第3話 南町奉行所、恋の嵐
一カ月が過ぎ、五月になった。未だ誘拐事件の有力な手掛かりは掴めないままだ。
三月は二人の禿が既に売り飛ばされてはいないか、地方で奴隷になっていないかなどと心配でならなかった。
三月が桜太夫に「考えておく」と言ったのは、助けると約束したことと同義であって、しかもこの約束は三月がした約束ではない。清三郎が約束した事なのだ。
桜太夫は吉報を心待ちにしているに違いなかった。三月にとってこの誘拐事件は他人ごとではなかった。
辰之進と将棋を指しながら定期的に情報を得ているが、あれから同じような少女の捜索願が数件あったという程度に留まっている。
半蔵との接点である「古着屋」にも足を運び、花魁傍付けの禿二人を含めた少女誘拐事件の調査を依頼したが奉行所以上に動いてくれる様子ではなかった。
幕府を脅かす事件ではないのだから当然と言える。
夜中は乙女組が手分けして江戸の町から周辺地域まで見回っているが徒労となっていた。
三月は思う。「清三郎様はお戻りがおよそ半年と言って旅立たれた……戻られる前に少女らの誘拐事件の手掛かりは消えて無くなってしまうだろう……清三郎様、清三郎様、一刻も早くお戻り下さい……」
一方で、橘家の夕餉は毎日が賑やかだった。
五月が清十郎に「お酌いたしんす」とか「お注ぎいたしんす」などと言って晩酌をするようになったのだ。清十郎は酒はいける方だったが過去に晩酌は一切しなかった。
いつ如何なる事態が発生しても対応できるようにとの心構えだった。
しかし娘のような乙女組らとの生活が始まり、おそらく吉原で覚えたのであろう五月がそのように晩酌してくれればこれを断る術は清十郎にはなかった。
せつも「五月さんを前にすれば吉原の花魁も裸足で逃げ出しますわね」と言って楽しいひと時を過ごしていた。
清十郎はお銚子一本までとせつに頼んでいたが、三月や四月も酌をさせろとせがむのでついつい二本、三本と量が増えていた。
「あまり酔うといざ鎌倉という時に困るでな」と散々晩酌はよいと言うのだが、特に五月が言う事を聞かず、「いざ鎌倉はあちきが何とかいたしんす」などと言って清十郎を楽しませた。
五月は余程吉原の独特な言葉が気に入ったようだ。
三月が四月と出雲姫に「八岐大蛇の大占い」に話題を振った。「開店当初はうまく行っていたようですが最近はどうですか」と尋ねた。
四月は待ってましたとばかりに話し始めた。
「それが未だに好評でして客足が途切れることがありません。客は増える一方でして嬉しい悲鳴とはこのことでしょうな。しかし人という者は欲ですぞ。一回占い、福を得れば、必ず次の日も来るのですからね」
「それなら客はどんどん増える一方ですね。忙しくて逆に困るのでは」三月が心配する。
「ふふふ。そこは出雲姫がうまく占うのですよ。例えば二度目に来た客には、一文銭を拾うように占うのです。
福を掴んだことは間違いないですがその客はしばらく来なくなりますね。いや、この仕事を始めて本当に人間の欲というものを知りました。ねえ、出雲姫」
「何を今更。そこに漬け込む商売でございましょう。しかし四月ちゃんの呼び込みは素晴らしいという他ありません。もはや芸ですねあれは」
「そんなに褒めるから調子に乗ってどんどん上達するのです。二人三脚とは正にこのこと」四月も自信満々だ。
すると出雲姫の目が光った。
「そう言えば、面白い話がありますよ。題して『南町奉行所、恋の嵐』。これは面白い!」すると四月が
「ああ、あの話ですか! あれは確かに面白い。ぜひ父上様と母上様にお話ししてあげなされ」と後を押した。出雲姫が語りだす。
「そこまで申されれば仕方ありませんね。えー、あー、あれは確か……、桜が散り始めた……」そこまで話すと五月が「そんな前座は不要! 早く本題」と茶々を入れた。
出雲姫は気を取り直し語りだした。
「あれは確か……ごほん。大占いの店を開店していた先日の事でございます。南町奉行所の同心、麻木市之丞梓殿が占いに参られたのです。
これには驚きました。四月ちゃんが麻木殿に『ここは福を占う店ですよ』と説明したのですが、麻木殿は何を勘違いされたのか、恋の相談を始められたのです」
直ぐに五月が「梓と言えば清三郎!」と突っ込んだ。
清十郎も「おお。柳生新陰流の達人で女同心であったの。清三が瀕死の重傷で寝込んだ折には毎日見舞いに来られた方じゃ」と添えた。
「そう、そうなのです。麻木殿が来店されたのには驚きました。しかも黙って聞いていると話はこうでした。
昨年末から清三郎様が南町奉行所に一切来られなくなり寂しいと思うようになったのだが、これが恋なのかどうか分からないというものだったのです」四月は横でうんうんと頷いている。
直ぐに五月が「梓、やはり抹殺すべき女……」と警戒した。三月は冷静だった。「清三郎様が来られなくなって寂しい気持ちが恋なのか分からない……。とすれば麻木様には清三郎様とは別に気になるお方もおられるのでは」と自分の感想を述べてみた。
三月の感想に驚いた出雲姫が「そ、そうなのです。さすが三月様。いくら奉行所仲間と申しましても景虎乙女組の私が清三郎様への恋心を黙って見過ごす訳にはいきません。
そこで麻木殿に告げたのです。『寂しいというそなたの気持ちは分かる。だが清三郎という御仁はどうやら一人のおなごに固執するような器では無いのう。
そなた他に気になる男がおらんのか』と聞いてみたのです。するとどうやらいるらしいのです。『気になる御仁はいないこともないが……』と答えられたのです」と興奮気味に答えた。
「それで出雲姫の予知はどのような御仁であったのですか」三月が確認する。
出雲姫は「そうですねえ。私一人が喋っても面白みに欠けるような……」と暫く考えると、「それではここから実際のやり取りを四月ちゃんと再現いたしましょうか」と提案した。
すると四月が「それは面白い!」と直ぐに乗って来た。
せつが「人の恋を話のネタにするのはいかがなものかと思いますよ」とひと言釘を刺した。
が、「それでも聞きたいのが人というもの」とニコニコしながら心の内をさらした。
五月が「このまま話が終われば私死ぬ」と苛立った。
清十郎は「これは楽しそうじゃ!」と手を打って喜んだ。
出雲姫と四月が芝居を始めようと場所を移動する。出雲姫に対面する形で四月が座る。
もちろん四月が梓役だ。皆が食い入るように待っている。
出雲姫が語りだした。
「そなたが気になる御仁とはずばり、南町奉行所同心にして服部軍団隠密の一人、奥平堀兵衛にござろう」
「ど、どうしてその名を……。さらに服部軍団の隠密の事まで……。八岐大蛇様の前では隠し事は不要にございますか……。しかれば正直に申します。八岐大蛇様の御見立てどおり、気になる御仁とは奥平堀兵衛殿にございます。ただし、それが……そのう……」
「ふふふ。分かるぞ。おなごは強き男を求めるもの。奥平堀兵衛はそなたより明らかに弱いのだな。柳生新陰流をそなたの父から継承したことが仇となったか。そなたは素質も充分じゃ。今後の精進次第ではさらに強くなる。見える。見えるのう。そなたが剣豪と呼ばれる日が……」
「あ、あの八岐大蛇様……、私が剣豪になる話はどうでもよいのですが……。あのう、そのう……」
「おお! そうであった。奥平がそなたより弱い! その話であったな」
「そうなのです。確かに奥平殿は服部軍団の隠密として充分な強さをお持ちです。佐貫の合戦の折にも……あ、佐貫の合戦と申してお分かりになられますか」
「うむ。全て承知しておる。構わず話を続けられよ」
「はい。佐貫の合戦の折にも、事実上服部様の処刑場と誰もが恐れた合戦に迷うことなく参戦されました。
私も佐貫の合戦には参戦いたしましたが、それは橘殿に一度命を助けられた恩を返したいという強い気持ちがあったからでございますが、心の片隅には奥平殿と一緒に戦いという気持ちもあったのでございます。
奥平殿は服部の隠密だけあって気配の消し方は素晴らしいものがあります。ただ、ただし、ただし稽古では私から一本も取れないのです。せめて、せめて一本、私から取れたならば、私の気持ちも変わるのではと感じているのです」
「うむ。そなたの言いたいことは最もである。奥平の稽古は稽古のための稽古なのであろう。手本となる御仁が近くにおられたのに、惜しい事をしたのう奥平は」
「そ、そのような事までご承知で! そうなのです。稽古のお手本となられるお方が昨年末までおられたのです。それが橘清三郎殿だったのです。
橘殿は夜明け前にご自宅から走って奉行所に来られておられました。それも橘殿にとっては鍛錬の一つ。
さらに最も若い同心が修練場に雑巾がけをするという慣わしがございますが、自ら進んで雑巾がけを行われ、その後は無心で素振りの訓練を行われる……。
どうして素振りばかりと若い衆が尋ねると、『弱い私がみなさんの稽古を邪魔する訳にはいきません。片隅さえ与えて頂ければ充分でございます』と言われるのです。
なんと謙虚なことか。しかしその言葉に反して橘殿はどんどん強くなられました。傍で素振りを見ているだけでも私が恐ろしいと感じるほどに……。
その姿は特に若い同心に衝撃を与えました。皆が見習い、若い者三人の交代制であった雑巾がけが、毎朝十人以上で行うようになりました。
橘殿が皆に示された姿。それは単に強くなりたいという純粋な心根でございました。その期間、若い同心の剣技は尋常ではない上達を見せました。奉行所の力が底上げされたのです。
それは橘殿の心根が若い同志にそのまま伝わった結果にございます。私にはそれが分かりました。そして重要なことはそこなのです! 剣は心なのです!
心が伴わぬ剣は、ある程度強くなっても平行線のままなのです。最高のお手本であった橘殿を前にしても一生懸命稽古すれば強くなると奥平殿は思っておられました。
私から橘殿を見習われよと言うわけにもいきません。あれでは一生かかっても私から一本取ることは叶いますまい。差が開くばかりでございます……。
そのような思いから橘殿が奉行所に来られなくなり、寂しい思いをするようになったのでございますが、それが橘殿に対する恋なのかどうか私には分からないのです……」
「なるほどのう。寂しい思いを打ち消すためにさらに稽古に精進する。奥平との差は開くばかりじゃのう……。それを埋めようともっぱら奥平に稽古をつけてやる毎日……。悲しいのう。悲し過ぎる話じゃのう」
「そんなことまでお見通しとは……。わ、私、恐ろしゅうございます……」
「ふむ。そなたしばらく奥平を遠ざけてみよ。無視するのじゃ。さすれば何かしら動きがあろう」
「奥平殿を遠ざけるとは、無視するとは、具体的にはどうすれば……」
「剣の稽古は相手にせず、同心の仕事も余程の用事以外、話もせぬということ。試してみられよ」
「ああ、八岐大蛇様……。仰せのままに致してみます……」
「うむ」
「あの、八岐大蛇様、かなりの時間を取りましたが……料金は……」
「既に払っておろう。それで充分。欲張って良いことはない。それはあの世でもこの世でも同じこと。分かるか」
「はい。肝に銘じます。ありがとうございました」
四月が頭を下げて芝居が終わった。清十郎が手を叩いて褒め称えた。
女性陣はそれぞれ感想を持ったようだ。しばし沈黙していた。そこで清十郎が口火を切った。
「清三が奉行所に通わぬようになって寂しゅうなったのなら、それは恋であろう。儂はそう思うのう。あやつも隅におけんのう」
瞬刻、乙女組の危険な視線が清十郎に集中した。三人の右手に獲物が見え隠れしている。せつが助け船を出す。
「あなた様は本当に女心が分かっておいでになりません。麻木殿と奥平殿は奉行所の同心として長きに渡り同じ釜の飯を頂いた同士でございましょう。
元々は南町奉行所で一、二を争う剣の競争相手だったとか。麻木殿が知らぬ内に奥平殿を好いていたとしても不思議ではございません。しかし剣の腕は開く一方。
これでは麻木殿も面白くはないでしょう。そこに清三郎殿という風が吹いたのです。清三郎殿は全てにおいて純粋。目の前に差し出された己の糧となる物には無心で飛び付かれます。
それが儒学であれ将棋であれ剣であれ。若い同心の方々が清三郎殿の稽古姿に感銘を受けられたのなら、それは純粋に強くなりたいという気持ちが若い方にもあったからでしょう。
麻木殿は奥平殿にも清三郎殿の剣にかける思いを見習って欲しかったのだと思います。しかし清三郎殿は急に奉行所を離れた。
その寂しさとは清三郎殿が奉行所を去ったからではなく、剣にかける心根を奥平殿に教える前に清三郎殿が去った故の寂しさではないでしょうか。私はそのように思います」
五月が直ぐに反応した。
「さすが母上様! 女の誇り。父上様は今後の晩酌お銚子一本」と絶賛した。
三月も「私は恋というものをこれまで知りませんでしたが、母上様のお話に一理あると思います」と答えた。
清十郎は「これはいらぬ事を申したわ。奥平もせめて一本取らんとのう。わっはっはっは」と笑って誤魔化した。
そして四月が場を取り持った。
「皆さん麻木殿の話についての議論はもうよろしゅうございますか」
皆が顔を見合わせる。どうやら意見はないようだ。
四月が不敵な笑いを浮かべた。
「ふふふ……。この話はここで終わりではありませぬ。まだまだ続きがあるのです。さすが大占い師の出雲姫とでも申しましょうか。
ささ、この続きがどのようなものか、お分かりになる方はおられませんか。どのような展開となるのか気付かれた方はおられませんか。出雲姫が麻木殿に命じた言葉が糸口ですぞ」
「うーん。全く想像つきません」と三月。
「梓が堀兵衛ガン無視して堀兵衛ショック」と五月。
四月が「五月凄い。そう、奥平殿は麻木殿から無視されるようになり相当な心痛を抱えられたのです!」
「なるほど。それはそうかも知れませんね。五月さんは鋭い感性をお持ちです」せつが納得する。
五月は澄まし顔だ。
「しかしどうして奥平殿が心痛を抱えたと分かるのか……うーむ」と清十郎。
四月が「ふふふ」とさらに不敵な笑みを浮かべた。出雲姫も何やらやる気満々だ。
「それでは皆様、私四月と出雲姫の芝居『南町奉行所、恋の嵐。第二幕』と参りましょうか」
皆が思わず拍手した。続きがどうなるのか知りたくて仕方ないようだ。
四月がまず語りだした。
「麻木殿が出店に来られてから五日後の事でございます。何と客の行列に奥平堀兵衛殿が並んでおられるではありませんか。
顔はげっそりと痩せられて、まるで気力が感じられません。それを出雲姫にそっと教えると、奥平殿の前に並んでいた客をあっという間にさばきました。
そしてげっそりとした奥平殿が出雲姫の前に座られたのです。私は麻木殿と同じように『ここは福を占う店ですよ』と申し上げました。しかし目は虚ろ。これから先は私が奥平殿の役となります。よろしいでしょうか」
清十郎が「そうか! 奥平殿が占い屋へのう」と合点がいったようだ。
皆が一斉に頷いた。そして固唾を呑んだ。
「では始めます。拙者、是非とも福をいただきに参った所存。聞けばここの占いは必ず福をもたらしてくれる八岐大蛇様がおられるとのこと。拙者このままでは何事にも打ち込めませぬ……」
「ほう。南町奉行所の同心ともあろう者が、このような妖しい占い屋に訪れるとは珍しい。しかしまるで生気が感じられん。それで同心の仕事が務まるのか。
役所仕事が出来ぬ同心ならば代金はお返しいたす。今日は帰られよ。そのような同心は江戸には不要。何事にも無心で打ち込めるようになればその時こそここを訪ねられよ」
「た、確かに今は何をしても気が入りませぬ。腑抜けでござる。拙者に対して手厳しい言葉は最でござる。そこを曲げてお願い申す。このままでは帰れませぬ。このままでは……このままでは……」
「お主、泣いておるのか。俯き、両手の拳を握って泣いておるのか。情けないのう。江戸の同心とはこのような者しかおらんのか。
ん、待てよ。お主、まさか服部軍団の隠密ではなかろうな。そうでは無いと言ってくれ。お主のような泣き虫同心が幕府の中枢を担う服部の隠密などでは決して無いと言ってくれぬか」
「そ、そ、それを……どうして……」
「お主、私を馬鹿にしておるのか。八岐大蛇ぞ! 何もかも全て見えておるわ! お主、腰掛けから転げ落ちおって! 阿呆にもほどがあるぞ! 腰掛けが壊れておるまいな!」
「こ、腰掛けは大丈夫そうです……。そ、それでは、拙者がここに来た理由も……」
「うむ。承知しておる。おなごじゃの。おなごの事で何も手に付かぬような同心は江戸にいらんと申したのじゃ。ささ。お帰りなされ」
「八岐大蛇様は拙者に福を与えてくださらぬのか」
「福は与えよう。しかし、それがおなごの事につながる福とは限らぬぞ! この店を右に出て最初の曲がり角で足元を見よ。そこに一文銭が落ちておる。
それが今日のそなたの福じゃ。それでお主は満足か。奥平堀兵衛! それでもお主、男であるか! 服部軍団の隠密であるか!」
「拙者の名前まで……どうして……どうして……」
「全て見えておると言うておろう。奥平、お主、同心と隠密の役目、直ぐに辞めよ。お主にその資格はない。
今のお主は幕府から俸禄を受けるに値せぬ女も同然。とんだ俸禄泥棒じゃ。よいか、町人として出直すが良い。うむ。お主にはよう似合っておる。さあ帰りなされ」
「いや……、しかし……。それは……。拙者、恥ずかしながら今の仕事は天職と思うてござる。と、とても辞める事は出来ませぬ……」
「は? 天職? 聞き間違えたのか? お主、今天職と申したのか? 好いたおなごの振る舞い一つで何も手に付かなくなったお主が同心と服部隠密を天職と?
それよりも転職を考えよと言うておろう。お主、気でも狂うたのか」
「う……」
「奉行所修練場では稽古のための稽古しかできぬお主が天職? どうせ柳生新陰流には勝てぬと初めから諦めておるお主が天職?
今の実力で、その立ち位置で満足しておるお主が天職? 剣の強さを一切求めぬ軟弱なお主のどこから天職という言葉が出てくるのか! いい加減なことを申すなあ!」
「そ、それは……」
「今日はもうよい。ささ、早う一文銭を拾うて帰られよ」
「も、申されることは道理……。しかし、しかし……うぬ……」
「まだ帰らぬか。ならば問おう。そなたが言う天職とおなご、どちらが大事じゃあ!」
「く……」
「もう帰って良いぞ。苦しいのなら帰るがよい」
「て、天職にござる」
「ん? 何か言うたか。蚊が泣くような声では分からんのう」
「天職が大事でござる! 同心、服部軍団の隠密、天職が全てにござる!」
「ほう。ではなぜ今何も手に付かぬ。お主の慢心が今のお主を招いていることに気付いておるのか。
好いておるおなごより天職が大事という言葉に嘘偽りはないか。おなごを忘れる覚悟があるか。あるのなら一つ話をしてみるが」
「嘘偽りはござらぬ。好いたおなごを忘れる覚悟も……できたでござる!」
「よし。誠であろうな。いや、直ぐに忘れる事など出来まいが、その決心に免じて話をしてやろう。私の話が聞きたいか!」
「ぜ、是非にお願い申し上げる……」
「ふむふむ。仕方ないのう。特別じゃぞ」
「はは……」
「最近、奉行所の若い同心はどうじゃ」
「わ、若い同心ですか。若い同心がどうかと言われましても……」
「若い同心の剣の実力はどうじゃと聞いておる」
「け、剣の実力……、それはもう凄まじい勢いで上がっておりまする」
「お主の立ち位置を脅かす者も出てきておるはず。どうじゃ」
「は、恥ずかしながら、お、仰せのとおりでござる……。中堅どころも拙者に迫る実力を付けており……そ、そのため拙者は焦りも有り申した……」
「若き同心が実力を上げ、中堅もお主に迫り、奉行所の力が急速に底上げされたの。それを実感し、お主に焦りもあった。それは理解できておるようじゃ。ならばその理由がお主に分かるか?」
「さ、最近の若者の努力は目を見張るものがありました。努力の賜物と思いますが……」
「そこよ。お主に足りぬのはそういうところよ。周囲がまるで見えておらん。
全てお主の慢心のせいじゃ。橘清三郎なる上杉家ゆかりの者がしばらく奉行所の修練場に通うたのではないか?」
「た、橘殿……。そのような事まで承知とは……。橘殿……確かに、確かに朝早くから修練場に来られ、稽古に無心で励んでおられました。
しかし、それが若い同心の上達とどう関係があるのでしょう。橘殿は稽古というより只ひたすらに、木刀で素振りをされていたように記憶しておりますが」
「この、戯け者め! 奥平、お主は清三郎を恋敵と思っておった。それで何も見えておらんかったのじゃ! この大戯けが!」
「か、か、かえす、返す言葉もございませぬ……」
「橘清三郎……。お主の目で量れる男ではないわ。よくも恋敵などと。お主と同等の男と思うたか! 恥を知れ!」
「し、しかし八岐大蛇様、佐貫の合戦において橘殿が参戦された度胸には確かに驚き申した。しかし何の役にも立っておられなかったはず……逆に麻木が橘殿を庇ったために……」
「奥平、下衆な男よのう。それでよう服部の隠密が務まっておるわ。半蔵殿も今のお主を見ればさぞ嘆かれることであろう」
「く、くう……」
「今度は腹が立ったか。気力がないと思えば腹が立つ、奥平、何とも忙しいのう」
「あ、い、いや、それは……」
「奥平、これから私が話すこと、全ての邪念を捨て、清き心で聞くが良い。それくらいはできるな」
「はは!」
「うむ。佐貫の合戦後、清三郎は上杉中屋敷から歩いて一刻(約2時間)の距離を夜明け前から走って奉行所に通うた。
その内四半時(約30分)で到着するようになった。修練場に入るとまず雑巾がけじゃ。若い衆三人が交代で雑巾がけを行うのが慣わしじゃったのう。
清三郎は三人と一緒に雑巾がけを行った。床全体を一度拭くと終わりじゃ。しかしのう奥平。清三郎は一度拭いて終わりではなかったのじゃ。
四半時は必ず続けた。若い同心が尋ねる。『橘殿、どうして雑巾がけを続けられる。もう終わりですぞ』と。
すると清三郎は『雑巾がけほど足腰を鍛えられる稽古はございませんぞ。修練場に入れば全ての行いが稽古にございます』と答えたのじゃ。
するとどうか。三人は雑巾を掴むと清三郎と一緒に雑巾がけを始めたではないか。清三郎はそれを毎日繰り返す。
交代制であった雑巾がけはいつの間にか交代でなくなり、若い同心全てが毎日雑巾がけを清三郎と共に行ったのじゃ。四半時の雑巾がけ競争じゃ。
奥平、お主に雑巾がけがどれくらい続けられるかのう。わずかな時間で息が上がるのではないか。そして清三郎の素振り稽古。前後左右、跳躍しながらの無心の素振り。黙々と続ける。
やがて若い同心が尋ねる。『橘殿。どうして素振り稽古ばかりしておられる。どうして互い稽古をされませぬ。
その素振りを見れば強くなりたいというお気持ちは凄まじいほど伝わって参りますが、互い稽古こそ実力を上げる稽古にございましょう』と。
すると清三郎は『この修練場で私が互い稽古など。弱い私には素振り稽古で充分でございます。ただ一言申せば、実はこれも足腰の鍛錬なのです。
足腰さえどっしりすれば、心に余裕が生まれます。さすれば自然と剣の切れが増す。そうなったら占めたもの。もっと足腰を鍛えれば、相手の動きを見切った剣が自然と扱えるようになるのです。
いや、これはとある剣の達人から聞いた話。それを実直に行っているまで。拙者にお構いなく、稽古を続けなさいませ』と答えたのじゃ。
するとどうか。修練場では互い稽古が習慣ゆえ、若い同心は自宅に帰ってから素振り稽古に没頭したのじゃ。清三郎を真似るようにのう。
それは全て、強くなりたいという心根からくるもの。若い同心がどんどん実力を付けていく。中堅もその理由が分かっておる故、自宅に帰って素振り稽古じゃ。
同じく清三郎の素振りを真似るようにのう。皆強くなったであろう。分かる。分かるぞ。南町奉行所の同心は天下無敵じゃ。それほどの底上げがなされている。
ところでこの清三郎の話なら同心連中は皆知っておるぞ。全員が初めから知っておったのではない。互い稽古で各下であった同心が急成長していることに気付いた者は相手に尋ねるのじゃ。
そして知る。清三郎の語った話を。ならば負けてはおれんと自宅で素振り稽古じゃ。清三郎はいつの間にか奉行所から姿を消したが、素晴らしい足跡を残した。
この話を知らぬのはお主だけよ。もちろん麻木も知っておる。まあ、麻木の場合は人から聞かずとも、清三郎の稽古姿を見ただけで全てを察する力を持っておる。どうじゃ奥平、多少は参考になったか」
「そのような事が、そのような事が奉行所で起こっていたとは……」
「清三郎の強くなりたいという心根を知らなかったのはお主だけじゃ。清三郎の純粋な剣をよくもまあ恋敵などと思ったものよ。この戯け者が!」
「は、恥ずかしい。じ、自分がとても恥ずかしゅうござる。穴があったら入りたいとは正にこのこと。本当に穴があれば直ぐに入りたい……それほど恥ずかしゅうござる……」
「うむ。まずは自分を見直すことが出来たの。よい方向じゃ。で、お主、清三郎とは何者であったか分かったか。分かったなら申して見よ」
「た、橘殿は……、同心の手本であったのではないでしょうか。強くなりたいという心根や、それ以上にただひたすら純粋に、何の穢れもなく稽古される姿が若い同心の心を奮起させた……そして中堅たちも……。拙者は何を見ていたのだ……」
「奥平、泣いておるな。先ほどの涙はいらぬ涙。しかしその涙はこれまでのお主を洗い流す涙。存分に流されよ」
「う、う……。拙者は、拙者は……強き男になりたい……橘殿……その心根……己が本当に恥ずかしい……」
「うむ! では奥平、お主には特別に下知いたす。耳垢ほじってよっく聞け。
まずは強き男になるために何をすべきか分かったであろう。無心でそれに打ち込むのじゃ。さすればいずれ清三郎の背中を直接見ることになろう。
その時こそ、清三郎から奪うのじゃ。本当の力を。分かったか!」
「ま、誠でございますか! せ、拙者が橘殿の背中を……」
「今後の修練次第かのう」
「はっ。八岐大蛇様。ありがたきお言葉。裏切りませぬ。拙者、八岐大蛇様を決して裏切りませぬ。強き男になってみせまする!」
「よう申した。直ぐにやることがあろう。今度こそ早う帰れ」
「いてもたってもおれませぬ。仰せのとおりに。御免」
「と言って奥平堀兵衛は占い屋を走り去ったのでございます」と四月が締めた。
家族全員拍手喝采であった。
清十郎とせつは手を叩きながら涙をこらえた。
四月と出雲姫は照れている。
清十郎は「素晴らしい芝居であった。本当に素晴らしい。清三郎を思い出すのう……う、う」と泣き出した。清十郎の言葉に皆が清三郎を思い出し、乙女組も涙目だ。
三月は「清三郎様……早くお戻りくださいませ……」四月は「待ち遠しいでござる……」五月は「まさか不貞を……戻ったらくんくん匂いを嗅いでやる」出雲姫は「どうかお体をお大事に……」
そしてせつ。「まあまあ、今の芝居は奥平様の話でございましょう。主役が入れ替わっておりますよ」と涙を流した。
清十郎が思いを語った。「奥平殿はきっとやり遂げる。そんな気がする。麻木殿の心を必ずや射止められると信じたい」
すると四月が「出雲姫が導いておりまする。まず間違いないでしょう」と出雲姫の手腕を褒めた。
清十郎は「いっそ占い屋など辞めて、八岐大蛇の芝居小屋でもやったらどうかのう」と提案した。
これに皆が喜んだ。
すぐに五月が「お父上様、お酌いたしんす」と言って酌をした。
その夜の橘家は笑いが絶えることはなかった。
一方、奥平堀兵衛は占い屋から自宅に戻ると一心不乱に素振り稽古を始めた。体がほぐれると上下左右の動きを加える。
「これは思った以上にきつい……」四半時(約30分)続けると息が上がった。思わず両手を膝に付いた。「橘殿はこれを半日以上やられていたのか……」そう思うと大きく呼吸し再び素振りに没頭する。
翌朝、一番に修練場に入った奥平は雑巾がけを始めた。定刻に十数人の若い同心がやってきてその光景に驚いた。奥平が雑巾がけをしているからだ。
「あの気高い奥平殿が雑巾がけをやっておられるぞ……」一人が呟いた。皆がそれぞれ顔を見合わせる。黙って見ている訳にもいかない。
「おはようございます!」若い同心らは奥平に挨拶すると直ぐに雑巾を手に取る。我先にと床に雑巾を押し当てて走る。雑巾がけが四半時(約30分)続いた。
若い同心は直ぐに雑巾を片付け木刀を手にする。が、奥平はしばらく動けなかった。息が上がり足腰が重いのだ。
「そなたら、これだけ雑巾がけをして直ぐに木刀とは……足腰はどうもないのか」奥平が問うてみた。すると同心の一人が「奥平殿、日頃の鍛錬の成果でございます」
さらに他の同心が、
「修練場に入った瞬間から全てが稽古……橘殿が残された言葉にございます」
と続けた。
奥平は強く感じた。清三郎がこの場に残した足跡は八岐大蛇が語った以上に根深いと。そして「自分は完全に後れを取っている……」と。
それからは無心で稽古に打ち込むようになった。これまでは上級者としか互い稽古をしなかった奥平であったが、若い同心とも積極的に稽古するようなった。
無心で木刀を交えると、相手の実力は低くともその気迫にしばし圧倒された。これまで奥平が気にも留めなかったことだった。
それぞれの剣に個性があり、得意の技を磨いていた。「これが雑巾がけの成果……素振りの成果か……」奥平は心で思った。
「拙者、まだまだ小者であったわ!」そう叫ぶと相手を選ばず無心に稽古に打ち込んだ。
奥平はその日を境に必ず雑巾がけから稽古を始めた。
若い同心達は、これまで気軽に声を掛けることも躊躇われた大先輩が雑巾がけすることに気まずい思いもあったが、負けずに雑巾がけの競争を行った。
そして知らず知らずの内に、大先輩と後輩という垣根もなくなっていく。
互い稽古では、既に先輩や後輩といった壁は存在しなくなった。皆が遠慮なくぶつかっていく。
それまで暗黙の了解であった稽古の習慣ががらりと変化していった。若い同心は実力を上げ、中堅は追いつかれまいと必死に上を目指して努力する。上級者も手を抜けば直ぐに追い越される状況となっていた。
奥平は剣術に関して言えば元々鋭い感性の持ち主であった。足腰の鍛錬が重要ということも服部軍団の隠密訓練を受けて充分に承知していたが、生まれ持った天性の剣さばきが足腰の鍛錬は不要と知らず知らずの内に遠ざけていたのだった。
雑巾がけや自宅の素振りで下半身が充実してくると奥平の剣に少しずつ変化が生じた。
奥平が今それを意識しているかは分からない。
だが下半身の鍛錬が剣術を磨く近道であることに気付き始めていた。
ただ一心不乱に、無心で稽古に打ち込んでいた。強くなりたいという気迫が感じられた。それはこれまでにない奥平だった。
奥平の稽古に励む姿が修練場の慣習をがらりと変えた。
その姿を修練場の片隅で見つめる者があった。梓であった。