仕事をサボってオーロラを見に行こう
ぎゅう、と腹の底から絞り出すようなブレーキ音が響き、佐藤景の身体がわずかに前のめりになる。朝の山手線。窓の外では、灰色とベージュのビル群が、まるで間違い探しのように昨日と同じ配列で流れ去っていく。
車内に充満するのは、誰かの香水と汗、湿ったコートが放つ不快な混濁。景はノイズキャンセリングの性能を最大に引き上げ、音楽の壁の内側へと逃げ込む。それでも、意識は勝手に今日のタスクリストを組み立てていた。午前中はA社の定例会、午後はBtoC向け新商品LPのワイヤーフレーム修正、夕方までにC部長への進捗報告。
広告代理店のアカウントプランナー。聞こえはいいが、実態はクライアントと制作陣の間に挟まる緩衝材だ。彼女の心は、もう何年もアップデートされていないOSのように重く、鈍いクリック音を立てていた。
昼休み。同僚たちが連れ立って「新しくできたイタリアン」の話題で盛り上がる声を背中で聞き流し、景はひとり屋上へ向かう。吹き抜ける十二月の風が、生ぬるいオフィスで火照った頬を撫でた。手にしたコンビニのサンドイッチは、もはや味のしない燃料と化している。
無機質な咀嚼を繰り返しながら、親指は習慣的にスマートフォンの液晶を滑る。LINE、Instagram、そしてSmartNews。ゴシップと経済ニュースが乱雑に並ぶタイムラインをスクロールする指が、不意に止まった。
『【速報】太陽活動が極大期に!「ソーラーサイクル25」の影響で、今年は10年に一度のオーロラ爆発のチャンス』
その見出しに添えられた一枚の写真。夜空を切り裂く、緑と紫の光のカーテン。景の脳裏に、忘れかけていた光景がフラッシュバックする。大学の天文部。夏合宿で訪れた長野の山奥。仲間たちと毛布にくるまりながら、交代で覗き込んだ天体望遠鏡。レンズの向こうで、白く凍てついた土星の環が、宝石のように凛と輝いていた夜。
あの時の自分は、いったい何を願っていたんだっけ。
午後のオフィスは、キーボードを叩く音と、誰かが内線で話す低い声だけが響いていた。景のPCモニターには、クライアントから突き返された無機質なグラフが表示されている。昨対比、CPA、コンバージョンレート。数字の羅列が、彼女の思考の表面を滑っていく。
頭の中では、緑色の光が乱舞していた。
今を逃せば、次は十一年後。そのとき、自分は三十九歳だ。まだこのデスクで、同じようなグラフを眺めているのだろうか。同じように、味のしない昼食を摂っているのだろうか。その問いが、無視できない質量をもって、心の中心に居座り始めた。
定時を告げるチャイムが、遠くで鳴った気がした。景は誰にも声をかけず、デスクの下でスマートフォンを握りしめる。ブラウザを開き、検索窓に打ち込んだのは、スカイスキャナーだった。
出発地:東京(すべての空港)
目的地:「すべての場所」
日付:明日
検索ボタンを押すと、見慣れたアジアの都市名が安い順にずらりと並んだ。ソウル、台北、バンコク……。違う。私が行きたいのは、こんな場所じゃない。もっと北へ。もっと、日常から遠い場所へ。
彼女は会社のグループウェアを開き、上司宛のチャットウィンドウに指を走らせる。
『急な発熱のため、大変申し訳ありませんが、明日から一週間ほどお休みをいただきたく存じます。業務の引き継ぎについては、共有フォルダの「251212_佐藤」をご確認いただけますと幸いです』
送信ボタンを押す、人差し指がわずかに震える。罪悪感。そして、それを遥かに上回る、焼けつくようなスリルが喉を駆け上がった。
もう一度、スカイスキャナーの画面に戻る。目的地に「フィンランド」と打ち込むと、いくつかの候補の中から「ロヴァニエミ」という名前が目に飛び込んできた。聞いたこともない地名。それがいい。誰も私のことを知らない場所がいい。クレジットカードの番号を打ち込み、購入ボタンをタップした。すぐに届いた予約完了のメールが、もう後戻りはできないという事実を、冷たく、しかし確かな手触りをもって告げていた。
自宅のクローゼットから、学生時代から使っている黒いバックパックを引っ張り出す。ダウンジャケット、下着、ヒートテック、セーター、最低限の化粧品。押し入れの奥で埃をかぶっていた、古い星座早見盤も見つけ出し、そっとサイドポケットに滑り込ませる。
深夜の成田空港は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。まばらな人々が、それぞれの搭乗ゲートへと吸い込まれていく。電光掲示板に並ぶ見慣れた都市名の中に、「ヘルシンキ」の文字を見つけ、心臓がとくん、と跳ねた。それはもう、他人事の記号ではない。自分の行き先だ。
AY074、ヘルシンキ。乗り継いで、ロヴァニエミへ。
自動チェックイン機で発券したチケットを握りしめる。出発まで、あと一時間半。煌々と明かりが灯る売店で、景は衝動的に一つの商品を手に取った。富士フイルムの「写ルンです」。
この旅は、インスタグラムにアップするためじゃない。誰かに「いいね」をもらうためでもない。自分だけの秘密の思い出にするのだ。カシャン、とフィルムを巻き上げる音が、静かなターミナルに小さく響いた。それは、新しいOSをインストールする時の、起動音によく似ていた。
※※※※※※※
日本を飛び立って、何時間が過ぎたのか。景は、凝り固まった首をそっと回し、こきりと鈍い音を立てた。エコノミークラスのシートは、彼女の身体を緩やかに拒絶し続けている。
機内は乾燥しきった空気と、低いエンジンの唸りに支配されている。何度か浅い眠りに落ちては、周囲の音で目を覚ます、その繰り返し。スクリーンに表示された飛行ルートマップは、シベリア上空を示す赤い線が、絶望的なほどゆっくりとしか進んでいなかった。
身体の節々が軋む。狭い空間に押し込められた足はむくみ始め、窮屈なパンプスの中で指先が痺れていた。これが、私が望んだ逃避行の現実。それでも不思議と、後悔はなかった。むしろ、この物理的な痛みこそが、昨日までの退屈な日常から自分が確かに遠ざかっている証であるかのように感じられた。
水平飛行に移ると、機体が一度、ふわりと浮いた。シートベルト着用のサインが消える音と同時に、景は大きく息を吐き出す。背中をシートに深く沈めると、これまで全身を縛り付けていた透明な鎖が、音を立てて砕け散ったような気がした。
解放感。そして、それを上回る背徳的なスリル。今頃、オフィスでは何人かが自分の不在に気づき、チャットツールでメッセージを飛ばしている頃だろうか。「佐藤さん、熱大丈夫かな」。そんな言葉の裏に滲む「この忙しい時に」という本音を想像すると、罪悪感よりもむしろ、密やかな笑いが込み上げてくる。
隣の席は、結局最後まで誰も来なかった。窓の外、漆黒の闇の向こうに広がる無数の星々。この十数時間の逃避行の共犯者は、自分自身と、この空席だけだ。景は、マリメッコのケシの花が描かれた紙コップの水を一口飲み、小さく笑みを漏らした。
ヘルシンキ・ヴァンター国際空港は、木の温もりと洗練されたミニマリズムが同居する、静かな空間だった。床から天井まで届く大きな窓から、北欧の低い冬の太陽が柔らかく差し込んでいる。飛行機を降り、ようやく全身を伸ばした時、景は自分の身体がこれほど強張っていたのかと驚いた。
案内表示に並ぶ、馴染みのないフィンランド語の文字列。飛び交う言葉のどれ一つとして、意味を成さない。その完全な孤独が、今は心地よかった。空気が違う。日本のそれよりもずっと冷たく、乾燥しているが、どこか澄み切っている。肺の隅々まで、新しい空気が満たされていく感覚。
乗り継ぎのロヴァニエミ行き小型機に乗り込むと、乗客は半分も埋まっていなかった。エンジンが唸りを上げ、機体は再び空へと舞い上がる。窓の外の景色は、先ほどまでの夜の闇とは一変していた。見渡す限り、白。墨で輪郭だけを描かれた針葉樹の森と、凍てついた湖が、延々と続く。まるで世界から色彩が抜き取られてしまったかのような、静謐な白銀の世界だった。
ロヴァニエミ空港は、山小屋のような温かみのある、小さな空港だった。到着ロビーと呼ぶにはあまりにこぢんまりとした空間は、大きな荷物を持った観光客の熱気でむせ返っている。預け入れ荷物が流れてくるのを待つ人いきれの中、景は、なぜか一人の女性に目を奪われた。
肩で切りそろえられた、動きやすそうなショートカット。自分と同じように、大きなバックパックを背負っている。彼女は不安そうにきょろきょろと周囲を見渡しているが、その瞳の奥には、消しようのない強い光が宿っていた。
荷物を受け取り、到着ゲートを出ると、様々なツアー会社のカウンターが並んでいた。景は事前に予約していたオーロラツアーのロゴを探し、列の最後尾につく。ふと、隣のカウンターに並ぶ人影に、先ほどの彼女がいることに気づいた。
二人の手にあるパンフレットが、全く同じデザインであることに気づき、小さく目を見合わせる。刹那、時間が止まった。
先に動いたのは、彼女の方だった。はにかむように、小さく会釈する。景も慌てて、ぎこちなく頭を下げた。言葉は、ない。
(あなたも、ひとりなんですね)
声にならない問いかけと安堵が、二人の間に流れた。心細さが、ほんの少しだけ和らいだようだった。
※※※※※※
ロヴァニエミ空港から乗り込んだ大型バスは、暖房が効きすぎていて少し眠たかった。窓の外を流れる景色は、どこまで行っても白と黒のモノクローム。雪を重そうに纏った針葉樹の森が、夕暮れの鈍い光を吸い込んで静まり返っている。
一時間ほど揺られただろうか。バスは深い森の奥、不意に拓けた場所に停車した。そこには、まるでSF映画の基地のように、ガラス張りの半球状のドーム、イグルーが点在していた。雪を踏みしめる音だけが響く中、ガイドに案内されてそれぞれの部屋へ向かう。キーを渡され、景が指定された番号のドアを開けると、隣の部屋のドアもほとんど同時に開いた。先ほど空港で見かけた女性だ。二人は一瞬、視線を交わし、どちらからともなく小さく頷いた。気まずさと、ほんの少しの安堵が混じった奇妙な会釈だった。
部屋は想像していたよりもずっと広く、そして暖かかった。天井から壁にかけての一面が、継ぎ目のないガラスで覆われている。外の雪景色と、鉛色の空がパノラマで広がっていた。まるで宇宙船のコックピットだ。景は、東京の狭いワンルームマンションの天井を思い出し、自嘲気味に笑った。
バックパックを床に放り出し、そのままベッドに倒れ込む。空が真正面に見えた。
「は……」
息が漏れた。それは溜息ではなく、体中の空気が入れ替わるような、生まれて初めてする種類の深呼吸だった。重い鎧を脱ぎ捨てたような感覚。もう、上司の顔色を窺う必要も、鳴りやまない通知に怯える必要もない。ここは、日常から切り離された、ガラスの繭の中だった。
日が完全に落ちると、イグルー群の中心にある共用のラウンジ棟に、暖かな光が灯った。景が一人でテーブルについていると、戸口の方で誰かが逡巡している気配がした。先程の女性だった。彼女は数秒間、中の様子を窺っていたが、やがて意を決したように景のテーブルへまっすぐ歩いてきた。
「Can I sit here?」
景の向かいの椅子を指差し、少し首を傾げてみせる。景が頷くと、彼女はほっとしたように微笑み、静かに腰を下ろした。ぎこちない沈黙が、暖炉の薪がはぜる音を際立たせる。
先に口を開いたのは向こうだった。彼女は自分の胸にそっと手を当て、はにかみながら、しかしはっきりとした声で言った。
「I'm Soyeon. I think we're on the same tour. I hope you don't mind me sitting here.」
景は、その滑らかな英語の響きに一瞬、思考が停止した。聞き取れたのは、自分の名前を名乗っているらしいということだけ。学生時代に投げ出した英語の教科書が、脳裏でぱらぱらと虚しくページをめくる。
「あ……えっと、サトウ、ケイ。アイム ケイ サイトウ」
慌てて返したが、名前以上に、景の壊滅的な英語力が相手にも伝わったらしい。彼女は困ったように眉を寄せた。景は慌ててスマートフォンを取り出し、翻訳アプリを立ち上げた。
まず景がスマホに『佐藤 景です。日本から来ました』と打ち込む。
ソヨンは画面を覗き込み、こくりと頷いてから、自分のスマホにハングルを打ち込んだ。画面を景に見せる。『김서연(キム・ソヨン)、韓国人です』。なるほど、と景は心の中で反芻した。
自己紹介は続く。景が『広告代理店で働いています』と打ち込むと、ソヨンは翻訳された文字を読み、少し考え込むような表情を見せた。そして、景の目をまっすぐ見て、ぽつりと呟く。
「Doctor, specialize in surgery.」
その単語が何を意味するのか、景にはわからなかった。彼女の問いかけるような視線に、ただ曖昧に頷くことしかできない。ソヨンは景の反応を見て察したように苦笑し、すぐにスマホに文字を打ち込んだ。
スマホから機械的な女性の声が、『私は外科医です』と再生される。
「あ、お医者さん……!」
思わず声が出た。なるほど、ドクターか。そんな簡単な単語も聞き取れない自分が情けなかったが、同時に目の前の快活な女性と「医師」という職業が結びついて、小さな驚きがあった。
そこから、途切れ途切れの会話が始まった。サーモンのクリームスープをスプーンで運びながら、お互いの国の天気について、このラウンジの料理について、当たり障りのない言葉を交換する。それはまるで、初めて会う取引先の相手と名刺交換をするような、ぎこちない儀式だった。
スープ皿が空になる頃、ソヨンがふと顔を上げ、少し間を置いてから、新しい文章を打ち込んだ。景のスマホに、シンプルな問いが映し出される。
『なぜ、ここに?』
核心を突く、短い質問。景はキーボードの上で指を数秒さまよわせた後、正直な言葉を探した。
「人生の、冬休み……かな。あなたは?」
送信ボタンを押すと、ソヨンは翻訳された日本語の響きを確かめるように、静かに目を伏せた。そして彼女もにやりと笑っていった
「Me too. I'm looking for a place where Monday never comes.」
ソヨンがはっきりと発音してくれたこともあり、今度は景にも大体聞き取れた。
『月曜日が、もう来ない場所を探して』
その言葉が、景の胸に鋭く突き刺さった。月曜日。毎週、毎週、律儀にやってくる灰色の日。彼女の脳裏に、月曜朝の満員電車の淀んだ空気と、うんざりした顔でスマホを眺める人々の群れが蘇る。目の前の彼女も、自分と同じ檻の中から逃げてきたのだ。
込み上げてくる感情のままに、景は言葉を返した。
「わかる。Monday never comes. That's my wish too!」
景のグダグダの英語は、しっかりとソヨンに伝わったようだった。彼女はコロコロと人懐っこく笑った。
その夜、オーロラは現れなかった。
空は、分厚く湿った雪雲に覆われたままだ。期待していた光のカーテンはなく、ただ静かな闇がガラスの天井の向こうに広がっている。景はベッドに横になり、ほとんど諦めに近い気持ちで空を見上げていた。
見えるはずのない光を探す時間は、ひどく孤独だった。しかし、不思議と心細さはなかった。壁一枚を隔てた隣の繭にも、自分とまったく同じ気持ちで、同じ絶望的な空を見上げている人間がいる。その事実が、凍てつく夜の闇に、小さな毛布をかけてくれるような、奇妙な安心感を与えていた。
窓の外に視線を戻すと、ソヨンのイグルーの室内灯が、ふっと消えるのが見えた。
景も自分の部屋の明かりを消した。完全な暗闇の中で、雪明かりに照らされた木々のシルエットが、ぼんやりと浮かび上がる。ガラスに付着した自分の息が、白く世界を滲ませた。
※※※※※※
翌朝のラウンジは、昨日までのそれとは少しだけ違って見えた。暖炉で爆ぜる薪の音、ノルウェー語かスウェーデン語かの判別もつかない、他の宿泊客たちの穏やかな談笑。それらが織りなす空気が、心なしか肌に馴染むように感じられる。景がコーヒーをカップに注いでいると、ごく自然にソヨンが隣に立ち、同じようにマグカップを手に取った。
「おはよう」
どちらからともなく、ほとんど同時に声が出た。互いの母国語だったが、不思議と意味は通じ合った気がした。二人は窓際のテーブルに向かい合って座る。昨日まで二人の間にあった、探り合うような薄い氷は、夜の間にすっかり溶けてなくなっていた。
朝食の後、ツアーデスクの前に置かれたホワイトボードの文字が、二人の足を同時に止める。「犬ぞり体験ツアー、10時出発。空き2名」。その文字を、景とソヨンは顔を見合わせて、指差した。どちらかが誘うでもなく、流れは決まった。言葉の壁など、もはや些細なことだった。
十分後、二人はレンタルの防寒着に身を包み、犬たちのけたたましい歓迎の咆哮の中にいた。十数頭のシベリアンハスキーが、早く走りたくてたまらないといった様子で、雪の上を跳ね回っている。その生命力の奔流に、景は思わず後ずさりしそうになった。
ガイドの男が、身振り手振りを交えてそりの操縦法を説明する。体重移動が全てだ、と彼は繰り返した。右に曲がる時は右へ、左は左へ。ブレーキは足元の金具を踏み込む。単純明快だが、二人で息を合わせる必要がある。ソヨンがそりの前に乗り込み、景が後ろに立つ操縦役になった。
「Ready?」
ガイドの問いに、ソヨンが振り返って親指を立てる。景は頷き、ブレーキから足を離した。その瞬間、世界は後方へ猛烈な勢いで流れ出した。
「うわっ!」
思わず声が漏れる。犬たちは、解き放たれた矢のように雪原を突き進む。顔に叩きつけられる氷の粒が痛い。だが、それ以上に、全身を貫く速度が景の理性を麻痺させていく。
最初のカーブが迫る。景は慌てて右に体重をかけた。だがタイミングが遅れ、そりは大きく外側に膨らむ。ソヨンの小さな悲鳴が聞こえた。まずい。これでは転倒する。
「ソヨンさん!」
呼びかけると同時に、前のソヨンが即座に反応し、同じ方向へぐっと身体を傾けた。そりの傾きが修正され、遠心力と拮抗する。持ち直した。ソヨンが一度だけ振り返り、ヘルメットの下で目が笑ったのが分かった。
それからだった。二人の間に、言葉にならない対話が生まれたのは。
次のカーブが来る。景が腰を落とす予備動作をすると、ソヨンもそれに合わせて体勢を低くする。景が右足に力を込めれば、ソヨンも右の縁を掴む手に力を込める。白樺の木々を縫うように、そりは滑らかに雪上を滑っていく。犬たちの荒い息遣いと、そりの刃が雪をかくリズミカルな音だけが、二人の世界を支配していた。
小一時間の滑走を終え、出発点に戻った時、二人は汗と安堵で息を切らしていた。言葉はなかった。ただ、防寒着を脱ぎながら、互いの顔を見て笑い合った。何時間も言葉を尽くすより、よほど深く相手を理解できた気がした。
休憩中、ソヨンはいつも持ち歩いているクロッキー帳を膝の上に広げた。景が何気なくそれを覗き込むと、そこには驚くほど精緻なタッチで描かれた、人間の頭蓋骨や、上腕二頭筋の走行、心臓の断面図といった解剖図が何枚も並んでいた。彼女の日常が、そこにあった。
ソヨンは数ページめくると、真っ白なページを開いた。そして、鉛筆を手に取り、目の前に広がる白樺の木立を描き始める。彼女のストイックな線は、人体の曲線を描く時とは違い、どこか楽しげに、自由に紙の上を走っていた。義務ではない、ただ描きたいから描く。その横顔は、景がこれまで見た彼女のどの表情よりも、穏やかで、少女のように無防備だった。
景は、自分もお返しに何かを伝えたいと思った。バックパックから、学生時代から使い古した星座早見盤を取り出す。
「This is...」
言いかけて、どう説明すればいいか迷う。結局、翻訳アプリに頼った。「夜空の、地図です」。
ソヨンは興味深そうに、その円盤を覗き込む。景は、今日の夜の日付と時刻に盤を合わせ、ある一点を指差した。
「ポラリス。北極星。いつも、同じ場所にいる星」
アプリが彼女の言葉を韓国語に変換する。
「道に迷った時の、目印です。昔、大学の部活で……星ばかり見てた」
少しだけ付け加えた自己紹介に、ソヨンは顔を上げて、静かに景の目を見つめた。そして、深く頷くと、自分のスケッチブックの隅に、小さな、しかし力強い点の印をひとつ、描き加えた。
その夜、景はソヨンを誘って、キャンプ施設に併設されたフィンランド式サウナへ向かった。薄暗いログハウスの中は、乾いた木の香りと、熱せられた石の匂いで満たされていた。
室温は摂氏九十度を指している。座った瞬間、肌がビリビリと悲鳴を上げた。全身の毛穴が悲鳴を上げ、皮膚呼吸を拒絶するような感覚。心臓が警鐘のようにドクドクと脈打ち始める。東京での日常では決してかくことのない、塩分を含まない純粋な汗が、額から、首筋から、玉のように噴き出した。
思考が溶け落ちるような熱気の中、ソヨンが静かに立ち上がった。彼女はストーブの前に立つと、木製の柄杓で水を一杯、迷いのない所作で、熱されたサウナストーンに振りかける。
「や、待って、ソヨ……!」
ジュウウウウウッ!
灼熱の石が咆哮を上げる。立ち上った蒸気の波――ロウリュが、容赦なく二人を包み込んだ。熱が、もはや温度ではなく、物理的な圧力となって全身にのしかかる。呼吸をするたびに、喉の奥が焼け付くようだ。景はたまらず顔を覆った思考が消える。明日の仕事も、SNSの通知も、複雑な人間関係も、すべてがどうでもよくなっていく。暴力的なまでの熱の塊が、脳の活動を強制的に停止させていった。
十分後、二人はフラフラと外へ出た。外には、サウナの熱気で湯気を立てる他の利用者たちが、凍てつく空気に身を晒している。だが、彼らの数人は、さらにその先へ、暗闇へと続く小道へ向かっていた。小道の先には、凍りついたはずの広大な湖が広がっている。そして、その湖面には、不自然なまでに真っ黒な、長方形の穴がぽっかりと口を開けていた。
状況が飲み込めていない景にソヨンは何やらスマホに祟りかけると、何もないように景の前に出した
「’アヴァントは凍った湖に穴を開けて、水風呂の代わりにするの。冬の名物よ」
言葉はない。だが、その瞳は「行こう」と明確に語っていた。景は全身の血が逆流するかのような恐怖を感じた。氷点下の中で氷水に飛ぶこむなんて正気じゃない。しかし、ソヨンの瞳の奥に宿る、自分を縛り付けてきた何かを断ち切ろうとする強い光から、目を逸らすことはできなかった。
気持ちを切り替えれば、こんな体験を主導者とはいえ医者同伴でなんて惠まれている。心臓が止まったら、責任をもって蘇生してもらおう。
そんな風に現実逃避しながら、雪を踏みしめ、湖の穴へと向かう。穴の縁には、水面へと続く短い梯子が設置されていた。暗い水面は、まるでこの世の終わりへと続く入り口のように、静かに揺らめいている。
ソヨンが先に梯子に足をかけた。彼女の小さな背中が、恐怖にこわばっているのが分かった。景は彼女のすぐ後ろに立ち、無言でその肩に手を置いた。ソヨンは一度だけ頷き、そして、覚悟を決めて、一気に水の中へ身体を沈めた。
「ッ……!」
声にならない悲鳴が、彼女の口から漏れた。次は自分の番だ。景は息を止め、氷のように冷たい梯子を握りしめ、ソヨンの隣に身体を滑り込ませた。
その瞬間、世界から音が消えた。
心臓が、鷲掴みにされたかのように停止する。全身の皮膚を、無数のガラスの破片で突き刺されるような、痛覚を超えた衝撃。呼吸ができない。肺が凍りついたように収縮し、酸素を拒絶する。死ぬ。本能が、全身でそう叫んでいた。
だが、数秒が過ぎた頃、変化が訪れた。
痛みが、すうっと引いていく。代わりに、身体の内側から、燃えるような熱が湧き上がってくるのを感じた。心臓が、静かに、しかし力強く鼓動を再開する。ドクン、ドクン。それは自分の身体の内側から聞こえる、生命そのものの音だった。
皮膚の感覚が麻痺し、自分と水の境界線が溶けていく。水中で目を開けると、隣にいるソヨンが見えた。彼女は、苦悶の表情ではなく、どこか恍惚とした、生まれ変わったような顔で、水面に浮かぶ星空を見上げていた。その頬を、涙とも水滴ともつかないものが伝っている。
極限の状態で、二人の魂は共鳴した。言葉はいらない。東京で抱えていた悩みも、韓国で背負っていた重圧も、この氷の棺の中で一度死に、そして今、共に再生する。
水から上がった時、二人は震えが止まらなかった。だが、それは寒さだけではなかった。恐怖を乗り越え、新しい自分に生まれ変わったことへの、魂の武者震いだった。どちらからともなく、二人は顔を見合わせ、子供のように笑い出した。
※※※※※※
深夜。景は自分のイグルーのベッドで、天井のガラス窓を眺めていた。隣には、アヴァントを経て、すべてを洗い流したソヨンがいる。どちらからともなく、オーロラが現れるのを一緒に待とう、ということになったのだ。
部屋の明気はすべて消され、外の雪明かりだけが室内をぼんやりと照らしている。言葉はない。ただ、時折どちらかが寝返りを打つ、シーツの擦れる音だけが聞こえる。
オーロラは、この夜も現れなかった。厚い雲は晴れることなく、静かに空を覆い尽くしている。
見えるはずのない光を待ちながら、景は満ち足りた気持ちでいた。
隣から、すう、すう、と穏やかな寝息が聞こえ始める。待ち疲れたのだろう。その無防備な呼吸に引かれるように、景の意識もまた、静かな闇の中へとゆっくり沈んでいった。
※※※※※※※※※※※※
雪は、音を吸い込む。
ロヴァニエミの街を覆う純白の層は、車の走行音も人々の話し声も、すべてを自らの内に取り込み、世界から輪郭を奪っていくようだった。景とソヨンは、吐く息の白さだけを確かな存在として、並んで歩いていた。キュッ、キュッと雪を踏む二対の足音だけが、世界の静寂に抗うリズムを刻んでいた。
ショッピングストリートのショーウィンドウは、競うように暖かな光を放っている。マリメッコの鮮やかなテキスタイル、イッタラの繊細なガラス食器。そのどれもが、この極夜の続く世界で、人が生きるためのささやかな祝祭のように見えた。
二人はどちらからともなく、トナカイの角や木工品を扱う土産物屋に吸い寄せられた。ドアを開けると、カウベルの乾いた音とともに、白樺の甘い香りと暖気が二人を包み込む。
店内は、観光客の熱気で満ちていた。言葉は分からずとも、彼らの高揚した表情は万国共通だった。
ソヨンが、棚に並んだ小さなキーホルダーに目を留めた。磨き上げられたトナカイの角に、繊細な模様が彫り込まれている。彼女はそれを一つ手に取り、その滑らかな感触を指先で確かめていた。その横顔を、景は気づかれないように盗み見る。彼女の短い髪が、店の柔らかな照明を弾いて淡く光っていた。このキーホルダーが、ソウルの喧騒の中で彼女の日常にぶら下がっている光景を、景は想像した。彼女の心を少しでも軽くするお守りになるだろうか。
一方の景は、ポストカードの回転スタンドをゆっくりと回していた。何十種類ものオーロラの写真が、そこにはあった。渦を巻く光、天を切り裂く光、湖面に映る光。その中で一枚、地平線から巨大な光のカーテンが立ち上る写真に、彼女は指を止めた。まだ見ていない光。けれど、必ず見ると決めた光。彼女はそのカードを抜き取り、ソヨンに見られないよう、そっと自分のカートに滑り込ませた。
ソヨンもまた、景が何を選んだか尋ねることはしなかった。彼女は先ほどのキーホルダーを握りしめ、レジへと向かう。互いに買ったものを見せ合うことなく、ただ、相手の心の中に生まれた小さな温もりを、壊さないように持ち帰る。それはまだ言葉にならない、二人だけの秘密のお土産だった。
街の散策で芯まで冷えた身体を温めようと、二人は路地裏の小さなカフェに避難した。木をふんだんに使った店内は、テーブルごとに小さなキャンドルが灯され、穏やかな時間が流れている。窓の外では、雪がまた勢いを増し始めていた。
温かいコーヒーの入ったマグカップを、二人は両手で包み込むように持った。指先にじんわりと熱が伝わる感覚が、強張っていた心を解きほぐしていく。しばらく、沈黙が続いた。雪の降る音も聞こえない、静かな空間。聞こえるのは、遠くのテーブルの囁き声と、エスプレッソマシンの立てる断続的な音だけ。
先に口を開いたのは、ソヨンだった。彼女はテーブルの上に置いたスマートフォンの翻訳アプリに、ゆっくりと、言葉を選ぶように打ち込んだ。やがて、合成音声が静かに告げる。
『医者に、なりたかったわけではありませんでした』
景は顔を上げた。ソヨンの瞳は、キャンドルの炎を映して揺れている。
『父が、医者でした。祖父も。家族みんなが、私が医者になることを望んでいました。だから、私は、父を失望させたくなかった。期待に応える、”良い娘”でいたかっただけなんです』
機械翻訳が紡ぐ言葉は平坦で、感情がない。だが、その無機質さがかえって、ソヨンが押し殺してきた感情の重さを際立たせていた。彼女は一度も瞬きをせず、じっと景の目を見つめている。まるで、その奥にある本当の言葉を読み取ってほしいと願うように。
景は、ゆっくりと頷いた。わかる、という言葉はあまりに軽すぎた。彼女もまた、自分のスマートフォンに指を滑らせる。
『わかる気がします。私は、かっこいい広告で、誰かの心を動かしたかった。面白い、って思わせたかった。でも、いつの間にか、どうでもいい商品を売るための歯車になってた。アクセス数やコンバージョン率……数字ばかり追いかけて。自分の人生のキャッチコピーひとつ、思いつかないくせに』
自嘲気味の笑みが、景の口元に浮かんだ。彼女はスマートフォンの画面をスワイプし、写真フォルダの奥深く、誰にも見せたことのない一枚の画像を探し出した。そして、テーブルの中央に、そっと差し出す。
「これ」
それは、大学時代に撮った星空の写真だった。最新のデジタルカメラで撮ったわけではない。少しノイズが走り、ピントも甘い。けれど、そこには無数の星々が、これ以上ないほどの密度で輝いていた。天の川が、淡い光の帯となって画面を横切っている。
ソヨンは、その小さな画面を食い入るように見つめた。彼女の目が、ゆっくりと見開かれていく。
「わあ……」
それは翻訳アプリを介さない、彼女自身の、心の底からの声だった。感嘆と、憧憬と、そして少しの切なさが入り混じった、澄んだ響き。その声を聞いた瞬間、景の心の中で、何かがふっと軽くなるのを感じた。無味乾燥な数字の羅列ではない。たった一人でも、誰かの心を、確かに動かせた。その事実が、凍てついた自己肯定感を、ほんの少しだけ溶かしてくれた。
オーロラキャンプに戻った時、ラウンジは重たい沈黙に支配されていた。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てて燃えているが、その暖かさも、人々の心までは届いていないようだった。これが、最後の夜。最後のチャンス。しかし、大きな窓の外に広がるのは、街の明かりを反射して不気味に明るい、鉛色の雲だけだった。
壁に掛けられた大型テレビが、非情な現実を突きつけていた。天気予報の隅に表示されたオーロラ予報は、『KP-INDEX: 2 (LOW)』という文字を無感情に映し出している。
「やっぱり、今週はツイてなかったな」
ソファに深く沈み込んだ、どこかの国の観光客が、ため息混じりに呟くのが聞こえた。
「来年、またリベンジするしかないか」
その声に、周りの数人も諦めたように頷く。希望を語る者は、もう誰もいなかった。
景も、テーブルの上の空になったコーヒーカップを眺めながら、「まあ、仕方ないか」と自分に言い聞かせようとしていた。オーロラが見られなかったのは残念だ。でも、ソヨンと出会えた。それだけでも、この旅には十分な価値があったじゃないか。そうやって、賢明な大人のように、自分の気持ちに蓋をしようとしていた。
だが、隣に座るソヨンは、違った。
彼女は、窓の外の、何も見えない暗い空を、まだ諦めきれない強い光を宿した瞳で、じっと見つめ続けていた。その横顔は、まるで祈っているかのようだった。
諦めが霧のように立ち込めるラウンジのソファに、二人は並んで座っていた。景は「まあ、仕方ないか」と、用意していた言葉を喉の奥で転がした。その言葉を口にすれば、この不完全な旅も、それなりに美しい思い出としてパッケージできる気がした。
「ねぇソヨンの、なかなか確率も低い額だし、仕方ない……」
『予約した。行くよ』
「……え?」
意味が理解できず、景はソヨンの顔と画面を二度見した。ソヨンはスマホを引くと、今度は予約完了を知らせるメール画面を見せつける。そこには「プライベート・オーロラハントツアー」の文字と、ガイドの名前、そして「支払い完了」のスタンプが押されていた。
「え、ちょ、ちょっと待って。勝手に?」
思わず、日本語でまくし立てる。ソヨンは意に介さず、再びアプリに素早く打ち込んだ。
『予報は、予報。テレビじゃない。自分の目で見なきゃ』
「だって、もう遅いし、それに雲がこんなに……」
景の反論を遮るように、ソヨンの指がスマホの画面を叩く。その速さに、彼女の焦燥と決意が滲んでいた。
『月曜日がもう来ない場所を探しに来たんでしょ? 最後の夜を、テレビのテロップで終わらせるの?』
その言葉に、景は喉を突かれたように黙り込んだ。そうだ。私たちは逃げてきた。退屈な月曜日から。誰かの期待から。歯車としての自分から。その旅の結末が、諦めでいいはずがない。
ソヨンの瞳が、暗いラウンジの中で燃えるように景を射抜く。その強い光に気圧され、景は呆然としながらも、小さく、頷いていた。
まるでその返事を待っていたかのように、ロビーの自動ドアが開き、外の冷気をまとった一人の男が入ってくる。熊のようにがっしりとした体格に、使い込まれた防寒ジャケット。年の頃は四十代前半だろうか。彼は手にしたリストとロビーを見比べ、やがて景とソヨンの前で足を止めた。
「佐藤景さん、キム・ソヨンさん?」
その声は、見た目に反して驚くほど穏やかだった。ソヨンがいつの間にこんな手配を、という驚きに思考が追いつかないまま頷く景の横で、ソヨンは「はい」とでも言うように力強く頷いた。男は「アリです。今夜のガイドを担当します」と言って、深い皺の刻まれた目元を和らげた。その温和な笑顔には、予報を覆すような不思議な説得力があった。
彼の後に続き、外に出る。息を吸い込むと、肺が凍るような痛みが走った。駐車場に停められていたのは、雪と泥で汚れたメルセデスの大型バンだった。スライドドアを開けると、強力なヒーターの温風が二人を迎えた。
「さあ、行こうか。今夜は少し、遠出になるかもしれない」
アリはそう言うと、こともなげにハンドルを握った。一行を乗せたバンは、リゾートの灯りを背に、深い森の闇へと滑り出すように出発した。
車内は、エンジンの低い唸りと、時折ワイパーが乾いた雪を払う音だけが響いていた。暖房の効いた車内と、ヘッドライトが照らし出す極寒の世界との境界線は、一枚の窓ガラスだけ。景は後部座席で固唾をのみ、ソヨンの横顔を盗み見た。彼女は窓の外を、まるでそこに答えがあるかのようにじっと見つめている。その瞳には、諦めとは程遠い、祈るような光が揺らめいていた。
本当に見つかるのだろうか。景の心に、冷たい不安が染みのように広がる。一方でソヨンの燃えるような意志には感心していた。ソヨンは否定するかもしれないが、彼女がふとしたときに発揮する意志の強さや判断力を、景は「外科医っぽいな」と感じていた。病気で後ろ向きな気分な患者にとって、彼女はどこまでも頼もしく映るのだろう。
沈黙が重く感じられ始めた頃、景は意を決して、膝の上のスマートフォンを起動した。翻訳アプリに、震える指で言葉を打ち込む。
「アリさん……雲がこんなに厚いのに、本当に見つかるんですか?」
合成音声が、彼女の不安を無機質に再生する。アリはバックミラー越しに、穏やかな視線をよこした。彼は一方的に語るのではなく、まず問い返してきた。
「景は、どう思う?」
不意の問いに、景は言葉に詰まる。「え? いや……無理なんじゃないかと……」。自分の声が、情けないほど弱々しく響いた。
アリは、ふっと笑った。
「空全体が雲に覆われているように見えても、必ずどこかに“穴”があるんだ。鳥の群れが風の道を読むように、雲にも流れ道がある。北欧の天気は気まぐれだから、今はなくても、そのうち必ず穴があく」
彼はそう言うと、親指でダッシュボードを指した。そこには、サイズの違う複数のタブレットが、まるで戦闘機のコックピットのように埋め込まれている。その一つには、白と黒の渦を巻くリアルタイムの衛星画像が、別の画面には、太陽風のエネルギーを示すグラフが絶えず更新されていた。
「俺たちはオーロラを待つんじゃない。雲の切れ間を“狩り”に行くんだよ」
その力強い言葉と、計器類が放つプロフェッショナルな光に、景の不安は少しずつ溶けていく。この男は、ただの運転手ではない。この極北の自然と対話する、専門家なのだと直感した。
少しだけ車内の緊張がほぐれたのを感じて、今度はソヨンがアプリに質問を打ち込んだ。
「どうして、そんなに雲の道がわかるの?」
アリは少し楽しそうに、ハンドルの上で指を弾いた。
「昔の仕事のおかげかな。大学の研究所で、気象物理学の研究をしていたんだ」
「研究者……! それで、どうして今はガイドの仕事を?」
景の純粋な疑問に、アリは前方の闇を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは独白ではなく、二人の問いへの、誠実な答えだった。
「僕の仕事は、巨大なスーパーコンピューターで未来の気候変動をシミュレーションすることだった。何年も先の、地球全体の雲の動きを予測する。論文も書いたし、学会で評価もされた。でも……」
彼はそこで一度、言葉を切った。ワイパーの動く音だけが、沈黙を埋める。
「僕の予測モデルが、誰かの心を震わせる瞬間を、僕は一度も見たことがなかった。モニターの中のシミュレーションは完璧でも、そこには体温がなかったんだ。来年の研究費が貰えなくなったら、用済みとなって消えるだけ。」
その言葉は、広告の効果測定データやアクセス解析の数字と日々向き合う景の胸に、静かに、だが鋭く突き刺さった。どうでもいい商品を売るための歯車。自分の人生のキャッチコピーひとつ、思いつけない自分。画面の向こうにいるはずの誰かの顔を、想像できなくなっていたのは、一体いつからだっただろう。
「でもある夜、休暇でここに来て、オーロラを見た。何年も数式で追いかけてきた現象が、目の前で生きて、踊っていた。……でも、本当に僕の人生を変えたのは、オーリラそのものじゃない。隣で見ていた、見ず知らずの観光客の、あの言葉にならない表情だったんだ」
アリの声に、熱がこもる。
「今、君たちがどんな顔をしているか、僕にはバックミラー越しに見える。期待と、少しの不安が混じった、最高の顔だ。オーロラが見えたら、もっとすごい顔になる」
彼は、本当に嬉しそうに言った。
「その顔が見たくて、ガイドを始めた。研究も片手間で続けてはいるけど、気がついたら、こっちが本業になっていたのさ」
誰かの喜ぶ顔。彼のあまりにもシンプルで眩しすぎるほどの原動力は、彼女に失っていたやり甲斐を根っこから揺さぶるものだった。
バンは西へ、そして北へと、雪を踏みしめて走り続ける。衛星画像と睨めっこしながら、アリは躊躇なく道を選んだ。やがて、「Sverige」と書かれた青い標識がヘッドライトに照らされる。国境を越え、スウェーデン領に入っていた。車窓の外は吹雪になり、視界は白一色に染まる。景とソヨンの顔に再び不安の色が浮かぶのを察して、アリは力強く言った。
「大丈夫。必ず見つかる」
午前2時。リゾートを出発してから、3時間以上が経過していた。アリは、広大な雪原の真ん中で、まるで吸い寄せられるようにハンドルを切り、ある凍った巨大な湖のほとりで車を止めた。
「ここだ」
エンジンが止まると、世界から音が消えた。恐る恐る車を降りる。風はない。しん、と静まり返った純白の世界。そして、空を見上げた景は、息をのんだ。
信じられないことに、頭上だけが、円形に雲が切り取られ、満天の星が、まるで黒いベルベットに撒かれたダイヤモンドのように瞬いていたのだ。
その時、地平線の彼方に、淡い緑色の光の筋が一本、すっと現れた。
「あ……」
ソヨンの唇から、吐息のような声が漏れた。
光は瞬く間に巨大なカーテンとなり、天を覆い尽くす。緑のきらめきに紛れ、わずかにピンク、紫の光が、生き物のようにうねり、脈打ち、夜空を舞台に壮大なダンスを繰り広げる。それは、美しいという言葉では到底足りない、神々の領域を垣間見るような、荘厳で冒涜的なまでの光景だった。
あまりの美しさに、ソヨンの頬を静かに涙が伝い、凍てつく空気の中で凍っていく。景も、言葉を完全に失っていた。ただ、首が痛くなるのも忘れ、空を見上げる。自分という存在の小ささと、この宇宙の途方もない営みの前では、東京での悩みなど、塵芥に等しいと思えた。
少し離れた場所で、アリが満足そうに微笑みながら二人を見守っている。
どちらからともなく、景とソヨンは、かじかんだ互いの手を強く、強く握り合った。手袋越しの、不器用な温もりだけが、ここが現実なのだと教えていた。
※※※※※※※※
ロヴァニエミ空港の出発ロビーは、数日前に降り立った時と同じ、木の温もりに満ちていた。しかし、佐藤景の目に映る光景は、もはや同じではなかった。くすんで見えたはずの天井の照明は、今は一つ一つが星のように瞬いて見える。人々のざわめきは、不快なノイズではなく、それぞれの旅路を祝福する優しいコーラスのようだった。
搭乗ゲート前の硬いベンチに、キム・ソヨンと並んで座る。言葉は少ない。会話はとうの昔に途切れ、今はただ、同じ方向に視線を向けながら、共有した時間の最後の数分を惜しんでいる。隣にあるソヨンの存在が、当たり前ではないことを実感すると、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
先に沈黙を破ったのはソヨンだった。彼女は小さなショルダーバッグから、使い古したスケッチブックとペンを取り出した。そして、ためらうことなく最後のページを一枚、丁寧に破り取る。紙が裂ける乾いた音が、二人の間に響いた。
「これ」
ソヨンは、その紙片を景に差し出した。受け取った景の指先に、画用紙のわずかな凹凸が伝わる。そこに描かれていたのは、鉛筆の濃淡だけで表現された、光のカーテンの下で空を見上げる二人の後ろ姿だった。顔は見えない。だが、その小さな背中が、どれほどの感動に打ち震えていたかは、痛いほどに伝わってきた。
「ありがとう」
景の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。この旅で手に入れたどんな土産物よりも、その一枚の絵が尊いものに思えた。お返しに、景も手帳の切れ端に自分のメールアドレスを書き込み、ソヨンに渡した。ソヨンも、同じように彼女のアドレスを書き込んでくれる。インスタグラムのアカウントを交換するのとは、全く違う種類の儀式だった。デジタルのように瞬時に繋がるのではなく、時間と距離を越えて、言葉を届けるための約束。
やがて、ソウル行きの便名が、無機質なアナウンスで呼び出される。立ち上がったソヨンと、視線が絡み合う。
「また、オーロラの下で」
景が言うと、ソヨンは数日間の疲れなど微塵も感じさせない、満開の花のような笑顔を見せた。
「Yes. See you under the aurora.」
彼女はそう言って、一度だけ小さく手を振ると、ゲートの向こうへと消えていった。その小さな後ろ姿が見えなくなるまで、景はただ、その場に立ち尽くしていた。
成田空港に降り立った瞬間、フィンランドの乾燥して澄んだ空気とは似ても似つかぬ、湿気を帯びた生温い空気が景の肺を満たした。現実に引き戻される、という凡庸な表現が、これほど的確に感じられたことはない。
翌朝、景は再び満員電車に揺られていた。ガラス窓に映る自分の顔は、旅に出る前と何も変わらないように見える。だが、イヤホンから流れるいつものプレイリストが、昨日までとは少し違って聞こえた。一つ一つの音が、クリアに、意味を持って鼓膜を震わせる。
オフィスに入ると、澱んだ空気とキーボードを叩く音が、景を出迎えた。自分のデスクに向かう途中、上司の佐々木が声をかけてくる。
「お、佐藤。もう大丈夫なのか? 急に高熱出したって聞いて心配したぞ」
「ご心配おかけしました。もう万全です」
景は深々と頭を下げた。嘘をついた罪悪感がないわけではない。だが、それ以上に心が晴れやかだった。
「はい、おかげさまで。しっかりリフレッシュできました」
その声は、自分でも驚くほどに、明るく、澄んだ響きを持っていた。
退屈なはずの日常業務が始まった。モニターに映るのは、無味乾燥な数字の羅列と、どこかで見たような文言が並ぶ企画書。以前の景なら、眉間に皺を寄せ、ただ機械的にタスクを処理していただろう。
午後、クライアントとのオンライン打ち合わせがあった。新商品の販促キャンペーンに関する報告。景が担当したウェブ広告経由の売上は、目標値をわずかに上回っていた。報告を終えると、画面の向こうで、商品開発部の初老の男性が、穏やかに笑った。
「佐藤さん、ありがとう。今回の広告、現場の人間がすごく喜んでてね。自分たちが苦労して作った商品が、ちゃんとお客様に届いてるって実感できる、って。おかげで、また次も頑張ろうって士気が上がったんですよ」
その、飾り気のない感謝の言葉と、皺の刻まれた笑顔。
その瞬間、景の脳裏に、オーリラの光の下で歓喜の声を上げていた、見ず知らずの旅行客たちの顔が重なった。そして、あの夜のガイド、アリの言葉が鮮やかに蘇る。
――僕の予測モデルが、誰かの心を震わせる瞬間を、僕は一度も見たことがなかった。
――その顔が見たくてガイドを始めたんだ。
そうだ。自分は、数字の向こう側を見ていなかった。広告のクリック数や、コンバージョン率。その無機質なデータの先に、喜んでいる誰かがいる。自分の仕事は、この開発者のように、誰かの仕事に火を灯し、その先にいる顧客の日常を、ほんの少しだけ豊かにすることに繋がっているのかもしれない。
そう思った途端、モニターに映るエクセルのセルの一つ一つが、温かい体温を持って見えてきた。それは、オーロラのような劇的な光ではない。けれど、日常を照らすには十分すぎる光だった。
※※※※※※※※※※※※※※’
週末、景は駅前のカメラ屋で、フィンランドで撮り終えた使い捨てカメラの現像を頼んだ。仕上がりを待つ一時間は、まるで判決を待つ被告人のような心持ちだった。デジタルカメラと違い、そこには撮り直しも、加工も許されない、一回きりの現実が焼き付いている。
受け取った写真の束を、近くのカフェで一枚一枚、指でめくっていく。そこに写っていたのは、プロのカメラマンが撮るような絶景ではなかった。少しピンボケした雪景色。構図のずれたトナカイ。だが、その不器用な写真一枚一枚に、あの時の空気と光と、凍えるような寒さ、そして心の高鳴りが、生々しく封じ込められていた。
最後の一枚。それは、アリに頼んで撮ってもらったものだった。巨大なオーロラを背景に、寒さで鼻を赤くしながらも、涙を浮かべて、人生で一番幸せそうに微笑むソヨンの姿。
景は、その写真をスマートフォンのカメラで撮り、新しい待ち受け画面に設定した。
月曜日の朝。隣のデスクの後輩が、景のスマホを覗き込んで声を上げた。
「うわ、佐藤さん、すごい写真! 待ち受け変えたんですね。どこですか、これ?」
「うん、ちょっとね」
景は曖昧に頷いた。後輩は大きく伸びをしながら、これみよがしにため息をつく。
「あーあ、また月曜日かあ。マジで憂鬱っすね」
その言葉は、つい二週間前の自分が、毎日心の中で吐き捨てていたものと同じだった。景はPCの電源ボタンを押す。静かな起動音が、新しい週の始まりを告げた。彼女は穏やかな笑みを浮かべて、後輩に答える。
「そう? 私は、結構楽しみだけどね。今週は」
退屈な日常は、何も変わらない。けれど、それを見つめる自分の心は、もう昨日とは全く違う場所に立っていた。待ち受け画面の中で、ソヨンが「あなたもでしょう?」と問いかけるように、輝くばかりの笑顔で笑っていた。
※※※※※※※※※※※※※※’
エピローグ:10年後の北極星
10年という歳月は、惑星の軌道をほんの少しずらし、都市の地図を塗り替え、そして人の顔に、物語と呼ぶにふさわしい深みを刻むのに十分な時間だった。
2035年、冬。再び訪れた太陽活動極大期『ソーラーサイクル26』のニュースが世界を駆け巡った時、佐藤景とキム・ソヨンの間で交わされたメッセージは、ごく短いものだった。
『そろそろ、約束の時かな』
『ええ、いつでも』
ロヴァ₌ヴァニエミ空港の到着ゲートは、10年前の記憶にある木の温もりはそのままに、より洗練されたデザインのカフェやショップが並び、デジタルサイネージが滑らかに情報を映し出していた。38歳になった景は、広告業界の荒波の中で揉まれ、クリエイティブ・ディレクターという肩書が板についた今、かつてのような追い詰められた表情はどこにもなかった。
不意に、人混みの中に、見慣れたシルエットを見つける。ショートカットはそのままに、少しだけ柔らかなウェーブがかかった髪。歩き方は昔と変わらない、迷いのない足取り。だが、その雰囲気は明らかに違っていた。かつての、何かに追われるような切迫感は消え、世界を慈しむような穏やかさが全身から滲み出ている。ソヨンだった。
「景!」
「ソヨン。ソウルの結婚式以来か。元気そうで何よりだ」
数年ぶりの再会。言葉を交わすより先に、二人はどちらからともなく腕を広げ、硬いコート越しに互いの存在を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。久しぶりの再会の喜びと、時を越えて変わらない友情が、その温もりだけで十分に伝わった。
向かった先は、10年前と同じガラスイグルーのあるリゾートだった。施設は改装され、よりプライベートが保たれた豪華な仕様に変わっていたが、天井一面がガラス張りというコンセプトは変わらない。部屋に荷物を置くと、二人は併設されたラウンジで、熱いコーヒーを飲みながら、空白の時間を埋め始めた。
「すごいじゃない、あの車のCM。こっちのテレビでも流れてた。見た瞬間、あなたの仕事だってわかった」
ソヨンが、自分のスマートフォンで景が去年手がけたCMの映像を映し出す。それは、ただ製品を売るための広告ではなかった。家族の歴史と、一台の車が紡ぐ物語を描いた、短編映画のような作品だった。
「ありがとう。まあ、そのせいで半年は人らしい生活ができなかったけどね」
景は自嘲気味に笑う。
「クリエイティブ・ディレクターなんて、聞こえはいいけど、実際は雑用の山さ。だから、こんな風に全部忘れて息抜きに来るのは、本当に久しぶりだよ」
「お疲れさま」とソヨンは労い、自分のバッグから薄い画集を取り出した。表紙には『KIM SEOYEON: The Anatomy of Light』と記されている。
「先月、ソウルでやった個展のカタログ。あなたに一番に送りたかったんだけど、やっぱり直接渡したくて」
ページをめくると、息をのむような光の絵が並んでいた。オーロラ、夜明けの海、手術室の無影灯、そして、生まれたばかりの赤子の瞳に宿る光。人体の構造を知り尽くした彼女だからこそ描ける、生命の内側から発光するような、力強い光の数々。
「……すごい。本当に画家になっちゃったのね。
その言葉に、ソヨンは完璧な絵画のように美しい微笑みを浮かべた。だが、その瞳の奥には、かすかな皮肉の色が揺らめいていた。
「どうかしら。評論家たちは決まってこう書くの。『現役の外科医が描く、生命の光』ってね。もし私がただの画家だったら、誰も見向きもしてくれなかったかもしれない」
彼女はコーヒーカップを指でなぞりながら、独り言のように続ける。
「私の絵を見ているのか、それとも『メスを握る手で絵筆も握る珍しい女』を見ているのか。時々、わからなくなるの。この下駄を脱いだら、私には何も残らないんじゃないかって」
その自嘲的な響きは、20年前に「良い娘でいたかっただけ」と語った彼女の姿を景に思い出させた。彼女は、今も戦っているのだ。他人の評価という、見えない檻の中で。
景は何も言わず、画集の中の一枚の絵を指差した。それは、オーロラを描いたものでも、医学的な知識を感じさせるものでもない。ただ、雨上がりのアスファルトに反射する、街灯の滲んだ光を描いただけの、小さな作品だった。
「私には、難しいことはわからないよ」
景は、ソヨンの目をまっすぐに見つめて言った。
「でも、この光は、外科医だから描ける光じゃない。キム・ソヨンという人間が、雨の夜に、たった一人で見つけた光だ。それだけは、わかる」
ソヨンの瞳が、わずかに揺れた。彼女は景の指差す絵に視線を落とし、そして、まるで初めて見るかのように、その滲んだ光をじっと見つめた。やがて、彼女の唇から、ふっと小さな息が漏れる。それは、張り詰めていた何かが、少しだけ緩んだ音のようだった。
「……ありがとう。思ったよりずっと嬉しいわ。でも、うぶだった新人ディレクターさんがそんなこと言えるようになるなんて、10年って長いね」
彼女は待ち受け画面を見せてくれた。そこには、絵の具で顔をぐちゃぐちゃにした、5歳くらいの快活な少女が、ソヨンとそっくりな笑顔で笑っていた。
「この子が一番のファンなの。『ママの絵、キラキラしてて好き!』だって。枕詞なしでね」
二人は顔を見合わせ、声を出して笑った。失われた時間ではなかった。それぞれが、それぞれの場所で、誠実に、必死に、自分の人生と向き合い、大切なものを築き上げてきた。その誇りと、今も続く葛藤と、そして変わらない友情が、ラウンジの暖炉の火のように、二人を優しく包み込んでいた。
その夜。二人はかつてアリに連れて行ってもらった、あの凍てついた湖のほとりに立っていた。
空は、10年前、20年前と同じように、無数の星を湛えて沈黙している。やがて、北の地平線が、淡い緑色に染まり始めた。
「……来た」
光は、あっという間に天頂へと駆け上がり、巨大な光のカーテンとなって二人を包み込む。
20年前、人生から逃げ出してきた二人は、その光に希望を見た。10年前、彼らは言葉を失い、ただその美しさに涙した。
だが、今の二人は、穏やかな気持ちで、ただ静かに空を見上げていた。
「不思議だね」
景が、吐く息を白く凍らせながら言った。
「20年前は、この光に『人生を変えてほしい』って、どこかで祈ってた。でも、今は違う」
「わかるわ」
と、ソヨンが応える。
「この光は、何も変えてくれない。ただ、ここにあるだけ。私たちを照らしてくれるだけ」
変えたのは、自分たち自身だ。
オーロラは、空で乱舞している。それは、祝福でも、奇跡でもない。地球と太陽が、太古の昔から繰り返してきた、壮大な自然現象にすぎない。
だが、その変わらない光の下で、変わり続けた自分たちが、今こうして隣に立っている。そのことこそが、奇跡なのだと、二人は知っていた。
「ねえ、景」
「ん?」
「また10年後、かな」
その言葉に、景は空を見上げたまま、最高の笑顔で答えた。
「もちろん。ソーラーサイクル27の下で」
光のカーテンが、二人の上に、静かに、そして力強く降り注いでいた。彼らがこれから歩んでいく、それぞれの人生の道を、どこまでも明るく照らし出すように。
この話は『一部実話』です
去年と今年は本当に太陽の活動が11年で最大になる”当たり年”です
世界中から集まって曇りの日にオーロラを待つ時間は悲しいものですが、人と仲良くなるにはもってこいです。
あとガイドの方には明確なモデルがいます。とても良い方で、何時間も車を飛ばして頂きました。イナリのあたりでガイドを探している方が降りましたら紹介いたします。
北極圏は4月ぐらいまで冬ですから、間に合いますよ?
実際に行ったら教えて下さい。仕事を首になっても責任は取りません。
姉妹作もよろしくお願いします。
仕事をサボってヴェネツィアに行こう
https://ncode.syosetu.com/n8461kp/
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