第一話 半分でいい朝
朝、起きるだけで一日分の力を使ってしまう日があります。
見えない人、聞こえない人、心が沈んでしまう人。
この物語は、そうした生きづらさを抱えながらも、恋をし、傷つき、助け合い、それでも暮らし
ていく人たちの話です。
これは私の自伝ではありません。
けれど、現実の痛みや願いから遠く離れた話でもありません。
この作品の根っこにある願いは、
「愛が地球を救う」
その一言に尽きます。
派手な奇跡はありませんが、
よろしければ、灯台荘の朝にお付き合いください。
朝、目が覚めた時点で、もう半分くらい一日が終わっている気がする日がある。
雫は布団の中で、天井を見たまま動けなかった。
目は覚めている。音も聞こえている。けれど、体のどこにも「起きる」の命令が届かない。そ
ういう朝が、確かにある。
雨戸の隙間から入ってくる光は細かった。晴れているのか曇っているのか、その細さだけでは
分からない。外の世界はもう始まっているのだろうに、自分だけが取り残されているような気が
した。
台所のほうで、小さくものが触れ合う音がした。
やかんの底が五徳に乗る音。引き出しの開く音。味噌汁の鍋をかき混ぜる、木べらの音。
文子さんだ、と雫は思う。
人にはそれぞれ音癖がある。文子さんは鍋を置く音がやわらかい。透は迷いなく物を探るの
で、戸棚や引き出しにためらいがない。真昼はできるだけ静かに動くが、足どりがきちんとして
いる。音はなくても、いると分かる。
起きなければ。
そう思うだけで、胸のあたりがじくりと重くなる。
雫は、気持ちに名前をつけることがあった。医者の言葉でも、家族の言葉でもない、自分のた
めだけの小さな言葉だ。
ぽとん。
胸の底に、何かが静かに落ちる感じ。
しゅわ。
言葉にならないまま、感情だけが泡みたいに広がる感じ。
にじむ。
理由ははっきりしないのに、つらさだけがじわりと広がっていく感じ。
今日は、にじむ、だった。
泣くほどではない。叫びたいほどでもない。
ただ、今日という一日全体が、じっとり濡れて重い。
雫は息を吐いて、布団から上半身だけを起こした。
たったそれだけで、心臓が少し速くなる。情けない、と昔は思っていた。けれど最近は、情け
ないという言葉は便利すぎると知った。便利な言葉は、自分を乱暴にまとめてしまう。
起きる。
座る。
足を床につける。
立ち上がる。
一つひとつ区切らないと、朝は始まらない。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、紙みたいに白かった。
ひどいな、と雫は思う。
でも、 顔色の悪さにまで落ち込むのはやめようと決めていた。 顔は顔だ。
今日はそういう日だ。
それ以上でも以下でもない。
歯を磨いて、顔を洗って、髪を後ろでひとつに束ねる。そこまで終えたら、少しだけ自分が人
の形に戻った気がした。
廊下へ出ると、味噌汁の匂いがしていた。
大根と油揚げだろうか。ふわりと漂ってきた湯気の気配だけで、胸のつかえが少しゆるむ。食
べられるかどうかは分からない。けれど匂いに救われる朝もある。
「おはよう」
台所の入口で、文子さんが振り返った。
割烹着の袖を肘まで上げ、湯気の向こうで笑う顔は、いつも通りだった。
「……おはようございます」
「顔、白いねえ。ごはん、半分にしとく?」
その訊き方がありがたかった。
食べられるでしょう、でもない。食べなさい、でもない。半分にしとく? だ。こちらに選ぶ
余地を残してくれる訊き方だった。
「お願いします」
「うん。今日は半分でいい日」
文子さんはそう言って、ごはん茶碗を小さいものに替えた。
それだけのことで、雫は少し泣きたくなった。
ちゃんとしなければ、 と思ってばかりいた頃は、 半分でいいと言われることが敗北に思えた。
いまは違う。半分でいいという言葉は、下げられた期待ではなく、今日を渡るための橋だ。
食卓には、透が先に座っていた。
白杖を椅子に立てかけ、湯のみを両手で包んでいる。窓の隙間から入る風で、湯気が少し傾い
た。
「おはようございます、雫さん」
「おはようございます。早いですね」
「今日は潮が近い気がして、なんとなく起きました」
雫は、窓の外を見た。ここから海は見えない。見えるのは向かいの屋根と、まだ誰も洗濯物を
干していない物干し竿だけだ。
「潮って、分かるんですか」
「分かる日もあります」
透は湯のみを口元に寄せた。
「匂いもありますけど、朝の音が少し丸いんです。海が近い日は」
朝の音が丸い。
雫にはまだ、その感じはよく分からない。
でも、分からないまま聞いていていい、ということを、この家に来てから少しずつ覚えた。前
の暮らしでは、分からないことは恥ずかしいことだった。ここでは、分からないと口にしても、
笑われない。
「丸いって、どんな感じですか」
「角が立ってない感じですかね。車の音も、人の足音も、少しやわらかく聞こえるんです」
「不思議」
「見える人には見える人の分かり方があるでしょう」
さらりとそう言われて、雫は少し笑った。
「私は、見えててもよく分かってませんけど」
「それもまた、見え方ですよ」
透は穏やかに言った。
そこへ、勝手口の戸が開いた。
真昼が買い物袋を下げて入ってくる。髪を後ろでまとめ、頬がほんの少し赤い。朝の空気の中
を歩いてきた顔だ。
真昼は雫と透を見て、軽く手を上げた。
おはよう、の手話。
雫も、ぎこちなく手を返す。まだ指の形に自信はない。
真昼はそれを見て、にっと笑って親指を立てた。上手い、ではなく、大丈夫、の顔だった。
冷蔵庫の横に吊るしてある小さなホワイトボードを取り、真昼がすらすらと書く。
『卵、安かった』
「助かるねえ」
文子さんが味噌汁をよそいながら言うと、真昼はさらに書き足した。
『でもレジの人、後ろ向いて話すから半分くらい読めなかった』
最後に、小さな困り顔の絵。
雫は思わず吹き出した。
「朝からそれは疲れますね」
真昼はうんうん、と大きくうなずく。
そして今度は指だけで、口元を隠す仕草をしたあと、ぶんぶんと首を振った。やめてほしい、
の仕草だ。
聞こえない人は静かな世界にいるのだと、昔の雫は思っていた。
けれど真昼の毎日は、静かというより忙しい。口の形、目の動き、顔つき、肩の向き、スマホ
の画面、紙の文字。聞こえないぶんだけ、見て、拾って、つないでいる。
透が雫のほうを向いた。
「あとで駅前まで行くなら、一緒に行きますか。僕も郵便局に寄りたいので」
雫はその言葉を真昼に伝えるように、ゆっくり口元を向けて言い直した。真昼は雫の顔を見て
から、透に向き直る。少し考えて、ホワイトボードに書く。
『行く。助かる』
透はうなずいた。
「僕も、ひとりよりふたりのほうが助かるので」
その言い方が、雫は好きだった。
助ける側と助けられる側を、きれいに分けない言い方。誰かの役に立つことと、誰かを頼るこ
とが、同じ暮らしの中に自然にある言い方。
文子さんが味噌汁を雫の前に置いた。
「熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
湯気が頬にあたる。
雫は箸を持って、ゆっくりと汁を口に運んだ。あたたかい。しょっぱすぎず、薄すぎず、ちょ
うどいい。大根はよく味がしみていて、油揚げはやわらかかった。
体の中に温度が落ちていく。
温度というのは、不思議だ。悲しみを消しはしないけれど、悲しみの輪郭を少しだけ鈍くして
くれることがある。
「食べられそう?」
文子さんが訊く。
「はい、少しなら」
「少しで十分」
それもまた、雫を責めない言葉だった。
透が味噌汁の椀を置いた。
「雫さんは、今日はお仕事どうするんですか」
「在宅の分だけやります。外には、たぶん出ないです」
「たぶん、でいいんですよ」
透はそう言って、湯のみの位置を少し直した。
「朝に一日分を決めないほうが、楽な日もあります」
雫は小さく笑う。
その通りだと思う。朝の自分は、たいてい一日を悲観しすぎる。昼になれば少し動けるかもし
れないし、逆にもっと沈むかもしれない。まだ決めなくていいことまで朝に裁こうとして、疲れ
てしまう。
真昼がホワイトボードに新しく書いた。
『今日は顔、しんどそう。でもここ来た。えらい』
その字を見た瞬間、雫は目を見開いた。
「えらくないですよ。来ただけです」
真昼は首を横に振る。
そして、さらに書く。
『来る、むずかしい日ある』
透も静かに言った。
「ありますね」
文子さんが鍋のふたをずらしながら、何でもない声で続けた。
「布団から出るのが一番難しい日、あるものねえ。朝ごはんの席に座ったなら、今日はもう合格
よ」
合格。
その言葉に、雫は不意を突かれたみたいに黙った。
できなかったことはいくらでもある。早起きはできなかった。顔色は悪い。仕事の返信もたま
っている。洗濯物もまだだ。
でも、布団から出た。顔を洗った。廊下を歩いた。ここに座った。味噌汁を飲んでいる。
合格。
そんなふうに数えていいのだろうか。
数えていいのなら、いままでの自分は、ずいぶん長いこと不正確な採点をしていたことにな
る。
雫の中で、何かが、ぽとんと落ちた。
それは劇的な救いではない。世界が急に明るくなるわけでもない。
けれど、あとで思い出すと、その日を支えていたと分かるような、小さな落下の音だった。
真昼が、ふいに雫の茶碗を見て眉を上げた。
雫がそちらを見ると、真昼はホワイトボードに書いた。
『半分ごはん、見た目かわいい』
透がそれを読んでもらって、小さく吹き出した。
「確かに」
「何ですかそれ」
雫も笑ってしまう。
文子さんが肩を揺らす。
「かわいいは大事よ。食べきれそう、って思えるでしょう」
「そこ、そういう理屈なんですか」
「理屈よ。暮らしはだいたい理屈でできてるけど、見た目の機嫌も大事なの」
くだらないようで、少し真面目な話だった。
真昼は満足そうにうなずき、 今度は両手で茶碗の丸さを表すような仕草をしてみせた。 雫は思
わず声を立てて笑った。笑った拍子に、胸のあたりに張っていた薄い膜が、ほんの少しだけやぶ
れた気がした。
笑ったから元気、というわけではない。
でも、笑えたことは事実だ。
そういう事実を拾っておくことが、あとで自分を助ける日がある。
食卓の窓の外で、風が洗濯竿を鳴らした。
からん、と軽い音。
透が顔を上げる。
「やっぱり今日は潮が近いですね」
「その音で分かるんですか」
「ええ。金属の響きが少しやわらかいので」
「私はただ、物干し竿が鳴ったなって思いました」
「それで十分ですよ」
透は言った。
「次の一歩が分かれば、歩けますから」
その言葉を聞いたとき、雫は、ああ、そうかと思った。
遠くまで見えなくてもいいのだ。 今日一日を立派にこなす計画がなくてもいい。 次に何をする
かだけ分かれば、たぶん、人は進める。
味噌汁を飲む。
ごはんをもう一口食べる。
薬を飲む。
午前中は無理をしない。
それだけでいい。
元気な人のやり方で生きなくていい。
そんな言葉を、誰かに真正面から言われたことはなかった。けれど灯台荘では、その考えが、
いちいち説明されなくても食卓のあちこちに置かれている。小さい茶碗とか、ゆっくりした会話
とか、ホワイトボードとか、そういう形で。
雫は半分のごはんを見下ろした。
本当に半分だ。少ない。少ないけれど、自分にはちゃんと届く量だ。
今日は、これでいい。
そう思えたことが、今日一番の出来事だった。
人は、朝から立派に生き直したりはしない。
味噌汁を飲んで、誰かに「半分でいい」と言われて、少し笑って、それでようやく午前中を始
める。そういう日がある。
そして、そういう日のほうが、たぶん、ほんとうの暮らしに近いのだ。
誰かにとって当たり前のことが、別の誰かには大仕事であることがあります。
でも、 それは劣っているということではなく、 その人の一日の始まり方が違うだけなのだと思っ
ています。
もし皆さまにも、
「今日はこれだけで十分だった」
そんな日がありましたら、よろしければ教えていただけたら嬉しいです




