第4話 帰還
五月中旬、清三郎は奥州街道を江戸に向け歩いていた。既に日が暮れていたがまもなく粕壁宿(埼玉県春日部市)だ。
今宵宿泊すれば明日の夕方までには江戸に到着できる算段だ。出羽神は肩に乗せて歩くと目立つので、街道からかなり外れた山向こうの空を飛ばせていた。人目に触れさせないためだ。
出羽神は非常に珍しい大鷲だったので、人目に付いて噂が広まり、動物付きの将軍綱吉の耳に入れば大変だ。直ぐに「献上せよ。言い値でよい」となるのは分かっていた。
奥州街道での出羽神との交信は指笛で合図する方法を取っていた。特に街道沿いの宿場町で宿を取るときは、出羽神との交信が重要だった。
指笛を一度吹くと「その夜はこの宿場町に泊まる」という合図で、二度吹くと、「今から晩飯を食べる。出羽神の餌も用意する」という合図だ。
そして三度指笛を吹くと「宿と部屋を決めたから傍に来い」という合図であった。
そして用事や緊急事態が発生すれば指笛を一度、長めに吹くことで直ぐに清三郎の元へ来る合図と決めていた。
宿場町の宿屋では必ず二階の部屋を用意してもらった。夜に出羽神が部屋に入りやすいためだ。
既に指笛を一度吹いている。
出羽神は清三郎が入った宿場町で宿を取ることを知った。宿場町近くの木に降りて待機する。
清三郎が「めし屋」と看板が掲げられた店に入って、そばと握り飯、それと大きめの干し肉を頼んだ。
干し肉は出羽神の餌だ。
清三郎がめし屋や宿屋に入ると必ず応対した主や仲居が驚いた。それは清三郎の身なりだった。
髪は結うことなくぼうぼうの伸び放題。髭も伸び顔は日に焼けて真っ黒だった。着ている着物は匂いこそしないものの汚れがあちこち残っていた。
主が店の奥から鳥のモモ肉の干したものを取ってきて「干し肉はこれでいいか」と聞いてきた。清三郎は「ではそれと同じものを三つ頼みます。ありますか」と言って主に多めの食事代を渡す。
主が「もちろん用意できます」と急に態度を変える。清三郎は一旦外に出て指笛を二度吹いた。これで出羽神は自分の餌も清三郎が確保してくれたことを知る。
清三郎が食事を終えると次は宿探しだ。大抵どんな宿も二階に部屋があるので困ることはなかった。
清三郎が、「今日が最後の宿。ちょっと高めの宿にしましょうか。今日は出羽神の餌も豪華ですしね」と呟いてひと際大きな宿を潜った。
二階部屋も沢山あった。部屋に案内されると早速窓を開いて指笛を三度吹く。「ヒュイ、ヒュイ、ヒュイ」すると直ぐに出羽神が飛んできた。
清三郎の懐に飛び込み甘えまくる。清三郎も思い切り腹を擦って可愛がる。
「出羽神、今日は特別よい餌が手に入りましたぞ」と言って先ほど買った干し肉三つを置いてやった。
修行中は餌をやると喜んで「クワー」と鳴いて喜んでいたが、宿では一切鳴かないよう命令していた。
「出羽神、拙者風呂に入ってくるので干し肉を食べておられよ」
出羽神が大きな両翼を広げた。「分かった」との合図だ。
風呂から上がると、仲居に「湯を入れた桶と手拭いを貸してもらえますか」と頼んだ。
多少多めに心付けを渡してやると手拭いを五本用意してくれた。その上で「湯を変えたい時は一声かけて下さいませ」とも言ってくれた。
どうやら良い宿を選んだようだ。部屋に戻ると出羽神はくちばしで毛繕いをしていた。
「あれ、これは出羽神、まだ干し肉を一つしか食べてなかったのですか。
今から体を綺麗に拭いてやろうと思いましたが、先に食べなされ」
すると出羽神が両翼を広げばさばさした。「ふむ。腹よりも体を綺麗にするほうが先ですか。
よほど手拭いで汚れを拭き取るのが気に入ったのですね。では先に体を拭きましょうか」
清三郎がそう言うと、湯に浸して絞った手拭いで出羽神の体を拭いてやる。
出羽神も慣れたもので体を拭き終えると片翼を自分で広げた。「本当に出羽神はお利口ですなあ。こうやって体を綺麗にすると出羽神は見違えるように輝きますからね。
しかも明日は里帰りです」そう言いながら清三郎が綺麗にしてやる。
出羽神を綺麗にするのが楽しくて仕方ないのだ。
結局汚れた湯を三回変えてもらい、出羽神の両翼が一段と輝いた。
「さあ、残った干し肉を食べなされ。今日は早めに寝て明日は日の出前に出立ですぞ」出羽神が両翼を広げた。
その時だ。清三郎は異変を察知した。意識を集中し周囲の霊力に身を投じる。別の宿屋の主人と女房が騒いでいるようだ。
清三郎が「出羽神、ぐっすりと寝たいところですが、どうやら子供が居なくなったようです。子細を聞いてくるのでここで待ちなさい。出羽神の出番があれば直ぐに呼びます」
そう告げると寝巻姿のまま階段を駆け下りていった。
騒いでいる宿屋へ飛び込んだ。主人と女房は子供を探して留守だったので仲居に確認した。
「四半時前からここのお嬢さんがいなくなったのです。井戸水を汲みに行ったきり戻らなかったそうで。それでご主人も大慌てで。
江戸の大名屋敷への奉公が決まっていた娘さんで美人の卵とこの宿場町では評判の子でした」
「なるほど。よく分かりました」直ぐに清三郎は誘拐を疑った。
そして連れて逃げるなら江戸方向と踏み、粕壁宿を江戸方向に走り抜ける。町を抜けると意識を集中する。周囲の霊力の動きを感じ取る。
不審な動きをする者が東に走っている。どうやら子供を担いでいる。こやつが下手人のようだ。清三郎が指笛を鳴らす。
「ヒュー」しばらく吹き続けると東に全力で走った。すると直ぐに後ろで出羽神の羽ばたく音が聞こえた。走りながら出羽神に命令する。
「この先に子供を抱えて走っている男がいます。それを足止めしてくだされ」出羽神は二、三回大きく羽ばたくと猛烈な速度で闇に消えた。
清三郎がしばらく走り続けると、「こら、痛い、やめろ、痛っ」と叫んでいる男を発見した。出羽神が足の爪で頭を引搔いているようだ。
下手人はこの闇夜で何が自分を襲っているのか分からないだろう。その傍に子供が座って泣いている。清三郎は子供に駆け寄ると直ぐに状態を確認した。
大した怪我もなく無事のようだ。女の子であることから宿屋の娘に間違いないだろう。
清三郎が優しく声を掛けた。
「もう大丈夫。もう大丈夫。一緒に父上と母上の元に帰りますぞ」言いながら少女の背中を撫でてやる。多少落ち着いたのか泣き止んだ。
そして清三郎が怒りに震えた。「出羽神、その男の両肩を掴んで空中へ」すると出羽神は羽ばたきながら男の両肩を足で掴み、見る見る空中へ浮上した。
男は自分が置かれている状況に気付いていないようだ。清三郎が声を掛けてやる。
「お主、名前は。言わないとそこから落ちて死にますぞ」
「けっ。そんな脅しに誰が乗るか」
声の感じから清三郎とほぼ同じ年頃のようだ。
「出羽神、片足を外しなさい」出羽神は直ぐに掴んでいた肩の片方を外した。男は落下する恐怖が二倍、いや三倍になった。
「落とさないでくれ! 頼む。俺は『糸切れの大吉』ってもんだ。頼む。落とさないで。ひぃ」
「そこから落ちれば首の骨が折れ、確実に死にます。どうしてこの子を攫ったか言いなさい」
出羽神も心得たもので、上手に羽ばたいて上に浮くとすっと落下して恐怖心を煽る。
「宿屋の娘を攫ったら一両貰える約束で!
名前は知らんが、本当に知らんのですが、ここから東の江戸川に小舟で待機している男です。嘘じゃありません!」
「よし。出羽神ゆっくり下ろしなされ」
出羽神が「糸切れの大吉」を地に下した。
すると清三郎が「よいか糸切れの大吉。二度とこのような悪さをするな。また悪事を働けば必ずこの大鷲がお前を空高く吊り上げる。この声をよく覚えよ」
すると出羽神が「クワー」と鳴いた。「よいか、悪事を働けばこの声が必ず聞こえる。この大鷲がお前をずっと付け狙う。
よいな。そしてここで起こった事は他言無用。そなたを役人にも引き渡さぬ。分かったか。他言無用ぞ。そして二度と悪事を働くな。大鷲が見ておるぞ」
糸切れの大吉は何度も頷いた。「では行け」糸切れの大吉は「ひい」と一声あげると走って逃げた。
「出羽神、拙者はこの子を親の元に届けます。そなたは東の江戸川で待つ小舟の男を見つけてくれますか。もし小舟の男がいれば少々の時間はその場で待つでしょう。
もし動くようなら先ほどと同じように頭を引掻いて拙者が到着するまで時間稼ぎをお願いします」出羽神は「クワー」と鳴くと東の闇に消えていった。
「さあ、ご両親の元に帰りましょう。私も急いでいるので抱きかかえて走りますぞ。それ」
清三郎が少女を抱きかかえて走り出した。
猛烈な速さだ。先ほどまで泣いていた少女はいつの間にか笑っていた。風を切り裂く清三郎の速さが楽しくて仕方ないようだ。
その間、清三郎は「美人の卵」と評判の少女に「霊力の守り」を少々与えた。この霊力は外敵から身を隠す結界のようなもので、悪意の心を持った輩には少女の本質が見えない霊力だった。
これで再度この少女が狙われることはないだろう。
宿場町に着いても清三郎は息一つ乱れていない。少女を下ろすと手を繋いで宿屋に向かった。
どうやら町中の者が探していたようで、直ぐに声を掛けられた。両親も飛んでやって来た。
声を掛けて来た男はどうやら清三郎を訝しんでいるようだ。
「拙者はあそこの宿屋に泊まっている客でございます。人さらいと睨んで江戸の方を探していたところ、この子を攫った男を見つけたのです。
この子は無事助けられましたが、下手人には逃げられました。今後も気を付けられたほうがよろしいでしょうね。
私はもう一度、下手人を探してきますのでこれで。直ぐに宿屋に戻って寝ますのでお気遣いは無用で」
清三郎は声を掛けた男と両親にそう告げるとたちまち江戸方面に走り去った。
両親が少女を抱きかかえて涙すると少女が「大きな鳥さんとあのお兄ちゃんに助けてもらったの。あのお兄ちゃん、とっても足が速いのよ」と話した。
子供が帰って来たことで町中大賑わいになった。両親は清三郎に礼を言う暇もなかったがこの町の宿屋に泊まっていると言っていた。
帰ってきてから礼をと考えた。そういえば恩人の若者は寝間着姿だった。
清三郎が泊まっている宿屋の主が出てくると「あの若者はうちの宿屋のお客でのう。
帰られたら盛大に酒盛りといこうではないか」と提案した。少女の両親は「早く戻られませんかね。たっぷりとお礼をしなければ」と賛成した。
周囲の者も大賛成だった。どうやら清三郎は帰ってきてもゆっくり寝る暇はなさそうだ。もちろん出羽神の居場所もしばらくは外の木の枝になるだろう。
清三郎が東の江戸川へ疾駆した。すると出羽神が飛んできた。どうやら小舟の男を見つけたようだ。清三郎は走るのをやめ歩きだした。
「さすが出羽神。でかしましたぞ」と小声で褒めた。
肩に出羽神を乗せ、腰を屈めて川に近づくと小舟に座っている男がいた。
清三郎が出羽神に作戦を告げる。
「よいですか。先ほどの男の時と同じように男の両肩を掴んで空中へ。そして拙者の方へ連れてきてください」
出羽神は両翼を広げると、そのまますっと飛び去った。羽ばたく音を立てずに飛び去るところが憎いほど素晴らしかった。
清三郎が屈んでいると、川の方から「ん? 何だ? ひぃ! お助けを……お助けを……」という声が聞こえた。
立ち上がると出羽神が既に男を空中に吊り上げていた。ゆっくりとこちらへ向かって来る。
清三郎が叫ぶ「お主、そこで攫った少女を待っておったな。
そこから落ちれば首が折れて死ぬであろう。まずは名前を聞こう」
「くそ、そんな脅しに誰が乗るか!」
同じ輩は同じ言葉を言うのが慣わしのようだ。声の感じから中年男だ。
「出羽神、片足を外しなさい」出羽神は直ぐに掴んでいた肩の片方を外した。
男は落下する恐怖が二倍、いや三倍になった。
「ひい! 頼む! 落とさないで……待っていた。そのとおり待っていた。
名前は『禿鷹の丈太』だ。お願いだ。落とさないで!」
出羽神は先ほどと同じように上に浮いてはすっと落下を繰り返している。本当に芸達者だ。
「よし。ならば答えよ。誰に頼まれ、少女を小舟に乗せて何処に連れていく予定だったのか」
「ひぃ! 落とさないで。誰かは知らん。
本当に名前は知らん。少女を連れて来た男に一両渡し、川を下って南の品川湊まで連れていく段取りでさあ。ひい。許して!」
「誰が品川湊で待っておる」
「ひぃ! 言いますから落とさないで……。な、名前は知らん。
本当です。ただ腕の立つ槍使いで大槍を持った男と聞いています! 私も一両もらえる約束です……ひい!」
「嘘偽りはないか。あれば直ぐに落とすぞ」
「ひぃ! ありません。もう話すことは本当にありません。どうかお助けを……」
「よし。出羽神、ゆっくりと下ろしなされ」
出羽神が「禿鷹の丈太」を地に下した。よほど恐ろしかったようで体が震えている。
清三郎が近づいて腰を落とした。「禿鷹の丈太、もう一度問う。この仕事、何処で誰に頼まれたか。はっきりと申して見なされ」
「は、はいっ! あっしは元々この江戸川の漁師でして、漁を終えて岸に戻ると立派な着物のお侍さんから声をかけられ、この仕事を頼まれたのです。
これっきりの仕事で一両も貰えるとくれば断る道理はありゃしませんて」
「その侍はお主に何と言って頼んだか。一言一句漏らさず話してみよ」
「へ、へえ。簡単な仕事で一両の仕事があるがどうか。と聞いてきました。簡単な仕事で一両の仕事とくれば、誰でも臭い仕事と分かりやす。
しかし一両はあっしら貧乏漁師にゃあ魅力です。詳しく話を聞きたいと言うと、聞いたからにはやってもらうぞと半分脅しのように言われました。
そ、それで聞いたのです。すると三日程度、この刻限頃に小舟で待てと。その三日の内に若い男が少女を連れ来るのでそれを受け取り、小舟で品川湊に連れてこいと。
待っているのは槍の達人で大槍が目印と言うたのです。今日はその三日の内の二日目でした」
清三郎は考えた。
「三日程度待て……。とすると糸切れの大吉は三日以内に少女を攫う段取りだった……という事か……なるほど」
そして清三郎は思案した。今度はこの男の話にではない。この男の今後についてだ。先ほどの糸切れの大吉は小舟までの仕事で、それほど重要な話は知らなかった。
だがこの禿鷹の丈太は話が違う。少女を品川湊の大槍を持った者に渡すという重要な証拠を握っているのだ。清三郎がここで許してやっても直ぐに消される可能性が高い。
それを思案してやっているのだ。
「ふむ。お主、若い男に渡す一両を持っておるな」
「へえ。あれでしたら差し上げますが……」
「いや、そうではない。拙者はお主の話を大方聞いたので許そうと思うておるが、うーん」
「ど、どうされたのでございますか」
「お主は少女を品川湊に連れていき、大槍の男に受け渡すという役回りであった。これが失敗したのだ。
お主生きておれると思うか。重要な証拠を知っているお主に仕事を頼んだ侍が生かしておくと思うか」
「た、確かに……。あ、あっしは、こ、殺されるのですか!」
清三郎はこれまでの会話でこの漁師が本当の悪党でないことが分かった。一両に目が眩んだ貧しい漁師だったのだ。
つい同情してしまった。いつの間にか言葉遣いがいつもどおりに戻った。
「その可能性が高いです。確認しますが、今の漁師の仕事を続けるのと、懐にある一両でどこか遠くに行き違った人生を送るのと、どちらが良いですか」
「そりゃあもう、直ぐにでも高飛びしてどこかの町で新しい仕事を探すに決まっております」
「そうですか。ならば直ぐに出立されよ。
自宅に戻って旅支度をすれば、その侍がお主の家に行くと旅支度の痕跡に気付き、直ぐに逃げたと思うでしょう。
多少なりとも逃げる時間を稼ぐため、一両あるのです。今直ぐに出立されるがよかろう。無事を祈っておりますぞ」
「あ、あなた様は一体……。よく見ると寝間着姿……」
「余計な詮索は命取りの元ですぞ。今回のことでよく分かったはず。今後は目先の欲に騙されず、慎ましく生活なされよ。さあ、もう行きなされ」
「へ、へい。では。ありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
禿鷹の丈太は清三郎に礼を言うと走り去った。確かに後ろ頭が禿げていたがそれと名前が関係あるかは定かではない。
「さあ出羽神、帰りましょうか。ところで出羽神、今日はとても良い働きでした。素晴らしい活躍。疲れたでしょうから拙者の肩に乗りなさい」出羽神は清三郎の言うとおり肩に乗った。
清三郎が走り出す。「出羽神。どうです。楽ですか」すると「クワー」と喜んだ。「出羽神ほどの速度はないですが、悪くはないでしょう」
宿場町が近づくと出羽神は自分から飛び去った。清三郎が町に入ると少女の両親と泊まっている宿屋の主、その他町の衆が沢山出迎えた。
まずは少女の両親が清三郎の手を握る。「ありがとうございました。本当にありがとうございました。何と言ってお礼を申せばいいのやら。
言葉が見つかりません。本当にありがとうございました」と涙目だった。なぜか宿泊先の主が「この恩人殿は儂の宿に泊まっておられるお客様ですぞ」と自慢している。
清三郎は話が大きくなりそうだったので「恩人などと。今まで下手人を探しましたが、とうとう取り逃がした始末。
捕まえれば尚よかったのですが。申し訳ございません」と逆に謝り直ぐに部屋に戻って寝ようとした。
すると宿泊先の主が「お待ちなされ! 何と謙虚な!
身なりは別として、この時代に珍しい御仁。ささ、料理と酒を用意しております。どうぞ宿へ」と勧めて来た。
清三郎にとって一番嫌な展開だ。明日は日の出前に出立の予定なのだ。
「いえ、それには及びません。拙者、明日は日の出前に出立する予定でして……ははは」
すると少女の両親が「時間は取りません。僅かですがお礼をさせてくださいませ」と頭を下げた。
こうなると断ることはできない。早く切り上げる方向でいくしかない。
自分の部屋に戻ると豪華な料理が用意してあり、一緒に来た少女の両親とは別に全く関係のない町の者が数人待っていた。どうやら酒盛りにあやかりたい者達のようだ。
部屋の片隅に干した鳥のモモ肉が二つ転がっていた。骨が一本、寂し気に残っている。出羽神のひもじい思いが伝わってきた。「さて出羽神の腹をどうするか……」
膳の前に胡坐をかくと、早速少女の両親が酒を勧めて来た。「あなた様はどちらの方でございますか。お名前は……」
清三郎は心で(う。やはりそう来ますよね……。正直に話すか。それとも嘘の名前で誤魔化すか。いや、これだけの礼を受けた以上、ここは正直に話すのが筋でしょう)と決断した。
「は、はあ、江戸に住む橘清三郎と申します」
すると清三郎が宿泊している宿屋の主が反応した。
「橘……橘清三郎……。聞き覚えがありますぞ……。うーん。江戸の橘、橘……。あ、ま、まさか上杉家のただ飯喰らい様ではありますまいな!」
すると少女の両親も他の者も皆一斉に驚いた。どうやら清三郎の噂はこの宿場町まで轟いていたようだ。清三郎はがっくりだ。
「よ、よくご存じで……。はあ……」
清三郎は肩を落とした。しかし皆が顔を合わせながら清三郎の噂話を確認し合っている。
清三郎を見ていない。清三郎はこの期を逃さず部屋の隅に置いてあった干し肉を素早く懐に入れる。「ちと厠へ……」といって部屋を出た。
清三郎が厠の隙間から顔を出し、「ヒュイ、ヒュイ、ヒュイ」と指笛を吹いた。すると出羽神が直ぐに飛んできた。
清三郎は干し肉二つを出羽神に掴ませると「ひもじい思いをさせましたな。申し訳ない。もう少し辛抱してくだされ」と小声で伝えた。出羽神は目を輝かせると飛び去った。
清三郎が部屋に戻ると先ほど以上に盛り上がっていた。「上杉江戸家老の御曹司が粕壁宿に宿泊されるとは、吉報の知らせに違いない」
とか「やはり噂は噂。ただ飯喰らいとは大嘘でありましたな」などと話して盛り上がっている。これでは寝るのは明け方になりそうだ。
あちこちから酌を受けていた清三郎に絶好の発想が生じた。霊力で出羽神の状態を伺ってみる。この宿の屋根で干し肉を食っている。もう少しで食べ終わりそうだ。
「して橘様、どうやら旅をされていたご様子。もしよろしければ珍しい話などお聞かせいただければ幸いでございます」宿の主が面倒なことを言い出した。
「はあ、ちょっと用向きがありまして……大した話もございません……」酌を受けながら答えてやる。
「しかし、さすが上杉家ゆかりの御曹司!
攫われた子供を直ぐに助けてくれたのですからな。いやあ、私はあのような無粋な噂は信じておりませんでしたぞ! わっはっはっは」
ここの宿屋の主はとんだお調子者のようだ。清三郎が出羽神に集中すると食事が終わっていた。
「あの、実は拙者、急用を思い出しました。直ぐに出立いたします。これほどの礼を受けながら大変申し訳ありませんが、これにて失礼いたします。では」
清三郎は捲し立てると宿屋の主の懐に礼を受けた食事代と酒代を押し込み、部屋を出た。もてなしていた面々は眼が点になっていた。
階段を駆け下り表に出ると、察した出羽神が後から着いてくる。
清三郎が走りながら「出羽神、埒が明かぬので出立することに致しました。
このまま江戸に戻りましょう」と叫んだ。出羽神も賛成したのか「クワー」と鳴いて着いてきた。
清三郎はしばらく走っていたが、やがて歩き出し、そして立ち止まった。
清三郎は下を向いている。というよりはがっくりしている様子だ。出羽神が清三郎の肩に乗る。
「出羽神、私は大きな勘違いをしたようです。
とんだ大馬鹿者です。なぜあの時気付かなかったのでしょう……。しかしやってしまった事を今悔いても仕方ありません。この先の事を考えましょう」
出羽神は清三郎の顔を覗くと首を傾げた。
今、清三郎は己がいかに傲慢でかつ甘い人間であるのかを痛感していた。
自分が描いた先入観が間違いないと信じた結果、誘拐の下手人を取り逃がしてしまったからだ。
――己の剣を得たことで心に隙が生まれた。それが傲慢……。
清三郎はとぼとぼと歩いている。
「このような事を出羽神に愚痴っても致し方ないですが、吐き出さないとどうにも……前に進めません。聞いてくれますか。
少女を攫った実行犯『糸切れの大吉』は、誘拐について『これから少女を渡す小舟の男から頼まれた』と話しました。
これに反して小舟の男『禿鷹の丈太』は『侍から頼まれた。三日程度、この刻限頃に小舟で待てと。
その三日の内に若い男が少女を連れ来るのでそれを受け取り、小舟で品川湊に連れてこい』と話しています。
二人の話は完全に食い違っていた。糸切れの大吉の話を信用すると、誘拐を頼んだのは禿鷹の丈太ということになります。
そうなれば禿鷹の丈太から若い男に誘拐を頼んだという言葉が出るはずでした。
一方、禿鷹の丈太の話を信用すると、三日間小舟で待ち、若い男から少女を受け取り品川湊へ運べと頼んだのは侍となります。
これはどう考えても『少女を攫うのは若い男』ということを知っており、品川湊へ運ぶ役であった禿鷹の丈太が偽証したとしか思えません。
私は何と傲慢だったのでしょう。そのような事も見破れず、挙句に命の心配までしてやったのです。
『禿鷹の丈太』と名乗った男は大笑いしていることでしょう……しかも奴は誘拐の中心人物により近い存在ということです」
清三郎は立ち止まると星が瞬く夜の大空に向かって「おおー」と大声で叫んだ。驚いた出羽神が思わず飛び立った。
清三郎は「禿鷹の丈太……奴は只者ではない」と考えていた。身なり、風体は完全に漁師だった。という事は相当用心深い男。
そして心に潜む邪心を完全に消していた。少女の送り先が江戸の南、品川湊ということも嘘に違いない。
禿鷹の丈太を追跡するため糸切れの大吉から再度話を聞きたいが、それは叶わぬ話だろう。既に殺されている可能性もある。
出羽神が再び清三郎の肩に乗った。
「出羽神が拙者の愚痴を聞いてくれたおかげで、平常心が戻りました。さあ、我が家に向かって走りますぞ」
清三郎は己の失敗を忘れるが如く疾駆した。
江戸の真っ昼間に出羽神を飛ばすわけにはいかないことに気付いた清三郎は、江戸入り口の街道沿いで日が暮れるまで昼寝することにした。
深夜の事件もあってなかなか寝付けなかった。出羽神も山向こうの木に止まって休んでいるはずだ。
平常心に戻ったつもりだが、頭から「禿鷹の丈太」は離れなかった。それを考えると粕壁宿の少女が心配になった。
しかし再度少女を攫ったとしても、この街道を少女連れで歩くことは不可能だ。麻袋に入れて荷車に積んだとしても、昼にしても夜にしても人目に付き易い。
街道を避けるのが犯罪者の心理だ。そのため禿鷹の丈太は江戸川の小舟を利用した。誘拐に小舟を利用することを暴いたことから粕壁宿付近で小舟を使うことは二度とないだろう。
あの少女には霊力の守りも与えてある。再度標的になることは無い。
次に心配になったのは糸切れの大吉だ。奴は小舟の男から依頼を受けたと言っていた。
つまり禿鷹の丈太の顔を見ているのだ。禿鷹の丈太の用意周到さから考えて「依頼を失敗した」糸切れの大吉は殺される可能性が非常に高い。
そう考えると清三郎も禿鷹の丈太の顔をしっかりと見ていた。清三郎を追跡し殺しに来ることが推測された。
その辺の理由もあって街道隅で昼寝をしているのだが今のところ周囲に異常は感じない。おそらく出羽神を恐れているのだろう。
出羽神に掴まれたが最後、空高く舞い上げられることを奴は痛いほど知っている。
目を瞑って色々考えているといつの間にか日が暮れていた。
指笛を長く鳴らして出羽神を呼ぶ。
「出羽神、いよいよ我が家に里帰りですぞ。出羽神の家族がまっておりますぞ。自宅に着いたら合図する故、
それまで空から江戸の町を眺められよ。これまで見たことない大きな町ですぞ。と言っても夜で何も見えませんかな」
清三郎が指示を終えると出羽神は飛び立った。清三郎が我が家に向けて駆け出した。
亥の刻(午後9時頃)頃、清三郎は上杉中屋敷の門前に立った。門が開いた。まだ閂をしていなかったようだ。玄関前に立つ。気持ちが高揚した。そして大声で叫んだ。
「只今戻りました!」
夕餉が終わり、談笑していた家族の口が止まった。
清十郎とせつはもちろん、景虎乙女組ら全員の時が一瞬止まったかに思われた。
「清三郎、帰還!」五月が叫んだ。
皆が一斉に立ち上がり、玄関へ向かう。四月と五月が我先にと進むのを三月が制した。三月の瞳が「私たちの挨拶はご両親の後」と語っていた。
清十郎とせつが玄関に向かう。するとそこに立っていた。橘家全員が待望していた清三郎が玄関に立っていた。
「父上、母上、そして乙女達、清三郎、只今戻りました」
清十郎がまず語った。
「よう戻ったのう。心待ちにしておったぞ! しかし何じゃその身なりは。まさか清三、家を出てから髪も切らず、髭も剃っておらんのか……。いくら修行とはいえ……」
「そのようなこと、どうでもよいではありませんか。見れば五体満足のご様子。清三郎殿、よくご無事で……」せつは涙を流して喜んだ。
そして両親の後ろで控えていた乙女組が一斉に清三郎に抱き着いた。皆に足まで絡められ、もみくちゃ状態となって清三郎は身動きすらできない。
出雲姫は清三郎の頭に乗ってぴょんぴょん飛び跳ねている。乙女組はあまりの嬉しさに言葉がでない。
清十郎は「うむ。せつの言うとおりじゃ。身なりなどどうでも良い。よくぞ無事で戻ったのう」とこれまた涙が溜まっている。
抱き着いた乙女組らはやっと声が出せるようなったが「清三郎様、清三郎様」と連呼し、三月は頬を清三郎の胸に当て、四月は清三郎の頬に口を何度も付けている。
五月は清三郎に抱き着きながらあちこちの匂いを嗅ぎまわっていた。
清三郎が「こ、これ、息が出来ませぬ。そろそろ離れてもらえませんか……」と言ってもいっとき離れる気配はなかった。
清三郎があることに気付く。三月が清三郎に変化したまま抱き着いていたのだ。「み、三月、申し訳ないがせめて変化を解いてくれませんか……」三月も言われて初めて気づいた。
「これは失礼致しました」と抱き着いたまま変化を解く。
清三郎はいよいよ我慢の限界が来たようだ。
「いつまで抱き着いておるのです。息が出来ません。いい加減離れなされ! 怒りますぞ」
厳しく言うと乙女組がやっと離れた。出雲姫は清三郎の頭に乗ったままだ。
五月が「獣臭いが不貞の香り無し」と断言して澄ました。
眺めていた清十郎とせつも幸せいっぱいの表情だ。
「父上、母上、そして乙女組、実は紹介したい新しい家族がおるのです」と言いながら頭に乗っていた出雲姫を五月に渡した。
指笛を吹く。するとシューという風を切る音とともに大きな鳥が玄関に入った。
と思うと、両翼を大きく広げて宙に止まり、足を清三郎の肩に置くとゆっくりと羽を閉じた。その鳥が広げていた両翼は玄関左右の壁に当たって翼半分はへしゃげていた。
想像もしなかった大鳥の登場に一同言葉を失った。
「驚かれたでしょう。これが新しい家族。拙者の友。出羽神です。出羽神、拙者の父上と母上にございますぞ」すると出羽神が両翼を再度広げて「クワー」と鳴いた。
その姿に一同が「なんと美しい」と心を奪われた。
清十郎が問う。「せ、清三、こ、この鳥はもしかして大鷲ではないか」
清三郎が直ぐに答える。「さすが父上、よくお分かりで。大鷲に間違いございません」
次は五月だ。「これは不貞! 女を連れて戻ったに違いない! 清三郎そこに名折れ!」
すると三月が「五月、落ち着きなさい。この子は雄ですよ。雄。そうですね出羽神」出羽神が「クワー」と鳴いて答える。
五月は「雄……。ならば許す」とぼそっと言った。皆がくすくす笑う。
清十郎が「しかし、これは立派な大鷲じゃのう。
冬に蝦夷地で越冬する渡り鳥と思っておったがこのような立派な大鷲を連れて帰るとは、清三、お主は特別な何かを持っておるようじゃのう」
そこに三月が問うてきた。「清三郎様、新しい家族は分かりました。が、友と呼ばれましたか? 出羽神を友と……。
出羽神が友となれば、私どもは従者。立場的には乙女組より格上ということでございましょうか」多少殺気が混じった言葉だった。
この言葉に四月と五月と出雲姫も敏感に反応した。
四月が「出羽神と言ったか。清三郎様が友と呼んでも、私達が圧倒的にそなたより先人。そこをわきまえられよ」
五月が「友……。雄ならどうでもいいわ」
出雲姫が五月の手の上で「友であれ従者であれ、新しい家族は大歓迎です。清三郎様がお認めになった大鷲であれば尚のことと思います」
清三郎が慌てて答えた。「出羽神は拙者にとってかけがえのない友であり家族です。乙女組は名目上従者と語っておりますが、私の家族です。
橘家の家族です。皆、拙者にとってかけがえのない存在です。誰一人欠けることは許しませんよ」
清三郎の言葉に乙女組全員が再度清三郎に抱き着いた。
「出羽神、父上と母上の足元で撫でてもらいなされ」清三郎が指示すると出羽神はぶわっと両翼を広げて清十郎とせつの足元に着地した。
清十郎が、「清三、本当に触って大丈夫なのじゃな」と確認する。清三郎は「思い切り撫でてやってください。出羽神も喜びましょう」
清十郎とせつは腰を屈めて恐る恐る出羽神を撫でてみた。すると出羽神が鳩のような鳴き声を出した。
「喜んでいる声です。もっと大胆に頭から腹から撫でてやってくだされ」
清三郎の言葉に二人は大胆に撫でてみた。出羽神は目を瞑りとても気持ちよさそうだ。「ククッ、ククッ、ククッ」と喜んでいる。
せつが「とてもお利口で可愛らしいこと」と出羽神を褒めた。清十郎も「ほんにのう。この子はまるで清三郎の言葉が分かるようじゃ」
清三郎が「出羽神は普通に言葉を理解しておりますよ」と教えた。皆が驚く。「特別な大鷲でございます」と清三郎が出羽神を褒めた。
「乙女達も私に抱き着くより出羽神を撫でてやってもらえませんか」と促した。すると今度は出羽神に乙女が飛び付いた。
五月が「清三郎の匂い」四月が「これは本当に立派な鳥ですな。このような鳥は初めて見ました」と擦りながら言う。
三月は「この子は特別な力を持っておりますね。清三郎様が友と呼ばれるに相応しい大鷲です」と正直な感想を告げた。
清三郎が「さすが三月。半年かかると見込んだ修行、これだけ早く帰れたのは出羽神が修行の相手をしてくれたからなのです。出羽神の力は量り知れません」
三月は「いえ、ただ純粋に出羽神の評価をいたしたまで」と謙虚に答えた。
すると清十郎が「何、出羽神が修行を手伝ったと? どのような修行であったのか直ぐに聞きたいのう」と笑顔で清三郎を見た。
清三郎は「父上、母上、色々積もる話があるのですが、まずは出羽神を連れて風呂に入りたいのです。大丈夫でしょうか」と確認した。
「直ぐに準備させましょう」とせつが答える。
清十郎が「清三、出羽神なる大鷲は風呂に入るのか」と聞いて来たので、
「風呂には入れませんが手拭いでしっかりと旅の汚れを落としてやりたいのです。それだけこの出羽神には世話になっておるのです。後でゆっくりとお話しします」と清三郎。
乙女たちが若干焼餅を焼いている。その前に清三郎が釘を刺した。
「背中を流してもらうのは結構です。ここは男同士ということで」
すると三月が「お風呂からお上がりになられたら、私が髭を剃って差し上げます」
すると四月が「では私は髪をお切り致しましょう」
五月は「お髯を剃られる時はあちきの膝をお貸しいたしんす」
清三郎は五月がどこで覚えた言葉なのか訝しんだが埒が明かないので無視して出羽神と風呂に向かった。
清十郎が「やはり清三郎が戻ると一層賑やかになるのう」と話を向けるとせつが「本当に」と答えた。
三月が冷静に語った。「父上様、母上様、清三郎様は想像をはるかに超えたお力を身に付けて戻られました。
出立される時は半年と言われていましたが、この短期間であれだけの力を……さすが清三郎様」
乙女組の面々も皆頷いていた。
清三郎から力を授かった乙女組には清三郎が身に付けた力が分かったのだ。
「ほう誠か! 儂にはさっぱり分からなかったが。どうやら死の淵を彷徨う恐怖というものを克服したようじゃのう」
「それでなければ戻って来られないでしょう」めずらしくせつが突っ込んだ。
五月が「母上様、素晴らしい突っ込み」と褒め称えた。
三月は待っていた。最も清三郎の帰還を心待ちにしていたのは三月だ。半年と思っていたがこんなに早く戻ったのだ。
花魁の禿誘拐事件の解決に間に合うかも知れない。だがまずは清三郎の身なりだ。「今夜は髪を切ったり髭を剃ったり忙しい夜になりそうです」
と三月が言うと、四月が「話すことも沢山ありますぞ」次に五月が「今日は寝かせない」出雲姫は「楽しい夜になりそうです」
その様子を眺めていた清十郎とせつはこの上ない幸せを実感していた。
清三郎が風呂から上がると、ちょこちょこ傍を歩いていた出羽神は、蝋燭の暗い明りの中でもひと際輝いていた。
清三郎は風に当たろうと縁側に向かうと、神鎌デスサイズを右手に三月が待っていた。縁側には五月が正座している。
先ほど三月は清三郎の髭を剃ると話していた。
清三郎が三月に確認する。「み、三月、さん、ま、まさかそれで拙者の髭を……」三月は当然のように答えた。
「その辺の小道具を使うより、こちらの方が余程使い易いのでございます。さあ、覚悟なされて五月の膝に頭を」
直ぐに五月が満面の笑顔で「あちきの膝をどうぞお使いになりんす」と勧めた。この状況で嫌がっても言う事を聞く輩ではないことは重々承知していた。
清三郎は覚悟を決めて正座した五月の膝に頭を乗せて仰向けになった。
「さあ、お髯を剃って綺麗なお顔になりんすえ」洗ったばかりの清三郎の髪を触りながら嬉しそうに五月が喋った。
「五月、どこでそのような言葉を覚えてくるのです」「吉原でありんす」五月はとにかく嬉しくて仕方ないようだ。
「よ、吉原ですと!」「では、参ります」三月が清三郎の驚きに構うことなくデスサイズで髭を剃りだした。
清三郎は生きた心地がしなかったが、確かに切れ味は抜群だった。鼻の下や顎、耳の下もすーと刃が撫でるだけで全ての髭があっという間に剃れてしまった。デスサイズ恐るべし。
三月が「終わりました。清三郎様、ご気分はいかがですか」と聞いて来たので「いや、実に気持ちが良い髭剃りでした。拙者の髭剃りは今後三月にお願いしましょう」
「さあ、次は私の番ですな」四月の声がした。五月の膝から四月を見ると、はさみを持っている。清三郎は大いに安堵した。三月のように、四月が神槍グングニルで髪を切ると言い出すのではと思ったのだ。
清三郎が五月の膝から離れ、胡坐を組むと、何と三人がはさみを持っているではないか。清三郎が問い質す間もなく三人は直ぐに清三郎の髪にはさみを入れた。
それぞれが「あーでもない、こうでもない」と言いながら髪を切っている。清三郎も特段髪型を気にすることはなかったが、丸坊主にされるのだけは御免だ。
三月が「まあ、さっぱりされて男前になられたこと!」と声を上げた。四月は「これは表に出すわけにいきませぬ」
五月は「惚れたでありんす」と言ってぽっと頬を染めた。どうやら終わったようだ。自分の手で頭を触ると坊主頭ではないことに安心した。
髪は短くなっているが見てくれはどうでもよかった。
「いやあ、そんなに男前になりましたか。皆のおかげですな」と三人を褒めてやった。
出雲姫の姿を見ないと思った清三郎が大広間を見ると出雲姫が出羽神と遊んでいた。
出雲姫が八本の首を伸ばしたり縮めたり、曲げたりして出羽神を攻撃すると出羽神は上手に羽ばたいて躱していた。
とても仲が良さそうに見える。表で本格的にこれをやれば、出羽神の稽古にもってこいだと清三郎は感じた。
清三郎は「とにかく今日は疲れました。昨夜は徹夜だったのです。父上と母上はもう寝られましたかな」
三月が「もうお休みになられておいでです。御父上はどうやら明日からとても忙しくなると仰せになっておられました」
「何、忙しくなると……。そうですか。では久し振りに自分の布団で寝ましょうか。積もる話は明日です」と言いながら自分の床に向かった。
そして気付いた。「ん。どうしてここに布団が五つあるのです?」
布団が五つあるだけならまだよかった。一つの布団を中心に、四つの布団が円を描くように囲んでいた。
三月が代表して答えた。
「清三郎様、父上と母上に私たちを紹介してもらった日から、我らは布団で寝ております」
「あ、そうでしたか。それはそうですね。日本の布団も良いものでしょう」
四月が「最高の寝心地でございます」五月が「朝までぐっすり」と言うので「それはようございました。それで拙者の布団はどこでございますかな」
三月が「何を惚けておられます。真ん中の布団に決まっておりましょう。横に並べる案もありましが、それでは清三郎様の隣に誰が寝るかで決闘寸前まで及びましたので、結果、このような形になっております。さあ、どうぞお床へ」
「う、うぬ……」もう何を言っても聞かないことは分かっている。清三郎は布団に入った。出羽神は清三郎の横で足を畳んで伏せ寝する。
畳が気持ち良いのか直ぐに寝息をたて始めた。大鷲は立ったまま寝ると承知していたが、出羽神は修行の折から伏せ寝していた。
この大鷲は本当に特別なのだろう。そうこう考えていた清三郎もいつの間にか寝息を立てていた。
それを確認した五月がそっと清三郎の布団に入ろうとした。三月がそれを止める。
「皆さん、今日だけ、今日だけはこのまま寝かせてあげましょう。本当に久しぶりのお布団で、心から安堵されて……この寝顔、相当お疲れのご様子。今日だけは、このままで……」
五月が納得して自分の布団に戻った。「三月様、明日からは?」五月が問うた。「争奪戦になりましょう。清三郎様が怒らなければの話ですが……」皆は納得して布団に入った。
翌朝、清三郎が目を覚ますと既に清十郎は公務で家を出たという。せつが「今年は参勤交代で御屋形様が江戸に参られるのです。それで清十郎様はしばらく忙しいでしょう」と残念そうだ。
加えて「清三郎殿、髪も切られ髭も剃られ、さっぱりとされましたね」と褒めた。
「いや、これはお恥ずかしい……。しかし、参勤交代ですか。それはまた大変なお役目。さぞ父上は心痛されておられるでしょう」
参勤交代。江戸幕府が行った大名統制政策の一つであり、各藩の藩主が一年おきに江戸と領地を行き来するという制度である。
幕府が参勤交代を行った主な目的は「大名の財政負担」、「政治的統制」、「文化や経済の交流」であった。
特に大名の財政負担は、藩の石高によって大名行列の規模が規定されていたことから動員が増えるほど費用が嵩み、必然的に反乱などの企みを未然に防ぐ効果があった。
米沢藩の石高は当時三十万石であったことからおよそ七百人から八百人が行列に動員された。
藩主や上級家臣を江戸に迎え入れる上、藩主景勝の将軍謁見準備という重要な役目もあり、江戸家老の清十郎は大忙しとなった訳である。
ちなみに動員された藩士は主に宿場町の旅籠屋や寺院などに宿泊した。
他方、米沢藩は江戸から遠方であったため、通常一年毎と定められた参勤交代は三年毎という優遇措置が認められていた。
せつは、「準備に抜かりがあってはなりませんからね。しばらくは上杉上屋敷で指揮を取られるでしょう」
と答えつつ、「清三郎殿が起きるまで乙女組らは朝餉を待っておられたのですよ。さあ、お座りなされ」見ると乙女組全員が清三郎を待っていた。出羽神も出雲姫の隣に立っていた。
「申し訳ございません。久しぶりに何の心配もなく布団で寝たので寝過ぎてしまいました。お許し下され」と乙女組らに頭を下げた。
そして控えめに「母上、出羽神には干し肉などがあればよいのですが」と問うと、「既に準備しておりますよ」と返ってきた。さすがせつだ。
皆が食事を摂っている中で、清三郎は三月の様子がおかしいことに気付いた。表情などは全く普通だが、三月の霊気に歪みを感じる。
清三郎が「三月、体の調子が悪いのですか。どうも様子がおかしいですよ」と問うと、三月は箸を置き「修行を終えられた清三郎様の目は誤魔化しようがないようです。じ、実は清三郎様に折り入ってお願いしたい事があるのです」と頭を下げた。
「何、お願いですか。それなら良かった。拙者は体の具合が悪いのかと心配しました。皆さんの頼みなら、どのような難題であれ、一緒に解決すれば良いだけの話です。そこまで心痛する必要などございません。さあ腹一杯になって話を聞こうではありませんか」
清三郎の答えに三月はぱっと顔色が変わった。直ぐに箸に手を付けた。
清三郎は「いやあ、やはり我が家は良いものです。岩場の寝床もまんざらではなかったですが、やはり我が家は最高ですね。父上と母上に隠し事も何もなく、何と居心地の良い事か」と行儀は悪いが食べながら実感していた。
四月と五月が「隠し事とは私達の事ですか」と聞くと「他に何かありますか」と逆に尋ねるので、乙女らは朝から大はしゃぎであった。
三月の霊力も通常どおりに戻ったようだ。
清三郎が「では、朝餉も終わったところで、三月のお願いとやらを聞きましょうか」と三月を見やった。
三月はあらためて畏まると思いのたけを吐き出した。
「ひと月半前のことにございます。実は明石殿から食事のお誘いを受けたのです。
今考えますと、どこに誘われるのか確認すればよかったと後悔しているのですが、誘われた場所は吉原だったのです。
明石殿ひいきの遊女屋がありまして、座敷に入ったところまではよかったのですが、そこに花魁桜太夫という、吉原の高級遊女が座敷に乱入されたのです。
その花魁は清三郎様の顔を一目見ただけで名前を当てられ、さらに南町奉行所の戦や佐貫の合戦の事も承知されておられました。
花魁の話では吉原という場所は大名や幕府の御偉い方まで登郭される場所のようでそのような情報も知っているのだと言われました。
そして私に……、いえ清三郎様に頼み事をされたのです。その頼み事とは花魁の傍付けであった禿二人が誘拐され、それを奉行所の戦いと佐貫の合戦を生き抜いた清三郎様に助け出して欲しいというものでした。
私はその話を断りました。吉原には奉行所の出先もあり、与力の明石殿もおられると。しかし花魁は首を横に振るのです。
役人は袖の下で何の役にも立たないと。私個人の判断でそのような事件を引き受ける覚悟は持ち合わせておりませんでしたので、明石殿に頼まれよと言って座敷を出たのです。
すると背後から「清三郎様」という花魁の声がしたので思わず振り向くと、花魁が額を畳に付けておられたのです。
私は、私はその姿に同情し、考えておくとつい答えてしまったのです。しかし私がいくら試行錯誤しても、乙女組で夜回りしても事件の糸口さえ掴めぬ始末……。それでこのようなお願いになったのです」
三月は半泣きであった。
五月が「三月様がその約束をされたせいで、とうとう清三郎があの桜太夫に会う可能性が高まった。持っていかれる! 持っていかれる! 清三郎の心が桜太夫に持っていかれる!」と騒ぎ立てた。
清三郎が「これ五月、何を馬鹿げたことを言っているのです」と質すと五月は「馬鹿げていない。桜太夫のあの色気……。あれはやばい。事件を解決したら自分を差し出す覚悟とも言った」
「そんな馬鹿な話がありますか。桜太夫の色気の話は別として、三月、そなた拙者の立場になって引き受けたのでありまでしょう。
拙者がそこに立っておれば必ずや引き受けると。三月、三月の感じたとおり私は引き受けていましたよ。『考えておく』でなく、
『何とか致しましょう』とね。然るに安心なされよ。ひと月半も前からそのように心痛していたのですな」清三郎はそう話すと三月の頭を撫でてやった。
三月が清三郎に抱き着いた。するとなぜか乙女組全員が抱き着いた。
「これこれ、ふざけている場合ではありませんぞ」と言って皆を振り払った。
「三月、その後明石殿から情報はありましたか」と確認すると、「は。吉原を離れてから五日後に明石殿から話を聞きますと、禿二人の他に少女の捜索願が北と南の奉行所に合わせて五件あったとのことでした。
さらにその後も数件あったと聞いております。しかし明石殿曰く、このような子供の誘拐事件は日常茶飯事のようで奉行所も本腰で調査することはない様子でありました。
一応、服部様を頼って古着屋でもお願いしてみたのですが奉行所以上に期待外れでございました」
「服部様にも。それはそうでしょう服部様はあくまで幕府の為に動くお方ですからね。
しかし三月が服部様まで頼ったとは……。よほど心痛したのでしょう。本当に苦労をかけました」そういって再度三月の頭を撫でて労をねぎらった。
「三月の気持ちは分かります。花魁桜太夫から頼みを受けてひと月半、既に攫われた禿がどこぞに売られたと思っておるのでしょう。
安心なされよ。まだ何処にも売られておりません。おそらく未だ一つ所に攫われた少女が監禁されていると思いますよ」
清三郎の瞳が輝いた。
「本当でございますか!」
清三郎の答えに三月は驚いた。しかもその様子から清三郎には思い当たる節があるように感じた。決して適当に言っている訳ではないようだ。
三月は清三郎の帰還を心の底から喜んだ。清三郎が戻ればきっと何かが変わると思っていたが、これまでの心の雲が一気に晴れた。
清三郎に抱き着きたいところだが、先と同じような結果になって怒られるのが落ちなので、それは我慢した。
「本当です。ほぼ間違いないでしょう。三月が話した誘拐事件、とても興味が湧きました。ただ単に攫ってどこぞへ売り飛ばして終わりという単純な事件ではありませんね。
少女を攫って売るなら吉原と相場が決まっています。しかし今回は花魁傍付けの禿二人も誘拐されているのでしょう。それならば話は全く別物です。
吉原で攫った禿を吉原に売る馬鹿はいませんからね。しかも届け出されてない少女も含めれば相当纏まった数になりますね。うーん。なるほどなるほど。うーん……」
清三郎が語った話に三月が驚いた。「清三郎様、どうして少女が攫われれば吉原に売られると知っておられるのです。
どうして届け出していない者もおると分かられたのです。明石様はそのように言っておられましたが……」
「あー、将棋仲間から教えてもらうのですよ。将棋を指しながら色々な話題で盛り上がりますからね。特に吉原の話などは一番楽しい話題です。
皆が面白おかしく話してくれますからね。とにかく花魁桜太夫があらゆる客から情報を集めて自らを物知りと誇っているなら、私は将棋仲間という多くの町人から情報を得ている物知りと言えますね。
不思議と頭に記憶が残っているのですよねえ。幼少の頃から物覚えは良いほうだったのです。子供を誘拐されても食い扶持が減ったと届け出しない親はとても多く、江戸では珍しくないようですよ。
吉原の役人も袖の下でどうにでもなることも残念ながら常識のようです。ま、役人の袖の下は吉原に限った話でもなさそうですが」
三月は清三郎の涼しい頭脳に感嘆し、抱き着きたくなるのを必死に堪え尋ねた。
「清三郎様、先ほど攫われた禿がまだ売られていないと、誘拐された少女は一つ所に監禁されていると申されましたが、あれはどういう……」
「そうですね。ずばり言えば、少女は未だに誘拐されており、標的はもっぱら「美人の卵」と呼ばれる将来有望な少女ばかりだからです。
禿二人もその中に含まれます。私の予想では、誘拐の下手人はおよそ五十人程度少女を集めたいと思っているでしょうね。
人数が多ければ多いほど儲かりますからね。そして肝心の売り先は……」
「清三郎様、売り先が分かるのですか!」
三月が驚いて尋ねる。
「あ、いや、詳しくはこれから調査しなければ分かりませんが、大筋は分かっております。それは外国です」
清三郎の答えに乙女組の面々は驚いた。三月が慌てて尋ねる。
「が、外国でございますか。そ、それは理由があるのでしょうか」
「んー。あるともないとも言えませんが、地方の宿場町に売っても足は付くし儲けは少ない。かと言って京都の遊郭に売るには距離があり過ぎる。
日本で売れないとくれば、外国しかないでしょう。日本のおなごは美しいですし、何と言っても男の言う事は忠実に聞きますからね。外国人にはとても高値で売れるでしょう」
直ぐに五月が反応した。「私も清三郎の言う事なら何でもお聞きいたしんす」すると乙女組はみなが「私も私も」になって話が進まなくなった。
「乙女組が一番美しいのは拙者がよう分かっております。いちいち反応しなくてよろしい。ところで何ですか五月が昨日から使っている妙な言葉は。どこで覚えて来たことばです?」
「吉原の遊女はこのような言葉で話しんす」
「なるほど、花魁や遊女が使っている言葉ですか。五月が食いつきそうな言葉ですな」清三郎は笑った。
「お褒めに預かり嬉しいでありんす」
他の乙女は呆れ顔だ。しかし清三郎はまんざらでもないようで、五月の言葉に笑顔であった。
三月が直ぐに話を戻した。「清三郎様、それで外国に売られるという話ですが……」
「そうでした……。外国に売られるという心当たりがもう一つあるのです。
実はここに戻る前日の夜、粕壁宿に泊まったのです。そこで事件が起きました。井戸に水汲みに行った少女が攫われたのです。
この少女も宿場町では美人の卵と評判の子で、大名屋敷への奉公が決まっていたそうです。拙者は直ぐに出羽神と下手人を追い、苦い失敗もありましが、少女を助けました。
攫った少女は街道を連れて江戸に運ぶのではなく、近くの江戸川を利用して小舟で運ぶ段取りでした。苦い失敗とは小舟の男を信用してしまい、まんまと取り逃がしてしまったのです。
が、その男は気になることを喋りました。江戸の南の品川湊に連れていくと。そこで大槍を持った者に受け渡す段取りだったと喋ったのです。
この男は自分を「禿鷹の丈太」と言いましたが、逃げられたことから名前は嘘でしょう。しかし品川湊で受け渡しという言葉にひっかかるのです。
品川湊であれば沖に停泊している大型船で外国に運び出すことが出来るでしょう。この辺がこの事件の手掛かりになると踏んでおるのです」
清三郎が話し終わる前に三月が再度抱き着いた。「清三郎様、清三郎様」と胸に顔を押し付けた。
他の乙女も同様に抱き着く。もはやお決まりであった。
「こ、これこれ! おお、そうです。五月、闇魔とん士の動きはどうですか」清三郎が皆を払いながら五月に尋ねた。
五月は直ぐに片膝で座ると「はっ。闇魔導士大神官と三席上級闇魔導士が出島に入った。大神官に動き無し。
三席上級闇魔導士は夜の闇で見失った。ちなみに見失ったのは私と交代した服部の隠密。その後古着屋に出入りして確認するも大神官は未だ出島」と報告した。
「なるほど。となればこの事件に三席上級闇魔とん士が絡んでいることも無ではないですね。ふむふむ」
清三郎は腕組して頭の中を整理した。
「そう言えば、そなたら夜回りしていたと言いましたね。毎日していたのですか」
三月が答える。「はい。毎夜、皆で深夜まで夜回りしていました。しかし怪しい人攫いは発見できず仕舞いで……」
「それはご苦労でございました。しかし決して無駄な夜回りではなかったようですよ。これではっきりしました。誘拐の下手人らは少女を攫うと付近の運河を利用して小舟を使って運んでいたに違いありません。
江戸は運河がとても多いですからね。そして行く先は南の品川湊か付近に湊があればそこでしょう。さすがの乙女組も小舟の動きまで怪しいとは思わないでしょう」
「確かに、私は小舟まで気が回りませんでした」と三月が答えると、他の者も一様に頷いた。
「皆さん、よく夜回りをしてくれました。これで少女が品川湊か、又は他の湊に連れて行かれた事はほぼ確定です。
よし、それではより有力な情報を得るために、将棋道場に向かうとしましょうか。明石殿に会うのも久しぶりですな」
三月が直ぐに進言した。「清三郎様、私も頑張ったのでございますが、清三郎様のように駒を動かすことが出来ず、明石様とは五分五分の勝敗でございます。申し訳ありません」
「ははは。そのような事、どうでも良い事です。どうにでも取り繕えるのですからそのような事まで気になさるな。おおそうだ。四月と出雲姫の商売はどうなりました? 順調ですか?」
待ってましたとばかりに四月が自信満々で答えた。
「清三郎様、よくぞ聞いてくれました! 毎日長蛇の列で大儲けしております! 出雲姫の占いが上手い事といったらもう。正に神業です」
「四月ちゃん、照れますわ。四月ちゃんの呼び込みのおかげです」と出雲姫。
「儲けは別として上手く行っておれば結構。そうだ出羽神。お主は昼間ここで母上の仕事を手伝ってもらえますか。
夜になれば出羽神にしか頼めぬ仕事を命じます故。昼間は決して外に飛び出してはなりませぬぞ。大鷲の噂が広まれば、本当に動物好きの将軍が黙っておりませんからね」と釘を刺しながら体中を擦ってやる。
清三郎の出羽神ひいきに出雲姫が珍しく食いついた。
「清三郎様、出羽神にしか頼めぬ仕事とはこれいかに。私にはどうも清三郎様が出羽神ばかり可愛がっているようにしか見えません」
五月が「出雲姫、出羽神は雄。どうでもいいわ」と口を挟んだ。
「いいえ。五月ちゃんはそうでも、私は出羽神ひいきが過ぎると思います」
清三郎は呆れ顔だ。
「昨夜も伝えたと思いますが、皆が家族です。何度言えば分かるのです……」
すると三月が「それが乙女心というものなのです……」と淑やかに答えた。
「乙女心……。そなたらが家族である以上、これを知るのも拙者の定めかも知れません……。分かるように努力いたしましょう!」
すると三月が「いらぬ努力はお辞めください」と眼光鋭く言い切った。
四月が「清三郎様に女心は分かって欲しくないですな」
五月が「あちきのことだけ考えて欲しいでありんす」
出雲姫が「これは私が出しゃばったばかりに……。皆さまの意見に同意でございます……」
「ほんに生きるとは難しいものですな。はははは」
清三郎は笑いながら玄関に向かった。将棋道場に赴くのだ。三月と五月が後ろに控える。四月と出雲姫は「占い屋」だ。
四月と出雲姫は梓と奥平の話をしたくてたまらなかったが、三月の事件には到底及ばない話と諦めた。今夜こそはと二人の目が合った。そして二人はニヤリとした。