それは悪夢ではなく
その黄昏は世界の終わりを示していたのか。世界の果てを示していたのか。
周りが見えるか見えないかの夕闇の中でミユは独り佇んでいた。ひどく殺風景な荒地だったが、不思議と怖いとは思わなかった。何だか自分がここにいることが当然のように思える。少し不安があったとすれば、手元に「春日守桔梗美奈」が無かったことである。無くしたとも思えないけれど、どうしてだろう。
暖かさも寒さも感じない。まるで世界から切り離された空間のようだ。風が吹いているのを感じていた。その風が彼女の長い髪を吹き流す。このまま風に乗って、空を飛べたら面白いかも、なんて事を考える余裕があった。普段はそんな非現実的な夢想をする自分ではないのだが。何か自分が違う自分になっているような感覚がある。
記憶が繋がっていない。自分は駅舎の中で寝ていたのではなかったか。
「なんだろう、これ……」
違和感はずっと続く。しかし自分の意思とは無関係に足が動いていた。全てが自動的に思える。ミユは自分の背中を後ろから見ているような錯覚を感じていた。見覚えのある様な、ないような風景――その荒野が自分の空虚な心象の表われだと言われたら、確かにそうなのかもしれない。彼女にはずっと心の中にぽっかり空いた穴がある。普段はあまり意識しないが、独りになるとふとそれを思い出してしまう。それが記憶喪失によるものなのか、それとももっと別の何かなのか、未だに分かっていない。
進んでいくと小さな丘が見えてきた。夕日は沈むことは無かった。ずっと時間が止まっていて、その中で独りだけ自分が動いているような感じがした。
「兄ちゃん、いないの」
キョウジがいない事が不思議だった。彼はいつでも自分の傍にいると信じて疑っていなかった。彼自身がそう言ったのだ。ひょっとして見捨てられたんだろうか。それで何もないこんな所に放り出されたのではないか。
「それならそれで、いいか……」
元々ミユは独りだった。ずっと独りだった。そしてこれからも。彼といた時間が例外なのだ。この世界でたった一人という孤独感をキョウジは埋めていた。でも本質的な所で自分には誰もいないという確信があったのである。哀しい事ではあるが。
自分がひとならざる存在だとは分かっている。しかしデモン、というのもちょっと違う気がする。もっと深い所で、遠い過去に、なにか恐るべきルーツがあるような気がする。しかし……
「……ダメだ。こんな事思い出しちゃいけない」
ミユは記憶を取り戻したいのかそうではないのか、まだ迷っていたのである。自分が何者であるかは知りたいはず、だが同時にそれは自分が壊れる事だという根拠のない確信もあったのだ。
丘の頂に立った。そこで彼女の足も止まる。まるでここに導かれたかの様に。なにがあるんだろう、って思った。知らない場所の筈なのに妙に懐かしい気持ちになる。快の気持ちでは決してなかった。なにか全てを終わらせるような事が起きる様な。そのカタストロフは彼女を闇の深淵に引き摺りこむ様な気がする。でもそれでいいのかもしれない。自分は元々闇の住人なのだ――
まばらに枯れ木が立った丘。そして夕闇。終末世界で更に世界の終わりを感じるのも、なんだかおかしい。
そして頂には一本の日本刀が刺さっていた。自分の刀だった。自分が何者なのかを示すかもしれない愛刀。これを持っている理由は分からない。ただ持っていると安心する。こんなところにあったのか、と思った。考えるまでもなくミユはそれを握った。
すると――
天から無数の刀が降ってきて、雨霰とミユの周りに刺さっていく。どれもが同じ様な日本刀だが、不思議な事に、無機物の筈の刀にはそれぞれ人格を持っている気がした。そしてあたしはその全てを知っている――
「春日守桔梗……」
ひとつずつ触っていこうかと思った。だがここで場面は唐突に変わる。やはり記憶は分断している。
打って変わって周りの景色は森の中だった。その小さな森のなかに立っている社をミユはぼうっと見ている。それもまた懐かしい。今度は心地良い気持ちがあった。なにか大きなものに守られている感じがあった。
小さな神社。それは滅びの世界から遊離したように綺麗な姿を保っている。
そしてその本殿入口の前に一人の女性が立っている。そんなに背は高くない。癖毛の髪を肩上に切っていている。彼女はミユに背中を見せていた。
その人をあたしは知っている。
振り向く女性に、ミユは思わず叫んでいた。
「お母さん!」
◇
それが夢の終わりだった。現実に引き戻されると、ミユは相変わらず「西宮北口駅」の中にいて、寝袋に包まっていた。彼女はすっかり目覚めてしまって。目が冴えてまた眠る事が出来ない。それでいいのだろう。夢の続きを見るのは――なんだか怖い。
夢とは不可思議なもので、しかし現実とどこかで接続しているものだ。
「あたしの記憶につながってるのかな……」
しかし夢の記憶もすぐに薄れてくる。残るのは不安だけ。傍らにはちゃんと刀があったが、それを抱いてもいつものように不安が消え去ってくれない。
あとはキョウジなのだが、彼はとっぷりと眠りこけている。怖いから起きて、とは到底言えない。ここで独りだけの深夜を過ごすことになるのだろうか。怖いけど耐えなきゃいけない。
と思っていたのだが。
「起きたの、ミユちゃん」
寝袋からカレンが抜け出してきた。
「……起きてたんですか?」
「と言うより、あなたの寝言で起こされたっていう方が正確ね」
ミユは彼女とはまだ距離を取っていたかった。そしてそれを縮める術を知らなかった。悪い人ではないのは分かっている。それでも良く知らない人に対する怯えは残る。それに、彼女がキョウジと親しくしている所も、また……
「お母さん、って言ってたわ。昔の事を思い出したの?」
「貴方には関係ありません」
「そうつっけんどんにしないで。これから一緒に旅していくんだから。仲良くしましょうよ」
「……むぅ」
少しだけ、そう、ほんの少しだけだがミユの心が綻んだ。
雷はもう鳴っていない。その代わりに隙間風がひゅうひゅうと音を鳴らしている。ひどく殺風景な所だが、そんなに悪い気はしていない。
「思い出したくないことは思い出さなくていいのよ。自分が今ここにいる、それだけで十分なのよ」
「でも、あたしは……」
「怖いの?」
ミユの〈千里眼〉はこの暗闇でもカレンの顔がハッキリ見えている。彼女は柔らかい笑顔をしていた。最初に会った時は男勝りの勝ち気な女性だと感じていたが、そういった優しさもあるのだ。そして気遣われている自分が急に恥ずかしくなった。
「眠れない?」
「……うん」
カレンはミユをからかうような事はしなかった。ひたすら柔らかい態度で、ミユの事を心配しながら安心させようとしている様だ。
「だったら今夜はずっと一緒にいてあげる」
「そ、そんなこと……悪いよ」
「怖い夢を見て眠れない事は私にも時々あるからね。気持ちは分かるのよ」
別に怖い夢という訳でも無かったのだが、眠れなくなる夢であったことは間違いない。ミユはまごまごしていた。それを良い事にカレンはミユの横に座った。肩を擦られる。それを拒絶しないでいると、今度は肩を抱いてきた。されるがままになっていて、もはや拒む意地も無いし、理由もない。
「こうしていると安心でしょう? 朝まで待ちましょう。そこの唐変木が起きて来るまでね」
心を許そうとしている自分がいた。ミユは優しくされると弱いのだ。本当は頼りになる人を一人でも多く探している。皆と仲良くなりたい。世界と仲良くなりたい。そう思っているのだ。
カレンの母性は、ミユには欠けていたものだった。
「お母さん、見つかるといいね」
「本当にお母さんか分からないし、生きてるかどうかも分からないし……」
「いるわ。きっと」
キョウジといる時とはまた別の感じで、心が安らぐのが分かった。
その後は話はしなかった。そして肩を寄り添って一夜を過ごしたのだった。




