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最終話 吉原の決戦

 北町奉行所で花魁桜太夫の禿(かむろ)二人を受け取った清三郎は、その脚で吉原に向かった。


 監禁中、大事な商品として扱われていた禿二人は健康そのものだ。本人らは花魁の元に戻れると知って大喜びだ。


 さて、毎度の事である。ここで三月が清三郎に変化して禿二人を花魁に受け渡すのか、それとも清三郎自身が行うのかとういう議論が乙女組で大論争となっていた。


 それぞれの主張はこうだった。

 三月「清三郎様のご意見に従います。禿二人を助けるという約束が果たせた事だけで本望でございます」


 四月「三月が変化して清三郎様になろうが、本人が行かれようが、どちらが行っても変わらないのでは」


 五月「三月様の清三郎と本物の清三郎では醸し出す雰囲気が別物。桜太夫は必ず清三郎に惚れる。それだけは断固拒否」


 出雲姫「私は清三郎様を信じています」

 今、清三郎は禿二人と手を繋いで歩いていた。清三郎の両隣に禿が歩いている。もちろん向かう先は吉原だ。


 その真後ろで乙女組はこの論争を待乳山(まつちやま)から続けているのだ。北町奉行所で禿二人を受け取ってからは更に激化した。


 五月が特に力説していた。出羽神は自宅に帰していた。奥平と梓とは北町奉行所で別れた。もちろん乙女組は姿を消していた。


 その上で清三郎と禿二人の真後ろで激論しているのだ。禿二人は恐ろしくて仕方なかった。清三郎と手を繋いでいるので何とか正気を保っている状態だ。


 清三郎が禿二人に話してやった。

「後ろで聞こえる声は、拙者の家族でしてね、姿を消す忍術を使っているのです」


 禿二人が同時に尋ねた。

「忍者でありんすか!」


「そうです。忍者です。ですから何も怖がることはありませんよ。今は訳あって姿を消しているのです。どうです? 安心しましたか」


 禿二人は「忍者さんがあちきらを助けてくれたのでありんすね。すごい!」と直ぐに信用して笑顔になった。


 そろそろ吉原に着く。後ろの論争に決着を付ける必要がある。清三郎は建物沿いの細い路地を見つけると、そこに入った。


「良いですか。花魁桜太夫がどれだけ美しかろうが拙者は興味ありません。吉原で働くおなごは吉原で見たり聞いたりした話は口外しないのが慣わしとか。そうですね」


 清三郎が禿二人を見ると、何度も頷いていた。

「そういう事ですから。三月が拙者に変化して話が面倒になっても嫌なので拙者がこの二人を連れて行きます。


まだ真っ昼間ですし、酌をされる心配もないでしょう。全て拙者に任せなさい。そして拙者の指示どおりに行動しなさい。特に五月、いいですね。これは命令です」


 先に三月と四月、出雲姫の返事が聞こえた。遅れて五月が小さな返事を返した。

「さあでは吉原とやらに突入しますか。昼間なので有名な夜景を拝めないのが残念ですが、そこは我慢しましょう。いやあ、楽しみですなあ」


 清三郎は至って陽気だった。



 三月らの案内で赤大門に到着した。清三郎は吉原全体を包む霊気に驚いた。

 華々しい場所と思っていた吉原は、どうやらそうでもないと吉原の霊気が語っていた。


 それを表情に出す事なく両手を引っ張る禿に追従した。昼間と夜とでは吉原の景色はまるで違うと聞いていたが、昼間でも行き交う人は多かった。


 最も各店舗は閉まっているので商人や観光目当ての者だ。

 両手を引っ張る禿の歩みが止まった。「三堀屋」との看板が出ているが、店の引き戸は閉まっている。

 

 清三郎が引き戸を引くと簡単に開いた。中に入り声をかける。

「ごめんください」


 奥から「はーい」と声がして仲居が笑顔で出て来た。清三郎が手を繋いでいる禿二人を見て仲居が目を丸くした。仲居は奥に走り去ると交代で主が飛び出て来た。


「こ、これは……本当にお前たち……無事だったか」

 主が驚いて裸足のまま土間に降り、禿二人を抱きしめた。


「よく無事で……よく無事で」主は涙目だ。

「この若旦那さんと忍者さんに助けてもらったのでありんす」


 そこに花魁桜太夫が現れた。「あんたら!」桜太夫が上り框の際まで駆け寄ると、主を離れた禿二人が桜太夫に抱き着いた。


 傍付けの花魁に再会出来たことで緊張の糸が緩んだのか、禿二人が泣きだした。

「ほんにようありんした。よく無事で……」


 桜太夫も泣いて喜んだ。しかし直ぐに目元を拭くと、禿二人を主に任せ清三郎の顔を見た。その場で正座し両手を添えて頭を下げた。


「あちきの禿を助けて頂き、ほんにありがたき事でありんした。嬉し過ぎて感謝の言葉が出てきません。直ぐにお茶を用意させます。どうぞ座敷へお願いいたしんす」


 清三郎は桜太夫の美しさに驚いた。夜だけはなく日中から化粧をし、華やかな簪や花簪を差し豪華な着物を着ていたのだ。


 五月が清三郎を桜太夫に会わせたくないと言った理由がはっきりと分かった。

 後ろに控えていた乙女組は清三郎が当然断ると思っていた。


「それではお言葉に甘えて吉原のお茶を一杯頂きましょうか」

 乙女組は清三郎の言葉に耳を疑った。清三郎は先程はっきりと花魁などに興味は無いと言ったからだ。


 三月や出雲姫も口先では清三郎にまかせると言ったものの、いざ清三郎が花魁に興味を持ったのではないかと思うと裏切られた気持ちで心が張り裂けそうだった。


 清三郎は桜太夫の後を歩くと座敷に通された。既に座布団が用意してある。清三郎は促されるまま座布団に座った。桜太夫が対面に正座した。


「失礼致します」仲居が声をかけて盆にお茶を持ってきた。仲居が座敷を出ると桜太夫が再度頭を下げた。


「橘様、あちきの願いを叶えて頂き、ほんにありがたき事でありんした。重ねてお礼を言わせて下さいまし。


今はお天と様がお顔を出してありんす……この店のお客は橘様だけでありんす。橘様にお礼をさせて欲しいのでありんす……」


 桜太夫が頭を上げて清三郎を見つめた。

 桜太夫のあまりの美しさに清三郎は一瞬我を忘れた。


 後ろの強烈な殺気で我に返った。清三郎は咳払いを一つすると桜太夫に尋ねた。

「確認したいのですが、吉原で見たり聞いたりした話は絶対に口外しないのが慣わしでよろしいですか」


「そのとおりでありんすえ。何でも話して欲しいでありんす」

「分かりました。先ほど助けた禿が忍者に助けてもらったと聞かれたはずです。あれは嘘ではありません。拙者に仕える忍者が禿二人を助けたのです。出雲姫はそのままで、他の三人、姿を」


 清三郎の命令に三人は驚いた。本当に姿を現して良いのか躊躇したが、清三郎の命令である。皆が顔を見合わせて頷いた。


 清三郎の後ろに景虎乙女組の三人が現れた。桜太夫は目を開いて驚いた。突然現れた三人は異国のおなごである上、見たこともない衣を着て見たことも無い武器を手にしていた。


 さらに三人は髪の色こそ違ったが、化粧をせずとも肌は白く、とても美しかった

「この三人が忍者です。向かって右から……」


 清三郎はそれぞれの名前を紹介しようと後ろを見ると、三人揃ってデスサイズ、グングニル、デュランダルを握っていた。


 今の殺気はそれ程でもないが、武器まで出していたので清三郎は背筋に寒気が走った。

「これ、武器は不要でございましょう」


 清三郎の一声で皆が武器を消した。これに再度桜太夫が驚いた。

「向かって右から三月、四月、五月と申します。そして今から一カ月半ほど前、桜太夫の願いを聞き届けたのは拙者ではありません。


当時、拙者は江戸を離れておりました。しかしとある事情から拙者は江戸で生活しておく必要がありました。


その間、拙者に変化させて生活させていたのが向かって右におります三月です。この三月が桜太夫の願いを引き受けたのです。


拙者に変化して桜太夫の頼みを聞いたのです。三月、拙者に変化してくだされ」

 三月は頷くとその体が揺らいだと思った途端、清三郎に変化していた。


 これに三度、桜太夫が驚いた。

「た、橘様、忍者とはこ、このようなことまでできるのでありんすか……」


「桜太夫の目の前で起こっていることが真実でございます。まやかしや怪しい術などではありません……。


忍者の技に驚かれたでしょうがまずは心を落ち着けて下さい。そして拙者の話を聞いて欲しいのです」


桜太夫は両手を胸に当て、何度も大きく呼吸した。心が落ち着くと清三郎に頷いた。

「では拙者の話をしっかりと聞いて下さい。


一カ月半ほど前、南町奉行所の明石与力とここに赴き、桜太夫が禿二人を助けてくれと頼み、引き受けたのはこの三月でありました。


拙者ではありません。三月、変化を解きなされ。……拙者の用事が終わり、江戸に戻ったのがつい先日の事です。


拙者は直ぐに気付きました。三月が心痛していることに。なぜ心を痛めているのか問い質すと、花魁桜太夫から攫われた禿二人を助けてくれと頼まれた。


そして引き受けたと言うではありませんか。あなたへの同情心からつい引き受けたものの、その後どれだけ尽力しても禿の行方は分からず仕舞い。


主である拙者が用事を済ませて戻るまでには解決したいという思いは焦りに代わり、拙者が江戸に戻った折には心痛で病んでいたのです。


結果的に禿二人は助け出し、ここへ連れて参りました。ただし、桜太夫が礼を言いたいと申されるのであれば、拙者ではありません。


この三月です。桜太夫、どうか三月に一言、礼を言ってもらえませんか」

 桜太夫は目の前で起こった現実と、清三郎が話した言葉に頭が混乱していた。


 口を閉じたり開けたりしている。しばらく頭の中を整理していたが、ようやくまとまったようだ。

「橘様のお話、よう分かりんした。三月様、あちきの願いを聞いて下さり、禿二人を助けて頂き、本当にありがたき事でありんした」


 桜太夫が三月に頭を下げた。三月も思わず頭を下げる。

「橘様、これでよろしゅうありんすか」


 清三郎の反応がない。目を瞑っていた。桜太夫が再度声を掛けようとすると清三郎の瞑った目尻から涙が一筋流れ落ちた。


 清三郎が我に返る。涙を流している事に気付き直ぐに懐の手拭いで拭った。

「桜太夫、三月への礼。ありがとうございました。これで全ての誘拐事件は解決でございます。それでは拙者はこれで」


 清三郎が立ち上がった。桜太夫が直ぐに尋ねた。

「橘様、今の涙は……」


「これは見苦しいところをお見せいたしました」

 清三郎は少し考えたが桜太夫の質問に素直に答えた。


「ここ吉原には千、いえ二千になりますか。それ程の方が働いておられる。吉原は華々しく、美しく、別世界を体験できる場所と聞いておりました。


しかしそれは大間違いだったと気付いたのです。ここで生活し、働いている方々は、何かしらの深い傷や痛み、あらゆる苦悩を心に抱えておられる方ばかり。


拙者のような輩が来る場所ではありませんでした。桜太夫、あなたと二度と会う事はないでしょうがどうかお達者で……。では御免」


 清三郎はそう答えると座敷から出て行った。

 清三郎が残した言葉に花魁桜太夫は胸を押さえて涙した。そして清三郎の後ろを歩く三人に一声かけた。


「お三方はほんに幸せ者でありんすねえ。羨ましいでありんす……」

 三人は振り向くと、揃って桜太夫に頭を下げた。そして清三郎の後を追った。


 清三郎が表通りに出ると、乙女組は既に姿を消していた。しかし全員が清三郎に抱き着き、まとわりついて離れない。出雲姫は小さくなって、頭の上で背中を擦りつけていた。


「これこれ、まともに歩けません。離れてくれませんか」

 それでも乙女組は清三郎を抱き締めて離さない。


「しかし、五月が拙者を花魁桜太夫に会わせたくなかった理由が大変良く分かりました。

いやあ桜太夫は本当に美しいお方でした……思わず心を持っていかれそうになりました……。


しかしいつも乙女組の皆さんを見ているからでしょうか、桜太夫の誘惑から逃れる事は容易い事でした。乙女組の前では花魁桜太夫の美しさもかすむとは……。いやあ景虎乙女組……あなどれませんなあ。はははは」


 清三郎の言葉に乙女らの抱き締める力が一層増した。

「これ、い、息が出来ません……は、離れなされ! く、苦しいではありませんか!」


 今だけは主の命令は聞けなかった。しばらく清三郎から離れられそうになかった。


 清三郎を見た通りすがりの人々が「可哀そうに。心の病とは本当におそろしい……」と目を逸らしながら憐れんでいた。



 その日の夜。橘家の夕餉は大いに盛り上がっていた。

 四月と出雲姫が清三郎に話したくて仕方なかった「南町奉行所、恋の嵐」をやっと披露したのだ。


 この芝居を見た清三郎は、「そのような事情があっての待乳山でございましたか。久し振りに見た奥平殿の力量が格段に上がっていたのは八岐大蛇の大占いが関係していたのですね。


納得いたしました。どうやらお二人は見事にまとまった様子。四月、出雲姫、良い仕事をしましたね」と褒め称えた。


 四月が今日の奥平を振り返った。

「奥平殿は、出雲姫とは何か、何なのでござるかと何度も尋ねられて参りました。八岐大蛇が出雲姫とはとても言えません」


 これに出雲姫が、「本当に! 疑問に思った事は質問して解決しておきたいという心構えはさすが服部軍団と思いましたが、あのしつこさだけは迷惑千万でした……。


奥平殿は佐貫の合戦で八岐大蛇を目にしておられますから質問される度に心の臓がドキッとしておりました」と不満顔で答えた。


 そこに清十郎が首を突っ込んだ。

「そう言えば、今朝方の探索後、もう一仕事あると言っておったな。あれは何用であったのじゃ。奥平殿の話も関係しとるのであろう」


 清三郎が苦笑いしながら頭を掻いた。

「はあ。まあ。誘拐事件の後始末……でございます……」


「誘拐事件の後始末とは……例のオランダ闇組織が絡んでおったのか」

 清十郎の質問に答えるのが面倒だった清三郎は三月をチラ見した。誘拐事件に取り組む直前の集中力は何処にもなかった。


「父上様、清三郎様に代わりこの三月がお話し致しましょう。少女誘拐事件の背後にはオランダの闇組織が絡んでおりました。


三席上級闇魔導士アーリャン・トヴェナールという下衆な者が浪人二人を雇い、美人の卵と噂される少女ばかりを攫わせて外国に売る算段だったのでございます。


驚いたことに浪人二人の内、一人は清三郎様が幼少時に道場破りで打ち負かした吉田祐善でございました。


もう一方の浪人は大槍の使い手でしたが奥平殿が見事打ち取られました。吉田祐善は既に意気消沈。

三席上級闇魔導士は、清三郎様のお手を煩わせるまでもなく、私が成敗いたしております。


その結果、三席上級闇魔導士に操られていた米沢藩蔵屋敷のお役人方々の洗脳が解け、事件の子細を北町奉行所のお調べに対して申述していることでしょう。


もちろん北町奉行所が判断した事件解決の立役者は御父上でございます」

 三月はそこまで話すと清十郎に頭を下げた。


 この話に清十郎は目を丸めた。清三郎が先の先まで読みつくして動いていたからだ。清十郎が清三郎を見ると涼しげにお茶をすすっている。我が息子には度肝を抜かれる事ばかりだ。


「清三のおかげで米沢藩の危機を乗り切る事が出来た。参勤交代で江戸におられる景勝様の顔に泥を塗らずに済んだのは全て清三のおかげじゃ。あらためて礼を言わせてくれ」


 清三郎は清十郎の言葉に呆れ顔だ。

「父上、何度言えばお分かりになるのです。呆れて言葉がでません。誘拐事件の立役者は父上なのですよ。


服部様もおっしゃったではありませんか……。あの場に本物の江戸家老橘清十郎が現れたからこそ事件が解決したのです。


私を褒める前に、今朝方叩き起こされても文句を言わず付いて来られたご自分を褒められたらどうですか」


 清十郎は目に涙をにじませている。

「儂は本当に自慢の息子を得たものよ。のうせつ……」


「ええ。本当に……。このような息子は何処を探してもおりません……」

 清三郎は苦笑いしながら頭を掻いている。


 そこに三月が口を挟んだ。

「父上様、母上様、清三郎様がご自慢の息子であるとの話に水を差すようで申し訳ないのですか、清三郎様が修行なされてどれほどの力を得られたのか。


私と五月は目の当たりにしております。先ほど吉田祐善は意気消沈と話しましたが、その事と、清三郎様の力を目の当たりにした事は関係があるのです。


是非この話を披露したいのですがよろしいでしょうか」

 これに四月と出雲姫が食いついた。


「おお! 例の話でございますね! 是非にお話しくだされ!」

 清十郎とせつも目を輝かせる。


 清三郎は苦笑いしながら頭を掻いている。

「昨日の夕刻の事です。清三郎様は奥平殿の案内で浅草湊の下見をされておられました。私と五月は姿を消して追従です。


そこで偶然出会ったのです。吉田祐善その人と。体は大きく筋骨隆々。その力は見ただけで凄まじいものがあると分かりました。


出会った直後、清三郎様は気付かれませんでしたが吉田祐善が『待て』と声を掛けて来ました。清三郎様が吉田祐善と気付かれると祐善は清三郎様に対する恨み言を散々綴ったのです。


清三郎様は祐善の言葉を座してお聞きになり、こう申されました。『十の童にその後の人生の責任を押し付けて、大人になった拙者がその責任を背負うことは到底出来ません。


ただし、拙者が十で行った道場破りを謝れと申されるのであれば、潔くここで謝りましょう』と。私はこの言葉に痺れました。


さすがは我が主様でございます。五月も同じ気持ちだったでしょう。あ、これは余談でした……。祐善は清三郎様が江戸で何と噂されているか知っておりました。


が、達人奥平殿の護衛があって語られた言葉と勘違いした祐善は鋭い殺気を放ち、ゆっくりと刀を抜きます。


座して頭を下げている清三郎様に対して右上段に構えました。祐善が刀を振り下そうとしたその時です。


清三郎様はこの世の技とは思えぬ技で見事祐善を打ち取られました。何と説明しましょうか。心で祐善の心と対峙されたのです。


私と五月にはその対決が見えました。清三郎様の腰には刀がありました。心の勝負で清三郎様は祐善の首を切り落とされたのです。


我に返った祐善は直ぐに己の首が体と繋がっていることを確認しその場に膝を落としました。


結果的に祐善が刀を振り下ろせばそれより早く清三郎様の剣が祐善の首を切り落とすと示された形になり、祐善は負けを認めたのです。


今思い出しても恐ろしい技でした。あの技を見ることが出来た私と五月は幸せ者でございます。そのような対決が前日にあった事で、本日の祐善は既に意気消沈していたのでございます」


 清十郎が呟いた。

「刀を持たない清三が心で祐善と対決したと……そして祐善に負けを認めさせる剣技を振るったと……俄かに信じがたい話だ……」


「それを清三郎様は見事に成し遂げられたのです」

 四月と出雲姫は三月が話した様子を頭で想像しているのか感嘆の表情であった。


 直接目の当たりにした三月と五月は自慢顔だ。

 清十郎が「清三、一体どのような修行をしてそのような技を体得したのだ……」


 清三郎は苦笑いしながら頭を搔いている。

「よし。分かりました。こうなれば剣の稽古がてら、型の訓練をお見せいたしましょう。父上、母上、縁側へ」


 清三郎はそう話すと、縁側に向かい裸足で庭に降りた。両親と乙女組、出羽神が庭に立つ清三郎に注目する。月明かりで照らされた清三郎の横顔が思いのほか逞しい。


「父上、これが今の清三の力です。包み隠さず全てお見せ致します」

 清十郎は息をのんだ。他の者も清三郎の言葉に緊張が走った。


 清三郎が目を閉じて周囲の霊気に身を投じた。無心となった清三郎を青白い霞が覆った。

 すると縁側からも青白い霞が生じた。


 皆が霞の方を見ると出羽神が青白い霞に包まれていた。出羽神が一つ羽ばたいて清三郎の両肩に足を置いた。


 清三郎と出羽神が一つの霞となった。清三郎の左腰に鶴姫一文字と謙信景光が現れた。清三郎は腰をゆっくりと落としながら、左手を鞘に、右手を鶴姫一文字の柄にそっと当てた。


 出羽神が両翼を大きく広げた。出羽神と一体となっている清三郎の背中から羽が生え、大きく広げたように皆には見えた。


 清三郎の目が開く。左腰が光った瞬間、鶴姫一文字が一閃した。誰の目にも留まらぬ早業だった。

 切っ先は仮想の相手がいたならば首の辺りで静止している。


 清三郎は一歩踏み込み片膝を付いた姿勢を保ったまま動かない。その時が永遠に感じられた。清三郎が大きく息を吐いた。


 ゆるやかに腰を上げながら正眼に構え残身の型を取る。左手で鞘を抜き、真横にすると鶴姫一文字をおだやかに収めていく。そして左腰にゆっくりと戻した。


 その時だ。清三郎から一丈(約3m)離れた松の木が倒れた。見事に切られた切り株が残る。


 その場にいた者全員、清三郎が放った未知の技に心を奪われた。感嘆の吐息しか出ない。


 清三郎が大きく呼吸した。すると霞は消え、いつの間にか腰の刀も消えていた。

「ふう。型稽古、終わりました」


 清三郎の言葉で全員が我に返った。しかし誰も言葉が出なかった。

 清三郎は苦笑いしながら頭を掻いている。出羽神が羽ばたいて縁側に戻った。


 せつが「直ぐに湯をお持ちしますね」と言って奥に消えた。

 清三郎が縁側に腰を下ろした。せつが桶に入れた湯を持ってくるのを待つ。


「清三、三月の話を信じがたいと疑った父を許してくれ。今の技、全てを超越しておる……刀を持たぬお主に刀が宿るとは……もはや父が清三に語ることは何もない……少し悲しい気持ちになるのう……」


 清十郎が庭を見つめたまま呟いた。清三郎が座ったまま答えた。

「何を申される。清三はいついかなる時も父上の息子でございます。お見せした型稽古も出羽神あっての技でございます」


 その言葉に乙女組が出羽神を睨んだ。嫉妬以外の何物でもなかった。

 そして清十郎が困った表情をした。


「それでのう清三、この屋敷は上杉中屋敷ではあるが、あくまで幕府からの預かりもの。あの立派な松の木を切ったが、はてさて、どうしたものかのう……」


「父上、良きに取り計らって下さいませ……」

 清三郎は苦笑いしながら頭を掻いた。



 それから数日が経ち、景勝の将軍謁見の日がやってきた。

 景勝は束帯という正装を着用した。


 頭には(えい)を巻き上げた巻纓冠(けんえいのかんむり)(おいかけ)と呼ばれる馬毛製の扇状の飾りが付いた冠。脇が縫われている縫腋袍(ほうえきのほう)(長い裾を引く衣装)、右手に笏、腰に脇差という服装であった。


 既に謁見の場である白書院の下座に座し、平伏して将軍の登場を待っていた。

 大老堀田正俊、側用人柳沢吉保が上座に位置していた。他に大目付など多数の者が座していた。


 太鼓の音が三度鳴った。

 御目見役の言葉が響く。


「綱吉公……御成―りー」

 上座の上段に綱吉が現れた。


 平伏していた景勝は極度の緊張で腹に力が入る。

 上段に綱吉が着座した。上段には(すだれ)があり、下座からは将軍の半身しか拝めない。


 最も謁見の際に平伏した大名が頭を上げることは無く、将軍の半身すら見ることは無かった。


 唯一、将軍が「それへ」と声をかけた場合に限り、座したまま前へ動く動作だけが許されていた


 実際には拝謁者は将軍の威に打たれ進むことができないということで膝行の素振りだけ見せて元の座で拝謁するのが古来の仕来たりであった。


 綱吉が「それへ」と声をかけた。景勝は平伏したまま前に進む動作だけ行った。

 しばらくの間が続いた。景勝はそろそろ綱吉が立ち去る頃合いと踏んでいたが綱吉は動かなかった。


 すると綱吉が、「景勝、それへ」と再度声をかけた。これに大老堀田正俊や側用人柳沢吉保も驚いた。


 しかし最も驚いたのは景勝本人だ。このような事は初めての経験であり、綱吉の言葉がどのような意味を持っているのか考えも及ばなかった。


 景勝がどのように振舞うのが良いのか慌てていると、綱吉が更に声をかけた。

「景勝、安心せよ。余の言葉をそのまま受け取るが良い。それへ」


 景勝は綱吉の言葉に思わず「はは」と声を出してしまった。座したまま若干前に進む。すると綱吉が「もちとそれへ」と言うので、さらに「はは」と答えて若干前進した。


 周囲の者は訝しがっている。このような謁見は滅多にない事だ。

 堀田正俊や柳沢吉保も驚いているのだ。当の景勝は額から流れ出た脂汗が畳に落ちるほど驚いていた。


 さらに綱吉は、「簾を上げよ」と命じた。簾が上げられ、綱吉本人が現れた。

「景勝、面を上げよ」


「はは」景勝は返事をしたが頭を上げることが出来なかった。何度も頭を上下させるが踏ん切りがつかない。


 その様子を見て取った大老堀田正俊が綱吉の意図に悪気無と判断し、「景勝殿、表を上げられよ」と助け船をだした。


「はは」景勝が再度答えると、初めてゆっくりと頭を上げた。その強張った顔には脂汗が流れている。


 それを見た綱吉が「ふふ」と微かに笑った。

「景勝、そちの家臣、江戸家老橘清十郎か。幕府のために良い働きがあったと半蔵から聞いておる。良い家臣が育つは主が優れている証拠。そうであろう吉保」


 振られた柳沢吉保は慌てて「仰せのとおりでございます」と頭を下げた。

「景勝、此度の働き、褒めて遣わす。例のものをこれへ」


 綱吉が奥に声をかけると御目見役が「(ちん)の子犬(綱吉が特に好んだ犬種)」を小ぶりの布団に乗せた折敷(おしき)(木製の盆)を景勝の前に置き、直ぐに下がった。


「褒美じゃ。可愛がってやれ」

 綱吉が言い終えると簾が降りた。綱吉が立ち上がる。


 将軍直々の誉め言葉と褒美の子犬に呆然としていた景勝が「はっ」と我に返ると慌てて直ぐに平伏し「ありがたき幸せに存じます」と言葉にした。すると綱吉の影が消えた。


 景勝はしばらく動くことが出来なかった。将軍の言葉が信じられなかった。将軍直々に褒められる大名などまずいない。


 それが外様大名であればなおさらだ。しかも褒美まで受けたのだ。

 大老堀田正敏が「景勝殿、謁見は終了しておりますぞ。良き謁見でしたな。誇られよ」と声をかけると、側用人柳沢吉保が「殿直々のお褒めの言葉、加えて子犬の褒美まで。某も賜りたいものです」と付け加えた。


 この話は瞬く間に江戸城内に広がり、景勝が上杉表屋敷に到着した時には家臣皆が周知しているところとなっていた。


 景勝は出迎えていた清十郎を表座敷に呼ぶと満面の笑みで尋ねた。傍には狆の子犬がうろうろしていた。


「清十郎、どうやら大した仕事をしたらしいのう。服部様から綱吉公に報告があったとか。直々にお褒めの言葉を授かったわ。


それにほれ、その子犬、褒美まで賜るとは……肝を冷やしたわ。それで一体どのような仕事を成したのじゃ。出来れば謁見前に教えて欲しかったぞ」


 清十郎は忽ち平伏した。

「ま、まさか拙者の行いがこのような恩寵になるとは夢に思わず。お許し下さいませ……」


 それまで満面の笑みであった景勝は清十郎が謝るので慌てて質した。

「これこれ、責めておらぬ。勘違い致すな。


綱吉公は申された。『良い家臣が育つは主が優れている証拠』とな。わっはっはっは。清十郎、全てそなたのおかげじゃ。例を申す。それでどのような仕事を致したのだ」


「は。恐れながら申し上げます。実は先日、殿が江戸に上京される直前でございました。


米沢藩蔵屋敷の蔵役人らが、少女六十九名を監禁しているという情報を掴みまして、南町奉行所の役人と蔵を探索したのです。


誠そこには少女らが監禁されておりました。

これは米沢藩の一大事と蔵役人らを追及しましたところ、どうやら蔵役人らはオランダの闇組織とやらに操られ、少女らは外国に売られる予定であったのです。


その場に服部様も応援に来られ、さらには北町奉行所の応援を得て、全ての解決に至ったのです」


「そ、それは我が藩の一大事であったではないか! よう防いでくれたのう。してその事件、幕府にとってどのような関係があったのじゃ」


「服部様によりますと、日本人の少女が大量に外国で売買されることになっていれば、徳川幕府は少女を売り物にする下衆な国と世界中から甚大な中傷を浴びることになっただろうと仰せにあられました」


「なんと! それは道理! それを防いだ結果の謁見であったか! 清十郎、ようやってくれたのう! さすが景勝の右腕よ!」


「ありがたきお言葉にございます」清十郎は再度平伏した。

「それで情報源は?」


「は。南町奉行所の同心からであります。恥ずかしながら申します。実は私の長男は将棋にしか興味がなく十九になっても未だ元服もしない有様……。


しかし何故か奉行所の与力や同心と顔なじみになっており、上杉中屋敷にも度々訪れる間柄にありました。


自然と私も与力や同心と懇意になり、誘拐事件を追っていた同心らが米沢藩の江戸家老であった私に情報をくれたのです」


「ほう。その様な事であったか。人脈とはほんに大事なものじゃのう。何はともあれ、今宵は祝宴じゃ! 盛大にやろうではないか!」


「はは」

 この時、清十郎は事件の情報源について清三郎の事は一切話さなかった。僅かでも清三郎の能力が世間に知れ渡ることを恐れたからだ。


 心では清三郎の力あっての事件解決であったと重々承知していた。それを世間に出してやれない清十郎の心痛は量り知れないものだった。


 仮に清三郎の能力が景勝、さらには幕府の知るところとなれば、忽ち出世街道を駆け上るだろう。しかしそれは清三郎出生の秘密が明らかになる可能性を秘めている。


 これまで清三郎という一人の人間を傍で見ていた清十郎は、清三郎には自由に生きてもらいたいと心から願っていた。それは妻のせつも同様だ。


 清十郎は自分の手柄などどうでもよいのが本音だった。全ては清三郎を守るため。清三郎が本当の我が子であったなら、迷わず息子の手柄と進言していただろう。


 景勝の質問に答えながら、清十郎は心で泣いていた。

 米沢藩の活躍は、一つの物語となって江戸中に広まった。



 世間が米沢藩の話題で一色となっていた橘家の夕餉の席。

 あらゆる行事で多忙を極めた清十郎が久し振りに座っていた。


 その夕餉は清十郎の功を祝った細やかな宴となっていた。

 清十郎は景勝の謁見から多忙を極めて疲れていたが、せつを始め、三月、四月、五月ら美女に囲まれ「お勤め、お疲れ様でありんした。お酌いたしんす。おひとつどうぞ」などと五月が酌をしてくれるので疲れは吹き飛んでいた。


 しかししばらくすると、清十郎の顔に暗い陰りが見えだした。せつが心配して尋ねると清十郎は清三郎の顔を見た。


「世間では誘拐事件の功績を褒め称え、その話の中心は景勝様や儂であるのは周知のとおり。しかし本当の立役者は清三、お前じゃ……。本来であれば清三が話の中心になって然るべきと思うと、心が痛くてのう……」


 清十郎はそう語ると肩を落した。

 これに清三郎が反論した。


「父上、この清三、本当に呆れ申した。その話は何度もしておりましょう。将棋道場に通えば父上の話、明石殿と将棋を指せば父上の話、清三は父上が誇りでございます。自分の父が他人から称えられるのです。これ以上の喜びがありましょうか」


「それは分かっておる。儂も充分理解しておる。しかしのう……心の片隅に何かが引っ掛かって取れないのじゃ。清三が儂の事を思ってくれるように、儂も清三のことを思っておる。


世間の話が清三の活躍で持ちきりになっておれば、父親としてこれ以上ない誇りと感じたであろう……それがどうにも悔やまれて……」


 清三郎は父の言葉に心から呆れたという表情だ。

「父上、ならば申し上げます。謁見までのお勤めは朝早くから夜遅くまで。そして謁見後のお勤めはどうです。


五日間戻られないほどの激務だったではありませんか。それは何故です。父上が誘拐事件の立役者であったからでしょう。


私が立役者であったなら、父上の激務は私が負うはめに……。それだけは御免被りたい話です。


それを私が望んでおれば、私は既に元服を済ませ、父上が世間に誇れる息子になっていたでしょう。


ここではっきり申し上げておきます。私は自由に生きたい。その自由には父上や母上の幸せを含んでおります。


当然乙女組や出羽神もそうです。その自由を拒み、阻止され、さらには傷付けようとする事態があれば私はこれを全力で排除します。


そのためだけに修行し、先日お見せした剣技を身に付けたのです。それ以外の事で剣を使うつもりは全くありません。


そんな私の気持ちを知っても尚、父上は私に誘拐事件の立役者になれと申されるのですか。清三は、清三は……」


 清三郎が話し終わる前に乙女組が涙を流して飛び付いた。出雲姫は例によって頭の上だ。せつも乙女組の背から抱き着き涙を流す。


「清三……。よう分かった。父が悪かった……もう二度とこの話はいたさん……清三はこの場におる者だけの誇りじゃ……」


「父上……父上に抱き着き泣きたいところですがこの始末……息もろくに出来ません……お許し下され……」


「分かっておる……分かっておる……本当に清三は我が家の誇りじゃ……」

 その様子を傍で眺めていた出羽神の目にも、一筋の涙が流れ落ちた。


 清三郎が瞬時にその場の雰囲気を変えた。

「皆さん離れて。誰かが訪ねて来たようです。門を見て参ります」


 清三郎は直ぐに立ち上がると玄関の方へ足早に消えた。すると表門の方から「このような深夜に申し訳ありません。御免下さいませ」という声が聞こえた。


 清十郎は清三郎の勘の良さに驚いたが、他の面々は以前にも同じ経験をしていたので驚かなかった。


 清三郎が潜り戸の閂を抜き、表に出た。そこには背の低い老夫が立っていた。清三郎は既に声の主が誰であるか分かっていた。


「これは九兵衛殿ではございませんか」

 九兵衛は清三郎が自分を覚えていたことに驚いた。清三郎が先に確認した。


「九兵衛殿がこのような夜分に当家を訪ねられたという事は、文でございますか」

 九兵衛はさらに驚いたが大きく頷いた。


「前回と同じように、黒い衣を頭から纏った者に頼まれたのでございましょう。驚く必要はありませんよ。


この間も同じことがあったのです。どうせ懐には例の駄賃があるのでしょう。大切に使われると良いでしょう。では文を預かりましょうか」


 清三郎が手を出すと、九兵衛が懐から一両を出した。

「九兵衛殿、間違えておられますよ。一両はいりません。文です」


 九兵衛は三度驚き、慌てて懐に手を入れた。清三郎に文を差し出す。

「もう何も申されるな。この事は心に留めておくのがよろしいでしょう。さあ、お帰り下さい」


 文を受け取った清三郎が優しく促すと九兵衛は深く頭を下げ、夜の闇に消えて行った。


 清三郎はその文を読まずとも概ね内容は悟っていた。この時を待っていたと言っても過言ではなかった。ついに全ての決着を付ける時がやってきたのだ。


 家に入り、座敷の蝋燭で文を確かめる。

 清十郎やせつ、乙女組らが蝋燭に頭を寄せる。


   橘清三郎

   貴殿との勝負を所望

   明晩 子の刻頃(午前0時頃)

   吉原で待つ

   一人でも良いし 貴殿自慢の

   女戦士を連れても良い

   ただし

   拒めば花魁桜太夫の命は無い

       闇魔導士大神官

       ヘクセンメスター

       アールドリック


 清三郎は文を読み終えると三月に渡した。三月が確認すると清十郎に手渡した。


 清三郎は興奮していた。かつて清三郎が九つだった頃、米沢の山中で暴れた人食い大熊と対決した時以来の興奮を感じていた。


「清三、これは……果たし状というやつではないのか……闇魔導士云々とは何者なのか……」

 清十郎が不安気に尋ねる。


 清三郎は清十郎の言葉が聞こえなかったのか、腕組みして何やら思案している様子だ。それを察した三月が代わって答えた。


「御父上様、果たし状という物が決闘を申し込むという事と同義であれば、そのとおりでございます。


文の差出人である闇魔導士大神官ヘクセンメスター・ア―ルドリックとはオランダ闇組織の頂点に位置する清三郎様の最大の敵でございます。


昨年来から徳川幕府に陰謀を仕掛けていた張本人です。清三郎様は大変楽しみにしておられるご様子。既に何らかの策を練っておられるのでしょう」


 清十郎は三月の言葉に動揺した。

「何と! オランダ闇組織最大の敵であると……徳川幕府に陰謀を仕掛けているなら、どうして清三郎と勝負する必要がある……拒めば花魁桜太夫の命はないとは……なんと卑劣な……」


 せつは清十郎の手を握った。

 すると五月が「拒むのも……有り?」と三月を見る。


 三月が真剣な面持ちで五月の冗談に答えた。

「五月、そのような冗談を言っている場合ではないかも知れません。


闇魔導士大神官は清三郎様お一人でも乙女組が一緒でもどうでも良いと記しているのです。


相当な強さと自信があるに違いありません。出羽神が(ほふ)った黒鳥を通して清三郎様の戦いを全て見ているはずです。その上での文なので……」


 三月の言葉にせつがふらついた。すかさず清十郎が支える。三月がさらに続けた。

「まさかとは思いますが……」


 他の乙女組も三月と同じことを考えていた。清三郎が一人で戦うと言い出しかねない事だった。最低でも先日型稽古で見せたように、出羽神は連れて行くかも知れない。


 乙女組の面々は涙目で清三郎を見つめた。相変わらず腕組みしていたが乙女の視線に気付いたようだ。


「ん。皆さんどうされました。拙者の顔に何か付いておりますか」

 乙女組は一様にもじもじしている。清十郎が助け船を出した。


「清三、三月らは乙女組を心配して、清三が一人で戦いに行くのではと案じておるのじゃ……」

 清三郎は清十郎の言葉に驚いた。


「ああ、なるほど! 拙者が一人で戦いに行けば、乙女組は全員無事ということですか! これは気付きませんでした。そうですか。なるほど……それは良い考えかも知れませんね」


 三月を始めとした他の者は渋い表情だ。清三郎は一人で行くなど微塵も考えていなかったのだ。そこにつまらぬ水を差し、三月は心から悔いた。


 清三郎がぽつりと呟いた。

「戦いの刻限は明晩子の刻。まだまだ充分間があります。そこで乙女組には新たな技を提案しようと思案していたのですが無駄だったかも知れませんね……残念です」


 清三郎が項垂(うなだ)れた、ように見せた。

 するとその場に乙女組全員が(ひざまず)き、「是非、技を教えてください!」と声を揃えた。


 清三郎は「はははは」と笑うと跪いた乙女らに腰を下ろし、

「この戦い、乙女組と出羽神を連れて行かぬはずがないでしょう。浅草湊では乙女組の出番がなかったですからね。今回は存分に活躍してもらいます。覚悟は良いですか」と鼓舞した。


 清三郎の言葉に三人が抱き着いた。出雲姫は例によって頭の上だ。

「父上、母上、もう見慣れてはおられましょうがこの有様です。


無礼ではありますがこのまま一言申し上げます。既に拙者の勝ちは見えております。


安心してくだされ。これから乙女らと作戦会議をしますので、先にお休み下さい。


清三の心配は無用でございます。私はさておき、この世で乙女組に勝る者など存在しませぬ。どうか安心してお休み下さい」


 清三郎に抱き着いていた乙女組も清三郎の言葉に我に返り、清三郎から離れると正座して頭を下げた。出雲姫は清三郎の頭の上で八つの頭を下げている。


 清十郎とせつは手を握り合っていた。

「よう分かった。清三が言うとおり明晩までは間がある。今日は先に休むとしよう」


「そうでございますね。清三郎殿も根を詰めずに早く床に就いて下さいね」

 二人はそう言うと、奥に歩いて行った。


 両親の姿が消えると上ずった声で四月が聞いて来た。

「清三郎様、新たな技とはどのようなものでございますか!」


 すると清三郎の瞳が輝いた。

「ふふふ。慌てることはありません。拙者も思案中です。まずは涼しい縁側で作戦会議と致しましょう」


 清三郎が歩む後に皆が続いた。出雲姫は清三郎の頭の上。出羽神は皆の後ろをぴょこぴょこ付いて歩く。


 縁側から風が入る座敷に皆が座った。清三郎がまず説明した。

「明日の相手は闇魔とん士大神官一人のみです。もはや無駄に浪人などは使わないでしょう。


花魁桜太夫が人質に取られたようですがその理由が分かりません。

人質など無くとも最後の決戦を楽しみにしていたのは拙者も同じという事が分からなかったのでしょうか。


オランダという国では悪事を働く時はそういった事をする慣わしがあるのかも知れません。乙女らはどう思いますか」


 直ぐに三月が答えた。

「あのような輩は相手の弱みを握って優位に事を勧めようするのが常套手段です。単に麻木殿が外れであったから桜太夫が清三郎様の思い人と考えたものと思います」


 他の面々も頷いた。

「いずれにしろ、拙者らの明晩吉原行きは決定事項です。花魁の命は無事と考えましょう。大神官の攻撃手段ですが、まず召喚術を使うでしょう。佐貫の合戦のように。皆はどう思いますか」


 三月が答える。

「清三郎様のお見立てどおりと存じます」


 他の面々も頷いた。

「大神官は景虎の力を何度も見ております。そして乙女組の力も。それを承知の上で戦いを挑んでくるのですから必ず景虎を超える力を持った強者(つわもの)を召喚するでしょう。


それが何者か、多数なのかは全く分かりません。これまでにない劣勢となることは確実です。


しかも佐貫の合戦のように敵であった八岐大蛇、つまり出雲姫の事になりますが、景虎の力で敵を味方にすることも望めないでしょう。


皆さん、それでも拙者と共に闘いたいと思いますか。正直に答えて下さい」

 その場の全員が答える必要はないと瞳を輝かせる。


 清三郎は真剣に皆の思いを受け止めた。そして作戦を指示した。

「皆さんの気持ちは分かりました。劣勢であることは間違いありませんが、頑張って勝つしかありありません。


召喚された敵が一人であろうと、多数であろうと基本的な戦略を決めておきます。出羽神と私が一組、そして乙女組が一組と考えて下さい。


敵が多数現れた場合、より強い者には私と出羽神が当たります。乙女組は相手が多数であろうと必ず一組で相手一人と戦って下さい。


例外は認めません。三人と出雲姫で慌てることなく、確実に一人ずつ仕留めていくのです。その方法を崩さない限り、手強い相手でも乙女組なら瞬殺間違いなしです。


直ぐに次の敵、次の敵といった方法で戦って下さい。それは私と出羽神も同じです。これが今回の戦いの最も重要な約束事です。分かりますか」


乙女組が大きく頷いた。

「となれば三人と出雲姫の連携攻撃が重要になってきます。単に武器を振り回すだけでなく、それぞれが得意な隠し技、そうでね、例えば目つぶしや、足の動きを鈍くする術などを含めながら戦って下さい。


我先に敵の首をなどと考える者が一人おれば負けです。一人前へ出れば他の者は補助、二人が前へ出れば二人は隠し技といった感じです。分かりますか」


 五月が「みんな仲良し。うまくやる」と答えると四月が「やはり三月様の動きに合わせて連携するのがよいと思います。連携しながら止めを刺せる者が刺す。これですな」と意気込む。


「皆様方の後押しはこの出雲姫にお任せ有れ。この八本の首が敵を牽制いたしますわ」


「出雲姫、そなた佐貫の合戦で拙者に首を何本か切られては復活させておられましたが、痛みは無かったのですか」


「それはもちろん切られた直後は痛みがあります。とても痛いです。ですが再生すれば屁の河童でございます」


「そうですか。やはり痛みを伴いますか……。出雲姫、可能な限り首を切られぬように牽制、援護を頼みます。皆も出雲姫の首が一つでも飛ばぬよう、配慮して戦って下さい」


「分かりました」

 三人の声が揃った。既に連携は取れている。


「良い返事です。それでは皆さんに奥の手を伝授します。この技は三人と出雲姫の心を一つとする必要がある技です。


一人でも集中を欠くと失敗しますぞ。要領は浅草湊で拙者が放った防御壁を思い出して下さい。三人の力を出雲姫が増幅して技を出すという形です。分かりますか」


 乙女組が頷いた。

「良いでしょう。拙者が放った防御壁の源は霊力でした。乙女組らが持っている力には景虎の力が根付いています。


ここが大事ですよ。拙者が持つ霊力と景虎の力は根本的に異なる力です。ですから防御壁の増幅には出雲姫が直接拙者に触って霊力を伝達し、力を増幅させました。


ところがです。あなた方は力の根本が同一なので、それぞれが触れずとも意思を繋ぎ、呼吸を合わせるだけで出雲姫が乙女組個々の力を増幅することが叶うはずです。


先日私が行った型稽古を思い出して下さい。あの時は私と同じ霊力を力とする出羽神が私の力を増幅してくれました。


たまたま出羽神が勢い余って私の肩に乗りましたが、決して触れ合う必要はありませんでした。


お互いが相手を思い、呼吸を合わせれば一丈先(約3m)の松の木を切り落とすことも可能なのです。


分かりますか」

 清三郎が皆に確認すると、乙女組は出羽神を睨んだ。


 こんな時でも焼餅を焼く乙女組も可愛いものだ。

 出羽神は乙女組から隠れようとちょこちょこ歩いて清三郎の後ろに隠れた。


 出羽神の歩く姿があまりにも可愛いので清三郎が屈んで撫でまくる。乙女組の嫉妬が殺気に変わり出羽神が身震いした。


「何ですかこの殺気は。何ですと! 乙女組が恐ろしい……。なに、特に五月が恐ろしいと……」


 清三郎が乙女組に振り向いた。乙女の殺気がすっと引く。五月は冷や汗をかき始めた。


「拙者の話は分かったのですかね。要は乙女三人と出雲姫は体を直接触れずとも意思を繋ぐだけで出雲姫による力の増幅ができるという話をしたのです。分かりますか」


 乙女組が頷いた。特に五月が何度も頷く。

 清三郎はやれやれといった表情で「それでは早速訓練してみます。座敷を広く使ってそれぞれ正座しなされ。そして集中し、心で出雲姫と繋がってみてください。皆さんの実力なら必ずできます」


 座敷の四隅に陣取った乙女組が集中する。三人の体を赤い霞が覆い始めた。


「よし。皆さん良い感じです。出雲姫を通じて力が増してくるはずです。どうですか」


 三月が「素晴らしです。力が漲ります」と答えると四月は「今すぐに戦いたい」、五月は「これで清三郎に良いところを見せられる」と答えた。


 出雲姫が「皆さん、まだまだこれからですよ。もっと集中して」と息巻いた。

 すると三人を包んだ赤い霞がさらに増大した。


 頃合いと見た清三郎が三人に指示を出した。ああして、こうしてなどと言っている。出雲姫には特に厳しく指示を与えていた。


「姫! そこはそうではありません。こうやるのです!」

 出雲姫は清三郎の厳しさよりも姫と呼ばれたことで、何とも言えぬ優越感を味わっていた。が指示されたことはきちんとこなす。


「そうです! 姫、いい動きです! そう、その動きです!」

 褒められて出雲姫は頬を赤く染めた。


 他の三人が動きを止めた。皆が清三郎をじっと見つめる。

「な、何ですか皆のその目は……」


 三月が上目遣いで答えた。

「私達も姫と呼んで欲しいです……」四月と五月も同じ気持のようだ。清三郎は本当におなごとは厄介なものだと痛感した。


「それなら何ですか? それぞれ三月姫、四月姫、五月姫と呼べばいいのですか」


 五月が押し入れから枕を取り出し、清三郎に投げつけた。清三郎は上手に受け取った。

「この枕は何でしょう」


 三月が「さあ……」と言って横を向いた。

 清三郎が「あっ」と納得した。


「戦いは明日の晩、しかも子の刻。もう遅いですから布団を敷いて寝ましょうか。そうですよね。今日は充分訓練したし疲れていますよね。続きは明日ということで」


 清三郎はそう言うと自分の布団を敷いて直ぐに床に入った。出羽神も傍で伏せる。


 乙女組らは清三郎の態度にやきもきしたが、その前に行った訓練を思い出した。いざという時は清三郎が訓練してくれた技が必ず役立つと自信が持てた。


 乙女らも布団を敷いた。清三郎を中心に囲むことはもはやお決まりだ。直ぐに五月が清三郎の布団に入ろうする。


 すると三月と四月も清三郎の布団に入る。清三郎は熱くてたまらないが、三人は直ぐに気持ちの良い寝息を立て始めた。すると出雲姫が若干大きくなって尻尾で風を送ってくれた。


 いつもなら、ここで皆を叩き起こしそれぞれの床に戻らせるが清三郎は今宵が最後の夜になるかも知れないと感じて、皆を抱きかかえてやった。そして尻尾で風をくれていた出雲姫には、「尻尾を拙者の枕にしてもらえますか」と頼んだ。出雲姫は喜んで尻尾を清三郎の枕にした。


 周囲に敷かれた布団が何とも言えない寂しさを醸し出していた。


      ※


 ついに決戦の日がやって来た。まもなく子の刻だ。清三郎以下乙女組が吉原のど真ん中を歩いていた。


 出羽神は清三郎の真上を旋回しながら合図を待っている。

「これが夜の吉原ですか。華やかで賑やかですなあ。もう二度と来ることは無いと思っておりましたが……。拙者、この華やかさが僅かでも本物に近づくようこの戦いは気張る所存。皆さんも同じ気持ちで戦って下され。よろしいですか」


 乙女組が頷いた。清三郎が指笛を鳴らすと出羽神が降りてきて清三郎の肩に止まった。


「良いでしょう。ここから一歩踏み込めば敵が待つ戦場です。では参りますか」


 皆が歩みを進めた。すると景色は何も変わらないが行き交う人々の姿は消え、賑やかであった大通りが急に静寂となった。


 例によって闇組織得意の闇の結界を張っていたのだ。夜であるにも関わらず結界を張っているのは闇の技を他人に見られてはならない掟のようなものがあるのだろう。


 清三郎から十六間(約30m)離れた大通りの真ん中に、漆黒の黒衣を頭から覆った者が一人立っており、その傍に花魁桜太夫が足を崩して座っていた。猿轡や縄などの縛りはされてないように見える。


 清三郎が大声を張り上げた。

「お主が闇魔とん士大神官ヘクセンメスター・アールドリックか。文を受け取った故こうして参上つかまつった。花魁は返してもらう」


 清三郎が語り終える前に、桜太夫の体が浮いて移動を始めた。例によって五月が姿を消して抱きかかえているのだ。桜太夫は驚いて手足をばたつかせている。


「ソノトオリ ワタシガ ヤミマドウシ ダイシンカン ヘクセンメスター アールドリック デアル ヨクゾ ワタシヲ オソレルコトナク ココヘキタ ソノ ドキョウヲ ホメテヤル ワザワザ スガタヲ ケサズトモ オイランハ カエシテヤル」


 その言葉で五月が姿を現した。慌てふためいていた桜太夫も自分の置かれた状況を悟ったようだ。両手、両足をだらりと垂らした。顔は上げたまま清三郎らを見ている。


 桜太夫が出雲姫と出羽神に驚いて声を上げた。体を震わせている。五月が清三郎らの傍まで連れてきて、地に下ろすと腰が抜けたように座ってうなだれた。体は震えたままだ。清三郎が桜太夫に腰を落として囁いた。


「太夫殿、このような事になって誠に申し訳ありません。あなたは拙者らがここに来るためにあの黒衣の男に利用されたもの。太夫殿の命に大事はありません。


ただし、これから見たり聞いたりしたことで大声や悲鳴をあげられることがあれば、猿轡をします故、大人しくして観覧しておられよ。


よいですな。そこにおります妖怪とこの大鷲は拙者の家族です。恐れることはございません。いいですね」


 桜太夫は目を見開いて大きく頷いた。清三郎は出雲姫に「姫、妖怪と称して許して下され」と謝った。


 出雲姫は先刻承知とばかりに八つの頭を軽く下げた。

「よし。こちら側の準備は整ったということでよろしいでしょうか」


 乙女組全員が頷く。清三郎の肩にとまっていた出羽神は足にぐっと力を入れて承知と伝えた。清三郎が頷いた。


「大神官とやら、こちらの準備は整った。そちらも準備を整えてはいかがか。まさかお主本人が拙者らの相手をする訳ではあるまい」


「フフフ ヨビダシテ オイテ モウシワケ ナイガ ジュモンヲ ネンジル ジカンヲ モウスコシ クレナイカ……マモナク……マモナク オワル」


 ヘクセンメスターは冥界で眠りに就いているある者に囁いていた。

 囁かれたある者はその邪悪な気配を嫌ったが、話を聞いてみると地上に今一度生を受けた上、未知の時代の最強の(つわもの)と勝負が出来ると言うではないか。


 その話を聞いたある者の心に武士魂(もののふだましい)が沸き起こった。「よし、そなたの話、承った。受ける代わりに某の家臣も戦いに胸を躍らせておる。蘇るのは二人になるがよろしいか」ヘクセンメスターはにやついた。


 三月が片膝付いて清三郎に具申した。

「このような輩の言う事を聞かずとも、今、直ぐに殺すことが出来ますが」


「この戦い、待っていたのは拙者だけではないでしょう。正々堂々と大神官を倒して三月、四月、五月、出雲姫がこの世界に召喚された恨みにも終止符を打つのです。昨年からの遺恨を全て晴らそうではありませんか」


 清三郎の言葉に乙女の三人は清三郎に飛び付きたい衝動にかられたが、そこは空気を読んで我慢した。正直なところ、既に誰も召喚された事への恨みなど抱いていなかった。


 ヘクセンメスターは漆黒の黒衣を頭から纏っていたが、俯いて何やらぶつぶつ呟いているのが分かった。そして両目が赤く輝くと両手を天にかざした。


 生暖かい風が吉原の大通りをそよいだ。地面が揺れたと思った瞬間、重厚な地鳴りとともに戦場の中心に二本の黒煙柱が現れる。


 黒煙柱は天に向かって伸びていく。やがて上昇が止まると二本の黒煙柱は夜の闇に溶けていく。次第に中に立つ者が明らかになっていく。


 片方の黒煙柱から見え隠れしている者は清三郎と同じ背丈の武士のようだ。一方の黒煙柱からは山伏風の大男が見て取れた。


 黒煙が全て闇に溶け、そこに現れた者。一方は赤糸縅(あかいとおどし)の鎧に太刀拵(たちごしらえ)(刀の刃を下にして腰に吊る装備方法)で名刀「薄緑(うすみどり)」を帯刀している若武者だった。


 一方の大男は一見して山伏だった。右手には金剛杖、背には巨大な薙刀を背負っていた。


「フフフ ハッハッハッハ カッタ コレデ ワタシノ カチハキマッタ! バカショウジキ ナ ヤカラノ オカゲデ ミゴト ショウカンニ セイコウ シタワ! ジュツヲ ネンジル トチュウデ ワタシヲ コロセバヨカッタ モノヲ ワライガ トマラヌワ!」


 清三郎は召喚された二人の組み合わせに心当たりがあった。幼少期に読んだ書物を思い出したのだ。


「拙者の見立てが間違いなければ若武者の御仁は鎌倉の剣豪、戦の天才と名高い源義経殿でありますか。そして傍に控えておられるのが剛力無双、武蔵坊弁慶殿とお見受けいたします」


「いかにも。某は源義経、これに控えるは某に仕える僧兵武蔵坊弁慶である。そなたは」


 清三郎は過去の英雄に敬意を込めて頭を下げた。そして答えた。

「拙者は橘清三郎という凡人に過ぎません。それよりも、拙者が知る源義経殿であれば、邪悪な呼び声を拒否される力を充分持たれているはず。どうして応じられましたのか」


「ふふふ。確かに某の眠りを妨げたのは邪悪な力であった。しかしそれに応えたのは未知の強者と戦えると知ったからである。


所詮、某もただの武士(もののふ)ということであろう。貴様が相手か……ふふふ、凡人? 笑わせてくれる……相手にとって不足なし。弁慶、大いに楽しませてもらおうではないか!」

「御意!」


 源義経……。剛力無双の武蔵坊弁慶を家臣とし、数々の伝説を残した悲運の英雄である。


 圧倒的な剛力であった弁慶は千本の太刀を集めようとする。九九九本集めたところで京の五条大橋で義経と運命的な出会を果たす。


 弁慶は太刀をよこせと挑んだが義経は橋の欄干に飛び移ってその場を去り、後に清水寺での決闘で弁慶を降参させて家来にした話はあまりにも有名だ。


 兄であった源頼朝の命を受け、壇ノ浦の合戦で平家を見事滅ぼした。剣豪であり、戦術家であり、戦場では自ら先陣を切って敵に向かった勇猛さを併せ持つ武将であった。


 最後は兄頼朝の怒りを買って殺されたが、義経を庇って幾多の矢を体に浴びたまま死んだ弁慶は「弁慶の立往生」として語り継がれ、さらに義経は蝦夷や西方の国へ逃亡して生きており、モンゴル帝国の創始者「チンギス・ハーン」であったという伝説を残した人物であった。


 乙女組らは現れた二人を見るや、楽勝と悟った。どうしてヘクセンメスターが既に勝ちと決め込んでいるのか全く分からなかった。


 義経の後ろで様子を伺っていたヘクセンメスターが二人に近寄り、何やら話して包みを渡した。


 義経が叫んだ。

「どうやら貴様には奥の手があるらしい。ならばこちらも奥の手を使わせてもらう」


 義経と弁慶はヘクセンメスターから受け取った包みから赤黒い大玉を取り出し、それぞれ大口を開けて呑み込んだ。たちまち周囲に甘い香りが漂うと、二人に身体強化の兆候が表れた。


「フッハッハッハッハ! コノクスリ ハ コレマデ ワタシノ ブカガツカッタ クスリトハ ケタチガイ ノ チカラヲ ハッキスル イマサラ ニゲラレンゾ! フッハッハッハッハ!」


 喉を掻きむしる二人は筋力が増し、痛いほど血管が浮き出した。義経と弁慶は筋力や体力が増大したものの、背丈は変わらぬままだった。が、体から漆黒の闘気が溢れだした。


「フフフ ヨイゾ ヨイゾ コレハ ヨシツネヘノ センショウ イワイト オモッテ ウケトッテ クレ」


 ヘクセンメスターが片手をさっと横に振ると、吉原の景色が一変し、京都の鞍馬寺となった。広い庭には大きな桜の木が所狭しに植えられており、可憐な花びらが舞っていた。


「おお! これは某が幼少牛若丸であった頃に育った鞍馬寺ではないか! これは力が二倍、いや三倍になる! これほど相応しい決闘の場所は他にない!」


 ヘクセンメスターは黒衣の奥でにやついた。

 乙女組が義経と弁慶が発する闘気の強さにたじろいだ。しかし本当に驚くのはこの後だった。


 ヘクセンメスターが義経の背後に立つと、その体が靄となり、義経の体に乗り移ったのだ。


 義経はその苦しさから前かがみになって両手の拳を握って耐えた。が、やがてその目が赤く輝き、漆黒の闘気が赤黒い闘気へと変化した。


 立ち上がった義経が発する闘気の強さに清三郎や乙女組は圧倒された。予想を遥かに上回る強烈な闘気だ。


 義経の闘気で体が感じる恐怖と戦いながら、清三郎が声を上げた。

「ヘクセンメスター、拙者にはお主を倒し、オランダ闇組織を消し去るという目的がある。


拙者はこの戦いを心待ちにしておった。だがお主が拙者を名指しで呼び寄せた意味が分からぬ。


オランダ闇組織の目的は徳川幕府の乗っ取りであったはず。花魁を拉致するような無駄な事まで致し、拙者を呼び寄せた理由を問おう」


 ヘクセンメスターが乗り移った義経は、先ほどまでの義経とは全くの別人であった。体中の穴と言う穴から赤黒い闘気が溢れ出ていた。


 毛穴はもちろん、鼻や耳、閉じた口元からも赤黒い闘気を塞ぎきれずに溢れ出させた。さらに義経の目は赤く光っている。


 清三郎の問いに薄汚くにやつくと、義経とヘクセンメスターの声が重なって清三郎の問いに答えた。


「ふふふ、冥土の土産に答えてやろう。私の国、オランダはいずれフランスの皇帝ナポレオンに屈するであろう。


そこで徳川幕府を乗っ取った暁にはアメリカを我がものにする予定であった。しかしそんな事はどうでもよくなったのだ。


橘清三郎……貴様を倒し、その体を乗っ取れば、ナポレオンも指先で抹殺できよう。貴様の体を乗っ取れば世界は私の物だ。ふっはっはっはっは」


 清三郎は義経が放つ闘気の強さに両手で顔を覆った。それでも質問を続ける。


「義経殿の体を乗っ取っただけで、この圧倒的な強さ。それで充分ではないのか!」


「ふふふ。臆病風に吹かれたか橘清三郎。この義経が恐ろしいのであろう。良く分かるぞ。だがな、義経も所詮は冥界で眠る死者を蘇らせて召喚したもの。


貴様を殺すほどの時間しかこの世にはおれん。しかしお主は別じゃ。私が乗り移れば永遠の時を生きることになろう。ふふふ。はっはっはっはっは!


この世界は私のものになる! ナポレオンが鼻水垂らして命乞いをする姿が目に浮かぶ! ふっはっはっはっは!」


 義経からさらに強烈な闘気が溢れだす。

 義経の尋常ならぬ強さを見て取った三月が清三郎に跪く。


「清三郎様、ヘクセンメスターが乗り移った義経と名乗る者の強さ、失礼とは思いますが敢えて具申いたします。


あの強さ、おそらくは変化された景虎様以上……。ここは我ら乙女組が時間を稼ぎます。清三郎様は太夫を連れてお逃げ下さい……」


 三月を始め、四月、五月、出雲姫は既に死を持って清三郎を助ける決心をしたという表情だ。


 しかし出羽神だけは何故か闘志が漲っている。青白い霞で覆われていた。

 三月らの決心を目の当たりにした清三郎は苦笑いして頭を掻いた。首のお守りを取り出す。


「さて、これで吉と出るか凶と出るか……拙者にも分かりませぬ。三月、凶であったならば皆で潔く散ろうではありませんか……拙者、可愛い乙女組と出羽神を放って逃げる輩ではありませんぞ。ただし出羽神は勝てると信じているようですが」


 三月が出羽神を見ると、青い霞を発して正にやる気満々と受け取れた。

 清三郎が跪く。お守りを胸に当てる。


「南無阿弥陀仏……」

 そしてお守りを顎に嵌めた。


 瞬刻、清三郎を桜の竜巻が包む。夜空を暗雲が覆う。雷が幾多の筋を描いて鳴り響く。轟音と共に強烈な落雷が桜の木を直撃した。桜の木が砕け散る。周囲を砂煙が埋め尽くす。


 やがて砂煙が消え去った時、そこに景虎が存在していた。雷と一緒に落ちて来たのか、膝を曲げ、両足は土に埋もれて砂埃を上げている。そしてゆっくりと立ち上がった。


 景虎の姿を見た乙女たちは驚いて声を失った。これまでの景虎と姿が全く異なっていたからだ。


 最も異様であった鉄の面は黄金の面になっており、目の辺りにあった筋も一本から数本に増えていた。


 さらに腰まであった獅子を思わす赤髪は輝く金色に変わっていた。腕を組み、肩に掛けた黒い着流しの背中には毘沙門天の「毘」の文字が白抜き文字で入っていた。


 毘沙門天は七福神の一人であり、戦いの神として謙信が崇拝していた神であった。合戦の折には幟旗に「毘」の字を入れていたほどである。


 そしてその腰には愛刀「鶴姫一文字」と「謙信景光」が輝きを放っていた。

 三月を始めとした乙女組は直ぐに悟った。この景虎の力は以前の景虎を遥かに凌ぎ、目の前の義経と同等に戦える強さであると。


 さらに自分達の防具であった肩当てと膝当てが鉄から黄金に変わっていた。力も驚くほど上がっている。


 乙女らが崇敬の眼差しで景虎を見つめた。そして景虎の言葉にさらに驚く。

「拙者、どうやら景虎の心を退けてしまったようです」


 その声は景虎の声ではなく、清三郎の声だった。これまで景虎に変化した時には清三郎の心は景虎に宿っていたが、景虎の強い心に影を潜めていた状態であった。


 しかしこの変化では清三郎が本来景虎の持っていた力を凌ぐ霊力を得たことにより、景虎の心が清三郎の強い心の前に影を潜めてしまった形となったのだった。


 その時、清三郎の心の中に景虎が姿を現した。面を着けていなかったが清三郎にはその男が景虎本人であると思えた。


 景虎が清三郎の肩に片手を置いた。「よくぞ儂を超えたものよ……誇りじゃ」そして景虎は消えた。


 清三郎は我に返った。直ぐに状況を皆に説明する。

「まずは吉と出たようです。皆さん景虎が私の声になって驚いているでしょうが景虎に変わりはありません。皆には新たな力を授けます」


 清三郎が両手をかざすと赤い光が乙女組を優しく包んだ。

「出羽神にはこちらの力です」


 同じく手をかざすと出羽神が青い霞で包まれた。

 そして清三郎は義経と弁慶に目をくれる。


「義経殿、お待たせいたした。存分に戦おうではありませんか。拙者と出羽神が義経殿の相手を致す。乙女組は弁慶殿を」


 乙女組が頷いた。戦いの場が二つに分かれた。

 景虎対義経。乙女組対弁慶だ。


 景虎と義経が睨み合う。お互いが力を読み合っている。既に二人の戦いは始まっていた。お互い共に本来得意としている戦い方は戦場を主戦場とした戦いだ。


 先陣を切る戦い方で、武道における稽古の型に(はま)らない。互いの手の内を探るため神経を張り巡らせていた。


 戦場での敵は兜や大鎧などを着用していることから、刀で狙う箇所は自然と防具の隙間となり、しかも一撃で殺す事ができる頸動脈がある首筋、神経が集中している脇下、動脈が通っている手首、大腿動脈が通っている太腿を狙った。


 さらに刀で相手の武器を防ぐことは極力避けていた。刃こぼれを恐れるからだ。刃こぼれは相手を一撃で殺す確率を下げる。


 相手の武器が自分に襲い掛かる前に仕留める。それが先陣を切る武将の戦い方であった。


 両者が横へ駆け始めた。お互いが距離を図っている。既に相手が刀を抜けば、真空の刃を飛ばすことを事前の探り合いで承知していた。


 両者は駆けながら刀を抜き、相手の急所目掛けて刀を突きだす。真空の刃がそれぞれの首筋や、脇下、太腿を狙う。


 義経は得意の八艘飛びでこれを避けた。壇ノ浦の戦いで見せた伝説的な戦い方だ。船から船へ身軽に飛び移って敵を切り裂いたことからその俊敏さが伺えた。


 対する景虎は飛んでくる真空の刃を読み切って瞬時に躱していた。

 この戦いを端から見れば青い光の線と赤黒い光の線が何本も飛び交っているように見えた。常人の目には駆けている両者の姿を捉えることは出来ない。


 既に両者の戦いは、どちらかが距離を詰めない限り勝負は付かない状況であった。


 一方、弁慶と対決している乙女組はかなりの劣勢を強いられていた。ヘクセンメスター自ら作り出した赤玉の薬は思いの外強力だった。


 乙女組三人の連撃に対し、右手の金剛杖で防ぎ、左手に持った巨大な薙刀で素早く切り裂いてくる。


 金剛杖と薙刀の長物を武器とする弁慶に対し乙女組の主力は同じく長物である神槍グングニルの四月だ。


 四月がグングニルで牽制しつつ、三月と五月が切りかかるが、弁慶の薙刀が接近を許さない。


 三月が神鎌デスサイズで頭を狙い、四月が腹を狙って槍を突き出す。が、金剛杖と薙刀でこれを防ぐ。


 そこに五月が薙刀を持っている左手首を狙って懐に飛び込み聖剣デュランダルを振り上げた。


 しかしそれよりも早く三月のデスサイズを弾き返した金剛杖が五月を襲う。五月は上体を後ろに反らして辛くもこれを躱すと薙刀を持つ左手首を蹴り上げた。


 たまらず弁慶が薙刀を手離した。その隙を逃さず四月がグングニルを突き出す。しかし弁慶は素早く体を横に向けてグングニルの柄を掴むと力ずくで引っ張った。


 四月の手からグングニルが離れる。三月のデスサイズが弁慶の頭を狙う。が、これを再び金剛杖で弾き返す。


 弁慶の手から離れ宙に浮いた薙刀を五月が蹴って四月が受け取った。四月が直ぐに弁慶の薙刀で下から腹に向けて掬い上げた。


 弁慶はグングニルを手放すと四月が放った薙刀の柄を左手で掴む。さらに剛力で奪い取った。そして宙に浮いたグングニルを四月が再び手にした。


 これらの攻防を若干後方に下がった出雲姫が心を繋げて感じている。

 弁慶は「技があっても所詮はおなご! この剛力無双に勝てるはずがないわ!」と叫んで金剛杖と薙刀を振り回す。


 ここが頃合いと見て取った出雲姫が三人に指令を出した。三人が弁慶を中心として一旦下がる。清三郎が教えた訓練通り呼吸を合わせる。


 すると力が増幅した三人が赤い闘気に覆われた。そして三人がそれぞれ分身し、三月、四月、五月がそれぞれ二人になった。


 一瞬、弁慶が驚いたが直ぐに気を取り直した。

「分身したところで所詮片方が影。そのような術に惑わされる剛力無双ではないわ!」


 叫んで薙刀を前方に立っていた四月の腹に向けて横から払い上げた。

 するとどうだ。薙刀をグングニルで受け止めた四月とは別の四月がグングニルで鋭い突きを繰り出した。


 弁慶は驚いて金剛杖でこれを躱すが、二人の三月と二人の五月が既に弁慶の頭上に迫っていた。弁慶は堪らず後方に飛んで避けるがこれを読んでいた片方の三月と五月が弁慶を挟み込み、三月は左からデスサイズを、五月は右からデュランダルを振るった。


 弁慶は金剛杖と薙刀で防御を試みるが僅かに遅れた。三月のデスサイズが弁慶の左上腕を、五月のデュランダルが右太腿を切り裂いた。


 だが致命傷にはなっていない。弁慶はさらに後方に飛んで退いた。が、既にそこには二人の四月が先回りしていた。


 弁慶は乙女組の動きに驚きを隠せない。分身したとしても片方はあくまで目くらましだと思っていたからだ。


 しかし実際には片方の分身も実体として存在しており、双方が異なった動きで攻撃を仕掛けてくる。


 実はこの技、清三郎が乙女組に昨夜と今日の日中に訓練させていたものだった。


 特に出雲姫に対して厳しく指導していたが、それは分身した片方の実体を出雲姫が操る役を担っていたからだった。


 本体である乙女組は自由に攻撃し、分身の三体を出雲姫が操って攻撃していたのだ。


 さらに出雲姫の力の増幅によって速度と力が増した乙女組である。こうなってはさすがの弁慶も成す術がなかった。


 三月と五月による凄まじい攻撃を何とか躱して後方に飛んだが、これを待ち受けていた二人の四月が弁慶の背後から強烈な突きを放った。


 弁慶をその場に釘付けにしようと三月と五月が弁慶の眼前に迫る。三月と五月が自慢の武器を振り上げる。


 しかし、これを振り下ろす必要はなかった。四月のグングニルが弁慶の背中を見事に突き差し、二本の鉾先が弁慶の両胸から飛び出したからであった。


 二人の四月がグングニルを弁慶の体から引き抜いた。両胸にぽっかりと二つの穴が空いていた。


 弁慶は激しい痛みで苦しい表情だ。体は痙攣を起こし始めた。しかしそれでも膝を付くことはなかった。


 乙女組が分身を解く。弁慶は身体強化の効果も切れたのか、これまで発していた赤黒い闘気も消えて無くなり、空いた両胸の傷が塞がった。そして、


「某の負けで御座る。生涯で最高の決闘でござった。礼を申す……」

と言って片手で合掌した。


 乙女組は完全に武装を解いた。弁慶が霊体に戻ったと出雲姫が認め、心で三人に伝えたからだ。


「後は某の主が勝つか、そなたらの主が勝つか。ここで見物といたそう」

 乙女組が頷くと、弁慶と一緒に清三郎の戦いを見守った。


 景虎と義経は距離を開けて真空の刃を撃ち合っているところだった。青い光と赤黒い光の筋が飛び交っていた。


 八艘飛びを繰り返していた義経が急に動きを止めた。愛刀薄緑を鞘に納めると何やら呟いた。すると義経が分身し、八人の義経がたちまち景虎を囲んだ。


「出羽神!」

 景虎が叫ぶと青く光った出羽神が景虎の背に止まった。すると出羽神の体が景虎の背中に溶け込んでいく。景虎の青い闘気が急激に増した。


 八人の義経は景虎の変化に臆することなくゆっくりと距離を詰める。目を瞑っていた景虎が素早く謙信景光を引き抜くと振り向き様に後方の一人に投げつけた。


 これに本物であった義経が薄緑を引き抜き、顔面に突き刺さる直前で謙信景光を弾き返した。宙を舞う謙信景光が景虎の元に返ってくる。これを手に取った景虎が流れるような動きで鞘に納める。


 景虎には見えていた。義経が何体に分身しようとも、その霊気は一体。霊体そのままの義経であれば見えなかった。


 だがヘクセンメスターが乗り移った義経であったが故にその霊気を感じ取ったのだった。


「次の立ち合いで勝負を付ける。覚悟なされよ」

 景虎が重々しく囁いた。


 義経がゆっくりと薄緑を正眼に構える。

 その刹那、景虎の青い闘気の背後から大きな羽が現れた。義経が目を見張ると既に景虎は直近に迫り、鶴姫一文字を一閃させた。


 これを渾身の闘気で弾き返す義経。しかし義経の眼前に景虎が立っていた。義経が下を見た。自分の腹に謙信景光が刺さっていた。


 義経が片膝を落とす。景虎は間髪入れずに飛び下がると着地したその足で斜め前の桜の木に跳躍する。


 そして木の幹を蹴り上げさらに跳躍して義経を眼下に捉えた。景虎の青い翼が大きく羽ばたく。


虎技(こぎ)! 大熊殺し!」

 景虎の鶴姫一文字が片膝を付いた義経を強襲した。すると義経の頭上に漆黒の結界が張られた。


「これを待っていたあ! 貴様の最後の技、これを待っていたあ! 勝ったわあ!」


 その声はヘクセンメスター・アールドリックの声だった。景虎の最後の決め技を読み、義経ではなく、ヘクセンメスター自らが大熊殺しを止める結界を張ったのだ。


 すかさず義経が景虎に薄緑を突き出す。が、景虎の鶴姫一文字は漆黒の結界を見事に切り裂き、義経が薄緑を突き出していた右腕を切り落とした。


 ふわりと着地した景虎はゆっくりと鶴姫一文字を鞘に納める。大きく呼吸した。


「ヘクセンメスター、しくじりましたな……。義経殿自らの剣ならばこの大熊殺しを防いでいたやも知れませぬ。


しかしあなたごときの結界でこの技が防げると思ったのですか……お主の負けでございます」


 景虎が囁くと義経の身体強化が解け始めた。赤黒い闘気が消えていく。それと同時に義経の腕が再生した。義経が霊体となったのだ。


「変化して景虎と申したか。邪悪な力で蘇ることに迷いがあった事は確か。しかし今は清々しい気持ちで御座る。生涯最高の勝負でござった。弁慶も待っておる様子。では……」


 霊体となった義経が頭を下げた。

 負けを悟ったヘクセンメスターは義経の体から抜け出すと闇に消えようとした。しかしその闇の前には既に三月が神鎌デスサイズを構えて待ち受けていた。


「貴様ごとき、清三郎様の愛刀を汚す訳にはいかぬ。変わって景虎乙女組主席、この三月が成敗致す!」


 三月が語り終える前にデスサイズが一閃した。ヘクセンメスターの首に赤い線が浮かぶ。三月は直ぐに飛びのくとデスサイズを前後左右に数回振り回し柄の先を力強く地に打ち付けた。


 するとヘクセンメスターの首が体から転げ落ちた。首から血柱が吹き上がり宙を朱で染めた。


「さすが三月。仕事に抜かりはありませんね。しかしよくもまああの弁慶殿を倒したものです。この清三郎、いや景虎が褒めて遣わしましょう」


 景虎の傍に乙女組が走り寄って来た。出羽神も景虎の肩に乗っていた。

 乙女組は景虎に褒められて有頂天だ。


「さあ、お二方をお見送り致しましょうか」

 景虎の前方に二人の霊体が背を向けて歩いていた。その先は光り輝いている。無論、源義経と武蔵坊弁慶である。景虎がその背に向かって頭を下げる。乙女組も頭を下げた。


 すると義経と弁慶が振り向いて頭だけを下げてくれた。そして光の中に消えて行った。


 景虎が囁く。

「三月、面を取ります。おそらく全身に罅が入って重症と思われます。一応、修行してこの恐怖から逃れる術を得ておりますが、そ、それはそれ……。


もうこれ以上強くなる必要もないでしょう。面を取ったら直ぐに乙女組全員の治癒術で痛みを取ってくれますか。切にお願いします」


「この先何があるか分かりません。清三郎様にはもっともっと強くなってもらわないと。どうですか」


 三月が他の乙女に確認する。皆が大きく頷いている。

「いや、あなた達……修行はしたのですが……それはそれとして……ですね……嫌なものは嫌で……もう持ちません……」


 景虎は面を取った。すると清三郎に戻り三月の腕の中に倒れこんだ。

 その後、気が付くと周囲は華やかで賑やかな吉原の大通りとなっていた。


 三月が全てを見ていた桜太夫に確認する。

「太夫様、戦いの一部始終を見ておられましたか」


「こ、この世の物とは思えぬ戦いでありました……。清三郎様……あの世も切り裂くお方であったとは……」

「太夫様、吉原の慣わしでお願いいたします」


 三月が人差し指を立てて口に当てると乙女組全員が人差し指を口に当てた。出雲姫は尻尾を口元に当てていた。


 桜太夫は頷いた。すると乙女組と抱えていた清三郎の姿が消えた。そして何と出羽神も姿を消した。景虎から授かった新たな霊力で姿を消すことを覚えたのだ。


 桜太夫は腰が抜けてしばらくそこから動けなかった。


     ※


 ヘクセンメスター・アールドリックとの戦いの後、清三郎は乙女組によって上杉中屋敷に運ばれた。


 清三郎の帰りを門前で待っていた清十郎とせつに三月が「清三郎様、見事勝利を収められました。ただし、景虎に変化されたので、何時ものとおりこの有様でございます。治癒術を施しますので母上様、清三郎様の床をお願いいたします」と頭を下げた。


 横になった清三郎は高熱を出し全身に汗をかいていた。乙女組が手を掲げて治癒術を施した。


 清十郎が、「清三は今、死の淵を彷徨っているのであろうが修行でこの恐怖を克服したはず。峠を越す程度の治癒を望んでおろう。清三を楽にしてやりたい皆の気持ちは痛いほど分かる……。しかし、ほどほどに頼む。それが清三の願いであろう……清三、漢になったのう……」


 せつも心配そうに清三郎の顔を覗き込んでいるがこの状況には既に慣れていた。生きて帰ってくれさえすれば後は安心と承知していた。


 三月は清十郎の正論に清三郎が面を外す前の言葉を言い出せなかった。本当は清三郎の体が全快するまで治癒術を使いたかったがどうしたものかと他の乙女組の顔を見た。


 そこに出雲姫が心で皆に声を掛けた。

「清三郎様の命令に従うのが道理でございましょう。しかし御父上様の言葉も正に道理。ここは御父上様のご指示に従うとともに、清三郎様の弱気な意見も組み入れ、清三郎様には通常五日の死の淵を三日彷徨ってもらうとする案でいかがでしょうか。それであれば清三郎様のお力もこれまで以上となるは確実」


 乙女組全員が頷いた。

 それから五日が過ぎた。


 全快した清三郎は複雑な気持ちだった。乙女組に即時の全快を要求したが、三日も死の淵を彷徨わされたからだ。しかし乙女から清十郎の言葉を聞き、「致し方なし……」と肩を落としたのだった。


 その日の夕餉の席。

「明日の夜明け前にある場所に全員で向かいます。母上、今日の内に握り飯を人数分用意しておいて下され」


と清三郎が語った。既に清十郎の務めも一段落着いたところだった。清十郎や乙女組が何処に行くのか興味津々で聞いてきたが清三郎は何も言わずに床に入った。


 翌朝、周囲は月明かりも無く真っ暗な状態であった。出雲姫の背に清十郎、せつ、清三郎が乗ると「とにかく東に向かって飛んで下さい」と清三郎が命じた。


 力が増していた乙女組らの速度は非常に早く、清十郎とせつは出雲姫の首に抱き着いていた。


 清三郎は目を瞑って出雲姫にそのまま真っすぐとか僅かに右へなどと誘導し、それに乙女三人と出羽神が追従した。


 やがて「おお! 到着しました。ここでは高すぎます。出雲姫、少し下へ。ここ、ここで結構です。皆さん、そろそろ日の出ですぞ。それに備えて母上が準備してくれた握り飯を食べようではありませんか」


 清三郎が言うとおり、皆が握り飯を頬張った。

 清三郎は握り飯を腹に詰め込むと出雲姫から飛び降りた。


 清十郎とせつは食べた握り飯を拭きだすほど驚いた。

 下方から清三郎が叫ぶ。


「皆さん、東から日が昇りますぞ!」

 全員が一斉に東の空を見た。


 赤く輝く太陽が遠くの空に僅かに覗いた。

 日が昇るに従って朝焼けが周囲を浮き出させた。


 眼前には奥羽山脈が広がり、山々の合間に赤く染まった雲が華を添えていた。やがて真っ赤に染まった太平洋が広がった。下から清三郎の叫び声が聞こえる。


「左に見えるのが蝦夷地でございます!」

 皆が左に頭を向けると蝦夷地と海との境がはっきりと見て取れた。素晴らしい展望だった。


 清十郎とせつは思いも寄らなかった光景に両手を合わせた。

「この世の物とは思えぬご来光じゃ」


 清十郎が呟いた。せつも頷く。

 日が昇り切り、黄色く輝きだすと清三郎が叫んだ。


「出雲姫、下へ降りてきてくだされ」

 出雲姫がゆっくりと下降した。乙女の三人もそれに続く。


 そこは鳥海山の山頂だった。頂上付近の樹海にぽっかりと穴が空いていた。木の天辺の一本だけ残された枝に清三郎が出羽神を肩に乗せて立っていた。


 そこは清三郎が己の剣を得た修行の場であった。枝が切り落とされた七本の木の高さと、天辺に残された一本の枝が修行の過酷さを物語っていた。


「清三郎様はここで修行なされたのですね……。あのような高さの木の枝に立たれて笑っておられますよ」


 三月が呟いた。

 清三郎が太陽に向かって叫ぶ。


「橘家にはこのご来光のような幸せが待っておりますぞ!」

 清十郎がせつの肩に手を回した。せつが清十郎に頭を寄せる。


 それを見た乙女組が清三郎めがけて飛んで行く。

 出羽神が巻き添えは勘弁と清三郎の肩から飛び立った。


 出羽神の両翼が太陽の光に照らされて、黄金色に輝いていた。

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