漆黒の鬼神
キョウジは舌打ちした。こういうことになると分かっていたから、ミユは連れてきたくなかったのだ。だがもう遅い。ミユの「鬼」は眠りから覚めてしまった。
「ど、どういうことです――ッ!」
それがキミオの最期の言葉になった。ミユは素早く立ち上がり、彼の喉に日本刀を突き刺していたのだった。
「な、なんだと」
これを好機と捉え、キョウジはダニを仕留めるべきだったのかもしれない。だが彼も足を止めていた。怯懦の為ではなく後悔の為だった。その気持ちのまま、彼は黒衣の可愛い死神のことを見ていた。
「そこまでで止めておけ」
足を止めているのは賊も同じだった。誰もが――キョウジを除いて――呆気に取られていた。そしてミユの鋭利な眼光の前に縛られるようにして動けない。動けるのはキョウジだけだった。彼はモーセよろしく、分断された野盗の群れの中央を歩き、ミユに近寄った。
「な。こいつ等は俺が全部潰す。お前が戦う事はない」
だが少女は言う事を聞かなかった。
「皆殺しにしてやる」
本当の所を言えば、キョウジは説得が無駄であることを知っていた。一度目覚めてしまった彼女はスイッチが切れるまで止まることはない。だがキョウジはそれでも試みた。彼女の肩をぽんと叩く。しかしやはり効果は無かった。力ずくで止めることは出来ないし、したくないし、この状況ではする必要もなかった――ミユが皆殺しにすると言えば必ずそうなる。運命である。キョウジは過去の情景を思い出して二度目の舌打ちをした。
「どいて、兄ちゃん」
そして少女は疾走する。それは正に神速。〈加速時間〉を使ったキョウジにも比するほどの速度でまずは哀れな犠牲者をひとり斬り殺す。大きな日本刀と小さな少女とは思えないほどの速く、力強く、そして無慈悲な一太刀だった。
「な、なにしてやがる! 早くそいつを止めろ!」
金縛りに遭っていたような賊たちが一斉にミユ目がけて殺到した。もうキョウジのことは目に入っていないようだった。それだけミユの力が、その外見からは想像も付かない力が衝撃的だったのだ。
そう、彼女もデモンだった。それもひと際強力な。
戦闘と呼べるものはなかった。そこにあったのは一方的な蹂躙、殺戮、惨劇だった。ひとり、ひとりと彼女の刀の露になっていく。キョウジは見ているしかなかった。ここに入り込む余地はない。ミユの邪魔になるだけだ。だがそれこそが彼の後悔でもあった。
残っていた賊は20名ほどだった。彼らは一斉に立ち向かい、そして玉砕した。黒い霧が立ち込めるが、ミユはその中でも全てが見えているように――いや、実際視えているのだ――次々と惨殺していく。
「だ、ダメだッ! こんな化け物とやれるかッ!」
僅かに残ったものは武器を捨て、散り散りに逃げ出そうとした。
「おい、てめぇら! 逃げるんじゃねえ!」
そう制止するダニ自身もすでに及び腰になっていた。だがどちらにせよ無駄だった。ミユは日本刀の銀光を振りかざし、残りの戦闘意欲を失った者を全員斬るか衝くかして屠ってしまった。見事な手際だった。彼女が覚醒してからほんの数分も経っていない。
彼らは頭を残して全滅した。宣言通りになったのだ。
残るはダニだけのように思え、その命運も尽きたかに見えた。ミユの力の前ではまず勝てまい。キョウジは再び哀れむ気持ちを思い出した。そしてミユの見せた美麗な殺戮劇に惚れ惚れしつつ――そう感じてしまう自分を唾棄した。
だが止めの一撃が放たれると思いきや、ミユはその場で刀を地面に刺し、柄を抱くようにしてうずくまった。少し震えているようにも見える。
「な、なんだ、てめぇ……」
今度はダニが彼女を仕留めるチャンスだったかもしれない。だが彼はすっかり恐怖して動けなかった。代わりに、恨むような目でキョウジの方を見た。
「こんな連れがいるなら最初から一緒に戦えば良かったじゃねえか!」
「ミユは戦いが嫌いなんだよ」
恐怖は恐慌となり、それは最終的に狂乱へと変貌する。ほとんど破れかぶれになったようにダニはミユに襲い掛かる。そして両手剣を大きく振りかぶり――
それが振り下ろされることはなかった。〈加速時間〉を発動させたキョウジが急接近しダニの首を掻き切っていたのである。
「こ、こんな所で終われるかァ……!」
「後悔は地獄の底でしてな」
そしてダニも消滅し、それなりの勢力を誇っていたはずの〈スパルタカス団〉はたったふたりによって潰滅させられたのである。
気持ち悪いほどの静寂が訪れた。そして一陣の風が舞った。日は昇っていて、気温は上がっていたはずなのに、それはとても寒く感じた。気持ちの問題である。だが一番心に寒風が拭いているのはミユの中だろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
キョウジは彼女から刀を一旦取り上げ、投げ捨てられた鞘に戻し、そして再び返した。
ミユはそれだけが依存先だというように抱いたまま震えている。
「あたし、またやっちゃった……」
だから来なければ良かったのに、とキョウジは言わなかった。それが傷口に塩を塗る行為になると分かっていたからだ。それに彼女に助けられたのは事実だったからだ。
これで何度目だろうか――
「気にするな。お前のせいじゃない」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女は誰に謝罪していたのだろうか。殺戮した相手にだろうか。それともキョウジに対してだろうか。いずれにせよ、今の彼女はつい先ほどまで風神の如く暴風を巻き起こしていたのとは全く別人のように思えた。
キョウジはミユの顔を覗き込んだ。泣いてこそいないものの、その大きな瞳はぎょろりと見開き、血走っている。そして歯をガタガタと鳴らし、震え続けている。
普段のミユはとても臆病者である。それが戻って来ているのだ。だが一度「覚醒」すればあのようになる。
どちらが本当のミユなのだろうと、キョウジは疑問に思っていた。怯える彼女なのか、獰猛な彼女なのか。博愛の彼女なのか。残酷な彼女なのか。答えはまだ出ていない。言えるのは、キョウジはなおも割れた硝子のように危険な彼女を、これからもずっと一緒に連れて行こうという決意だけだった。
こういうところでもミユの頑固さは表れる。慰めの言葉は届かない。だからキョウジは彼女が落ち着くまでずっと待っていることにする。これもいつものことである。
彼女が恐怖するから、出来れば戦わせたくない。ミユの怯えとキョウジの悔恨は表裏一体である。だがしばしばこうなってしまうのである。ミユだってキョウジと一緒に戦場に付いていったらこうなる危険性は分かっている筈だ。それでもそうしてしまう。だからこそキョウジは守らなければ、と思う。
なんとも奇妙な感じがあると思う。
恐らく本気のミユは自分よりも強いだろうとキョウジは考えていた。だがそれは些細な事である。大事なのは彼女そのものだった。
漆黒の鬼神、だったものはやがて平静さを取り戻し、呼吸も落ち着いてくる。だがキョウジは彼女の震えが完全に止まるまで待った。そしてその後、ゆっくりと柔らかく抱擁する。
「悪かったな、怖い思いをさせてしまって」
キョウジはミユを諫めたり叱責することはしない。それが彼の彼女に対する優しさであり、あるいは甘さでもあった。
「ううん。付いてきたあたしが悪いの」
しかしミユもそこに甘えることはしない。まだ一緒に連れ歩くようになってそれほど歳月も経っていない。だがそこにはボンヤリとした、しかし確かな信頼関係があった。
彼らの旅は、そのようなものである。