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小さな愛が灯る場所  作者: 浮世雲のジュン
7/11

第六話 怒ってもいい

やさしく生きようとする人ほど、怒ることにためらってしまうのかもしれません。

でも、本当はつらかったのに、 「これくらいで怒るのは違う」と飲み込んでしまうこともありま

す。

この物語では、助け合いだけでなく、傷ついたときにちゃんと傷ついたと言えることも、大切に

描きたいと思っています。

今回は、灯台荘のみんなが「怒ってもいい」にたどり着く話です。

怒りは、いつも大きな音でやって来るわけではない。

黙って積もることがある。

言い返せなかった帰り道に。

相手は悪気がなかったのだと自分を納得させた夜に。

たいしたことではないと笑って済ませた、そのあとに。

灯台荘の朝は、その日もいちおう穏やかだった。

文子さんが台所で煮物を作っていて、醤油と出汁の匂いが部屋じゅうにひろがっている。透は

録音図書のケースを棚へ戻し、真昼はホワイトボードに何か書いていた。蓮は補聴器の電池を交

換しながら、うまくはまらない小さな蓋に苦戦している。雫はコップに水をつぎ、窓から入る風

の具合で、今日は洗濯物が乾きそうだと思っていた。

そのとき、文子さんがテーブルの上のチラシを叩いた。

「そうだ。今日の午後、図書室で小さな朗読会あるんだった」

市民図書室・春の朗読とお茶の会。

地元の人が詩や短い随筆を読む集まりらしい。参加自由。お茶菓子あり。チラシには、手描き

のやわらかい花の絵が添えられていた。

真昼が身を乗り出し、ホワイトボードに書く。

『行きたい』

「お、いいねえ」

文子さんが笑う。

透も顔を上げた。

「図書室なら、場所は分かります」

「私も行きたいです」

雫が言うと、蓮が電池のパッケージをたたみながら首をかしげた。

「朗読会って、聞くやつですよね」

「そうねえ」

「俺、ちょっと聞き取りにくいかもです」

その言い方は軽かった。

軽かったけれど、雫にはその奥のためらいが少し聞こえた。聞きたい気持ちはある。けれど、

聞こえにくい場所へ自分から行くのは、たいていそれだけで疲れる。

真昼がすぐに書く。

『資料あるなら大丈夫かも』

透がうなずいた。

「読まれる文章が手元にあると、いいですね」

「じゃあ、行く前に図書室へ電話して聞いてみようか」

文子さんが受話器に手を伸ばした。

結果は、たぶん大丈夫、だった。

文子さんが戻ってきて言う。

「読まれる作品は短いし、印刷した紙も少しあるって。真昼ちゃんのことも言っといたら、でき

るだけ顔を上げて読むように伝えてみますって」

それなら、と皆で行くことになった。

午後三時。

図書室の小さな会議室には、丸椅子が二列に並べられ、前に簡易な机とマイクが置かれてい

た。参加者は十人ほどで、年配の人が多い。窓からやわらかい光が入っている。空気は穏やかだ

った。

最初のうちは、たしかに悪くなかった。

司会の女性はよく通る声で挨拶をし、今日読む作品の紙を前の机に置いた。雫は真昼の分を取

り、蓮にも一部渡す。透には、順番と誰が読むかを耳元で短く伝えた。

真昼は紙に視線を落とし、蓮はそれと前の司会の口元を交互に見る。雫は、これなら大丈夫か

もしれないと思った。

最初の二つの朗読までは。

三人目の読み手は、町内会の世話役らしい男性だった。

年は六十を過ぎているだろうか。声は大きいが、原稿に顔を落としたまま、早口で読んだ。語

尾が紙に吸われ、ところどころ聞き取りにくい。真昼は紙を追っていたが、朗読と紙の版が少し

違うらしい。途中から眉が寄った。

蓮も何度か瞬きを増やし、聞き取りの焦点を合わせようとしている。

雫はその横顔を見て、嫌な予感がした。

朗読が終わると、司会がにこやかに言った。

「では次は、作者の思い出話も少し」

その“少し”が、長かった。

原稿にない話が始まる。

しかも、読み手は客席の誰かに向かって笑いながら、横を向いたり、うつむいたりする。言葉

が飛ぶ。固有名詞が抜ける。会場ではところどころ笑いが起きるが、何で笑っているのか、真昼

にも蓮にも取りきれない。

真昼は雫のほうを見る。

雫は短く口の形で伝えようとするが、全部は追いつかない。

蓮は苦笑いをしていた。

聞こえないふりをするでもなく、 分かっているふりをするでもなく、 その中間の困った笑いだ

った。

透は小さな声で訊いた。

「いま、雑談ですか」

「はい。原稿にない話をしてます」

「なるほど」

その「なるほど」には、落胆が少し混じっていた。

司会は次の読み手に移ったが、今度は紙が足りなくなった。

前の机を見に行くと、最後の一枚を年配の女性が持っていってしまったらしい。

「すみません、追加はありますか」

雫が司会に訊ねると、司会は少し困った顔をした。

「えっ、さっき置いた分で終わりなんです。そんなに必要でした?」

その一言で、空気が少し変わった。

そんなに必要でした?

雫は一瞬、意味が飲み込めなかった。

必要だから訊いているのだ。

けれど司会の顔には責める色はない。ただ、本気で意外そうにしているだけだった。

横で、真昼の眉がぴくりと動いた。

ホワイトボードもメモ帳も今日は持っていない。 こういう外の場では、 荷物を減らしたい日も

ある。真昼はスマホを出し、短く打って雫に見せた。

『ないなら、読めない』

その文字が、雫の胸に重く落ちた。

「すみません。できれば、二、三枚多めにあると助かります」

雫が言うと、司会は「ああ……」と曖昧に笑った。

「でも朗読会ですしねえ。聞いて楽しむ会なので」

その言い方は、やわらかい。

やわらかいのに、はっきり切っていた。

聞いて楽しむ会なので。

蓮がわずかに顔を伏せた。

真昼の指先が、スマホの端を強く押さえている。

雫は口を開こうとして、言葉がうまく出なかった。

そのとき、透が静かに言った。

「その“聞く”に入りにくい人も、いますよね」

司会が、え、と透を見る。

その目に悪意はない。悪意はないのに、透はもう知っている。こういう場で、悪意がないこと

は免罪符にならない。

「今日は、文章があると助かる人が何人かいるんです」

透の声は穏やかだった。

「もし難しければ、それは仕方ないです。でも、“そんなに必要でした?”ではなく、“足りな

てすみません”のほうが、たぶんやさしいと思います」

会場が静かになった。

年配の参加者が何人かこちらを見る気配がある。

司会は頬を赤くして、口を開いた。

「そんなつもりじゃ……」

蓮が、その続きを聞く前に言った。

「分かってます。そんなつもりじゃないのは。でも、こっちはよくあるんです。分からないまま

座ってるしかない時間が」

思ったより強い声が出たらしく、本人が少し驚いた顔をした。

蓮は普段、ここまで前へ出ることが少ない。聞き返すことには慣れていても、怒りを表に出す

ことにはあまり慣れていない。

でも、その日はもう、積もっていたのだろう。

役所でも。仕事でも。日々の小さな取りこぼしでも。

「別に、特別扱いしてほしいわけじゃないです」

蓮は続けた。

「ただ、最初からいないみたいに進むと、きついです」

真昼が、そこで立ち上がった。

その動きに、会場の視線が集まる。

真昼はスマホを開き、少し震える指で文字を打ち、雫に見せた。

『もう帰りたい』

雫はうなずいた。

それで十分だった。

「すみません。今日はこれで失礼します」

司会があわてて言う。

「いえ、そんな、せっかく来ていただいたのに」

せっかく。

その言葉もまた、雫には少し痛かった。せっかく来たのに、傷ついて帰る。そのことへの想像

が、まだこの場には足りていない。

図書室を出るまで、誰もあまり話さなかった。

廊下の空気は会議室より少し冷たくて、雫はそれに助けられた。

会議室の中では怒りより先に、恥ずかしさが立ってしまった。騒ぎにしたみたいで嫌だ、空気

を悪くしたみたいで嫌だ、司会も困っていたし、きっと悪い人じゃない。そうやって自分の気持

ちを後ろへ下げる癖が、雫にはある。

けれど、外へ出てから真昼の横顔を見ると、その癖は少し止まった。

真昼は怒っていた。

悲しいより、はっきりと怒っていた。

市民会館の外のベンチに座ると、真昼はスマホを打った。

『紙がないのは仕方ない』

『でも、“そんなに必要?”はいやだった』

蓮がすぐに言う。

「うん。俺もそこ、きつかったです」

透は白杖を膝に置きながら、静かに続けた。

「存在の条件を、その場の都合で軽くされる感じがありますね」

雫は、その言葉に息を呑んだ。

存在の条件。

それはたしかに、あの場で揺らいでいた。紙があるかないかの話ではなく、この会に“いる”こ

とが最初から想定されていたかどうかの話だった。

「私、最初、怒るほどのことじゃないのかなって思ってしまいました」

雫が言うと、文子さんの言葉みたいな声で、でも文子さんより少し低く、透が返した。

「怒っていいと思いますよ」

その一言が、雫の肩から何かを落とした。

蓮も苦く笑う。

「俺も毎回、これでイラつくの大人げないかなって思います」

「でも」

雫は真昼のスマホを見た。

そこには短い怒りが、まっすぐ置かれていた。

『いやだった』

たったそれだけの文字が、妙にきれいだった。

真昼はさらに打つ。

『私は毎回、入口から作る』

『なのに、ないほうが不思議みたいに言われた』

蓮が「それだ」と言った。

「毎回こっちは、分かるようにしようとしてるのに」

透が続ける。

「努力している側が、必要を口にしたとたんに“そんなに?”と言われると、いきなりわがまま

たいになりますからね」

雫は思った。

怒りというのは、乱暴な感情ではなく、境界線の感覚なのかもしれない。ここはつらかった。

これはいやだった。そこを踏まれた。だから怒る。その順番を、いままでどれだけ飛ばしてきた

だろう。

そこへ、文子さんから電話が来た。

雫が出ると、向こうで文子さんが言う。

「どうだった?」

雫は少し迷ってから、正直に答えた。

「途中で帰ってきちゃいました」

「あら」

「うまく配慮が足りない感じで……真昼さんも蓮くんも、ちょっとしんどくなって」

文子さんは少し黙ってから言った。

「じゃあ、帰っておいで。おやつにするから」

その一言で、雫は少し泣きそうになった。

事情を全部説明しなくても、帰っておいで、でいい場所がある。それは怒りを持った人間にと

って、とても大事な避難所だ。

灯台荘に戻ると、台所の机にはホットケーキが焼かれていた。

丸い皿に重なっている。バターと蜂蜜の匂いがする。文子さんは何も訊かずに、ただ「手、洗

っといで」と言った。

その言い方に、誰も少し笑った。

笑えるくらいには、家の空気がやわらかかった。

席につくと、文子さんが紅茶を注ぎながら訊いた。

「で、なにが一番いやだった?」

その訊き方はよかった。

誰が悪かったの、 でもなく、 そんなにひどかったの、 でもない。 なにが一番いやだった? だ。

自分の感情の中心を自分で選んでいい問い方だった。

真昼がスマホを打つ。

『いないみたいだった』

その文字を見て、台所が静かになった。

雫は唇を噛みしめる。

それだ。

いないみたいだった。

最初から、そこにいる人として数えられていない感じ。

蓮も低く言う。

「俺も、似てました。聞こえる人向けの流れに、なんとか自分でついてこいって感じで」

「うん」

雫はうなずいた。

「私も、途中から、二人の分をどうにかしなきゃって焦ってしまって。でも、そういうことじゃ

ないんですよね。最初から場の側に、少しだけ想像があればよかっただけで」

透が静かに言った。

「想像って、愛情に近いですね」

文子さんが「そうねえ」と返す。

「相手がどんなふうに困るか、少し先回りして考えることだものね」

蓮はホットケーキを切りながら、ぽつりと言った。

「俺、怒るとすぐ、自分が面倒なやつみたいに思えてくるんですよ」

「分かる」

雫がすぐに言う。

「私も、困ったって言うだけで、わがままに聞こえる気がすることあります」

真昼は頷いて、また打った。

『でも、怒らないと、なかったことになる』

その一文に、皆が黙った。

そうだ。

怒らなければ、何も起きなかったことになる。

気まずくしないために笑って帰れば、その場は穏やかに終わるかもしれない。けれど、その穏

やかさの下で、傷ついた側だけが自分の感情を持ち帰る。

透がゆっくり言う。

「怒ることと、誰かを傷つけ返すことは、同じではないですからね」

雫はその言葉を繰り返すように心の中でなぞった。

怒ることと、傷つけ返すことは違う。

「いやだった、と言っていい。困る、と言っていい。悲しかった、と言っていい」

透は続ける。

「その言い方を選べば、怒りはたぶん、壊すだけじゃないです」

文子さんが、焼きたてをもう一枚皿にのせた。

「怒りはね、だいじなところに触られた印でもあるのよ」

蓮がその言葉に少し驚いたように顔を上げる。

「印」

「そう。ほんとは平気じゃなかった、っていう印」

真昼は、その言葉を聞いたあと、しばらくしてスマホに打った。

『今日は、怒ってよかった?』

誰にともなく向けられた問いだった。

雫はまっすぐうなずいた。

「よかったと思う」

蓮も言う。

「うん。よかった」

透は、少しだけ笑って答えた。

「僕は、真昼さんが“もう帰りたい”って言ってくれて、ほっとしました」

真昼が目を上げる。

「我慢して座っていたら、たぶん、もっとつらかったですから」

その言葉に、真昼の肩から少し力が抜けたのが分かった。

怒りは、時々、出口にもなる。

自分を守るための、ぎりぎりの戸口にも。

おやつのあと、雫はひとりで洗い物をしていた。

蛇口の水が皿に当たる音を聞きながら、今日のことを思い返す。

会議室で、最初に感じたのは怒りではなかった。

恥ずかしさだった。申し訳なさだった。空気を乱したような気持ちだった。

でも、その奥にはたしかに怒りがあったのだ。真昼が“いないみたいだった”ことに。蓮が“最

初からついてこいと言われた”みたいだったことに。そして、自分もまた、それをその場でうま

守れなかったことに。

「雫さん」

後ろで透の声がした。

「はい」

「今日、言葉にしてくれてありがとうございました」

「私、あまりちゃんと言えませんでした」

「十分でしたよ」

またその言葉だった。十分。

雫は皿を拭きながら、少し笑う。

「透さん、十分って言葉、好きですね」

「足りないと思ってる人に必要な言葉だと思うので」

その言い方が、雫にはあまりにもやさしくて、少しだけ困る。

困る、というのは、悪い意味ではない。胸のあたりが落ち着かなくなる、あの感じだ。

「私、怒るの苦手です」

雫はぽつりと言った。

「ええ」

「でも今日、怒ってる真昼さんを見て、きれいだなって思ってしまいました」

透は少し黙った。

それから、静かに言う。

「自分を大事にしてる怒りは、きれいなのかもしれませんね」

雫は、濡れた布巾をしぼりながら、その言葉を聞いた。

自分を大事にしてる怒り。

それなら、自分もいつか、そういうふうに怒れるだろうか。

相手を打ちのめすためではなく、自分や誰かの大事なところを守るために。

窓の外では、もう夕方の色が薄く落ち始めていた。

台所には、洗った皿の匂いと、まだ少しだけ蜂蜜の残り香がある。真昼の笑う声は聞こえない

が、居間で蓮が何か言って、それに文子さんが笑った気配がした。

怒った日の家は、静かにあたたかい。

それは不思議なことだった。 怒りは場を壊すものだと思っていたのに、 灯台荘ではむしろ逆だ

った。ほんとはいやだった、を言えたあとのほうが、人と人の間は少しだけ正直になる。

雫は食器棚を閉めながら、心の中に小さく言葉を置く。

――まもる。

大事なものを、大事だと言っていいこと。

怒ってもいい。

言ってもいい。

帰ってきてもいい。

そういう場所があるから、人はまた明日も外へ出られるのかもしれない。

第六話は、 「怒ってもいい」にたどり着く話でした。

やさしい人ほど、傷ついたときにまず自分を疑ってしまうことがあります。

これくらいで怒るのは違うのではないか。

相手に悪気はなかったのだから、自分が我慢すればいいのではないか。

そんなふうに、怒りを飲み込んでしまうこともあるのだと思います。

でも、本当はいやだった。

つらかった。

いないみたいだった。

そう感じたことには、きっと意味があります。

怒ることは、誰かを傷つけ返すことではなく、

自分や誰かの大事なところを守ることでもあるのかもしれません。

皆さまには、

「本当はいやだったのに、笑って済ませてしまった」

そんな経験はありますか。

よろしければ、教えていただけたら嬉しいです

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