第七話 笑ってしまう日
つらいことがあった次の日に、急に何もかも平気になるわけではありません。
でも、そんな日でも、ふと笑ってしまう瞬間があることがあります。
この物語では、笑いを「ごまかし」ではなく、
一緒に生きていくための小さな力としても描いていきたいと思っています。
今回は、灯台荘の食卓の話です。
怒った次の日、朝の空気は少しだけ慎重になる。
灯台荘の台所にも、その慎重さはあった。
昨日の朗読会のことは、誰も口にしていない。けれど、口にしていないからといって消えたわ
けでもない。 怒りや悲しみは、 一晩寝たからといって、
味噌汁の湯気みたいにすぐには晴れない。
文子さんはいつも通りに動いていたが、鍋を置く音が少しだけ静かだった。
真昼は朝から洗濯物をたたみ、 蓮はコップを拭いている。 透は食卓の椅子の位置を少し整え、
雫はパン皿を並べていた。
誰も機嫌が悪いわけではない。
ただ、それぞれが少しずつ、自分の内側の手当てをしている感じだった。
そういう朝に、文子さんは突然言った。
「今日の夜は、たこ焼きにしよう」
雫は皿を持ったまま顔を上げた。
「たこ焼き、ですか」
「そう。怒った翌日は丸いものに限る」
透が少し笑う。
「そういう決まりがあるんですか」
「いま作った決まりよ」
文子さんは真顔で言った。
そのあまりの真顔ぶりに、蓮が吹き出す。
「なんですかそれ」
「丸いものは角がないでしょう。昨日は角が多かったから、今日は丸くするの」
真昼は一瞬きょとんとしたあと、スマホに打って皆へ見せた。
『理屈が雑』
その一言で、台所に小さな笑いが落ちた。
笑ったから昨日のことがどうでもよくなったわけではない。 けれど、 笑える余白が戻ってきた
ことに、雫は少しほっとした。
夜までのあいだ、それぞれ仕事や用事を片づけた。
雫は短い原稿をひとつ仕上げ、 透は借りてきた録音図書を少し聞き、 真昼は近所の八百屋へ買
い物に出た。蓮は文具店の半日勤務から戻る途中で、たこ焼き用の天かすを買ってきた。文子さ
んは昼のうちにキャベツを刻み、青ねぎを洗っておいたらしい。
夕方になると、台所は急にお祭りの準備みたいになった。
テーブルの真ん中にたこ焼き器が置かれ、その周りに材料が並ぶ。
たこ、青ねぎ、紅しょうが、天かす、チーズ。文子さんはなぜか、ウインナーとちくわまで出
してきた。
「たこ焼きなのに、たこ以外が多くないですか」
雫が言うと、文子さんは平然と返す。
「暮らしは融通よ」
「それ、たいてい文子さんが自由にしたいときに言うやつですよね」
「そうとも言う」
蓮が笑いながら、袋から天かすを出す。
「俺、今日これ買うとき、店員さんに“パーティーですか?”って聞かれました」
「なんて答えたんですか」
「“たぶん”って言いました」
真昼がそれを聞いて、肩を揺らした。
スマホに打つ。
『たぶんパーティー、好き』
「俺も、ちょっと好きです」
雫は粉と卵を大きなボウルへ入れた。
そこに透が近づいてくる。
「混ぜるの、やりますか」
「大丈夫ですか?」
「生地を混ぜる音、好きなんです」
「好きなんですね」
「均一になっていく感じが分かるので」
雫は泡立て器を手渡した。
透はボウルの縁を軽く確かめてから、手首をやわらかく動かし始める。最初は重い音。しばら
くすると、しゃかしゃかという響きが軽くなる。
「本当だ」
雫が言う。
「なにがですか」
「音、変わりました」
「卵がなじんできたんでしょうね」
透のそういうところが、雫は好きだと思う。
何かをできる、できないの話にすぐせず、ただ分かることを分かると言う。その言い方が、い
つも静かだ。
真昼はホットプレートの位置を整え、電源を入れた。
しばらくして、熱が回り始める。蓮がその横に座って、手を少し近づけた。
「来ましたね」
「音で分かる?」
雫が訊く。
「音っていうか、じりじりの気配です」
蓮は少し笑った。
「あと、たこ焼き器って熱くなる前から、なんか“やるぞ”って顔してません?」
「どんな顔」
「丸い穴がいっぱい並んでる顔」
真昼がスマホを見せる。
『それは最初から顔』
「そうなんですけど」
雫は思わず吹き出した。
透も口元をゆるめる。
「今日、蓮くんはちょっと調子がいいですね」
「そうですか?」
「ええ。例えが多いので」
「例えが多いと調子いいんですか」
「少なくとも、黙ってるよりは」
その言い方がやわらかくて、蓮は少し照れたように笑う。
真昼はそのやりとりを見ながら、 こっそりスマホに何か打ち込んだ。 雫が横目で見てしまう。
『蓮くん、今日は機嫌いい』
雫は思わず口元を押さえた。
真昼が気づいて、しまった、という顔をする。けれどもう遅い。
「何ですか」
蓮が訊く。
真昼は一瞬迷ったあと、そのまま画面を見せた。
蓮は読み、耳まで少し赤くする。
「……まあ、たこ焼きなんで」
『単純』
「否定はしません」
そのやりとりに、また皆が笑った。
生地ができると、文子さんが油を引き、雫が柄杓で流し込む。
じゅわっ、といい音がして、白い生地が丸い穴から少しあふれる。そこへ真昼が素早く青ねぎ
を散らし、蓮が天かすを入れる。透は横で、たこの位置を雫に確認してもらいながら、竹串を渡
す役を引き受けた。
「共同作業ですねえ」
雫が言う。
「これ、うまくできるんですかね」
蓮が覗き込む。
「最初はだいたい失敗するわよ」
文子さんが言った。
「最初からうまくいくたこ焼きなんて、信用ならないもの」
「その理屈も雑ですね」
「暮らしはだいたい雑で回ってるの」
そうこうしているうちに、最初の列が焼けてきた。
雫が竹串で縁を持ち上げるが、うまく回らない。生地が穴の外へ広がって、隣とつながってい
る。
「あっ」
「つながってる?」
透が訊く。
「つながってます。かなり」
「どのくらいですか」
「ええと……」
雫は思わず笑ってしまう。
「小さい大陸みたいになってます」
蓮が覗き込んで噴き出した。
「ほんとだ。たこ焼き大陸」
真昼はすかさずスマホに打つ。
『国名つけたい』
「やめてください、愛着湧くから」
『丸国』
「雑!」
雫は笑いながら、なんとか生地を切り離そうとした。
けれど一つだけ、 どうしてもきれいに分かれない穴がある。 そこだけ妙に大きく育っている。
「これ、どうします」
「育てましょう」
文子さんが即答した。
「育てるんですか」
「ええ。たまにそういう子がいるの」
真昼が画面を見せる。
『親心みたいに言わないで』
蓮はもう声を立てて笑っている。
「だめだ、今日の文子さん、全部ちょっと変だ」
「昨日の反動よ」
文子さんは悪びれもしない。
たこ焼き器の前は、しばらく戦場みたいだった。
くるりと回るものもあれば、 途中で裂けるものもある。 真昼は色づき具合を見るのが上手く、
蓮はタイミングよく天かすを追加するのがなぜか上手かった。透は音と匂いで焼け具合の変化を
拾い、雫は形の崩れたものを「味は同じです」と言い張りながら皿へ移した。
そのうち、問題の“大きい子”がついに完成した。
普通のたこ焼きの、ほぼ三倍。
丸いというより、丸くなろうと努力した何か、という感じで皿の中央に鎮座している。
雫は思わず言った。
「……これはもう、たこ焼きじゃなくて意思ですね」
透が笑う。
「意思」
蓮は身を乗り出した。
「見たい見たい」
真昼がスマホを出すより早く、雫が説明する。
「丸いんですけど、丸くおさまってないんです。ちょっと堂々としてます」
「それ、意思ですね」
蓮は納得したようにうなずいた。
真昼は画面に打つ。
『名は、親玉』
「親玉」
透が声に出すと、皆また笑う。
結局、その親玉は誰が食べるかで少し揉めた。
文子さんは 「育てたのは私だから」 と言い、 蓮は 「見た目が面白いから俺がいきます」
と言い、
雫は「説明した責任で私が」と言い、真昼は『半分にしたら親玉じゃない』と主張した。
透だけが静かにお茶を飲んでいたが、ふいに言った。
「親玉、真昼さんと蓮くんで分けたらどうですか」
一瞬、場が止まる。
「え」
蓮が固まった。
真昼も目を上げる。
透は何でもない声で続けた。
「今日いちばんたこ焼き器の前で働いていたの、その二人でしたし」
雫は思わず、ああと心の中で声を上げた。
透はこういうとき、とても自然だ。自然すぎて、ときどき人の胸だけが先にざわつく。
真昼は一瞬だけ蓮を見て、それからスマホを打つ。
『じゃあ、半分こ』
蓮は耳まで赤くしたまま、咳払いをひとつした。
「……はい」
文子さんは気づかないふりをして、ソースを差し出した。
雫は気づいているふりをしないことにした。そういうやさしさが必要な瞬間もある。
親玉たこ焼きを箸で割ると、中から湯気が立った。
思ったよりちゃんと火が通っている。 チーズとたことウインナーが、 なぜか全部入っていた。
「自由すぎる」
蓮が言う。
真昼は食べてから、目を丸くした。
『意外とおいしい』
「ほんとだ」
蓮も笑う。
「なんか、全部入ってるけど、全部いる」
その一言に、雫はふと胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
全部いる。
今日の食卓みたいだ、と思った。
見えにくい人。
聞こえにくい人。
聞こえない人。
沈みやすい人。
よく笑う人。
雑な理屈でたこ焼きを始める人。
きれいに同じではない。
でも、一緒にいると、なぜか味がまとまる日がある。
食卓はだんだんにぎやかになっていった。
ソース派か、しょうゆ派か。マヨネーズはかけすぎか。紅しょうがは多めがいいか。そんな、
どうでもいいのにどうでもよくない話で盛り上がる。
真昼は途中から手話で笑い、蓮はそれを半分読めるようになってきたことがうれしそうだった。
透は雫に「いま真昼さん、どんな顔してますか」と何度か訊き、そのたびに雫は「すごく楽し
そうです」と答えた。すると透は、声だけで少し笑う。
そのやりとりを繰り返すうちに、雫はだんだん、自分の説明が透へ届いていくのがうれしくな
った。
景色を渡す。顔つきを渡す。場の空気を渡す。そういうことが、ただの役目ではなくなってき
ていることを、雫はもう知っている。
「雫さん」
透がふと呼ぶ。
「はい」
「いま、蓮くんはどんな顔ですか」
雫はそちらを見て、思わず笑う。
「真昼さんのスマホを見るたび、ちょっと機嫌がよくなる顔です」
「やめてください!」
蓮が慌てて言う。
真昼は何のことかと画面を上げ、それから意味が分かって、肩を揺らした。
『図星』
「ほんとにやめてください」
その必死さが可笑しくて、皆また笑った。
笑いは次々に連鎖していく。たこ焼きの焼ける音と、ソースの匂いと、誰かの咳払いと、笑い
声。家の中が、丸い音で満ちていく。
食べ終わるころには、テーブルの上にはソースの跡と、空になった皿と、少しだけ冷めたお茶
が残っていた。
文子さんが満足そうに言う。
「やっぱり丸いものはいいわね」
「まだ言うんですね」
雫が笑う。
「今日はちょっと信じてもいいかもしれません」
透がそう言った。
文子さんは得意そうに「でしょう」とうなずく。
片づけを始めると、真昼がホワイトボードを持ってきて、さらさらと書いた。
『昨日、いやだった』
『今日、笑えた』
その二行を見たとき、台所の空気が少し変わった。
やわらかいまま、静かになった。
雫はその文字を見つめる。
昨日、いやだった。
今日、笑えた。
その順番がよかった。
昨日のいやだったことを、なかったことにしないまま、今日笑えている。人はたぶん、その両
方を持ったまま生きていける。悲しかったことも、怒ったことも、なかったことにせず、それで
も笑ってしまう日がある。
蓮が、少し照れたみたいに言う。
「なんか、それ、いいですね」
透もうなずく。
「ええ。順番が正直です」
文子さんは洗い物をしながら、振り向かずに言った。
「いつも機嫌よくなんて、してられないもの。でも、笑える日は、ちゃんと笑っといたほうがい
いのよ」
雫は、たこ焼き器のプレートに残った丸い跡を見た。
いくつもの穴が並んでいる。そのどれもが少しずつ違う焼け方をしていた。
全部同じ丸にはならない。
少しいびつなものもある。うまく返せなかったものも、途中で崩れたものもある。
でも、それで食卓がだめになるわけじゃない。
むしろ、ちょっと崩れたものを見て、笑ってしまう日がある。
そういう日のほうが、あとで長く残ることもある。
片づけのあと、雫は窓を少し開けた。
夜の空気はまだ冷たい。遠くで電車の音がして、近所の犬が一度だけ吠えた。
居間では、蓮が真昼に「親玉、ほんとに半分でよかったんですか」と訊いている。
真昼は何か打って見せ、蓮がまた赤くなっている。
透はそれを直接見えないまま、 声の調子だけでたぶん察している。 文子さんは湯呑みを並べな
がら、何もかも分かっている人の顔をしていた。
雫は、その音の混ざり方を聞きながら思う。
愛が地球を救う、というのは、こういうことなのかもしれない。
大きな言葉で世界を変えることではなく、 怒った次の日にたこ焼きを焼くこと。 失敗した形を
見て一緒に笑うこと。誰かが今日はよく笑っていると気づくこと。そういう丸い時間を、ひとつ
でも増やすこと。
胸の中に、小さく言葉が落ちる。
――わらわら。
笑いと余白が混ざり合って、言葉の隙間からこぼれる音。
きっと、そういう日も、生きていく力のひとつなのだ。
傷ついたことが、笑うことで消えるわけではありません。
でも、消えないままでも、ふと笑える瞬間が戻ってくることがあります。
誰かと一緒に食卓を囲むこと。
少し失敗したものを見て笑うこと。
機嫌のよさや照れくささに、そっと気づいてもらうこと。
そういう小さな時間が、昨日の重さを少しだけほどいてくれるのだと思います。
昨日、いやだった。
今日、笑えた。
その両方を持っていていいのだと、私もこの話を書きながら感じました。
皆さまには、
「しんどいことは消えていないのに、なぜか少し笑えた」
そんな日はありますか。
よろしければ、教えていただけたら嬉しいです




