第四話 聞こえるのに、聞こえない
聞こえるのに、聞こえない。
この感覚は、外からはなかなか伝わりにくいものかもしれません。
全部が聞こえないわけではない。
けれど、全部が届くわけでもない。
その曖昧さの中で、笑ってやり過ごしてしまう人もいます。
この物語では、そうした生きづらさの中にも、助け合いや、ほのかなぬくもりや、言葉になりき
らない想いがあることを描いていきたいと思っています。
今回は、蓮の話です。
蓮は、聞こえないわけではない。
だからこそ、ややこしい。
朝、補聴器をつけると、世界は一応、音で満ちる。
湯の沸く音も、玄関の戸の開く音も、文子さんが包丁でねぎを刻む音も、たしかに耳へ届く。
届くのだけれど、それが全部きれいに並ぶわけではない。近い音と遠い音がぶつかる。言葉の輪
郭だけが曖昧になる。人の声が聞こえても、何を言ったのかまでは取れないことがある。
聞こえる、という言葉の中に、雑に放り込まれてしまうには、蓮の聞こえ方はあまりにまだら
だった。
朝の食卓で、真昼が何か書いたホワイトボードを透が読んでもらっている。
雫は湯のみを両手で包み、まだ少し眠たそうな顔をしていた。
「蓮くん、今日は早いねえ」
文子さんが言った。
蓮は「あ、はい」と返したが、実は最初の一語を聞き損ねていた。文脈で埋めた。こういう埋
め方は、もう癖みたいなものだった。
「仕事、午前から?」
今度はちゃんと聞こえた。
「昼からです。今日はその前に役所寄って、補聴器の電池も買いに行ってきます」
「じゃあ、朝ごはんしっかり食べときなさい」
「はい」
その会話の横で、真昼が蓮を見て、軽く手を振った。
おはよう、の手話だ。蓮は手話を少しだけ覚え始めていた。まだたどたどしい。けれど、声だ
けに頼らない挨拶があると知ってから、朝の空気が少し好きになった。
蓮もぎこちなく手を返す。
真昼がちょっと笑う。からかう笑いではなく、ちゃんと伝わったときのやわらかい笑顔だっ
た。
その顔を見るたび、蓮は胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
恋だとまでは、まだ言えない。
でも、自分の聞こえにくさを、無理に明るくごまかさなくていい相手がいる、ということが、
こんなにも人の気持ちを動かすものなのかと、最近よく思う。
雫が味噌汁をよそいながら言った。
「蓮くん、役所って何の手続き?」
蓮は顔を上げた。
雫はちゃんとこちらを向いている。口元も見える。そういう話し方をしてくれる人には、聞き
返すことへの緊張が少し減る。
「補助の更新です。書類、毎回ちょっとややこしくて」
「ああ……あれ大変そう」
「大変です。しかも窓口で説明されると、半分くらい飛んでくときあるんで」
言ってから、蓮は軽く笑った。
笑っておくと場が軽くなる。自分でも、ずっとそうしてきた。
けれど透が、静かに言った。
「軽く言ってますけど、それ、結構大変ですよね」
その声に、蓮は少しだけ目を瞬かせた。
大変ですよね、と、そのまま言われることは意外に少ない。たいていは「でも聞こえるんでし
ょ」とか、 「慣れてるでしょう」で終わる。
「まあ……はい」
「説明って、一回で取れないと疲れますから」
透は湯のみを持ったまま続けた。
「しかも、取れないこと自体を、取れない側の責任にされやすいですし」
蓮は、ほんの一瞬、返事ができなかった。
言いたかったことを先に言われると、人は少し黙るらしい。
真昼がホワイトボードを引き寄せ、さっと書く。
『役所、口元見えない人、多い』
「それです」
蓮は思わず強くうなずいた。
「ガラス越しとか、下向いて説明とか、あれ本当にきついです」
雫が小さく眉を寄せる。
「聞こえにくいとか、見えにくいとか、会話の入口がそれぞれ違うのに、だいたい窓口は一つの
やり方で進んじゃうんですね」
「そうなんですよ」
蓮は笑った。
今度の笑いは、ごまかしではなかった。
朝食を終えたあと、蓮は役所へ向かった。
空は薄曇りで、春になりきらない風が吹いている。補聴器に風が当たると、余計な音が混じる
ことがある。耳元でざらざらと布をこするみたいな音になる。嫌いではないが、疲れている日は
それだけで少し苛立つ。
役所の待合は人が多かった。
番号札を取り、壁際の椅子に座る。前方の案内板に番号が表示されていくが、呼び出し音は周
囲のざわめきに埋もれやすい。蓮は目を離せない。目も耳もずっと使う。難聴のしんどさは、聞
こえないことそのものより、こうして取りこぼさないように構え続ける疲れのほうが大きいとき
がある。
ようやく番号が呼ばれ、窓口へ行く。
「――更新で、こちらの書類が――」
担当の男性職員が何か説明する。
声は聞こえる。 だが、 内容が細切れにしか入ってこない。 語尾が抜ける。
固有名詞があやしい。
窓口のガラスに光が反射して、口元も見づらい。
「すみません、もう一度いいですか」
蓮が言うと、職員は少しだけ声を大きくした。
「ですから、こちらの記入欄が――」
大きくなると聞き取りやすくなる場合もある。けれど、それだけでは足りない。言葉が早いま
まだと、やはり抜ける。
「すみません、ゆっくりめにお願いできますか」
「ああ……はい」
職員は今度こそ少しゆっくり話してくれた。
それで半分は分かった。だが、残り半分がまだ曖昧だ。
「あと、できれば、ここの部分を書いて見せてもらってもいいですか」
蓮は自分でも、ちょっと面倒な客みたいだなと思った。
けれど、曖昧なまま帰れば、あとで困るのは自分だ。
職員は少しの間を置いたあと、書類の余白に要点を書いてくれた。
その文字を見た瞬間、蓮はようやく胸の力を抜いた。
「あ、分かりました。ありがとうございます」
「いえ……こちらこそ、気づかなくてすみません」
その一言で、救われることがある。
最初から完璧じゃなくてもいい。気づいたあとで直してくれれば、人は案外、それで前へ進め
る。
手続きを終えて役所を出るころには、蓮はもう肩が重かった。
まだ昼前だというのに、一日分くらい人と話した気がする。
駅前のベンチに座って、コンビニで買った缶コーヒーを開ける。
炭酸ではないのに、ぷし、と小さく鳴った開封音が、妙にはっきり聞こえた。
蓮は目を閉じた。
聞こえにくい人間は、静かな場所へ行けば楽になるわけではない。静かでも、耳は働こうとす
る。情報を拾おうとする。だから疲れる日は、何も聞かなくていい時間のほうがほしい。
スマホが震えた。
真昼からだった。
『役所どう?』
短いメッセージに、蓮は少しだけ笑う。
文字はいい。取りこぼさない。何度でも見返せる。
『なんとか終わった。疲れた』
そう返すと、すぐにまた画面が光った。
『おつかれ。甘いもの食べると少し戻る』
その後ろに、丸いパンの絵文字がひとつ。
蓮は思わず息で笑った。
真昼は声ではなく、こうして必要な言葉をまっすぐ置いてくる。
余計に励ましすぎないし、でも放ってもおかない。その距離感が、蓮には心地よかった。
しばらくして、もう一通届く。
『帰り、時間あえばパン屋』
蓮は画面を見つめた。
たいした文ではない。約束と呼ぶほどでもない。
でも、胸のあたりにやわらかい熱がひろがる。疲れていたはずなのに、その一文だけで午後の
色が少し変わる。
『行く』
そう返してから、蓮は缶コーヒーを飲み干した。
昼過ぎ、仕事先へ向かう。
蓮は駅前の文具店で働いている。小さな店だが、学校帰りの学生や近所の人がよく来る。品出
しやレジ、発注の補助。やることは多いが、嫌いな仕事ではない。
ただ、聞こえ方のことを説明していても、時々うまく伝わらない。
「蓮くん、これ三番倉庫に戻しといて」
店長が言う。
レジの電子音と重なって、蓮は「二番」と聞いた。
「はい」
しばらくして戻ると、店長が首をかしげる。
「あれ、三番って言ったよね?」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
「すみません、二番に聞こえて……」
「え、でも今ちゃんと返事したよね?」
その「ちゃんと」が、蓮の胸に小さく刺さる。
返事をしたから、聞こえていたはず。
聞こえていたなら、間違えるはずがない。
そういう前提が、世の中にはとても多い。
「すみません。聞こえたつもりで、違ったみたいです」
店長は「ああ、ごめんごめん」と軽く言った。悪気はない。
だが、その軽さが、蓮には余計につらい日もある。
つらいといっても、怒鳴られたわけではない。差別されたと断言できるほどでもない。
でも、こういう小さな行き違いが一日に何度もあると、自分の輪郭が少しずつ削られる。
閉店後、店のシャッターを下ろして外へ出ると、空はもう夕方だった。
役所の疲れと仕事の疲れが、合わせて肩に乗っている。
待ち合わせのパン屋の前へ行くと、真昼が先に立っていた。
薄いベージュのコートに、紺色のマフラー。店の灯りを背にしてこちらへ気づき、ふっと表情
がやわらぐ。
その顔を見た瞬間、蓮の中にあった棘のような一日が、少しだけまるくなる。
真昼はスマホを見せた。
『おつかれ顔』
「ひどいな」
蓮が笑うと、真昼も肩を揺らした。
そして、すぐに打ち足す。
『正直に言った』
「それはまあ、そうだけど」
二人でパン屋に入り、売れ残りの少ない棚を見て回る。
真昼はクリームパンを取り、蓮はあんドーナツを選んだ。
レジで店員が何か尋ねた。
蓮は一瞬、聞き取れなかった。聞き返そうとしたそのとき、真昼が自然に店員の口元を見る位
置へ少し身体をずらし、ゆっくりした声を引き出すように間を置く。店員はその間につられて、
言い直した。
「袋、分けますか?」
「あ、一緒で大丈夫です」
会計が済んで外へ出ると、蓮は苦笑した。
「助かった」
真昼は首をかしげる。
『なにが?』
「さっき。店員さん、ちょっと早口だったから」
真昼は、ああ、という顔をしてから、スマホに打つ。
『私も同じ。早いと落ちる』
その文を見て、蓮は少し黙った。
同じ、ではない。聞こえ方も困り方も違う。
でも、会話から落ちる感覚には、たしかに似たところがある。
「俺、たぶん、半分聞こえるっていうのが一番説明しにくい」
真昼はじっと待つ。
蓮はパンの袋を持ち直しながら続けた。
「全部聞こえないなら、 逆に分かりやすいって言ったら変だけど、 周りも気づくじゃん。
でも俺、
返事もするし、笑うし、たまに普通に会話できるから。だから、急に聞き返すと、さっき聞こえ
てたよね? って空気になる」
真昼はすぐには打たなかった。
街灯の下で、少しだけ考えてから入力する。
『毎回、説明から始まるの、しんどい』
蓮は深くうなずいた。
「しんどい」
その一語が、思っていた以上に胸に落ちた。
言い訳ではなく、甘えでもなく、ただそのまま「しんどい」と言っていい相手がいる。それだ
けで、人は少し救われる。
真昼はさらに打つ。
『でも、蓮くんは、ごまかして笑う』
蓮は苦笑した。
「ばれてるか」
『ばれる』
「笑ってたほうが楽なとき、あるから」
『ある』
真昼はうなずく。
そのうなずきには責める色がなかった。分かる、の色だった。
二人は川沿いの道をゆっくり歩いた。
夕方の水面は朝より暗く、街灯の光を長く伸ばしている。犬を連れた人が通り過ぎ、自転車の
ライトが細い筋を引く。風は冷たいが、昼より静かだった。
「真昼さん」
蓮は呼びかけてから、少しだけ迷った。
真昼が振り向く。
「ありがとう」
それだけ言うと、真昼はきょとんとした顔をした。
それから、スマホを開く。
『パン?』
「それもあるけど」
『役所?』
「それもある」
真昼は少し笑って、打つ。
『じゃあ、全部』
蓮は声に出して笑ってしまった。
「ずるいな」
『便利な言葉』
「確かに」
真昼はスマホをしまい、代わりに手話でゆっくり動かした。
蓮はまだ全部は読めない。けれど、その中のひとつだけは分かった。
だいじょうぶ。
たぶん、そう言った。
蓮は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
恋かどうかは、まだ分からない。
でも、この人といると、聞こえないことも、聞こえすぎることも、少しだけ急がなくてよくな
る。その感覚は、たぶん、とても大切なものだ。
灯台荘へ戻ると、台所から明るい話し声がしていた。
文子さんの笑い声。雫の少し控えめな返事。透の落ち着いた声。
蓮は玄関の戸を開けながら思う。
世界には、聞こえにくさも、見えにくさも、沈みやすさもある。誤解もある。疲れもある。不
幸もたしかにある。
けれど、それだけではない。
待ってくれる人がいる。
言い直してくれる人がいる。
ごまかして笑っていることに気づいてくれる人がいる。
そして、疲れた日の帰り道に、一緒にパンを買ってくれる人がいる。
そういうものを、愛と呼ぶにはまだ早いのかもしれない。
でも、愛はきっと、こういうところから始まる。
蓮は補聴器を少しだけ外し、耳のうしろを指で押さえた。
今日一日のざわめきが、そこでようやく薄くなる。
それでも最後に残ったのは、真昼の「全部」という短い文字と、街灯の下で見たやわらかな横
顔だった。
第四話は、蓮の「聞こえるのに、聞こえない」一日でした。
全部が聞こえないわけではないからこそ、
周囲から分かってもらいにくい苦しさがあります。
返事ができることと、きちんと聞き取れていることは、同じではない。
でも、その説明を毎回するのは、とても疲れることでもあります。
それでも、少し待ってくれること。
言い直してくれること。
文字にしてくれること。
そうした小さな助けが、その日のしんどさをずいぶん変えてくれるのだと思います。
そして、しんどい日の帰り道に、誰かがいてくれること。
それはもう、小さな愛の始まりなのかもしれません。
皆さまには、
「分かっているつもりだったけれど、違っていた」
そんな気づきの経験はありますか。
よろしければ、教えていただけたら嬉しいです




