第2話 誘拐事件
時は三月初旬まで遡る。
上杉中屋敷、橘家の夕餉の席。清三郎の父、米沢藩江戸家老、橘清十郎と母せつに対し、清三郎は北国で修行を行いたい旨を打ち明けた。
姉のあやねは昨年の秋、良縁に恵まれて嫁いでいった。譜代大名の長男から見初められ、これを受け入れたのであった。あやねが嫁ぐと決めた最大の理由は清三郎の成長にあった。
昨年の秋、天下の服部半蔵正成が橘家を訪れ、両親とあやねに対して清三郎を戦友と認め、今後清三郎に助けが必要となれば自ら助力すると誓った姿を目の当たりにした。
将棋にしか興味のない弟を、服部半蔵がどうして認めたのかはあやねにはさっぱり分からなかった。が、「南町奉行所での戦」や「半蔵の処刑場であった佐貫の合戦」に清三郎が率先して参加し、父も母もそれを許し、そして生き抜いて生還したという事実に清三郎の成長を実感していたのだった。
あやねは自分という存在が清三郎には既に必要なくなったことを、信じたくはないが心の内では痛感していた。
米沢で過ごした幼少期には常に「姉上姉上」と後を追い回し、姉が本を読めば本を読み、算盤を弾けば算盤を弾いた清三郎、姉の傍を離れなかった清三郎が、今はとても遠くに感じた。
そこに良縁が飛び込んで、あやねは寂しい気持ちもあったが縁談相手の誠実な人柄もあり、きっぱりと嫁ぐことを決心した。
姉との別れは清三郎にとっても本当に辛い出来事であったが、弟に異常なまでに執着する姉が嫁いだことで、清三郎がこれまで両親に隠してきたことを全て打ち明けようと決心したことも、また事実であった。
「清三よ、北国で修行したい気持ちは分かったが、何の修行をするつもりか。服部様がそなたの事を今後さらに強い剣士になると話されたが儂にはどうにも理解できん。
十の時から引きこもり、木刀も握ったことのない清三がどうして服部様からあれほどの称賛を受けるのか。正直儂にはさっぱり分からぬ。清三、その辺の話をしてくれるか。修行の話はそれから聞こう」
「もちろんでございます。この清三、これまで父上と母上に隠していた義がございます。これから包み隠さずお話しします故、覚悟してお聞きください」
「覚悟とは大げさな。清三、江戸家老をみくびるなよ」
威厳を持って答えた父の言葉を気にすることなく清三郎は後ろを向くと、
「皆さん、私の父上と母上に挨拶して頂けますか」
と告げた。すると清三郎の後ろで横一列になって控えていた景虎乙女組の面々がふっと姿を現した。
正座していた清十郎とせつは目が飛び出しそうになるほど驚き後退さった。二人とも顔は強張り腰が抜けた。せつは「ひっ」と悲鳴を漏らし、清十郎にしがみ付き顔を埋めた。
しばらく沈黙が続いたが、両手を後ろについて体を支える清十郎がやっとの思いで言葉を発した。
「せ、清三、こ、これは一体……」
「驚かれるのも無理はございません。しかし安心して下さいませ。決して幽霊などではありませぬ。皆、私の従者にございます」
「う、うむ……」
清十郎は驚いた顔のまま頷いた。
清三郎は立ち上がると右端に位置していた三月の隣に正座した。
「では、三月から私の両親に挨拶して下さいますか」
「はい。父上様、母上様、わたくし、三月と申します。清三郎様から名を授けていただきました。南町奉行所の戦い以降、姿は消していましたが常に清三郎様の御傍に控えておりました。
橘家の家風も充分に心得ております。父上様母上様へのご挨拶、以前から機会あればと熱望しておりました。
突然姿を現したことでさぞ驚かれたと思いますが、この三月、父上様母上様のご尊顔を賜り、この上ない幸せでございます。清三郎様、獲物もお見せした方がようございましょうか」
三月は自分の獲物を清三郎の両親に見せたいのが本音のようだ。
「そ、それは結構です……」
「そ、そうですか。これからは清三郎様同様、父上様母上様にも全力で尽くす所存にございます。どうかよろしくお願い致します」
三月は両手を膝の前で揃え頭を下げた。
「では四月、挨拶を」
「はは。私は四月と申します。三月様と同じく清三郎様に名を授けてもらいました。父上様と母上様に姿をお見せし、挨拶できることに無上の喜びを感じております。以後、お見知りおきを」
「では五月」
「私は五月、他の二人と同様清三郎から名前をもらった。不貞は絶対に許さない女。父上様、母上様のためなら命を捨てる覚悟。何なりと申しつけて下され」
「では最後に出雲姫……」
清十郎が出雲姫を見ながら「清三、トカゲが数匹束になっておるのは何であろうか……」と清三郎に恐る恐る尋ねた。
清三郎が左端にいるはずの出雲姫を確認すると最も小さい体形となっていた。これでは父が不思議がるのに合点がいった。
「ご、ごほん。出雲姫、もう少し普通というか大きくなってもらえますかな……」
「あ、これは失礼致しました」相変わらず声は八匹だったが体が小さいため、その声の異様さが増した。そして出雲姫が人ほどの大きさになった。
これに清十郎とせつがさらに目を広げて驚いた。慌てて後退さる。が、先に腰が抜けたせいでうまく動けない。せつは清十郎に抱き着き震えていた。
「私は出雲姫と申します。横に並んでおられる方々同様、清三郎様に名前を頂戴致しました。佐貫の合戦の折、上級闇魔導士によって冥界の淵から須佐之男命と共に呼び出された八岐大蛇にございます。
清三郎様にはその際に、須佐之男命の呪縛から救って頂きました。それ以来お仕え致しております。父上様、母上様に挨拶出来て感激しております。どうぞよろしゅうお願い申しあげます」
「全員、上手に挨拶出来ましたな。父上、母上、私の従者の面々にございます」
「う、うむ……。よ、良い従者を連れておるな……。の、のう、せつ……」
「は、はい……」
清十郎は何とか言葉にしたが、せつは言葉にならないほど驚いていた。特に出雲姫に怯え体を震わせていた。
二人とも、三月、四月、五月、三人の異国人には何とか驚きを隠せた。しかし、出雲姫と申した妖怪は己を八岐大蛇と言うたではないか。しかも須佐之男命の呪縛から清三郎が救ってやったと言う。とても信じられる話ではなかった。
清三郎が両親の様子を見て、「父上、母上、こう見えて出雲姫はなかなか可愛らしいのです。できれば頭を撫でてやってはもらえませんか」と出雲姫を見ながら助言した。
清三郎の意を汲んだ出雲姫はちょこちょこと清十郎とせつに近づくと頭を出した。二人は恐る恐る頭を撫でてみる。
「ああ、とても幸せにございます」
出雲姫が八匹の声で答えた。すると五月が「ずるい。わたしもー」と言って出雲姫の首に抱き着き、頭を撫でて欲しいと両親にせがんだ。
そうなると他の二人も黙っていない。三月と四月も出雲姫の首に抱き着き、それぞれ清十郎とせつに頭を出した。清十郎とせつは目を合わす。これは夢か幻か。とにかく二人は皆の頭を順番に撫でてやった。
三月は涙を流して喜んだ。四月と五月は互いに「あっちにいけ」と喧嘩している。出雲姫は再び小さくなると、せつの膝の上に移動して腹を見せた。
せつは思わず「まあ、何て可愛らしいこと」と言って出雲姫の腹を優しく撫でてやる。それを見た五月は「あ、また抜け駆け。ではあたいは御父上に」と言って正座していた清十郎に膝枕した。
それを見た三月と四月も黙っていない。二人も直ぐに清十郎の膝に頭を乗っけた。三人はきゃっきゃと喜んでいる。
たまらず清十郎が、「せ、清三よ、こ、この者らは正気なのでござろうな……」と不安げに尋ねた。
「いつも通りでございます」と清三郎はあたまを掻きながら苦笑いだ。
「父上と母上にとっては初対面でありましょうが、この者らは常に私の傍に控えておりました故、お優しい父上と母上に甘えたくて仕方なかったのでございましょう」と付け加えた。
そして清三郎が言葉を続けた。
「私がどうしてこの者らを従者に従えたのか。詳しく説明いたします」
美女三人の頭を膝に乗せた清十郎はまんざらでもない様子で、
「うむ。ありのまま申して見よ。もう何を言われても驚かぬ。何せこの状況であるからな」
と答えた。
「まずは今年の初夏に南町奉行所で勃発した戦での出来事でございます。奉行所の与力、同心らはそこで岬権兵衛一家なる盗賊を迎え撃ったのでございますが、そこに幕府を乗っ取らんとするオランダ闇組織の一人であり、岬権兵衛一家を操っていた闇魔とん士が将軍への献上品であった三月を従えて現れたのでございます。
岬権兵衛らは闇魔とん士の妖しい薬によって身体強化し、戦いは奉行所勢の劣勢にございました。その時です。ふいに母上から頂いたお守りが私の顎にぴたりとはまり、何と申しましょうか。
およそ信じられぬ話でございましょうが、私が面を付けた景虎という武士に変化したのでございます。景虎は凄まじい力で岬権兵衛一家を瞬滅し、献上品として用意されていた三月を救ったのでございます」
すると突然慌てた清十郎が話を遮った。
「清三、景虎と申したか! 景虎に変化したとは誠か! せつがお主に与えたお守りが顎にはまって景虎に変化したのか! まこと間違いないことか!」
清三郎は激しく問い質した清十郎に驚きながらも、「誠にございます。私にもどうして景虎なる者に変化したのか全く見当もつきませんが母上から頂いたお守りが変化の鍵であったのです。
父上、この話に驚かれたのは無理もないと思いますが、その慌てよう。何か気になることでもおありですか……」と質問した。
清十郎は生汗をかいていた。
「いや、景虎と申せば儂が仕えた謙信公若き頃の名。謙信公を思い出したまで。気にせず続きを話してくれるか……」
やっとそこまで言葉がでたものの、心中穏やかではなかった。清三郎は実は捨て子であり、「謙信様の子」と書かれた和紙が添えられていたのだ。
顎にはまったお守りとは、捨て子が入れられた籠に入っていた面ぼう(戦の時に顔を守る防具)の顎部であり、謙信愛用の面ぼうに間違いない防具であったことから捨て子の証拠を隠滅するため、清十郎が木槌で叩き割った。その時の破片として残ったものだった。
それをせつが絹糸を通してお守りとし、清三郎の首に提げさせていたのだった。「まさか景虎様に変化したとは……信じられぬ……。清三は本当に謙信様の御子であるのかも知れん……」清十郎はせつを見た。すると目があった。せつも同じことを考えていたようだ。
清三郎は父に一礼すると説明を続けた。
「圧倒的な力を持った景虎でございましたが、ただし景虎にも弱点があったのでございます。それは私の体があまりにも貧弱であったため、私の体力に比例して変化の時間に制限があったのです。
奉行所での戦に勝ち、景虎の面を取った時には私の体はご承知のとおり全身罅だらけで瀕死の重症でした。これは景虎の力に私の体が持ちこたえられなかったのが原因です。
自宅に戻り毎夜が峠であったことは本当の事でございます。決して私を診て下さった医者が藪だったのではございません。
ところで私が助けた三月はオランダの闇組織であった上級闇魔とん士らが異世界からこの世に召喚したセオスハロスという者にございました。召喚されたセオスハロスは三名。
その一人が三月であり、他の二人は他国への献上品として差し出される予定だったのです。その二人を私が救った三月が助けに赴いたのでございます。
そして二人を助け出した三月は二人を連れて日本に戻り、早速医者に扮して当家を訪れ、私を癒しの術で回復させてくれたのです」
「何と、そのような話であったか。この世で起きた事とは到底思えんな……。そ、それは良いが、そのう……皆そろそろ自分で座ってはどうかのう……ごほん」
清十郎は三人が膝に頭を載せたままであったのでさすがに痺れがきたのだった。
三月が「これはついつい父上に甘えてしまい、失礼しました」と言って直ぐに移動した。
四月と五月も渋々ながら移動した。五月が「父上、よろしければ私の膝をどうぞ」と言うと、四月が「父上様、五月の柔らかい膝よりも、鍛え上げた筋肉の私の膝の方が枕にはちょうどよいかと」すると四月と五月が取っ組み合いになった。
「二人ともいい加減落ち着きなさい!」三月が二人を諫めた。すると二人は「ふん」と顔を背けてその場に正座した。出雲姫は相変わらずせつに腹を撫でてもらっていた。
「三月、セオスハロスについて父上に説明してもらえますか。私も実ははっきりと理解しておらず。面目ない」
「喜んで説明させて頂きます。セオスハロスとは私共の世界に存在した神によって創造された、日本で言えば神使のような者にございます。
神から地上界に送り込まれ、神に逆らう輩を探し出しては抹殺する役目を担っておりました。それにより民は我らを崇拝し、その思いが神の力をより強くしていたのです。
私達三人はそのような世界で生きておりました。そしてある日、オランダの上級闇魔導士の集団によってこちらの世界に召喚されたのでございます。
召喚された影響で私たちは名前を失った上、服従の呪いをかけられました。そして景虎様、いえ清三郎様にまず私が助けていただき三月という名を与えて頂きました。
さらに新たな力まで授かった事で他国へ献上予定であった二人のセオスハロスを助け出すことが出来たのです。それが四月と五月にございます。
医者に扮して清三郎様に癒しの術を使った折、この二人にも「四月」「五月」とそれぞれ名を与えて下さったのです。」
清十郎は腕を組んだ。ぶつぶつと呟く。
「う……うむ、なるほど……。幕府乗っ取りを企むオランダの……や、闇組織……。そ、それで服部様が絡んでおられたと……。
清三郎が変化した景虎に……、そなた達は神が創ったセオス……ハロス? 日本で言えば神使であるか。神使と言えば神の使者として動物が例えられるが……そなたらは神の使者なのか……。そして、敵は何と言うたか……、上級闇魔とん士?」
清十郎は耳慣れぬ言葉を自分なりに整理しながら何とか理解しようとした。その中でなんと三月らは神使というではないか。
これに清十郎とせつはまたも驚いた。清三郎は従者と単に言い放っているが、とんだ罰当たりではないのか。頭が混乱してくる。
ここから清三郎が答えた。
「父上、聞きなれぬ言葉や難解な話ばかりで整理が間に合わないかも知れませんが、要は敵はオランダの上級闇魔とん士、その陰謀に服部様が貶められ、父上もご存じの通り将軍綱吉公の指示で佐貫の合戦という処刑が行われたのです。
幕府軍は総勢三百五十名、対する服部軍団は三十名という多勢に無勢でございました。しかも敵は鉄砲隊、弓隊を揃えておりました。ここで鉄砲と矢の壁になったのが三月、四月、五月にございます。
それぞれ勇敢に鉄壁の防御を披露したのです」
そこに四月が「父上様、清三郎様、先ほどから聞いておりますと気になる部分が……。失礼ながら魔とん士ではありません。魔導士です」と突っ込んだ。
すると三月が直ぐに四月の尻を指で捻る。そして耳元で「もう魔とん士で良いのです」と囁いた。
鉄壁の防御と聞いた清十郎が思わず、「ということは、そなた達三人も相当な手練れなのであろうな」と確認した。
「それほどではございません」三月が謙虚に答えた。
「そういえば先に獲物を見せようかと言っておったが、是非みせてくれまいか」清十郎が身を乗り出した。
それぞれの武器に興味津々のようだ。三月が清三郎を見る。
清三郎が頷くと「ただし、振り回さないように。父上と母上にお見せするだけですぞ。下手に振り回せば上杉中屋敷の屋根が吹き飛びましょう」と釘を刺した。
三人が立って並ぶと、三月の右手に大鎌が、四月の右手に大槍が、五月の背中に大剣が現れた。
「この大鎌はデスサイズと申します」三月が謙虚に答える。
「この大槍はグングニルでございます」四月が自慢げに答える。
五月は背中の大剣を取り出し、正眼に構えて発光させた。「大剣デュランダルにございます」
「これはまた物騒な獲物……初めて見るものばかり……。見ているだけで首が飛びそうじゃ……何と恐ろしい獲物か……」
清十郎が正直な感想を述べた。
「ゆっくりとしまいなさい」清三郎が指示すると三人は獲物をゆっくりと消した。
「この世でこの三人に適う者はおりますまい。それほどの強さです。そして母上の膝で仰向けになっている出雲姫も同様でございます。今はそのようななりですが……この者らを総称して景虎乙女組と申します」
清三郎が三人と一匹を褒めると皆は一斉に澄まし顔となった。出雲姫は「ミャーミャー」鳴いていた。清三郎が話を続けた。
「佐貫の合戦では私が景虎になることを躊躇ったために乙女には大変な苦労をかけ、服部軍団や大切な友人に大怪我を負わせてしまいました。
躊躇った理由が景虎変化後に訪れる死の淵を彷徨う恐怖だったのです」清三郎は当時を思い出し、膝の上の拳を握った。
「しかし勇気を持って景虎に変化いたしました。乙女らの助けもあり、須佐之男命を倒すことができ、操られていた将軍綱吉公と柳沢吉保殿は、上級闇魔とん士を服部様が切り捨てたことにより正気を取り戻されました。
景虎になった私は前回よりも私自身の体力が向上していたため、奉行所の戦いよりも多数の技を繰り出し、より長い時間闘うことができました。
しかし面を外した途端、これもご承知のとおり、全身罅だらけの重症であったのでございます。その時は乙女と新たに従者となった出雲姫に連れられ橘家に戻りました。
医者に扮していたのが三月らにございます。三月らの治癒術によって死の峠は越えましたが、死の淵を彷徨う恐怖をずっと感じておりました。
その苦しみを乗り越えた時、より体が丈夫になり、強靭な体力を得ることが叶うため、三月らは敢えて死の峠を越えるだけの癒しに留めたのです。
奉行所での戦いの後は、三月が四月と五月を助けに向かったため、十日ほど死の淵を彷徨いました。医者に扮した三月らが戻り、治癒術を使った時には既に死の峠を自ら越えていたことから僅かな治癒で完治できたのです。
自ら死を乗り越えたことにより、私自身の体力が向上したおかげで佐貫の合戦でも存分な活躍が出来たのでございます。父上、母上、隠していた義とはこのような話でございます」
清三郎は両親に頭を下げた。「そうであったか……。そうであったか……」噛み締めるように清十郎が清三郎に飛び付き強く抱きしめた。
「そのような苦しみを背負っておったか。景虎様に変化するとは……。本当に自慢の息子ぞ清三郎。よう話してくれた清三郎……」
その姿を見たせつと三月は涙を手で拭いた。四月と五月はわんわん泣いていた。そして清十郎は最も重要な事を清三郎に尋ねるため、清三郎の両肩を掴んだ。
「そ、それで清三よ、景虎様に二度ほど変化したようじゃが、そのう、何というか、心の変化というか、何かしら父と母に対して変わった気持ちというか、そういった心の変化などはどうじゃ……何かないか。無ければよいが……」
清三郎は父の問いの意味が分からず一瞬呆けたが、父は自分が景虎に変化したことで父と母を忘れたのではないかと尋ねているのだと理解した。
「父上、私が父上と母上のことを忘れることがありましょうか。今後、何度景虎に変化したとしても私は父上と母上の長男に変わりはありませぬ。そのような事、無用の心配でありましょう」
清三郎はきっぱりと言ってのけた。すると清十郎に続いてせつが涙を流しながら抱き着いて来た。もはや父と母は何も語らなかった。
三月が、「橘家の夕餉はあやね様がおられずとも、涙を流してばかりでございます」と言いながら自分も涙を流していた。
四月と五月は抱き合ってわんわん泣いた。せつの膝からころげ落ちた出雲姫も数滴涙が落ちた。
しばらくして清十郎とせつが清三郎から離れると清十郎が確認した。
「清三よ、話の筋は分かった。この場にあやねがおれば発狂していたであろう。良い時期を選んで話してくれた。服部様がそなたは立派な剣士になると話された意味も良く分かった。
しかし何故修行なのじゃ。どうして修行する必要がある。そなたは佐貫の合戦で重症を負ったが見事に復活して気力体力はより充実したのではないのか。どうして今さら修行する必要があるのか」
清三郎は清十郎に頭を下げて話した。
「父上が申されるとおり、気力体力は常人以上に充実しております。佐貫の合戦後に復活し、南町奉行所の武道修練場にも昨年末まで顔を出しましたが、ここだけの話、柳生新陰流を継承された麻木市之丞梓殿も敵ではなくなりました。
その後は奉行所に顔を出すことなく乙女らを相手に剣の稽古を行いました。おかげで相当な剣技を身に付けております。
しかし、しかしそれでは足らないのです。いかに小手先の剣技を身に付けようとも今の私には無用の長物なのです。
先にも話しましたが、この清三は景虎から面を外した後に必ず訪れる死の淵を彷徨う恐怖がとても恐ろしいのです。
それが待っていると分かるばかりに景虎に変化することを躊躇い、大切な仲間を傷付けてしまうのです。そのような事は金輪際御免なのです。
三月の話によれば、最強の上級闇魔とん士がやってくるかも知れぬとか。その時迷うことなく景虎に変化するには死の淵を彷徨う恐怖を克服する必要があるのです。
死の恐怖を克服するための修行なのです!」
清三郎は熱く語った。その熱意は清十郎に充分伝わっていた。清十郎は腕組した。
「なるほどのう。それで生まれ育った北国で修行か。よかろう。これはそなたの問題であってこの父がとやかく言うことではないことがよう分かった。思う存分、納得するまで修行してくるがよい」
「父上、許して頂けますか」
「許すも何も、清三の問題じゃからな。もはや家督も期待しておらん。あやねが子を沢山産めば養子を取ればよいと考えておるし、橘家が儂の代で終わっても構わんと思っておる。清三、天下一の男になって戻って参れ。せつはどう思う」
せつは涙を目頭に溜めながら答えた。
「一日でも早いお帰りを。そしてお体を大切に……それだけにございます……」
「父上、母上、ありがたきお言葉。心からお礼申し上げます。清三、必ずや強き男になって帰ってまいります」
三月が心配そうに質問した。
「清三郎様、修行の期間は如何程をご予定でございましょうか」
「そうですね。死の恐怖を克服するのが目標なのです。そうですなあ、半年ほどはかかるかも知れません」
すると五月が「長過ぎ。不貞の予感……」と言ったことから騒ぎが起こる。三月が「半年とは長過ぎます。一汁一菜などお困りのはず。私がお供いたしましょう」すると四月が「三月様、それは身勝手が過ぎませんか。特攻隊長の私がお守り致すのが筋かと」
今度は五月が「清三郎、害虫は私が追っ払う。心配無用」最後に出雲姫が「夜の寝床は私の背中が一番でございましょう。気力体力の回復ははまず睡眠からと古くから申します」
「景虎乙女組主席の私がお供するのが当然でしょう」「特攻隊長の私でございます」「清三郎の貞操を守るなら私」「毎日の快適な寝床は私の背中で」とうとう「私が、私が」の乱闘騒ぎになってしまった。
「こうなったら決闘で」という声まで聞こえてくる。
清十郎とせつは苦笑いだ。
清三郎が大声で叱咤した。
「これ! 誰も連れていきません!」
清三郎の一声に団子状態になっていた乙女組が沈黙した。
「私一人で何でもしなければ修行の意味がありません。それにそなたら江戸で金を稼ぐ云々と申していたではございませんか。何か計画がある様子。私が留守の間、それをやってみなされ。
三月にはやってもらいたいことがあります。私が留守の間は私に、清三郎になっていて欲しいのです。私に扮して将棋道場に通い、たまに来られる明石辰之進殿の相手をしてもらいたいのです。
今回やってくる最強の上級闇魔とん士はどうやら私自身が目当てとのこと。それならば多少なりとも敵の目を誤魔化しておきたいのです。三月、頼めますか」
「はい。御父上様と御母上様がよろしければ私は立派に務めを果たします」
「ということで父上、母上、私が戻るまで三月を私として生活させますがよろしいでしょうか」
「もちろん異存はない。のうせつ」
「はい。なんだか楽しそうですこと」
「では三月、試しに私に扮してもらえますか」
清三郎が告げると三月が目を閉じた。すると体が一瞬ぼやけると清三郎になっていた。
「おお、まっこと清三に間違いないのう!」
清十郎は感嘆した。せつも一寸たがわぬ清三郎振りにどちらが本物か分からないくらいだ。
「三月、素晴らしい変化にございます。これで拙者の不安が一つ解決できました。それで五月にはいずれやってくるだろう上級闇魔とん士に目を光らせて欲しいのです。たまに出島を覗いてもらえば結構。頼めますか」
思わぬ清三郎の命令に五月は直ぐに正座して両手を揃え「清三郎の求婚、謹んでお受けいたしますわ」と言って頬を赤くした。乙女の面々はあきれ顔だ。
清三郎が頷く。
「これで二つ目の不安も解決ですね。後は四月と出雲姫ですが古着屋の隣で店を開く計画を立てていると聞きました。問題を起こさないようにするのですぞ。五月も手が空いた時には手伝とよろしいでしょう」
清三郎が語った「古着屋」とは服部半蔵が町の様子を常に監視するために用意した「仮の店」であり、清三郎との連絡もここで密かに行っていた。
清三郎の言葉に出雲姫が八本の首を長くして答えた。
「清三郎様がお戻りになるまでに、大判小判ざくざく稼いでおきましょう。ねえ四月ちゃん」
「おお。なんたって私が手伝うのだからな。おっほん」
「と、とにかくお隣の古着屋には決して迷惑をかけないように。言い付けましたよ。たまには三月も覗いて大変なことになっていないか確認してくだされ」
三月が、いや三月が変化していた清三郎が淑やかに頭を下げた。
これを見た清三郎は、自分がおなごのように頭を下げたことで複雑になった。
「あ、ああ、もう三月に戻ってもらえますか。気持ち悪くてかないません」
三月が変化を解くと「気持ち悪いとはあんまりです」と泣き真似をした。
「今のはきついわぁ。三月様ショック。私なら切腹」と五月。清三郎はあわてて「三月、申し訳ない……。そのようなつもりはなかったのです」と謝りながら泣き真似をする三月を抱きかかえて頭を撫でてやった。
すると四月、五月、出雲姫が清三郎に飛び付いた。皆平等というのが乙女組の暗黙の了解らしい。
清十郎が助け船をだす。
「清三よ、本当に良い従者を持ったのう。しかし早く修行に出発したほうがよいかも知れんのう」
「はっ。明日の夜明け前に出立いたします。乙女の面々は私が命じたこと、しかと守るようにお願いします」清三郎の目の前に顔を揃えた面々は一様に悲しそうだ。
「父上、母上、ちと賑やかになるでしょうが乙女組をよろしくお願い致します」
「うむ。あやねの代わりに娘が沢山できたようで楽しそうじゃ、のうせつ」
「はい。本当に。毎夜賑やかな夕餉になりそうです」
「明日の夜明けに出立されるのであれば、今日は寝かさない」また五月が紛らわしいことを喋った。
清三郎は顔を赤くして「五月、いい加減にしなさい。怒りますぞ。父上と母上が心配なさるであろう」と質した。
すると五月は「清三郎許して。お詫びにあたいのやわらかい膝枕をどうぞ」何処で覚えてくるのか知らないが、本当に驚くことを平気で喋る。
この後の事は想像できた。「私の膝枕で」「いや私の」「私の背中でぐっすりと」案の定揉み合いになっていた。
清三郎は頭を掻きながら苦笑い。清十郎とせつも大笑いだった。
次の日の明け方。
寝床の清十郎が呟いた。「清三は出立したな」
「そのようです。乙女達が見送ったようですね」せつが答えた。
「清三が景虎に変化したという話、せつはどう感じた」
「あのお守りを顎に嵌めると……景虎に。私は真に目にした訳ではございませんが清三郎の言葉を信じとうございます」
「そうか。そうよな。儂らが清三を本当の息子と思っておる限り、清三は儂らの息子に違いないな」
「あの子は橘家の器に収まるような子ではありません。いずれ旅立つ時が参りましょう。それでも私達の息子にございます」
清三郎を見送った乙女達が部屋に戻ってきたようだ。声が聞こえて来た。
「やはり私が着いていった方がよいのでは」「それなら私が着いていく」「ならば私」「私の背中が最高の寝床でしょうに」
清十郎は囁いた。
「清三は旅立ったが、しかし賑やかな日々が始まりそうじゃ」
「はい。本当に」
二人は笑顔で二度寝した。
三月はその日から清三郎に成り代わった。日頃の行動をなぞるように昼過ぎに将棋道場に赴いた。
清三郎が南町奉行所に詰めるようになり、将棋道場に一切顔を出さなくなっていたことから将棋道場の常連はとても残念がっていた。
それがどうしたものか昨年の年末頃からふらっと顔を出すようになり、それからはほとんど毎日昼過ぎには将棋道場で将棋を指すようになっていた。
常連組はとても喜んだがその反面、奉行所に顔を出さなくて良いのか心配にもなり清三郎に尋ねてみると「いやあ、調子に乗ってしばらく通いましたが拙者が長居する場所ではありませんでした。
もう邪魔にしかなりません。空気を読むというものですかな。はははは」清三郎はそう答えると陽気に笑った。常連組もそれなら安心と大喜びで清三郎を迎えたのだった。
しかし清三郎が将棋道場に通うようになってから、立派な装飾で飾った毛並みの良い馬が度々町風呂屋の前に待つ姿が目撃されるようになった。
それは通常であれば異様な光景であるはずだが今ではこの界隈で常識の光景となっていた。南町奉行所筆頭与力、明石辰之進の馬だった。
清三郎と将棋が指したくて気が付けば毎日のように町風呂屋二階の将棋道場に訪れていたのだ。
辰之進が清三郎に問うたことがあった。
「清三郎殿、どうして急に奉行所から離れられた。稽古を一緒にしていた同心らが寂しがっておりますぞ。聞けばどんどん腕を上げられていたとか。
若い衆らは特に寂しがっておりますな。そうそう麻木も残念がっておりました。何か理由がおありか」
「明石殿、拙者は気付いたのでございます。
人にはそれぞれ与えられた領分というものがございましょう。拙者が明け方から稽古に参加すれば若い同心の方々がとても喜んで稽古に励まれたことも承知しております。
しかしそれは拙者の領分ではございません。ただただ邪魔をしていただけに過ぎませんでした。素人の私が堂々と南町奉行所の門を潜っていたなどと、今思えば恐れ多いことであったと反省しておるのです。
明石殿に誘われて南町奉行所に参ったのが懐かしゅうございますなあ」
「清三郎殿が領分と言われれば分からぬ話でもござらんな。
ただそれでも清三郎殿が奉行所に与えた影響を考えると門を潜るのが恐れ多いなどと、無用の心配でござろう。清三郎殿を嫌う者など南町奉行所に一人もおりませんぞ」
「明石殿、それは重々承知しております。しかし皆様方の忙しい働きぶりを見ておりますと自分が恥かしくなるのです。
稽古が終われば同心の仕事、外回りの仕事、訴状の精査等々目の当たりに致しますと、はやり人の領分というものを考えずにはおれないのです。
修練場での稽古についても本来は奥平殿らが新米同心の底上げを行って然るべき。私の領分ではないのです。勝手を申しましてお許し願いたい。
私はこの場所で、呑気に将棋を指すことが領分と思っております。どうかお察し下さいませ」
辰之進はとても残念そうだ。
「そうでござるか。清三郎殿がそこまで考えておいでなら何も申しますまい。拙者は清三郎殿と一局できれば満足ですからな」
「一局で終われば良いですが、清三郎様を独り占めされちゃあ叶いませんぜ与力様」
常連らが愚痴をこぼす。
「これは一本取られたのう。わっはっはっは」
常連らも大いに笑った。
それ以来、いっとき潜めていた清三郎の噂があっという間に江戸に広がった。
――上杉家のただ飯喰らい。
しかし清三郎自身、そう噂されることを妙に気に入っていたのである。
ところで三月が扮した清三郎。三月は清三郎の指し筋を常々後ろから見て覚えていたつもりであったがいざ指してみるとこれがなかなか難しかった。
常連組の中でも一、二を争う者と勝負すると負けることが多々あった。それでも二、三日で負けることが無くなったのはさすがだった。
辰之進との勝負は白熱した。勝負は五分五分であったため、辰之進が清三郎に理由を問うと、
「明石殿、どのように努力すればそのように強くなられるのですか。ぜひご教示願いたい」と世辞を言って胡麻化した。辰之進は上機嫌で帰っていく。
三月はあらためて清三郎の頭の良さに感心した。
三月の方は何とか誤魔化せているが、問題は商売を始めた出雲姫と四月であった。
元々空き店舗となっていた古着屋の隣は服部半蔵が予備店舗として所有していたものであり、半蔵が喜んで貸してくれたのだが、店に掲げた看板には「八岐大蛇の大占い」と書かれており、店内は薄暗く、さらに黒くて薄い幕が垂らされていた。
内から蝋燭何本かに火を着けて垂らした幕に出雲姫の影を映し出し、本物の八岐大蛇がそこに居座る風を装った。
確かに本物であったのだが、外から中を覗くと何とも不気味な店内であった。とても客が入りそうない。開店の日に覗きに来た清三郎に扮した三月が笑ったほどだ。
四月が呼び込み役、出雲姫が幕の後ろで客に占い結果を告げる役回りだ。出雲姫は人間を見ると、その者のそう遠くない未来を予知することが出来た。
それを商売にしようと四月が安易に考えたのだが、商売を考えた理由が泣かせた。いつの日か清三郎が大物になり、世直し旅に旅立つと予知した出雲姫がその時の為に多少なりとも稼いでおこうと言い出したのである。
乙女組は大賛成であったが清三郎が修行で留守の間、それぞれに指示が出されていたことから商売に関しては四月が呼び込み役と決まったのだ。
男商人に扮した四月が大声で客寄せする。
「そこの旦那、八岐大蛇様が旦那の未来を占ってみせますぞ。よくばらなければ必ず吉となる未来が旦那を待っていること間違いなし。
占いは一回たったの五文。騙されたと思って暖簾を潜ってみなされ。さあ明るい未来が待っておりますぞ!」
四月が客寄せをやっていると若いおなごを連れた中年男が興味を持ったようだ。四月に五文払うと薄暗い店内に入り、黒い幕の前に備えた椅子に座った。
幕には八本の首が蝋燭の明かりで影となって映っており、幕の中から聞こえた声は明らかに数人が同時に喋っていると思えた。
出雲姫が幕を透して中年男をじっと見据える。金持であるが寿命は短いようだ。しかしそれを言っては商売にならないので、当たり障りのないところを占いとして答えた。
「そなた、今から芝居小屋にいくのであろう。向かう道の二つ目の路地で立ち止まられよ。さすれば幸運が待っておる」
四月が「占いは終わりました。毎度でございます」と言うと中年男は「どうして芝居小屋に行くと分かったのか」と驚いて聞いてきたので「八岐大蛇様に分からぬことはありません」と四月が答えた。
中年男は半信半疑であったが大通り二つ目の路地で足を止めた。すると路地裏の方から「暴れ馬が行くぞ!」と叫ぶ声がした。
直後、馬が目の前を疾風のごとく駆けて行った。そのまま歩いていれば馬に跳ね飛ばされていたところだった。
中年男は慌てて占い店に戻ると、「もう一度占って欲しい。十文、いや二十文だす。いや一両でもよい!」と四月に必死に交渉した。
しかし四月は「よくばると良いことはありません。一日一回。これが決まりでございます。私どもは儲けを望んでおりません。お客様の小さな幸福を願っているのでございます」と適当なことを言ってやった。
その中年男は木綿や和紙を扱う大店の主人であり、次の日には得意客を沢山連れてやって来た。
四月は「これは大旦那様、毎度ありがとうございます。
お連れ様が沢山おられますね。店内に入られるのはお一人のみ。他のお客様は並んでお待ちください。お時間は掛かりませんので。お一人様、占い一回、五文でございます」
昨日の中年男が四月に五文渡すと直ぐに暖簾を潜り、椅子に座ると「八岐大蛇様、寛大なる未来をお願いします」と懇願した。
「おお。昨日の者か。今日は沢山の客を連れて来たな。良い心がけじゃ。では占って進ぜよう」寿命が短いとは言えないので、やはり適当なところで妥協した。
「隣の古着屋で古着を買うと吉と出ておる。そのようにするがよい」完全に八岐大蛇と信じている大店の主人は言われたとおり、半蔵の古着屋で古着を沢山買い占めた。
並んでいた客にも「この店を出て五十歩目に足元を見よ」とか「自宅に帰ってまず妻を褒めよ」などと告げてやる。
大店の店主は店に返ってしばらくすると和紙の相場が高騰して大喜びだ。足元を見た者は小判を拾った。妻を褒めた者は勤め先で番頭となった。
これらの奇跡があっという間に町に広まり、「八岐大蛇の大占い」には連日客が長蛇の列を作るほどになっていた。
噂が広まるまでは多少大きな幸運を教えてやったが、客が並びだすと小さな幸運を教えるようにした。それでも一回五文で必ず幸せが来ると評判が評判を呼んでいた。
本当に八岐大蛇がいるのではという噂も広がった。興味津々の輩が閉店まで見張ると客寄せのため男装した四月が一人帰っていくだけで、八岐大蛇の姿はなかった。
真夜中、店に忍び込む者まで出てきたが、八岐大蛇どころか、店内にはネズミ一匹いない始末であった。それが思いがけず大きな噂となっていた。
橘家の夕餉の席。清三郎に扮した三月が「最初は笑いましたが結構評判ですね。毎日行列が出来るほどの繁盛ぶり」と褒めると四月と出雲姫は自慢顔だ。
「既に相当稼いでおりますぞ」と四月。
清十郎が頷くと、「その噂なら出入りの商人から聞いておる。相当な人気を集めているそうではないか。本物の八岐大蛇がいるのか夜中に侵入した者もあると聞く。
評判になることは結構だが、妬む者も出てくるであろう。その辺にも注意を払いながら励みなされ」と質してやった。
「父上様のお心遣い。しかと肝に銘じます」四月と出雲姫が声を揃えて頭を下げた。
すると三月に扮した清三郎が思い出したように、
「母上様、明日の夕餉はいりません。と申しますのも明石殿に誘われてどうやら奢ってもらえるご様子ですので。吉原という所に連れて行ってくれるそうです」
清十郎とせつは驚いた。清十郎が慌てて尋ねる。
「清三、吉原という所がどういう場所が知っておるのか」
「いえ、全く」
清十郎とせつは顔を見合わせた。清十郎が非常に渋い顔になる。
「うーん。とりあえずどのような場所かを教えておこうかのう」
清十郎が説明しようとしたところで出島へ調査に出ていた五月が帰って来た。
「父上、母上、三月様、出島から戻った。問題の大神官、三席上級闇魔導士を伴って出島に到着。未だ出島から動く気配無し。見張り中、服部様の隠密が交代してくれた。動きがあれば直ぐに知らせてくれる手筈」
三月に扮した清三郎が答えた。
「よく知らせてくれました。動きがあれば五月が引き続き追跡するように」
「はっ。ところで何やら聞き捨てならない話をしておられた。私も着いていく」
清十郎が五月の言葉に驚いた。
「五月は吉原がどのようなところか知っているのか」
「もちろん情報収集済み。遊郭という男の遊び場。遊女という娼婦が酒の相手をしてくれて、一緒に寝てくれる場所。機会があれば是非見てみたい江戸の名所の一つ」
三月が空いた口を押さえた。正確には三月が扮した清三郎だったのだが、清十郎が渋い表情をした理由が分かった。
「これは参りました。そのような場所とは露知らずお誘いを受けてしまいました。本物の清三郎様ならば困ることはないのでしょうが、何とか途中で抜け出す言い訳を考えましょう」
すると五月が「三月様、本物の清三郎が吉原に行くことは許さない。三月様が行くのなら是非見てみたい場所。今後の参考に色々勉強」と乗り気だった。
四月と出雲姫も「何やら楽しそうな場所ですね」と興味を持ったようだ。三月も「本物の清三郎様ではなく、私が誘われて安堵しました。明日は皆で吉原見学と洒落込みましょう」
清十郎とせつは吉原の意味を皆が分かってくれたようでほっとした。
三月が「本物の清三郎様が明石様に誘われていれば、吉原と言う場所には上級闇魔導士以上の難敵が待っていると考えるところでした」と分析した。三月の言葉に乙女組の面々は納得した。
当日、何時もどおり昼過ぎに三月が扮した清三郎は将棋道場に到着した。皆で将棋を指していると外から蹄の音がした。明石辰之進の来訪だ。
町風呂屋の主人が出迎えると一緒に二階に上がる。
「皆様、明石様ご到着にございます」
風呂屋の主人がうやうやしく告げると皆とりあえず辰之進の方に体を向けて頭を下げた。すると直ぐに駒箱に目を向ける。
今や辰之進も常連の一人であり、とりたてて特別扱いされる事はなくなっていた。辰之進もそのような事は一切気にせず清三郎が指している駒箱に向かう。
対局が終わると直ぐに清三郎の対面に座る。駒を並べながら辰之進が清三郎に確認する。
「清三郎殿、今日は予定通りでよろしいですな」
清三郎は「楽しみにしております」と頷いた。清三郎の周りには姿を消した乙女組の面々が既に待機していた。
清三郎と辰之進が何局か指すと日が陰りだした。辰之進が「そろそろ参りますか」と清三郎に声かけた。清三郎は頷くと先に立った辰之進の後を追う。
清三郎は将棋道場の出口で「皆さん、今日はこれにて」と丁寧に挨拶をすることを忘れない。辰之進が風呂屋の主に「主、申し訳ないがここから先にある馬場に拙者の馬を預けておいてくれるか。
拙者の馬だと馬場の者に申せば待遇もよかろう」と頼むと主の袖にいくらか渡した。主は手でその額を確認すると驚いた顔をして「この命に代えても必ずお届け致します」と深々と頭を下げた。
「では清三郎殿、参りましょう。今宵は楽しい一夜にしましょうぞ」
辰之進は楽しみで仕様がないのか喜びと期待が体から溢れ出ていた。
日もどっぷりと暮れ、二半時程歩くと見返り柳がある吉原の入り口に到着した。その周囲はこれから赴く場所は別世界であると言うように多数の茶屋が軒を連ね提灯を灯して華やかだった。
乙女組の面々も明かりの華やかさに心を奪われた。辰之進が見返り柳などについて説明した。
「この見返り柳がこの角を曲がれば吉原との目印になっておるのです。
ここから吉原の入り口までを衣紋坂と呼んでおりまして、編み笠茶屋で顔を覆う編み笠を借りるのが常識です。
郭内で遊女を品定めする時にはこの編み笠を被ったり、手拭いを被ったり、扇子を広げて顔を隠してこちらの顔は見せないのが粋な遊び人。
逆に顔をもろ出しして歩くのは無粋な者のすることなのでそこは注意ですぞ」
江戸吉原。幕府公認で設立された遊郭である。
江戸時代初期には日本橋近くの人形町に位置していたが明暦の大火によって浅草の裏手に移転され、「新吉原」として再開していた。
入り口は一か所のみで吉原大門と呼ばれていた。幕府直轄の遊郭であり治安維持や行政管理のために町奉行所の出先機関が表向きには設置されていた。
「ここが大門でござる。さあ仲の町へいざ参りましょう」真っ赤な大門を潜ると辰之進は興奮気味だった。清三郎に扮した三月が横に並んで歩く。
大通りの両脇に引手茶屋や遊女屋が並んでいた。大通りには百目ろうそくという大きなろうそくが燭台に立てられて明かりを灯し、さらに雪洞の明かりが軒下にずらりと並んで幻想的な空間を作り出していた。
三味線を弾く音色があちこちから聞こえてくる。顔を隠した武士や町人が大勢行き交っていた。その空間の中で辰之進が言ったとおり格子越しに遊女を大通りから眺めることができた。
桜の木が沢山並んでいるが開花には時期が早い。三月の後ろを着いて来ている乙女の面々も珍しいこの空間を楽しんでいるに違いない。
「ひいきにしている遊女屋があるのでそこで一杯やりましょう」辰之進には決まった場所があるようだ。目的の遊女屋は「三堀屋」と看板がでていた。
三堀屋の暖簾を潜ると店主と思しき主が「これは明石様、毎度ごひいきに。ささ、どうぞ上がって下さい。今日は珍しくお連れ様がご一緒ですか」
「うむ。高家の御曹司ゆえ、粗相のないように頼む」
「へえ。畏まりました。明石様をいつのも座敷へ」店主から指示を受けた雇仲居が辰之進と三月を座敷へ案内した。
座敷には上座に座布団が二つ、既に用意されていた。辰之進が座ると三月も座布団に正座した。
「清三郎殿、このような場所で正座はいかがなものか。足を崩されよ」辰之進が気を利かせてくれたようだが三月には迷惑だった。
「いえ、拙者はこの方が楽でございます。しばらくはこのままで」
「硬い、硬いですなあ清三郎殿。せっかく吉原に来たのです。楽しんでくださらんと意味がない。ま、直ぐに緊張も解けましょう」
「失礼いたしんす」廊下から声が聞こえると襖が開き、二人の遊女が頭を下げて入って来た。続いて雇仲居が酒と膳を用意する。
辰之進の顔色がぱっと明るくなった。辰之進の隣に座った遊女は「明石様、毎度ひいきにしてくださり、おちよは幸せ者でありんす。ささ、お酌いたしんす」辰之進は鼻の下が完全に伸びていた。
「おちよ、相変わらず可愛いのう。うむ。美味い」上機嫌この上ない。
三月の隣に座った遊女は名を「こと」と言った。
三月に酒を勧めながら「高家の御曹司はんとお聞きしておりんす。どちらの御曹司はんでありんすか。お注ぎいたしんす」
三月が素性を簡単に明かしてよいものか気にして黙っていると辰之進が「清三郎殿、この者らはこの場のことを決して口外致しませぬ。とにかく安心して楽しみなされ」と助言してくれた。
その時だ。廊下から「失礼いたしんす」とおなごの声が聞こえ、襖が開くとそこには明らかに傍にいた二人とは風格がまるで違う遊女が正座していた。
豪華な着物に可憐な美貌、結った髪には華麗な簪が華を添えていた。その遊女は座敷に入ると「こと」に目で合図した。
するとことは頭を下げて出ていった。辰之進が驚いて声を掛けた。「これは桜太夫ではないか! 花魁を相手にするほど持ち合わせはないのだが……、おちよ、店主を呼んでくれるか」
すると桜太夫が「それには及ばないでありんす。店主に話は着けておりんす」と言って三月の傍に座った。桜太夫が三月に「お酌いたしんす。おひとつどうぞ」と酌をした。
これを三月が受けると「橘清三郎様でありんすね。お初でありんす。あちきは桜と申しんす」頭を下げながら清三郎の名を言い当てた。
三月はじっと桜太夫を観察する。
辰之進が桜太夫を「花魁」と呼んだ。花魁とは吉原での高級遊女の呼称である。さらに「太夫」は花魁の中でも特に芸事に優れた者だけに与えられる呼称であった。
すなわち辰之進と三月の前に現れた「桜太夫」は吉原で最高級の遊女ということだ。一夜を共にするだけでも与力程度の武士や一般町人が払える代金ではなかった。
さらに太夫ともなると客を選べる特権が与えられていた。そのような花魁が辰之進と清三郎の座敷に突然現れたのだ。そして清三郎を知っている。これはただ事ではなかった。
桜太夫が清三郎の名を言い当てたことに驚いた辰之進が桜太夫を質した。
「桜太夫、どうして清三郎殿の名を知っておられる。清三郎殿は今日が初めての吉原でござる。
拙者が連れてまいったのだが正直に答えられよ」辰之進が捲し立てると桜太夫は手を口に当て「ふふふふふ」と笑って見せた。
何とも可憐であった。辰之進は言うまでもないが、初めて花魁というものを目にした三月や周囲で取り囲んでいた乙女組もその優雅で可憐な物腰に心を奪われた。
三月に酒を勧めながら桜太夫が答えた。
「知っているのはお名前だけではありませんえ。上杉家のただ飯喰らい……と巷で噂になっておりんすね」と屈託なく話し、可憐な笑顔を振りまいた。
三月は「これは参りましたな」と頭を掻きながら苦笑いする。清三郎の癖の一つを真似たのだ。その様子をみた桜太夫が「あちきが思ったとおり、優しいお方でありんすねえ」と言って三月の目を捉えたまま肩をそっと当てて来た。
三月を含めた乙女組は、この場にいる清三郎が三月であったことに心から安堵した。この美貌と笑顔で言い寄られれば、どのような男でも落ちること間違いないと悟ったからだ。
さすが自らを商売道具とする遊女だ。しかも目の前で酌をするのは最高級の花魁である。そこには決して遊びではない真剣勝負の座敷なのだという強い心根が感じられた。
さらに三月に酒を勧めながら桜太夫が辰之進の問いに答えた。
「遊郭は色んな情報が集まる場所でありんす。南町奉行所筆頭与力がお役目そっちのけで町風呂屋の二階に通われていること。
他には……そうでありんすねえ、南町奉行所の戦や服部半蔵様の処刑場となった佐貫の合戦とやらまで大抵の事は知っておりんす。
明石様、そう不思議な顔をされますな。ここへ登楼される方は一般の町民から卸問屋の大店主人、御武家様で言えば大名様やそれこそ幕府のお偉い方々まで千差万別でありんす。驚くことではありんすえ」
辰之進が冷や汗を流した。「そのような上級の機密まで……、知っておっても客に口外せぬのが遊郭の慣わしであろう」
これに桜太夫は「ふふふふふ」と笑い、「既に知っておられるお偉い方々に話してどこが口外でありんすか」桜太夫が余裕の表情で辰之進に微笑んだ。
辰之進はもはや反論出来なかった。桜太夫に一本取られた形だ。
「それではあちきがどうしてこの場に来たのかお話いたしんす。実は数日前からあちきの禿が疾走したのでありんす。
禿とはあちきの傍付の少女の事でありんす。あちきの身の回りの世話をしながら将来の花魁見習いとして訓練も受けておりんした。
自ら逃げれば重罪でありんすが、花魁見習いとしてあちきの傍付だった禿が逃げるはずがないのでありんす。あちきは禿を本当の妹と思い、禿もあちきを本当の姉と思うているのでありんす。
この疾走、あちきは人さらいと思っておりんす。どうかあちきの禿を助けて欲しいのでありんす」先ほどまでの優雅な佇まいとは大きく違い、桜太夫の頼みは切羽詰まったものだった。
辰之進が答える。
「桜太夫の話は分かるが、遊郭にも町奉行所の出先があろう。桜太夫の訴えであれば放置は出来ぬはず」
辰之進の答えを聞いた桜太夫は首を左右に振りながら「これだからお役所務めのお偉方は嫌になりんす。奉行所の出先役人は袖の下で何の役にもたちませぬ。
そのため遊郭内で整備した自営団もありんすが、あちきの禿は逃げたと判断されておりんす」桜太夫は目尻から涙が一筋流れ落ちた。そして三月、いや清三郎をじっと見つめた。
「与力様の前で申し上げにくいのでありんすが、清三郎様、南町奉行所の戦を戦い抜き、佐貫の合戦でも生き延びられた橘清三郎様に、あちきの願いを聞いて欲しいのでありんす。この身を捧げる覚悟でありんす」
この言葉に辰之進も三月も驚いた。しかし三月は冷静に考え、答える。
「将棋にしか興味がない拙者が太夫殿のお役に立てるとは到底思えませぬ。与力殿を頼られよ。きっと解決して下さりましょう。
この身を捧げる覚悟などと、花魁桜太夫殿が軽々しく口にされる言葉ではありますまい……。いや、しかし、ごほん。今日は太夫殿の酌を受け、最高の気分にございます。
今宵はこの辺で失礼仕りましょう。明石殿、今日はありがとうございました」清三郎はそう言うとその場に立った。
辰之進は酔いが回っているのか「清三郎殿、拙者はもちっとゆるりとしますので……」と言いながらおちよと戯れていた。
三月が襖を開けて廊下に出ると、後ろから「清三郎様」と声がしたので振り返ると桜太夫が正座し両手を揃え、額を畳に着けていた。三月が清三郎ならどう答えるか考える。
そこに乙女組の気持ちが入ってはならないのが筋だ。
「太夫殿、頭を上げてくださいませ。禿の件、考えておきます故……」
三月が出した結論だった。そう告げると三月は三堀屋から表通りに出た。あらためて百目ろうそくが灯された燭台と雪洞の明かりで大通りは別世界と感じた。日常を忘れさせる光景であった。
真っ赤な大門を潜って外に出ると、たちまち乙女組で議論となった。四月が真っ先に三月に意見した。「三月様、どうして考えておくと答えたのです。
それでは清三郎様が修行から戻られた際に、桜太夫に会われる可能性が出たのではないですか。そうなったらどうなることやら……」
五月も同意見のようだ。「あの桜太夫……あなどれない……悪女の予感」
出雲姫は「私は二人の禿がさらわれたのだと思います。確かに桜太夫は絶世の美貌ですが、果たして清三郎様が心をお許しになるでしょうか。
私はそうは思いません。清三郎様にとっておなごは姉上様が一番、そして二番は私達景虎乙女組でございましょう」そう言って出雲姫は胸、いや八本の首を張った。
すると五月が「あんた甘いわあ。桜太夫のあの色気……。あれは危険」四月は「うむ。天と地がひっくり返っても私にはとても無理。あの色気は出せん」
三月が答える。「確かに皆の言うとおり、清三郎様を桜太夫に会わせたくないのは私とて同じ気持ち。ただあの場で清三郎様であったなら何と答えられたと思いますか。皆の意見はどうです?」
四月「……」。五月「……」。出雲姫「三月様が答えられたように救いの手を差し伸べられたことでしょう。お優しい上、力もある。素晴らしいご主人様です」
三月が答えた。「出雲姫の言うとおりと思います。しかし皆深く考えるのは辞めましょう。清三郎様が戻られる前に解決すれば良いだけです」
「清三郎が戻る前に解決できなかった時は……」五月がぽつりと囁いた。すると三月が「桜太夫の首をはねるのです……」と悲壮感たっぷりに言ってのけた。
四月が「うむ。それくらいの覚悟が必要ですな」五月は「不貞を犯した清三郎は自由の身?」三月は「五月、あまり意味の分からぬことを話さないように。
皆さんとりあえずこの話はお終いです。何日たっても結論はでないでしょう」と呆れた。全員同じ意見で笑いが漏れた。
日が暮れた通りを乙女組の三人と一匹が上杉中屋敷に向かって歩いている。その様子を茶屋の屋根に止まっていた「黒鳥」が赤い目を光らせ、じっと眺めていた。
その「黒鳥」は闇魔導士大神官の愛鳥であった。
※
五日後、町風呂屋二階の将棋道場。そこで三月が扮した清三郎と辰之進が将棋を指しながら意見交換を行っていた。もちろん桜太夫が懇願した禿二人の件だった。
辰之進の話によると、南町奉行所に七つと八つの少女、二人の捜索願が出されていたという。北町奉行所には同じく同じ年の少女三名の捜索願が出されていた。
「少女の捜索願が南町奉行所に二件、北町に三件、吉原の禿二人を加えると七件ですな」辰之進が渋い表情で報告した。
「それで奉行所は調査を行うのですか」三月が確認する。
「いえ、それがこのような例は珍しいものではないのです。日常的に起きている案件で、おそらくは捜索願が出されていないものも見積もって、江戸だけでも倍以上はあるでしょう。
町人の中には子供が一人減ることによって食い扶持が減ることから届け出しない者も多いのです。誘拐事件と捉えると重大な事件ですが、実際は北と南の奉行所も、そちらの方まで手が回らないのが実情ですな」
「幼い少女を誘拐した犯人らの目的は何なのでしょう」
「そこなのです。遊郭へ売られるのが相場と決まっておるのですが、一応少女を攫って遊郭へ売る人身売買は重罪なのです。
さらに今回は遊郭の禿も攫われておる可能性がありますからな。見当が付きません」
「吉原以外に売られる場所はないのでしょうか」
「うーん。地方にも遊郭やそのような宿場町はありますが、人身売買の値段や足が付き易いことを考えるとやはり吉原に売るのが一番でしょう。
儲かるし、足も付きにくい。何せ規模が違いますからね。正確ではありませんがおよそ千人以上の遊女や少女が吉原で働いているのですからな。いちいち一人一人顔を確認している暇はありません。
しかも少女らが逃げようにも逃げる場所は大門のみ。吉原は広大な敷地を囲って造られた施設です。逃げることは難しいでしょう。その内立派な遊女になるのが落ちですな」
「しかし桜太夫の話では、二人の禿は逃亡したことになったと……」
「そこはお恥ずかしい話ですが、太夫も言っていたとおり、袖の下ですな。
実際、今の役人は支払われる俸禄よりも袖の下による金銭で生活している者も多いのが実情です……ははは」
「なるほど。難しい話になってきましたね。二人の禿だけの誘拐事件ではなくなりました」
三月の方でも五月に上級闇魔導士の動きを追跡させていた。
大神官は出島から動いていないらしい。ただし共で来た上級闇魔導士を見失ったようだ。半蔵の隠密が張り付いていたが夜になって闇に隠れられると追跡は困難だ。
責めることはできない。五月には見失った上級闇魔導士の追跡を任せているが、誘拐事件との絡みはどうやら薄そうだ。
そのことを辰之進に言うわけにはいかなったので、情報だけ貰って気まずい三月であった。
「明石殿、少女の誘拐に関して何か分かれば拙者も微力ながら協力いたす所存。
どのような些細な事でも申し付けてくださるようお願い致します」
三月にはそう言うのが精一杯であった。
辰之進も「清三郎殿の協力が得られれば心強い。解決も早かろう。何か分かれば直ぐに伝えましょう。その場はここになりましょうな」
辰之進の語り口から、三月はこの事件を解決するには時間が掛かると踏んだ。
桜太夫に「考えておく」と答えた以上、最低でも禿の二人は助けたいと心から思っていた。
清三郎がこの場にいれば何らかの解決策や糸口をきっと見つけてくれるに違いない。
三月は清三郎の偉大さを痛感していた。
清三郎に扮して初めて清三郎がこれまで置かれていた立場や境遇を実感し、自分を含めた乙女組がいかに清三郎に異存していたのかを認識した。
清三郎は単なる将棋好きでもなければ「景虎」でもない。
景虎乙女組が従者として仕えるに値する橘清三郎だった。
三月は今、この世に存在している誰よりも、清三郎の帰還を心待ちにしていた。