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小さな愛が灯る場所  作者: 浮世雲のジュン
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第九話 それでも外へ出る

外へ出ることは、元気な人にはただの予定でも、

しんどい日を知っている人には、ひとつの山になることがあります。

それでも、全部を乗り越えなくていい。

少しだけ出る。途中で戻ってもいい。誰かと一緒なら行ける日もある。

今回は、そんな小さな一歩の話です。


外へ出る、と決めるだけで疲れる朝がある。

雫にとって、その朝はまさにそうだった。

前の日の夜、文子さんが言ったのだ。

「明日、商店街の朝市らしいわよ。八百屋さん、いちごが安いって」

そのときは、雫も「へえ」と返しただけだった。

行くとも、行かないとも言わなかった。

けれど朝になってみると、その“朝市”という言葉が、胸のあたりに小さな重りみたいに残って

いた。

朝市。

人がいる。

声がある。

立ち止まる場所があって、動く人がいて、値札があって、会話がある。

考えただけで、雫の心は少し先に息切れする。

布団の中で目を開けたまま、雫は天井を見た。

今日は、まだ“遠い”日ではない。

でも、軽くもない。

ざわざわするほどでもないが、心の外側が少し薄くなっている感じがある。

――ふるふる。

まだ言葉にならないけれど、心の中で何かが揺れている。

雫はその言葉を胸の中で転がしてから、ゆっくり起き上がった。

台所では、すでに文子さんが湯を沸かしていた。

真昼はマグカップを並べている。 蓮は朝から珍しく機嫌がよさそうで、 鼻歌に近いものを口の

奥で鳴らしていた。透は窓際で、今日は少し風が弱いですね、と言っている。

「おはよう」

文子さんが振り向く。

「おはようございます」

雫が椅子に座ると、文子さんがすぐに訊いた。

「今日、朝市どうする?」

その訊き方はよかった。

行くでしょ、でもなく、行きなさい、でもない。どうする? だ。

雫は少しだけ考えるふりをした。

考えるふり、というのは、本当は半分だけ本当だ。心の中ではもう、行きたい気持ちと行きた

くない気持ちがぶつかり始めている。ただ、それをすぐに言葉にすると、どちらか片方に押し切

られそうで怖い。

「……まだ、決めてないです」

「それでいいわ」

文子さんはあっさり言った。

「朝ごはん食べてから決めたらいい」

それだけで、雫は少し助かった。

まだ決めなくていい。

それは、思っているより大きな救いだ。

真昼がスマホを見せる。

『私は行く』

『卵とねぎも見たい』

蓮がすぐに言う。

「俺も行きます。今日、昼からなんで」

透も湯のみを置いた。

「僕も。文子さん、八百屋さんのところまでは分かりますし」

皆がそれぞれ自然に“行く側”にいる中で、雫だけがまだ決められない。

そのことに少しだけ置いていかれるような気がして、胸の内側がちくりとした。

すると、透が雫のほうへ顔を向けて言った。

「雫さんは、途中まででもいいんじゃないですか」

「途中まで?」

「ええ。朝市そのものまで行かなくても、商店街の入口までとか。外へ出るって、最後まで行く

か行かないかだけじゃないと思うので」

その言葉が、雫の前に小さな道をひとつ作った。

朝市へ行く。

行かない。

その二つしかないと思っていたところに、途中まで、という第三の選択肢が置かれる。

「途中まで……」

「はい。行けるところまで」

真昼もすぐに打つ。

『戻ってもいい』

蓮が続ける。

「俺も、しんどい日は“店まで行けたら合格”とかやります」

「そうなの?」

「ありますよ。途中でコンビニまでしか無理な日とか」

雫は少し驚いた。

みんな、それぞれに“全部やる”以外の目標を持っている。

自分だけが、外へ出るならちゃんと出なければ、と勝手に思い込んでいたのかもしれない。

朝ごはんを食べながら、雫は考えた。

商店街の入口まで。

そこまでなら、行けるかもしれない。

だめなら戻ればいい。

それは逃げることではなく、今日はそこまで、というだけのこと。

食べ終わるころ、文子さんがエコバッグを畳みながら言う。

「いちご、もし買えたら二パックお願いね」

雫は思わず顔を上げた。

「私がですか」

「いやならいいのよ」

「……ううん」

雫は少し考えてから、答えた。

「できたら、買ってみます」

その“できたら”を、誰も軽く笑わなかった。

文子さんはただ、うなずくだけだった。

「じゃあ、できたら、で」

灯台荘を出ると、空は明るかった。

春の終わりに近い日差しで、風はまだ少し冷たい。遠くの空は白く薄まっているが、雨の気配

はない。洗濯物が乾きそうな空だった。

雫は玄関の前で、一度だけ深く息を吸った。

外の匂いがする。土の匂い。少し乾いた道の匂い。どこかの家の洗剤の匂い。遠くでパンでも

焼いているのか、甘いものも混じっている。

「大丈夫ですか」

透が隣で訊く。

「たぶん」

「その“たぶん”で十分ですよ」

雫は少し笑った。

最近、透のそういう言葉に何度も助けられている。十分。たぶん。途中まで。そういう、立派

じゃなくていい言葉たち。

四人で歩き始める。

文子さんは少し後ろからついてくる。急かさないためだろう。そういう配慮を、雫は最近、配

慮だと気づくようになった。

灯台荘から坂を下りる道は、もう見慣れている。

見慣れているのに、 外へ出るのがつらい日は、 その見慣れた道さえ少しよそよそしく見える。

透が前を歩き、真昼がその少し横に並び、蓮がときどき振り返って雫の歩幅を気にしている。

そのことが、ありがたくて、少し気恥ずかしい。

「今日、人多いかなあ」

蓮が言う。

真昼がスマホを見せる。

『朝市だから多い』

「ですよね」

蓮は苦笑した。

「俺、混んでるとき、店員さんの声もお客さんの声も混ざるんですよね」

『私も』

真昼がすぐに打つ。

『笑ってる人が多いと、何が起きたか落ちる』

雫はそれを見ながら、心の中で小さく言葉を置く。

人が多い、は、ただ人が多いだけではない。

それぞれに違う困りごとが、その場で一気に増えるということでもある。

商店街の手前まで来ると、もう賑わいが聞こえてきた。

野菜の値段を言う声。子どもの高い声。自転車のベル。袋の擦れる音。店先に吊るされた旗が

風に鳴る、ぱたぱたという音。

雫の足が、少しだけ遅くなる。

真昼がそれに気づいて、すぐ立ち止まった。

振り向き、言葉を使わずに訊く。

大丈夫?

行く?

戻る?

その三つが、表情だけで分かった。

「……ちょっとだけ、止まってもいいですか」

雫が言うと、透がすぐにうなずく。

「もちろん」

商店街の入口の少し手前、花屋の前に小さな空きスペースがあった。

バケツに入ったカーネーションと、安い苗がいくつも並んでいる。濡れた土の匂い。花屋の店

主がホースを片づける水音。そこだけ、朝市の賑わいから半歩外れていた。

雫はその場所で、ひとつ息をついた。

心臓が少し速い。

けれど、だめになるほどではない。

ただ、ここから先へ行くには、自分の中で何かをひとつ整える必要がある。

透が静かに言った。

「いま、どんな感じですか」

雫は少し考える。

うまく説明しようとすると、かえって遠ざかる。

だから今日は、いちばん近いものを一つ置く。

「……ざわざわしてます。でも、逃げたいほどじゃないです」

「なるほど」

透の声は落ち着いていた。

「じゃあ、ざわざわのまま行けるところまででいいですね」

その言い方が、雫にはありがたかった。

ざわざわを消そうとしない。

平気にしようとしない。

ざわざわのまま行けるところまで。

それでいい、と言われると、人は少し前へ出られる。

真昼がスマホに打つ。

『花屋さんの前、いい匂い』

蓮が笑う。

「それ、分かる。ちょっと安心する匂い」

雫もようやく笑った。

「私も」

花屋の前で少し立っているうちに、胸のざわつきがほんのわずかに形を変えた。

怖い、だけではなくなった。

行けるかもしれない、が少しだけ混ざる。

雫は、前を見た。

商店街の入口。

赤い幟。

野菜の箱。

行き交う人。

「……行ってみます」

それは大きな宣言ではなかった。

でも、雫にとっては、ちゃんとした一歩だった。

商店街へ入ると、最初の数分はただ情報が多かった。

人の顔。声。値札。商品の色。子どもの手を引く親。立ち止まる人。進む人。

雫はその一つひとつを全部受け取らないようにしようとした。 全部を見ようとすると、 すぐに

疲れる。だから、いま歩くぶんだけ。次の数歩ぶんだけ。

透は前方の音を拾いながら進み、真昼は人の流れを見て少しずつ位置を変える。蓮は聞き取り

づらい店員の声を半分笑いながら受け流しつつ、必要なところだけ聞き返していた。

その中にいるうちに、雫は思う。

自分だけが外へ出るのが下手なのではない。

皆、それぞれに工夫しながら、この場を歩いている。

八百屋の前まで来ると、文子さんが後ろから追いついた。

「いちご、あったわよ」

雫が見ると、店先の箱に赤い実が並んでいた。

少し小ぶりだが、色がきれいで、二パックで特売の札が立っている。

「これですね」

「そうそう」

文子さんは雫へエコバッグを差し出した。

押しつけるようではなく、でも、任せてみる手つきだった。

「やってみる?」

雫は、胸の内側でまた小さく揺れるものを感じた。

店員に声をかける。

値段を確認する。

袋に入れてもらう。

ほんのそれだけのことが、今日は少し高い段差に思える。

でも、ここまで来た。

途中までではなく、入口まででもなく、八百屋の前まで来た。

だったら、もうひとつだけ。

「……はい」

雫は店先へ出た。

「すみません」

店員の女性が振り向く。

「はい、いらっしゃい」

「いちご、二パックください」

「はいよ。これとこれでいい?」

女性が箱を持ち上げて見せてくれる。

雫はうなずいた。

「お願いします」

そのやりとりは、驚くほどあっさり終わった。

難しくもなかった。怒られもしなかった。変に思われもしなかった。

ただ、買い物がひとつ済んだだけだ。

なのに、雫の胸の中では、その“ひとつ”が思ったより大きかった。

「ありがとうございました」

袋を受け取り、振り返る。

真昼がすぐに親指を立てた。

蓮は「やりましたね」と笑い、透は雫の足音の軽さで何かを察したのか、小さく言った。

「買えましたか」

「はい。二パック」

「よかった」

その“よかった”は、雫の買い物を褒める声というより、雫が今日そこまで来られたことを静か

に受け取る声だった。

商店街の奥まで行くころには、雫はまだ少し疲れていた。

もう十分だった。これ以上歩くと、帰ってから何もできなくなるかもしれない。

自分の限界が少しずつ見えてくるのも、外へ出る日の大事な感覚だ。

「私、そろそろ戻ろうかな」

そう言うと、文子さんがすぐにうなずいた。

「いい頃合いね」

誰も、もう帰るの、とは言わなかった。

そのことに、雫は心の底から助けられた。

帰り道は、行きより少しだけ軽かった。

買い物袋の中で、 いちごのパックがかすかに触れ合う音がする。 真昼はねぎを買えて満足そう

で、蓮は途中のパン屋で小さい揚げパンを買おうか迷い、透は「今日は人の流れが多かったです

ね」と穏やかに言った。

灯台荘へ戻ると、玄関をくぐっただけで空気がやわらかくなった。

家の匂い。床のきしむ音。台所の明るさ。

外から帰ったとき、人はようやく、自分がどれだけ気を張っていたかに気づくことがある。

雫はエコバッグを机に置き、少しだけ肩を落とした。

疲れた。

でも、その疲れは悪い疲れだけではなかった。

「お茶入れるわよ」

文子さんが言う。

「お願いします」

真昼はすぐにスマホを見せた。

『いちご、きれい』

蓮が覗き込む。

「ほんとだ。なんか、ちゃんと朝市の赤ですね」

「朝市の赤?」

「元気な感じの赤です」

透が笑った。

「それは、見える人の言葉ですね」

雫は袋からいちごを出しながら、ふいに言った。

「今日、最初は行けないかもって思ってました」

台所が少し静かになる。

けれど、その静けさは重くなかった。聞く準備のある静けさだった。

「商店街の手前で、帰りたくなるかもって思って。実際、ちょっと止まりましたし」

「うん」

蓮がやわらかくうなずく。

「でも、花屋さんの前で止まれたのがよかったです」

雫は自分で言いながら、そのことに気づく。

止まれたことがよかったのだ。

立ち止まることは失敗ではなく、その場で自分を置き直すことだった。

「それで、途中まででもいいって思ったら、八百屋さんまで行けて」

雫は、いちごのパックをそっと机へ並べた。

「買えました」

その一言に、文子さんがすぐに言う。

「うん。買えたねえ」

真昼も、透も、蓮も、特別に褒めるような顔はしなかった。

でも、ちゃんと受け取っている顔をしていた。

それが何よりありがたかった。

透が、静かに言う。

「雫さん」

「はい」

「今日は、外ってどんな感じでしたか」

雫は少し考えた。

怖かった。

でも、それだけではない。

ざわざわした。

でも、それだけでもない。

「……遠いところもあったけど、全部じゃなかったです」

「全部じゃなかった」

「はい。花屋さんの前は近かったし、いちごを選ぶときは、それだけ見ていられました」

透は、うなずく気配を見せた。

「それは大きいですね」

雫は笑った。

「大きいですか」

「ええ。全部が遠くないなら、近い場所を足場にできますから」

その言葉を聞いたとき、雫は胸の中に小さなあかりがともるのを感じた。

近い場所を足場にする。

それはたぶん、外へ出ることだけでなく、生きること全体にも言えるのだろう。

お茶のあと、雫はひとりでことば帳を開いた。

今日の頁に、少しだけ迷ってから書く。

ふるふる

行けるかどうか分からないまま、心の中で揺れている状態。

花屋の前

人の多い場所へ入る前に、少しだけ息を戻せる場所。

足場

全部がだめな日でも、ここだけは大丈夫と思える小さなところ。

そして、最後にもう一つ。

それでも外へ出る

平気だから行くのではなく、平気じゃなくても、行けるところまで行ってみること。

そこまで書いて、雫はペンを置いた。

窓の外では、 商店街から戻る人たちの足音が遠くに混ざっている。 世界は相変わらず動いてい

る。

その中へ、今日は少しだけ自分も入っていけた。

たった、朝市へ行っただけ。

いちごを買っただけ。

そう言ってしまえばそれまでかもしれない。

でも、人には、人の山がある。

今日の雫にとって、商店街の入口はちゃんと山だった。

そして、 その山を全部ひとりで越えたわけではない。 途中まででもいいと言ってくれる人がい

て、戻ってもいいと頷く人がいて、止まれる花屋の前があって、買えたことを静かに受け取って

くれる食卓があった。

愛が地球を救う、というのは、きっとこういうことなのだ。

誰かを無理に強くすることではなく、弱いままでも踏み出せる場所を、一緒に作ること。

その日の夕飯のあと、文子さんがいちごを洗って大皿に盛った。

赤い実が、台所の灯りの下できれいに並ぶ。

「はい、朝市の戦利品」

蓮が笑う。

「戦ってましたもんね」

真昼がスマホを見せる。

『勝った』

雫は思わず声を立てて笑った。

「うん。ちょっと勝った」

透は、その笑い声を聞いて、静かに言った。

「よかった」

その一言が、今日いちばんやわらかく胸へ落ちた。

外へ出ることは、元気な人には小さな予定でも、

しんどさを抱えている人には、とても大きな山になることがあります。

でも、その山は、

全部登りきらなくてもいいのかもしれません。

途中まででもいい。

止まってもいい。

戻ってもいい。

それでも、今日はここまで来られた、と言えることが大事なのだと思います。

そして、そう言えるのは、

急かさない人や、 待ってくれる人や、 足場になる場所があるからこそなのだとも感じています。

皆さまには、

「全部は無理だったけれど、ここまでは行けた」

そんな一歩の記憶はありますか。

よろしければ、教えていただけたら嬉しいです

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