かれらの始まり
これ程強力なデモンであれば有名になっていないとおかしい。ましてその力に似つかわしくない可憐な少女の姿をしている。目立たない筈がないのだ。だがキョウジはそんな少女のことはまるで知らなかった。寡聞にして、と言うべきかもしれないが。
久し振りに――幼少の頃以来かもしれない――死の香り、その危険を感じた。それが収まると安堵して、結局自分も生にしがみついている生き物の一匹に過ぎないことを改めて痛感する。
それをもたらした少女。死神、鬼神のような彼女は、打って変わって怯えたように震えている。これを好機として仕留めるべきではないか? キョウジがそう考えたのも無理からぬ事であった。また襲って来る危険性は捨てきれない。生き残る為には危険の芽は出来得る限り刈り取るべし。それはこの世界では生存するための鉄の掟だった。
だがキョウジは結局そうしなかった。これまでのことが嘘のような彼女の姿を憐れんでいたのである。しかしどうすれば良いかも分からなかった。過剰に構ってやる必然性は無いが、かと言って無力な少女を放っておくわけにもいかない。
「怖い……怖いよぉ……」
少女は涙すら流していた。そんなに臆病なら戦うべきではないのに、とキョウジは思う。だが何か理由があるのだろう。
「怖くないぞ。俺は少なくともお前の敵じゃない」
何とか宥めようとするが、彼女は声を震わせて怯えたままである。元々子供の扱いは苦手だが、これはさらに輪を掛けて難しい。結局、落ち着くまで待つしかないなと彼は判断した。これから何度も起こる事の、これが初めての事だった。
ふと思うところがあって、キョウジは泉のほとりに近付いた。水面は透明で底まで見えそうである。汚染されたところは全く見受けられない。彼はその水を片手で掬って飲んでみた。旨かった。ただの水が旨いと感じるのも久々の事。それは生存の歓びと無関係ではあるまい。
そして生き残ったのは少女も同じだった。キョウジは今度は両手で水を掬い、それを彼女の口元まで持っていってやった。
「ほら、飲め。そうしたら少し落ち着く」
彼女はしばらく迷って、結局素直にキョウジの言葉に従った。彼女はゆっくりと飲み続け、キョウジはずっと手を動かさないでいた。涙で赤くなっていた目が痛々しかったが、少しずつ穏やかなものになっていった。しかしこの瞳が、先程見せた狂気とすら言える眼光と同じものなのだろうか。俄かには信じられなかった。
しばし無言の時間が続いた。少女は水を飲み干した後も目線を落とし、何とか落ち着かせよう、という風に深呼吸を続けていた。やがて震えも無くなった。キョウジが投げ捨ててあった刀の鞘を拾い、手渡すと彼女はそのまま仕舞った。どうやらもう敵意はないようだった。
「……ごめんなさい」
その言葉には深い悔恨の念が感じ取れた。そしてキョウジはそこで気付いた。彼女が怖がっているのは、敵ではなく自分自身であることに。
「謝ることはない。少し吃驚はしたがな」
本当は少しどころではないし、脅威すら感じていたのだが。しかしそれを言うと彼女を傷付けるのではないかと判断したのだ。
「どうしてこんな所にいるんだ?」
「街のひとが困ってるって話が聴こえたから。それで」
という事はやはり野犬デモンの群れ(キョウジは結局それを実際に確認は出来なかったのだが)は彼女が潰滅させたのだ。
「犬なら大丈夫だと思ったんだけど。でも……」
「戦いで昂るのは仕方のないことだ。気に病むことはない」
「違うの。あたしの中には『鬼』が棲んでる。それを制御したいって思って頑張ってみようとしたんだけど、やっぱり無理だったみたい」
少女は陰鬱な顔のままだった。しかしその色は残したまま、はっとしたように元々大きい瞳を見開いた。
「あたし、初対面の人に何言ってるんだろ。斬り合いまでした相手なのに……」
「俺を信頼してくれているんだろ。嬉しいよ」
そのいたいけな姿に、キョウジは情が移り始めていることを自覚していた。
「お前、名前は? ない訳じゃないんだろう」
「……ミユ。春日美悠」
「綺麗な名前だな」
キョウジは自分も名乗った。ミユの顔はなおも青ざめていたが、少し微笑が浮かんだ。やはり放っておけないな、と思った。こうなってしまったからには然るべき所に自分が引率しなければ、と。
「お前、どこから来たんだ? まさか独りで旅してるんじゃないだろう」
「……分かんない」
「そうか。じゃあこれからどこに行こうとしてるんだ?」
「それも分かんない」
そして彼女は自分が記憶喪失であることを明かした。
「そりゃ困ったな。しかし、じゃあ今は思い出そうとしているのか?」
ミユは少し押し黙り、そしてか細く呟き始めた。
「思い出したい……でも思い出しちゃいけない記憶かもしれないの」
「何か手掛かりはあるのか?」
「……あるよ」
そう言って彼女は持っている刀を掲げた。この刀の銘が「春日守桔梗美奈」である事、そしてその銘にある名前、「ミナ」という女性の名前だけを覚えているという事だった。
「『ミナ』、ってひとを見つければ思い出せるかも」
「それは難しいな。珍しい名前って訳でもないし」
それから――キョウジはあることを閃いた。それは今までの信条を覆すものでもあった。
「ミユ。一緒に来るか?」
「え」
「お前ひとりじゃ危なっかしくて仕方がない。独りで旅することも出来ないだろう。だから俺が、お前の記憶を取り戻す旅の手伝いをしてやる。どうだ?」
ミユは俯いた。
「そんなの……キョウジさんに悪いよ。キョウジさんにだってやる事があるんでしょう」
「これが無いんだな、全く。暇にあかせた旅をしていただけだ。明確な目的が出来るならそれに越したことはない。だからこれは俺の為でもあるんだ」
彼女は目を伏せたままだったが、小さい声で言った。
「うん……確かにあたし独りじゃ何も出来ない。キョウジさんが手伝ってくれるなら……」
そうして二人の新しい旅が始まった。それが1年前の事である。
◇
「ここでも収穫は無かったな」
「別にいいよ」
大勢で見送られるのも恥ずかしい、とミユが言ったので出発は早朝にした。まだ東から太陽が少しだけ顔を見せ始めたという時間である。
このようにして各地を回り、ミユの記憶に関する話を探しに回っているのである。しかしここまで芳しい結果は出ていない。この分断された世界では難しい事である。それでもミユはあまり気にしていないようだった。少なくとも気にしていない振りはしていた。どうなのかな、とキョウジは思う。自分が何者かを知らないのは気持ち悪い事なのではないか。一方で自分が何者であるかを知るのが怖い、と言う気持ちも分からないではない。
「兄ちゃんには苦労ばっかり掛けるね。ごめんなさい」
「気にするな。俺が好きでやってるだけの事だ」
バイクを暖気させながら話している。年代物のハーレーは年寄りらしくワガママで、こうやって機嫌を取ってやらないとすぐに拗ねてしまう。
「それで、次はどこにいくの?」
「すこし東にはシュクガワって街があるらしい。そこに向かう。が、その前に……」
キョウジは言った。
「そろそろ弾丸を補給する必要がある。短剣もボロボロになってきたしな」
「有馬さんの所にいくの?」
ミユは少し嬉しそうだった。彼女にしては珍しい事である。珍しい事であるがいつもの事でもある。
「お前はあそこが本当に好きだな」
「うん。あのひとたちは楽しいから」
「それは認めるが……俺としてはちょっと疲れる相手でもあるんだがな」
「兄ちゃんは真面目だからね」
ともあれ、ミユの記憶を探る旅はほんの少しだけ中断することになる。