銀狼と黒の少女、その邂逅
その頃は、キョウジは旅の連れなど要らないと思っていた。独りで生きていける自信はあった。だが特に旅の当てや目標があった訳ではない。ただ生き続けることに意味があった。故郷を燃やした相手に対する復讐を考えたこともあったが、結局はそれも忘れてしまった。
そんな無為な旅でも良かったのである。キョウジは生きているだけでも楽しいと思える性質なのだった。
ハーレーを手に入れてからはそれがさらに加速した。バイクで風になっているだけでも心が躍る気がしたのだ。その時はまだサイドカーは手に入れていない。運転を覚えるのには少し苦労したが、すぐに立派なライダーになった。
勿論、そんな自由気ままな旅を送れるのは力があればこそ。しかしもっと強大な力に出会えば捻り潰されるかもしれない。その辺りは驕ることはせず、しかし自分の力は役立てたいとも思っていた。街などの防衛、賊狩り、つまり戦闘に生きる糧を見出したのはそんな理由による。自分の取り柄はそれ位しかない。それに自分が自由に生きている分、無力で暴虐と荒廃に怯えるしかない無辜の人々に対する後ろめたさがあったのだ。まあ稼ぎの種が見つからなければ畑仕事などの単純労働に勤しむこともあったが……
ミユと出会ったのは、それが少々倦んで来た頃だった。敵対者に殺されない限り、デモンは不老半不死である。いつか強い相手にやられて死ぬまで、こんな旅が延々と続くのかと思うといずれ退屈になるのでは、と危惧し始めたのだ。
「俺だっていつまでも若い訳ではないしな」
肉体は不変。だが精神はまた別である。今はまだ心は漲っている。色々なものを見て回りたいと思っている。でもそれに飽きてしまったらどうなるのだろう。老成した自分のことを考えると恐ろしくもある。それは今もあまり変わってはいない。
「生き物はいずれ死ぬから一生懸命生きるのかもな」
その理の環から外れた化け物である自分。それを完全に受け入れている訳では無かったのだ。
◇
そんな旅を続けていた時の事だ。いつものように補給の為、集落を探していた。誰も走っていない高速道路だったものを独り駆けていると、橋の下にその目当てのものが見つかった。そこそこの規模だった。街と呼んでもいいかもしれない。新しい街を見つけると興奮するし、安心もする。独りでも良かったが、かといって人との交流も嫌いではないのだった。それに何だかんだ物資は必要であり、こういった補給ポイントはどうしても必要である。
その街はサカイと言った。通商と物流、そして生活インフラが破壊されたこの世界、人の生きる場所はほとんどが水辺である。大きな川か湖、或いは海辺。サカイの街も海沿いだった。
「旅人なんて、珍しいな」
「まあ、そうだな。自分でも酔狂だとは思う」
「このご時世、一人旅が出来るってことは、あんたはデモンか」
デモンの全てが野盗化する訳ではない。しかし、警戒される存在なのも事実である。新しい街に立ち寄った時、自分が危険な存在ではないことを証明するのは簡単な事ではない。
しかしキョウジは大抵の時は通用する方法を知っている。
酒を奢るのである。
その為に、キョウジは常にウィスキーのボトルを携帯している(自分が飲む用でもあるが)。男性が特にそうだが、酒が嫌いな者はほとんどいない。荒廃したこの世界では飲まないとやっていられないという荒んだ理由ではあるが。ともあれそうやって懐柔するのである。
そうすれば溶け込むとまではいかないが、警戒心は薄れる。「酒を持ってくる者に悪い奴はいない」というのは最早不文律と化している。
そして一緒に飲むとそれなりに打ち解けるのである。
サカイの街は元港町だったらしい。工業団地の成れの果てや倉庫の並んだ埠頭が広がっていた。住民はそこで飲みながら釣りをするのを数少ない楽しみにしていた。キョウジもそれに混ぜて貰った。釣りの方はボウズだった。そういう才能はないのである。しかし他の住人が釣った魚を七輪で焼き魚にし、それをアテにして一緒に酒を飲んだ。
「海は綺麗だなぁ……この世界は、魚に取っちゃ楽園なのかもな」
皮肉なことだが、工業文明が崩壊したことによって海洋汚染は少なくなった。今では青々とした綺麗な海が広がっている。それゆえ人々のタンパク質補給源は魚介類が多くなっているのだ。
「ところでキョウジさん。あんた強いんだろ」
「まあ、それなりには」
「なら一つ仕事を頼まれてくれないか?」
聞くと、デモン化した野犬の群れ(デモン化する生物は人間に限らなかった)がこの近辺を荒らしまわっているらしい。
「そんなに獰猛な奴らじゃないんだが、度々畑を荒らされて困ってるんだ」
「獣のデモンか……厄介だな」
元々生身の人間よりも野獣のほうが強いのが自然の掟である。それはデモン化しても変わることはない。つまり元人間のデモンよりも強敵だと踏んでいかねばならない。
「まあ無理にとは言わん。だが報酬は弾む」
「いいさ。やろう」
街から少し離れた所に、今では珍しくなってしまった緑溢れる森があるという。野犬デモンはそこを根城にしているらしい。
話を聞いたキョウジは早速そこに向かった。だがそこには野犬は全く見当たらなかったのである。暗い森を深く調べてもそんな気配は感じない。しかしサカイの住人が嘘を言っていたとも思えない。そんなことをしても益はないはずだ。ではこの状況は?
そしてその時、キョウジは彼女と出会った。
森の中には木々から晴れた泉の空間があった。そしてそこには黒いワンピースを着て、腰まで流れた黒髪をした少女が立っていた。立っていたというよりは佇んでいたと言ったほうが良いかもしれない。その姿は煌めく泉の水面と合わさってとても神秘的に見えた。泉の女神様なのかな、などと思い、その馬鹿げた考えをすぐに捨て去る。そんな幻想的な事はこの世には存在しない。なにより黒衣と黒髪、そして長い日本刀を携えた彼女は女神というよりも死神のように見えた。
彼女がここの野犬を全て倒してしまったのだろうか? 人間ではないことは確かだ。ここは人間の少女が独りでいられる場所ではない。つまりデモンだ。
警戒するに越したことはない。キョウジはすこし距離を取って、いつでも短剣を抜けるように身構えて話し掛けた。
「おい、お前――ここで何しているんだ?」
少女はゆらりと――幽鬼のような動きで、しかし綺麗で白い顔を見せた。
「お前……敵?」
不吉な予感は一気に爆発した。少女はなおもゆらゆらしていたが、ボンヤリとしていた瞳は瞬時に眼光鋭くなり、そのままこちらに向かってきた。驚異的なスピードだった。一気に間合いを詰められる。キョウジはその刀の斬撃を短剣を抜いて弾くのが精一杯だった。
「いきなり襲ってくる奴があるかよ! ちょっとは話し合いをだな……」
少女は答えなかった。ひらひらしたスカートを羽ばたかせ、髪を流し、苛烈でありながら優雅で美麗な剣戟を見せる。人間ではない、デモンという直截的な呼び名もあまり相応しくない。そう、言うなれば――彼女は「鬼」であるように思えた。
出し惜しみしている場合じゃない。そう判断してキョウジは〈加速時間〉を全開にして迎え撃つ。出来れば殺したくないが、そうも言っていられない。やらなければ、やられる――そんな限界点での戦い。戦いで恐怖を覚えたのはこれが初めてかもしれなかった。
しかし自分のスピードなら勝てる筈。そう踏んでいたが、甘かった。黒衣の少女はキョウジの〈加速時間〉にも容易に付いてきたのだ。こちらの能力には時間限界がある。それに対応出来るほどの速度が相手にあるとすれば――
負けるのか?
キョウジは斬撃を躱す。しかしこちらの刺突も届かない。そんな一進一退の攻防が続いた。そしてキョウジは自分の意識が遠のくのを感じた。これ以上能力を使えない。しかし。
やられる!
一撃はなんとか短剣でいなした。だがキョウジはすでに土俵際に立っていた。次は躱せない。終わったか――そう覚悟した時は、なんだか爽快感すらあったものである。
だが次の一撃は来なかった。少女は電池が切れた人形のようにがっくりとキョウジの目の前で膝から崩れ落ちたのである。
「あ、あたし、なにやって――」
何がなんだか分からないキョウジを無視して、彼女は悲痛な金切り声を上げていた。