第五話 今日は返信できません
返したいのに、返せない。
嫌いになったわけでも、 無視したいわけでもないのに、 言葉の入口までたどり着けない日があり
ます。
この物語では、そうした「見えにくいしんどさ」も、ただ暗いものとしてではなく、誰かと支え
合いながら生きていく暮らしの一部として描いていきたいと思っています。
今回は、雫の一日です。
雫は、通知の赤い丸が苦手だった。
ひとつならまだいい。
けれど、それが二つ、三つと並びはじめると、スマホの画面が急に息苦しくなる。そこにある
のはただの数字なのに、雫には「早く」 「まだ?」
「ちゃんとして」の形をした圧みたいに見える
ことがある。
その朝も、目が覚めて最初に見た画面に、赤い丸が四つ並んでいた。
仕事の連絡。
ネット通販の配送通知。
高校時代の友人・美緒からのメッセージ。
そして、母からの短い一文。
『元気にしてる?』
元気にしてる?
やさしい文だ。責める調子ではない。
けれど雫には、そのやさしささえ時々まぶしすぎる。元気ではないとき、元気かと訊かれるこ
とは、思ったより返事に困る。
画面を伏せる。
まだ朝だ。まだ返さなくていい。
そう思って布団から出たのに、胸の中にはもう小さな重りがひとつ落ちていた。
――ぽとん。
雫は洗面所で顔を洗いながら、その音を心の中で聞いた。
今日の自分は、まだ大丈夫だろうか。
大丈夫ではないかもしれない。
でも、朝の時点ではそれ以上分からない。
台所へ行くと、文子さんがトーストを焼いていた。
バターの匂いがしている。味噌汁の朝も好きだが、パンの朝は少しだけ世界が軽い。
「おはよう」
「おはようございます」
文子さんは雫の顔を見るなり、 「通知、多い顔してるねえ」と言った。
雫は思わず立ち止まった。
「顔に出てますか」
「出るわよ。眉間が半分だけ寄ってる」
そう言われて、雫は自分の額に手をやった。
たしかに少し力が入っていた。
「朝から連絡がいくつか来てて」
「急ぎなの」
「たぶん、ひとつは急ぎです。あとは、急ぎじゃないけど返したほうがいいやつです」
「いちばん厄介なの、後ろのやつね」
雫は小さく笑った。
そうだ。急ぎの仕事は、ある意味ではまだ楽だ。期限と内容がはっきりしているから。
本当に重いのは、返したほうがいい、でも今の自分ではうまく返せない言葉たちだ。
食卓には、透がいた。
湯のみではなく、今日はマグカップを持っている。珈琲の日らしい。
「おはようございます」
「おはようございます」
透の声はいつも通り落ち着いていた。
その「いつも通り」に、雫は少し救われる。自分の中がざわついている日ほど、誰かの平らな
声がありがたい。
「雫さん、今日はパンの匂いですね」
「はい。文子さんがトーストです」
「いいですね。音も軽い」
「音も軽いんですか」
「パンの朝は、みんな椀を持たないので」
そう言って、透が少し笑う。
雫もつられて笑った。こういう何気ない違いを、透はいつも拾う。
そこへスマホが震えた。
テーブルの上で、ぶる、と短く鳴る。
見る前から分かってしまう。
返せていないものが、またひとつ増えたのだ。
雫は画面を伏せたまま、見ないふりをした。
けれど、透はその気配を聞き取ったらしい。
「急ぎですか」
「……たぶん、急ぎじゃないです」
「じゃあ、まだ見なくて大丈夫かもしれませんね」
その言い方が、雫にはありがたかった。
すぐ見たほうがいい、でもなく、大丈夫ですよ、でもない。かもしれませんね、だ。余白のあ
る言葉だった。
雫はトーストをちぎりながら言う。
「私、返事を返すのが遅い日があって」
「ありますね」
透は自然に言った。
「そういう日って、嫌いになったわけでもないし、無視したいわけでもないんです。でも、なん
て返していいか分からなくなるというか……返事の入口まで行けない感じがして」
「入口が遠いんですね」
昨日、真昼が書いていた言葉だ。
入口が重い。
雫はその言葉を思い出しながら、うなずいた。
「そうです。開ければたぶん大したことじゃないのに、扉の前でずっと立ってる感じです」
透は少し考えてから、静かに言った。
「言葉って、返事そのものより、相手のところまで行くのが大変なときがありますね」
その一文が、雫の胸にまっすぐ落ちた。
そうだ。返事を打つことより、相手の気配のところまで心を持っていくのがしんどいのだ。自
分の内側だけで手いっぱいの日には、外側へ向かう通路が狭くなる。
文子さんがコーヒーを置きながら言う。
「今日は、返すものを三つに分けたら?」
「三つ?」
「今日返す。明日でもいい。今は返さない。大事なのは、全部を同じ重さで抱えないことよ」
雫はトーストを持ったまま、その言葉を頭の中で並べた。
今日返す。明日でもいい。今は返さない。
それは、思っていたよりずっと救いのある分け方だった。
「それ、やってみます」
「うん。あと、返せないときは短くてもいいの」
「短く?」
「 『今日は返事が難しいです。また改めます』でも立派な返事」
雫は少し黙った。
そんな短い言葉でいいのだろうか、と最初は思った。ちゃんと説明しなくていいのか。感じ悪
くないか。失礼じゃないか。
でも、何も返せないまま自分を責め続けるより、短くても扉をひとつ開けるほうが、たぶんず
っといい。
その日の午前中、雫は在宅の仕事に向かった。
パソコンを開き、必要な資料を並べる。仕事の文章はまだできる。決まった情報を整理し、必
要な言葉を置いていく作業は、私的なやりとりよりずっと楽だ。気持ちを全部は使わなくて済む
からだ。
先に仕事の急ぎだけ返した。
それはできた。
問題は、そのあとだった。
美緒からのメッセージを開く。
『久しぶり! この前近くまで行ったから、今度ほんとに会いたいなって思って。雫、最近どう
してる?』
悪い文ではない。
むしろ、あたたかい。懐かしい。ちゃんとした友達の文だ。
だからこそ、雫は苦しくなる。
最近どうしてる?
何から話せばいいのだろう。
元気じゃない。でも、いきなり鬱の波の話をするほどの距離でもない。会いたいと言われるの
はうれしい。でも、会える自信はない。断るのも、嫌だ。
画面の前で指が止まる。
何も打てないまま、数分が過ぎる。
そのうち、また通知が震えた。
今度は母だった。
『忙しいかな。無理しないでね』
その一文が、かえってつらい。
無理しないで、 と言われると、 自分がもう無理している側の人間だと認めなければならない気
がする。認めたくないわけではない。ただ、それを母に向けて言葉にすると、急に本当になって
しまいそうで怖いのだ。
雫は椅子にもたれ、目を閉じた。
窓の外で、遠くの工事の音がしている。近所の洗濯機が回る低い振動。どこかの家の犬が一度
だけ鳴いた。 世界はちゃんと昼へ向かっているのに、
自分だけがメッセージの前で止まっている。
――しゅわ。
胸の中で、言葉にならない疲れが細かい泡になってひろがる。
返信をしなければ。
でも、何を。
どういう温度で。
どこまで本当を言っていいのか。
考えれば考えるほど、入口が遠ざかる。
気づけば、昼になっていた。
文子さんが「食べる?」と声をかけてくれたが、雫は「少しあとで」と返した。食欲がないわ
けではない。ただ、誰かのいる空間にいく元気が、いまは少し足りない。
スマホがまた震える。
『既読ついたから、忙しいところごめんね! また落ち着いたらで大丈夫だよ』
美緒からだった。
責めていない。
ちゃんと気を遣ってくれている。
それなのに、雫はその「大丈夫だよ」にさえ、自分がちゃんとしていないことを見透かされた
気がしてしまう。
そんなふうに受け取るのは、たぶん相手に失礼だ。
分かっている。
分かっているのに、心の受け皿が浅い日は、やさしさまでうまく受け取れない。
雫はスマホを伏せ、机に額をつけた。
冷たい木の感触が少しだけ気持ちいい。
しばらくして、部屋のドアが小さく二度鳴った。
こん、こん。
「雫さん」
透の声だった。
「起きてます」
「お茶、いりますか」
雫は一瞬、返事に迷った。
誰かと話す元気はあまりない。けれど、断るだけの力もいまはない。
「……いただきます」
「はい」
少しして、ドアの外に盆が置かれる気配がした。
「入ってもいいですか」
「どうぞ」
透はドアを開け、湯気の立つカップを机の端に置いた。
ハーブティーらしい、やわらかい香りがする。
「文子さんが、食事はあとでもいいけど水分は取ってって言ってました」
「すみません」
「謝ることではないですよ」
透はそれ以上踏み込まなかった。
部屋の様子を探るみたいに少し首を傾け、雫の呼吸が早くないかだけ確かめているような気
配がある。
「何かありましたか、と聞くのも重いですか」
透が静かに言う。
雫は少し考えた。
重いです、と言ってもよかった。
でも、その声の温度がやわらかかったから、少しだけ本当のことを口にできた。
「返事が、できなくて」
「メッセージですか」
「はい。仕事じゃないほうの」
透はうなずいた気配だけを返す。
「返したいんです。でも、何を返せばいいか分からなくなって。嫌いとかじゃないんです。本当
に」
「はい」
「相手に悪いって思うほど、余計に返せなくなって」
「はい」
その「はい」が、雫にはありがたかった。
助言でも励ましでもなく、まず受け取ってくれる「はい」だった。
雫は言葉を探しながら続ける。
「私、元気なふりをした返事も、急に重たいことを書く返事も、どっちもできない日があって」
「中間が難しいんですね」
「そうなんです」
透は少しだけ間を置いてから言った。
「景色の話と似てるかもしれませんね」
「景色?」
「見えたままを全部言おうとすると、多すぎて言えない。でも、何も言わないと渡らない。だか
ら、とりあえず今いちばん近いものを一つ置く」
雫はその言葉を、ゆっくり聞いた。
いちばん近いものを一つ置く。
「それ、返事でもいいんでしょうか」
「いいと思います」
透の声は静かだった。
「 『うれしかったです。今日はうまく返事が書けないので、また改めます』でも、十分に本当で
はないですか」
雫は顔を上げた。
十分に本当。
その言い方が好きだと思った。立派に正しい返事ではなく、十分に本当な返事。
「そんなので、いいんですかね」
「いいかどうかは相手が決めることもあるでしょうけど、雫さんが嘘をつかずに出せる言葉とし
ては、いい気がします」
透はそこで少し笑った。
「少なくとも、何も返せないまま自分を責め続けるよりは」
雫も小さく笑った。
「それは、そうですね」
透が部屋を出たあと、雫はしばらくカップを両手で持っていた。
湯気が指にあたる。香りが少しずつ呼吸を整える。
そして、スマホを取り上げた。
まず美緒に返す。
『連絡うれしかったです。ありがとう。ちょっと今、うまく返事をまとめられない日で、短くて
ごめんね。また落ち着いてから改めて返します』
送信するまで、また少し時間がかかった。
けれど、送ってしまえば、それはちゃんと世界へ渡った。完璧ではなくても、扉はひとつ開い
た。
続けて、母へ。
『少し疲れ気味だけど、大丈夫な日もあります。今日は短くてごめんね。また連絡します』
こちらも送る。
送った瞬間に、涙が出るわけでも、急に楽になるわけでもない。
でも、胸の前に積んでいた見えない箱が、ひとつ減った気がした。
数分後、美緒から返事が来た。
『ありがとう。そんな日あるよね。返事はほんとに気にしないで。また元気な日にお茶しよう』
雫はその文を二回読んだ。
やさしさを疑わずに受け取れる日では、まだない。けれど、少なくとも、嫌われたわけではな
さそうだ。それだけで少し助かる。
母からも短く返る。
『分かったよ。無理しないでね。返事ありがとう』
それを見て、雫はようやく長く息を吐いた。
昼を少し過ぎたころ、台所へ降りると、文子さんが卵雑炊を作っていた。
真昼はテーブルで野菜を切っている。 蓮は椅子に座ってパンの袋をたたみ、 透は湯のみを洗っ
ていた。
「お、降りてきた」
文子さんが言う。
「はい。遅くなりました」
「返信、できた顔してる」
また顔に出ていたらしい。
雫は思わず笑った。
「ひとまず、二つだけ」
「十分十分」
文子さんは雑炊を小さめの器によそった。
「今日も半分からね」
その言葉に、雫は少し目を細める。
半分でいい。
最近、灯台荘ではその言葉があちこちで自分を助けている。
真昼がホワイトボードを寄せて書いた。
『返信、おつかれ』
蓮が横から覗き込み、 「それ、ほんとにおつかれですよね」と言う。
「俺もたまに、返さなきゃって思ってるうちに、余計返せなくなります」
「蓮くんも?」
「ありますあります。聞き間違い多かった日とか、人としゃべりすぎた日とか、もう文字も見た
くないときあります」
雫は少し驚いた。
自分だけではないのだと分かるたび、人は少しだけ恥を下ろせる。
透が静かに言う。
「返事って、気力が要りますからね」
「要りますよねえ」と文子さんも言う。
「だから、短く返せた日は立派。返せない日は、今日はそういう日って認めるのも立派」
立派。
灯台荘では、 そういう言葉の使い方が少し変わっている。 大きな成功にだけ与えられる勲章で
はなく、暮らしを続けるための小さな承認として使われる。
雫は雑炊をひとくち食べた。
卵のやわらかさと、出汁のあたたかさが体に落ちていく。
「今日、透さんに助けられました」
そう言うと、透が少し首を傾けた。
「そうでしたか」
「はい。いちばん近いものを一つ置く、って言葉」
「ああ」
透は照れたように笑った。
「雫さん、景色を渡すのが前より上手なので、その話を思い出しただけです」
「でも、あれで返せました」
「それならよかった」
それだけの会話なのに、雫の胸は少しだけ落ち着かなくなる。
透の声は、必要なぶんだけ近い。踏み込みすぎないのに、遠くもない。その距離がありがたい
と思うたび、雫は自分の中に芽生えはじめたものの名前を、まだ付けないままでいる。
恋だと呼ぶには、まだ静かすぎる。
でも、誰かの言葉で今日が少し渡りやすくなることを、特別だと思い始めている自分には、も
う気づいていた。
夕方、雫は仕事をひとつ片づけたあと、窓を開けた。
風が入ってくる。遠くで子どもの笑い声がして、どこかの家で食器の触れ合う音がした。
スマホを見る。
赤い丸は、 今はひとつだけになっていた。 通販の通知だ。 急がない。 今日はもう、
それでいい。
全部を返せなくても、いい。
全部を説明しなくても、いい。
今日いちばん近いものを、一つだけ置けたなら、それで十分な日がある。
雫は窓辺で、心の中に小さく言葉を置く。
――ほどく。
絡まった気持ちを、そっと解きほぐすこと。
それは誰かに全部分かってもらうことではないのかもしれない。
ただ、言えないまま固くなっていたものに、小さな隙間を作ること。今日の自分にできるぶん
だけ、やわらかくすること。
台所から、文子さんが「ごはんできたよ」と呼ぶ声がした。
雫はスマホを机に置き、そのまま階下へ向かった。
返事ができたから元気になった、というほど単純ではない。
明日また、できなくなるかもしれない。入口が遠い日も、きっと来る。
それでも、今日は返せた。
短くても、本当の言葉で。
そして誰かが、その短さを責めずに受け取ってくれた。
たぶん、生きていく力というのは、そういう小さなやりとりの中で、少しずつ戻ってくるもの
なのだ。
返信が遅いことは、無関心や冷たさとして受け取られやすいことがあります。
けれど実際には、言葉の入口までたどり着く力そのものが足りない日もあるのだと思います。
そんなとき、
長く立派に返すことではなく、
「短くても本当のことを一つ置く」
それだけで十分な場合もあるのかもしれません。
待ってくれること。
急かさないこと。
短い返事を、きちんと返事として受け取ってくれること。
そうした小さな思いやりが、人の一日をずいぶん助けてくれるのだと感じています。
皆さまには、
「うまく返せないけれど、気持ちはある」
そんな日があったことはありますか。
よろしければ、教えていただけたら嬉しいです




