異世界製麺
浅葱善吉は、東京の片隅でひっそりと営むうどん屋「善ちゃん」の店主である。
派手な人生ではけしてないもの、麺を打つ手の感覚と出汁作りには誰にも負けない自信があった。
その日もいつも通り、厨房で小麦粉をこねていた。
生地のしっとりとした弾力、小麦の素朴で柔らかな香り。
これが善吉の日常であり、静かな喜びだった。
「今日も一日おつかれさん、と。さて、後片付け……」
呟きながら麺棒を手に持ったその時、店の奥からガタッと奇妙な音がした。
「ん? 風か?」
振り返ると、物置代わりの裏口の古びた木製扉が微かに揺れている。
鍵をかけたはずなのに、隙間から淡い光が漏れていた。
「何だこれ……?」
好奇心に負け善吉が扉を開けると、そこには見知らぬ世界が広がっていた。
石畳の広場、古めかしい服を着た人影、遠くでは馬車の音が響く。
中世ヨーロッパのような景色が目の前に現れた。
「ここ、東京……だよな?」
慌てて後ろを見ると、裏口の扉がぽつんと立っていて、その向こうは確かに「善ちゃん」の厨房。
「まさか、店が異世界と繋がっちゃいました……なんてオチじゃないよな……」
呆然としていると、広場から一人の女が近づいてきた。
金髪にローブをまとい、杖を持った若い女性……物語に登場する魔法使いのような雰囲気だ。
「そこの人! あなたがこの門の主?」
「門? ただの裏口だよ。えっと……」
「あ、あたし」
何かを言いかけた矢先、グウウウと唸るような腹の音。
女性は顔を赤くして取り繕うように話を始めた。
「こ、この門が突然現れてね! 向こうからすごくいい匂いが漂ってきたから、見に来たの!」
「いい匂い……ああ、出汁のことか? よくわからんが、腹が減ってるなら何か作ろうか?」
善吉は困惑しながらも、女性のモジモジした態度に苦笑し店の中へと招いた。
「とは言っても、締め作業をしようとしていたところだから、大したものは出せないけどな」
「ここ、食堂か何か?」
「ああ、うどん屋だよ」
「ウ・ドン?」
「なんだ知らないのか? まあなんだ、最高にうまいもんだよ」
その言葉にリリアの顔がぱっと明るくなり、善吉は厨房に戻って腕を振るった。
鍋に澄んだ水を張り、昆布をそっと浸す。
弱火でじっくり加熱すると、昆布の奥深い海の香りが静かに立ち上り、厨房を満たした。
そこに削りたての鰹節をたっぷり投入。
熱に触れた瞬間、燻されたような芳醇な香りがふわっと弾け、出汁を濾すと黄金色に輝く液体が完成。
ひと口含めば、昆布のまろやかな旨味と鰹節の力強い風味が舌の上で溶け合い、後味にほのかな甘さが広がる。
「うん、うまい」
次に麺。
小麦粉を丁寧にこね、足で踏んで寝かせた生地を均一に伸ばす。
「そういや、お前さん名前は?」
「リリアよ」
「おれは浅葱善吉ってうどん職人だ」
「家名持ち? あなたどこかの貴族とか?」
「まさか」
包丁で切り分けた麺は、断面がほのかに透き通るほど滑らかだ。
沸騰した湯に放つと麺が軽やかに踊り、茹で上がったうどんはつやつやと光沢を帯びる。
ヌメリを落とし冷水で締め、指で触れれば弾力のあるコシが感じられる。
丼に盛り熱々の出汁を注ぐと、湯気をまとってふっくらと膨らんだ。
仕上げに刻んだネギを散らすと、鮮やかな緑が映え、ほのかに辛味のある香りが全体を引き締めた。
「ほら、できたぞ。かけうどんだ」
「カケウ・ドン? これは、スープに麺を浮かべてるの?」
「まあ食ってみてくれ。箸は……」
「木の棒?」
「難しいか。ほら」
リリアが渡されたフォークで麺をすする。
最初の一口で、彼女の目が驚きに見開かれた。
「こ、これは!」
口に広がる熱々の出汁。
昆布と鰹節の調和した深い旨味が舌を包み込む。
うどんを噛むと、もちっとした弾力が歯に心地よく響き、噛むほどに小麦の甘みがじんわり滲み出した。
出汁と麺が絡み合い、喉を滑り落ちる瞬間、体の芯まで温かさが染み渡る。
「なんて優しくて力強い味……! まろやかなのに深みがあって……何これ?!」
「だからかけうどんだって」
「カケウ・ドン! あなた、じつは国王お抱えの料理人か何か?! こんな上等な食べ物、宮廷の晩餐会でだって食べたことないわ!」
「言ってることがよくわからんが……普通に朝昼晩食べるようなものだぞ?」
「こ、これが一般食だとでもいうの?! こんな、食べるたびに、飲むたびに幸せが身体に染み込んでくる食べ物が?!」
丼を両手で抱え、リリアは夢中で食べ続けた。
出汁の最後の一滴まで飲み干すと、目を閉じて余韻に浸った。
善吉はカウンターに肘をついて笑った。
「大げさだな。ただのかけうどんだよ。腹が減ってりゃ、なおさら美味く感じるだろ」
「ただのじゃない! こんな美味しいもの始めて食べたわ!」
リリアの言葉に少し照れながらも、次の準備に取りかかった。
「あと一人前は作れるんだが、まだ入りそうか?」
「え、ええ! 食べるわ!」
「じゃあ、トッピングでも付けてみるか。何か余って……お、ラッキーだな。エビが一尾残ってた」
まずは衣作りだ。
冷水に薄力粉を溶き、軽く混ぜてサラリとした生地に仕立てる。
エビをくぐらせると、薄い衣がその表面を透明に覆い、滴る水滴がキラリと光った。
熱々の油にそっと沈めると、ジュワッと弾けるような音と共に細かな泡が立ち上る。
油の中で衣が膨らみ、淡い黄金色から濃い琥珀色へと変わっていく。
引き上げた瞬間、カリッとした高音が響き、香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。
「はわ、はわわ……!」
油を大量に使うのが珍しいらしく、リリアは善吉の一挙手一投足に釘付けになった。
天ぷらは皿に置かれた瞬間もなお生きているかのように、微かにパチパチと音を立てる。
「お待ち。天ぷらうどんだ」
「――――――――ッ?!!」
衣は驚くほど軽く、一口かじれば、外側の脆い衣が砕け、内側から熱々のエビの濃厚な甘みとジューシーな汁が溢れ出す。
噛むほどに広がるエビの旨味、味を引き締めるかすかな塩気。
かけうどんの丼にそっと添えると、出汁に触れた衣の端がほろりと溶け、香ばしさがスープに深みを加える。
「うまいか?」
リリアはとにかく夢中になって食べ進めた。
「油を大量に使うなんて贅沢品……! それに、エビなんて腐りやすいから、海のそばじゃなきゃ食べられないはずなのに! それにこの旨味、歯ざわり……!」
エビの熱い甘みに恍惚とする。
出汁に浸した部分を食べると、しっとりとした衣とジューシーな中身が麺と絡み合い、全く新しい味わいを生み出す。
「信じられない……! おいしすぎる……! もう、言葉にならない……!」
彼女は天ぷらを頬張りながら、目を輝かせて善吉を見つめた。
「大袈裟だな。でも、まあうまそうに食ってくれるのは嬉しいよ」
善吉は苦笑しながらも、リリアの満足そうな顔を見て、少し誇らしげに笑った。
これは「善ちゃん」の裏口が異世界へと繋がったという、二つの世界を繋ぐ小さな窓口が一人のうどん職人の運命を変えたという、うどんが異世界と日常にささやかな彩りを加えていくという、なんてことのない話の始まりである。
うどんが食べたくなって書きました。
食堂があって、居酒屋があって、蕎麦屋があって、異世界に出店しすぎでは?
そのうち異世界寿司、異世界焼き肉、異世界懐石とか出そうですね(もうありますか?)
だがそれでいい。
当方、異世界×ご飯モノ超好きです。
みなさんも好きですよね?