ほどく。

名前をつけたから全部が解決するわけではありません。

でも、呼べるものは、少しだけ置いていかれにくくなる。

そんなことを、この話を書きながら感じました。

皆さまには、

「これはこういう日だな」

と、自分の中で呼んでいる感覚や言葉はありますか。

よろしければ、教えていただけたら嬉しいです

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