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第1話 己の剣

 東北地方を縦貫する奥羽山脈。その西側、日本海側には青森県西部から秋田県中央部、山形県中央部にかけて出羽山地が広がっており、最高峰は鳥海山(2236m)である。その美しい姿から「出羽富士」や「秋田富士」とも呼ばれている。


 季節は春。鳥海山山頂の樹海の中で、太くて丈夫な樹木を探している一人の青年がいた。橘清三郎である。


 年は数え十九になっていた。ぼさぼさの髪が肩まで伸び、表情にはあどけなさが残るが密林の中を時折獣が移動する音に反応する眼光は鋭かった。着物の裾を外側に折り上げて帯に挟む尻端折り姿だ。


 春とはいえ出羽山地最高峰の樹海である。所々で雪が残り、じっとしていれば鳥肌が立つ。木漏れ日も点々と散っている程度だ。清三郎は、白い息を吐きながら鬱蒼と樹々が茂る森の中でただひたすら納得のいく樹木を探し歩く。


「おお、これは良い木だ」

 清三郎が目星を付けた木は「ミズナラ」というブナ科の木であった。高木で高さ約十六間(約30m)、直径約2尺(約60cm)ほど。似たような木が数十本群生していた。


 下から上を見上げると遥かに高い。幹もとても丈夫そうだ。

 清三郎は木を上るための道具を二つ準備していた。


 一つは鉈。そしてもう一つが縄だった。その縄は「三月(みつき)」が作ってくれた特注品であった。

「三月」という者は前年の夏、日本乗っ取りを企んだオランダの闇魔導士との戦いで清三郎が助けたセオスハロスである。


「三月」はオランダの上級闇魔導士が別世界から召喚した三人のセオスハロスの一人であり、日本の将軍に献上される予定であった。セオスハロスとは別世界の神が創造した神使のような存在であり、その世界の悪を裁いては民衆に称えられ、その称賛が神の力に反映されていたということらしい。


「三月」の他に他国に献上される予定であった二人のセオスハロスは「三月」が助け出し、今では清三郎の従者として「三月」と共に仕えている。名前はそれぞれ「四月(よつき)」、「五月(いつき)」という。三人共に清三郎が名前を与えてやっていた。


「三月」に頼んで作ってもらった縄は、長さ約3尺(約1m)ほどで、片方の端を輪にして左手を通し、輪を手首に引っ掛けるようにして握る。縄を木の幹に回して反対の縄の端を右手で握る。縄には無数の金属でできた(とげ)が施された特殊な加工がされており、幹に回してしっかり固定すれば滑ることはなかった。


 さらに棘付きの縄を木に投げつければ枝に巻き付いて棘が食い込み、さらに引っ張ると余計棘が木に食い込んで滑らなくなるという優れ物であった。


 清三郎は目星を付けた木に早速上ってみることにした。

縄を幹に巻き付けて固定すると「はっ」と気合を入れた。両足の裏を使って幹を蹴り上部の幹を足裏で掴む。


 つま先を幹に押し付けてしっかり固定する。縄を上方へずらし再度ぐっと引っ張り固定する。そして両足の裏を使って幹を蹴り上部の幹を両足で掴む。これを何度も繰り返して木を上っていく。途中で張り出した枝は鉈で数回叩いて切り落とす。そしてさらに上っていく。


 枝を切り落としているのは自分への戒めである。木の天辺まで上って足を滑らせ落ちた時に、張り出した枝で命を救われることがあるだろう。要は命の保険を排除するために枝を切り落としていたのだ。

「落ちれば最後……」この状況を作らねばこの地に来た意味がない。


 木の半分ほど上ると自分の体重と風で幹が揺れだした。気を抜けば真っ逆さまに落ちてしまい、命はないところまで上っている。

「ふう。これは命がいくらあっても足りませんな」


 清三郎は呟くがさらに上を目指す。

 三分の二程度まで上っただろうか。じっとしていれば大きく揺れないが、上り始めると揺れはどんどん大きくなった。ただ木の方は余程丈夫なようで大きく揺れ曲がっても折れることはなさそうだった。

 

 途中に張り出した枝を鉈で切り落とし、とうとう枝が最後の一本という木の天辺まで上り切った。じっとしていても日本海からの突風が清三郎を襲う。木が大きく揺れて清三郎を振り落とそうとする。これに逆らうように枝を足場にして木の幹にしがみ付く。恐る恐る周囲を見渡した。


「おお。これは素晴らしい。これが奥羽山脈でございますか」

 清三郎の眼前には奥羽山脈が広がっていた。雲が眼下から湧き上がり山脈の向こうには太平洋まで確認できた。空気の霞もなく実に壮観な眺めであった。


 北に見える島は蝦夷地(北海道)であろう。清三郎はその眺めを一望しただけで天下を取った気になった。思わず笑顔がこぼれた。とその時足元が滑った。


「くっ」足のつま先で必死に枝を掴もうとするが間に合わなかった。体が急に落下する。清三郎は命綱とばかりに(とげ)付きの縄を木の枝に投げ付けた。


 縄が枝に巻き付き左手が伸び切った。全体重が左手にずしりとのしかかる。何とか落下を避けることができたようだ。清三郎の額から脂汗が流れ落ちている。


「油断大敵とはこの事でしょうな」

 清三郎は白い息とともにささやくと再度両足の裏のつま先でしっかり幹を掴んで体を固定し、枝に巻き付けた縄を伝って枝まで上った。


 今、清三郎は高さ約十六間(約30m)の木の天辺に立っている。その木の枝は自分が立っている枝以外全て鉈で切り落とした。再度足を滑らし、次に縄を投げ付けて枝に巻き付かねばそのまま落下して死ぬだろう。


 清三郎がそこまでしてそこに立っている理由……。それは「死の恐怖からの脱却」であった。

 自分が「景虎」に変化(へんげ)して霊力を使い切った後に訪れる死の恐怖。清三郎にとってこれが本当に恐ろしかった。

 

 いっそ「景虎」にならねば死の恐怖を味わうことはないのだが、三月の話によればそう遠くない内にオランダから上級闇魔導士の最高幹部なる者がやってくるらしい。そうなれば「景虎」に変化(へんげ)しなければならないだろう。それを躊躇することで大切な恩人や仲間を窮地に追いやることは二度と御免だった。


 ならば切腹も怖いのか。それは否であった。

 武士としてその覚悟は十二分に持ち合わせている。重大な失敗などによって切腹を命じられればそこには「死」が待っているわけだが、その時は潔く腹を切ることが出来る。


 何の迷いも感じない。切腹で死ぬことは何ら恐ろしくないのだが、「景虎」変化後の死の恐怖だけは何故か恐ろしくて仕方ないのだ。


 それを克服するために清三郎は今この場に立っているのだった。この場で修行し、最終的な目的は一本残した枝で座禅を組み、瞑想することであった。


 大きな木の揺れや枝の揺れ、さらには突然の突風。それらの恐怖を克服して座る場所としてはあまりにも細い枝の上で座禅を組むことが出来れば、その時こそ景虎変化後の死の恐怖から脱却できると考えたのだ。


 これを克服すれば、いざという時、何の憂いも迷いも無く「景虎」に変化(へんげ)することができる。


 今しがた雄大な景色に思わず心を奪われてしまい、足が滑って体が落下した。その瞬間の恐怖は凄まじかった。何とか枝まで上ったが、現状、中腰で木の幹に両手でしがみ付いているのが正直精一杯だ。


 とても怖い。果たしてこの細い枝の上で座禅など出来るのだろうか。しかし清三郎の心は決まっていた。


 ――必ず死の恐怖を克服する。死の恐怖を克服せずして己の剣はない。


 清三郎はそう決心し、その修行の場として選んだのが故郷の険しい樹海であった。

 突如突風が吹きつけた。清三郎の体が宙に浮き、幹から両手が離れた。と急に体が落下する。すかさず縄を枝に投げつけた。


 体の重みが縄を握った左手にかかる。清三郎は両足のつま先で木の幹を挟んで固定すると大きく呼吸した。「ふう。危なかった。死ぬかと思いました」木の揺れ、枝の揺れ、突風、やはりこれらを全て克服せねば直ぐそこに死が待っている。


「修行は始めたばかり。とにかく今日は枝の上で立ち続けよう」清三郎はそう思うと再び枝まで上った。幹を両手でしっかり掴んで枝に立つ。


 突風がいつ来るか分からないので体はガチガチだ。ゆっくりと腹で呼吸を整え、体の力を徐々に緩める。神経を研ぎ澄まして突風に備えつつ、幹を握った手の力を緩めていく。しかし心が恐怖を感じているため本当の脱力は得られない。


 清三郎はゆっくりと腹式呼吸しながら五感で風を感じ、体を極力楽にした。

 しばらくそうした後、木を降りることにする。木に上った方法と逆の方法で木から降りていく。上りに比べればかなり楽だ。


 地上に立つと恐怖心が一切無くなった。呼吸が整うと、再度上り始める。最初に上った時より要領は良くなったが足腰が重くなっている。それでも両足のつま先に力を込め必死に上っていく。


 再度天辺の枝に到達した。全身汗でぐっしょりだ。突風に細心の注意を払いながら立ったまま目を瞑る。ゆっくりと呼吸し、体から徐々に力を抜いていく。突如突風にあおられたが今回は縄を木の幹に巻き付けていたことから飛ばされることはなかった。


「上って降りる」を再度繰り返すと日が暮れ始めた。


 山に入った際に仕留めて下ごしらえをしておいた猪の肉を簡単に料理することにした。拾った棒きれの先を削り、槍にして仕留めた猪だった。


 猪の解体は米沢にいた頃に何度も見て覚えていた。捕獲後はまず血抜きだ。頸動脈を切って放血し、次に毛皮を残したまま全身を洗浄する。

 

 腹を裂いて内臓を取り出し、腹腔も綺麗に洗浄する。死後硬直が解けるまで冷水で冷却しその後に頭や尻尾、足先などを切り落として皮を剝いで骨抜きをする。背骨と肋骨を取り除けば概ね食べられるようになる。


 今朝、山に入って仕留めた猪は体長が三尺(約1m)の大型だったため、しばらくは食に困ることはなさそうだ。


 あらかじめ決めておいた岩場の洞窟(寝床)に行き、火を起こして吊るした猪肉を丸ごと焼く。血抜きと全身の洗浄、内臓を摘出した後の腹腔洗浄と冷水での冷却さえこなしておけば猪特有の匂いもなく、脂身はしつこくなく栄養価も非常に高いので最高の食材となる。

 

 そういった面では修行の場に選んだ鳥海山は最高の場所であった。少し歩けば原水に近い小川が流れており、肉の洗浄と冷却にもってこいであったのだ。頭部とモモ肉も焼いておく。保存用だ。

 

 唯一武器として携帯した短刀でしっかり焼けた肉を切り取り、塩を振りかけて食べる。

「これはうまい!」

猪の肉は下ごしらえさえしておけば美味と聞いていたが本当にその通りだった。

 

 腹八分目で食べ終えると、その場で座禅を組み瞑想に入る。心と森とを一体化する訓練だ。

 木の天辺まで上ったことに思いを伏せる。そこは恐怖しかなかった。


 気を抜けば奈落の底である。如何にすれば恐怖を克服することが出来るのか。それは時間が解決してくれるかも知れないがそれまで生きていることが出来るだろうか。


 念のため洞窟の入り口には糸を張り、何かが近づけば鈴が鳴るようにしておいた。今の清三郎には無用かとも思えたが、念には念を入れ備えておくに越したことはない。修行初日の終了だ。清三郎は横になると目を瞑った。



 木に上る修行を始めて三日が過ぎた。三日目ともなると木の天辺の枝に立つ事にも慣れて来た。ある程度風の流れを感じることが出来るようになったことが大きいだろう。張り出した一本の枝に座ることが出来るようになった。


 しかし座禅は無理だ。枝に座り、風の流れを感じていた矢先、それは突然やってきた。

 大型の鳥が上空を旋回しているのは察していた。が、急に清三郎目掛けて降下してきたのだ。枝に座っていた清三郎は幹を握って枝に立った。


 大型の鳥は既に目前に迫っている。判断しなければならない。隣の木に飛び移る判断を……。清三郎は木の名前を知らなかったが、「ミズナラ」は群生しており、最も近い木まで七尺(約2m)ある。


 大型の鳥が清三郎を捕獲しようと翼を大きく広げ、両足を出した。その瞬間、清三郎は一番近かったミズナラに飛び移った。縄を幹に巻き付け、体の落下を防ぐ。途端に体重を支える左手に大きな負担がかかる。何とか避けて落下は防いだ。


 大型の鳥は「大鷲」であった。目の前で翼を広げた姿は圧巻で清三郎は思わず「美しい」と感じた。体長は三尺(約1m)ほどで、翼を広げた折の両翼の幅は十尺(約3m)ありそうな巨大な大鷲であった。 

 

 くちばしと足が黄色く、体は全体的に茶色だが、羽の半分が白であり何とも華やかだった。

 大鷲は元々ロシアを根城にしており、冬になると蝦夷地(北海道)にやってきて産卵などして春にはロシアに帰るのだと聞いたことがあった。餌は川魚や小動物と聞いていた。


 どうしてこの場に大鷲がいるのか見当もつかなかったが、清三郎を襲ったことは間違いなかった。付近で卵を温めているのか。それならば初日に攻撃してくるだろう。大鷲は上空を旋回している。どうやら清三郎という獲物を諦めていないようだ。


 大鷲が人間を襲うのか否か、心で議論している暇はない。飛び移った木は枝があちこち生えており、落下して即死することはないだろうが上空の大鷲は木の枝が邪魔して非常に見えにくい。清三郎がどうしたものかと思案していると大鷲を見失っていた。


 気付けば目前まで急降下しているではないか。清三郎は思い切って隣の木に飛び移った。何とか縄を枝に巻き付け避けることが出来た。


 二回目に攻撃を受けた折には鉈で足を切り落としてやろうかと考えたが、大鷲の見事な美しさに「神聖な鳥」と自分の心で決めてしまい、殺すことはためらわれた。


 それから三度、大鷲の急降下を浴びた。が、何とか樹々を飛び移り大鷲の餌になることだけは避けた。日が落ちかけると大鷲はどこかへ飛び去った。


「あの大鷲は出羽の神でありましょうか。しかし神ならば人を襲うはずもなし……。ふむ。分かりません」


 大鷲は明日も襲ってくる公算が高い。枝の張り出した樹々に飛び移るとどうしても体のあちこちに擦り傷を負ってしまう。大鷲の位置も確認しづらかった。


 そこで清三郎は思考して思い切った行動に出た。元々一本の木を利用して修行に使おうと考えていたが、大鷲が襲ってくるのなら話は別だ。概ね七尺(約2m)間隔で群生している木に上っては枝を切り落とし、天辺まで上り、天辺付近の枝一本のみ残しておく。


 夜の内にこれを六回繰り返し、六本の木の枝を切り落とした。七本の木の天辺付近にのみ、枝を一本残している状態だ。これで空の見通しは格段に良くなった。いつ大鷲が急降下してきても直ぐに対応できる。


 ただし、上手に樹々を飛び移る必要があり、樹々の枝は切り落としていることから縄がうまく巻き付かなければ己が真っ逆さまに転落して死んでしまう。


 清三郎は一通り作業を終えると岩場の寝床で横になった。少しでも体力を回復するためだ。目を瞑って大鷲の攻撃を想像する。理想の避け方は樹々に残した枝を飛び回って逃げることだ。が、しばらくは縄に命を預けることになるだろう。そうこう考えているといつの間にか深い眠りに就いていた。


 翌朝、はっと目が覚めた。これだけ深く寝入ったことは久し振りだった。昨夜六本の木の天辺まで枝を切り落としたことで余程疲れたようだ。


 近くの小川で顔を洗い、修行場に赴いた。するとこれまで太陽の光が地面に点々と散っていた闇の樹海が七本の木の枝を切り落としたところだけすっぽりと大穴が空いたように太陽の光が差し込んでいた。深い樹海の中で、その場だけが直径約十六尺(約5m)の竪穴となっていたのである。


 枝を切り落とされた七本の木がそれぞれ約七尺(約2m)の間隔で立っている。

 清三郎が真ん中に立つ木に上り始めた。中間あたりまで上って天を仰ぐといるではないか。大鷲が。枝を綺麗に切り落とした七本の木の上空を悠々と旋回している。


 清三郎は、「望むところ。しかし今日が命日だけはご勘弁……」と呟いた。しかし眼光だけは生き生きとしていた。

 

 木の天辺まで上り枝に立つ。大鷲はさらに上空を旋回しているが清三郎に気付いている。昨日と若干異なる樹々の光景に警戒しているのか直ぐに仕掛けてこない。清三郎は大鷲からの滑降攻撃に段取りを描く。


 敵は急降下してくるが清三郎を捕獲するため必ず足を出してくる。その瞬間を逃さずに隣の枝に飛び移る。さらに攻撃してくれば別の木の枝に飛び移って避ければよいだけだ。頭では分かっているが容易いことで無いことも充分理解していた。


「さあ、いつでもかかって来なされ!」

 清三郎が大声で叫ぶと早速大鷲が攻撃態勢に入った。清三郎めがけて急降下を開始した。大鷲が足を出す直前で隣の木の枝に飛び移る。


 思ったとおり足が滑って体が落下した。縄を素早く枝に投げつける。大鷲は上空に飛び去って行った。

 この一連の動作で最も重要なことは大鷲から目を逸らさないということだ。その上で木を飛び移る必要がある。


 大鷲から一瞬でも目を逸らすと何をしてくるか分からない恐怖があった。他の木に飛び移った時に背を向けると大鷲は追従し、背中を足の爪でやられる可能性があった。


 したがってその時立っている木によっては、大鷲の攻撃を避ける際に隣の木の枝が死角となる場所がある。その時は見えない枝に向かって飛び移る必要がある。


 清三郎が木の枝に立つと、すぐに大鷲が急降下してきた。すかさず隣の木の枝に飛び移る。やはり足が滑り着地できない。足のつま先が枝を掴んでくれないのだ。直ぐに縄を木の幹に投げつける。縄が張る。

 

 縄を握っている左手に全体重がのしかかる。左手が痺れる。その間も大鷲から目を逸らすことはできない。大鷲は目の前で両翼十尺(約3m)の羽を羽ばたかせ高さを保っている。清三郎を睨みつけているようだ。

 

 一体何が気に入らないのか。それが分かれば苦労はないのだが、このまま大鷲と見つめ合っている訳にもいかず、清三郎は大鷲の動きに注意しながら木の枝に上った。大鷲は悠々と羽を羽ばたかせて宙に浮いている。


「お主、気に入らぬことがあるなら申してみなされ」清三郎が声を大にして問いかけると大鷲は上空に舞い上がって行った。今立っている木の枝は、次に攻撃を受ければ左右どちらの木の枝も視界に入らない死角となっている木だった。


 大鷲から目を背けて枝を確認する暇はない。飛び移った先に枝があると信じて飛ぶ以外方法はない。大鷲にはどこかに飛び去って欲しいと願うがそうは問屋が卸さなかった。


 上空を旋回していた大鷲は再度清三郎めがけて急降下を開始した。清三郎は死角になっている両隣どちらかの枝に飛ぶしかない。大鷲から目を逸らす方が恐ろしかった。大鷲が目前に迫る。清三郎は思い切って右後方の枝に飛んだ。

 

 しかし木の枝があると思った場所は宙だった。そのまま体が落下した。縄を木の幹に投げつけるが速度が出始めて絡まない。「そりゃあ!」清三郎は帯に差した鉈を引き抜き木の幹に叩きつけた。幹に鉈の傷をつけながら落下の速度が若干弱まる。


 すかさず縄を幹に巻き付けた。今度はうまく絡みつき、縄をぐっと引っ張って固定した。鉈と縄で何とか落下を防ぐことができた。

「ふう。今のは死ぬと思いました……」清三郎は大量の脂汗を流した。そのまま一旦地上に降りた。

 

 清三郎は腕組みして何やら考え始めた。答えを出すと七本の木の根元に木の枝の向きを地面に標した。 

 大鷲の方向を定め、地面に標した枝に飛び移る。それを何度も繰り返した。


 上空十六間(約30m)の枝を飛び移るのと、地面に標した枝を飛び移るのとでは当然その恐怖は桁違いだ。しかし今は地面に標した枝を飛び移ることで少しでもその感覚を覚えられるのではという清三郎の考えであった。

 

 もちろん頭の中では木の天辺の枝を飛び移っているつもりだ。上空から「クワックワックワッ」と大鷲の甲高い鳴き声が聞こえた。清三郎には笑っているように聞こえた。清三郎が天を仰いで睨みつける。


 直ぐにでも木に上って対決したいところだが、今は地上に標した枝を飛び移る訓練が先だ。決して逃げている訳ではない。頭では木の天辺の枝を思い描き、ひたすら飛び移る訓練に打ち込んだ。気が付くと日が暮れ始めていた。


「今日はこれくらいで許してやるか」

 清三郎は呟くと岩場に向かった。焼いた猪肉を食べ、座禅を組んで瞑想する。


 元々は一本の木の枝で座禅を組み、瞑想できるようになればそれで良かった。しかし状況は全く違っている。どこからともなく現れた出羽の神が修行の邪魔をしている。


 そのおかげで高さ十六間(約30m)の木の天辺を飛び跳ねるはめになっている。このような事になるとは想像もしていなかった。大鷲を殺すことは容易いが清三郎の心がそれを許さなかった。


「さてさて、この先どうなることやら……」

 清三郎は横になると眠りに就いた。



 翌朝、日が昇り始める前に修行場に向かった。早速木に上ってみる。今では木の幹を両足で支えずとも縄を上手に使って足は幹をつま先で捉えて歩きながら上れるまでになっていた。


 天辺の枝に到着した。思ったとおり大鷲は来ていない。昨日地面に標した枝を飛び移った感覚を思い出す。体が覚えるまで反復して繰り返した。それを今から試してみる。


「ふう」大きく深呼吸する。目の前に大鷲を見立てる。眼を逸らさずに隣の木に飛び移った。見事枝の上に着地した。ここで修行を始めて枝に着地できたのは初めての事だった。縄も使っていない。


 木の揺れにも十分対応できている。後ろの木に飛んでみる。「はっ」清三郎が気合を入れて後ろに飛ぶと何とか枝に着地することが出来た。が今回は縄を直ぐに幹に絡ませた。縄を使う必要はなかったかも知れないが、やはり後ろ向きで飛ぶのは恐ろしい。


 清三郎は休むことなく何度も樹々を飛んで回った。地面での訓練は効果てきめんだったようだ。上手に着地できるとまではいかないが、必ず枝に足が着きつま先が掴む。極力縄を使わないようにしてみる。


 清三郎の顔から自然と笑みがこぼれた。自分で気づいているのか定かではないが相当な自信を付けたようだ。


「クワー」上空で大鷲が鳴いた。見上げると大鷲が旋回していた。「いつでも来い」清三郎は心で叫んだ。大鷲が攻撃態勢に入った。清三郎は平常心を保つ。大鷲が目前に迫った。


 清三郎が別の木に飛び移った。見事枝に着地できた。補助的に縄を幹に巻き付ける。すると大鷲は宙に舞ったまま追従してきた。直ぐに隣の木に飛び移る。枝に着地した。大鷲から目を逸らさない。


 大鷲はその場で羽ばたきながら清三郎を睨んでいる。そして上空に飛び立った。

「どうしました? もう終わりですか? 大した攻撃ではないですなあ」


 清三郎の大声に再び旋回を始めた。どうしても清三郎を食いたいらしい。しかし清三郎も木の枝へ飛び移る感覚を自分のものとしつつある。しかし油断は禁物だ。大鷲の攻撃に備え呼吸を整える。


 その時清三郎に電撃が走った。「呼吸だ! 呼吸の仕方次第で周囲の霊力を感じ、霊力を支配することが出来る!」そう直感した。


 今思い返すと、呼吸と跳躍が嚙み合った時には必ず枝に着地していた。呼吸を整えることで平常心となり、周囲の霊力を己のものとすることができる……。清三郎は「呼吸」と「霊力」の大切さを痛感した。


 これまで呼吸や、まして霊力の存在など考えたこともなかったが、呼吸と霊力をあえて頭で考えてみると、過去の戦いにおいても知らず知らずの内に呼吸と霊力を上手に使っていたような気がした。


 全ての場面において「呼吸と霊力」を上手に使えばどのような事にも対処できる気がしてきた。

 上空を旋回する大鷲を見つめながら意識して呼吸を整える。


 すると周囲の霊力が己に集まるのが分かる。そして頭の中に七本の木の枝が浮かび上がった。清三郎は一瞬驚いたが現実に起こっていることだった。動揺することなくゆっくりと呼吸する。頭の中の木は消えることはなかった。


「今の内に木に飛び移っておきたい……」清三郎は決断した。大鷲は上空を旋回していたが隣の木に飛び移った。見事に枝に着地できた。すぐに別の木に飛び移る。


 その間、上空の大鷲からは一切目を離していない。体が覚えた感覚と頭に浮かんだ七本の木が清三郎に強い自信を与えた。


 地上から十六間(約30m)の場所である。下を見ればあまりの高さに足がすくみ体は硬直する。しかし清三郎は徐々にその高さを自分のものにしようとしていた。


 大鷲の攻撃が再開した。清三郎めがけて急降下する。接触の直前で後ろの木に飛び移った。見事に枝に着した。木と枝が大きく揺れるが体が順応してきている。縄は使わず手で幹を掴んだ。軽く触っているだけで態勢を維持することができた。


 大鷲がそのまま清三郎を追従した。隣の木に飛び移る。とさらに隣の木に飛び移った。思い描いたように枝に着地できていた。


 今の一連の流れの中で、清三郎は霊力の力を感じていた。呼吸で心身を落ち着かせることによって霊力を感じ、自在に操る。今しがた木を飛び移った動きも霊力が作用していたことを実感した。


 この霊力の力は「景虎」に変化した時に感じた霊力の力と同じであった。

 日が暮れ始めた。すると大鷲が何処へともなく去って行った。


「ふう……。出来れば二度と来ないでほしいものですな!」清三郎が大鷲に叫んだ。

 今日も何とか生き延びたようだ。ふと「今なら座禅が出来るのではないか」と思い立った。


 枝の上でまず足を投げ出し座ってみる。呼吸を整える。心を穏やかにする。そして慎重に足を組む。が尻をしっかりと支える程枝が細いため、体がふらつき風で飛ばされそうになる。


 やはり座禅は無理だった。清三郎は少々残念だったがそれでもこの場所へ来た当初を思えば格段に進歩している。満足することが道理だろう。そして清三郎は地上に降りた。


 岩場の寝床で昨日仕留めた猪の肉を焼いていると洞窟の入り口に獣の気配を感じた。木の枝で作った槍を咄嗟に取って入り口を見ると、何とそこには例の大鷲が立っていた。


 大鷲に攻撃の殺気が無いのは直ぐに分かった。昼間とは別人、いや別鷲のようだ。清三郎を攻撃している大鷲が何故そこに立っているのかさっぱり分からない。


「お主、どうしてそこにおる。用があるなら申してみなされ」

 清三郎の問いに答えるはずもない。「まさか猪の肉が目的ではないでしょうね」清三郎はそんな気がした。


 試しに焼けた個所を短刀で切り落とし、塩を振りかけて大鷲に投げてみた。するとどうだ。ぺろりと食べたではないか。どうやら餌の無心に来たようだ。清三郎は呆れたがそこは清三郎だ。


 保存用に取っていたモモ肉を焼いてやり、入り口で待つ大鷲の前に置いてやった。不思議と逃げない。大鷲はモモ肉を足で掴みながら上手に食べている。モモ肉は大きいので充分腹が太るはずだ。案の定、モモ肉を食べ終えると羽音を立てて何処かへ飛び去った。


「攻撃して食おうとしている拙者に餌を無心するとは……。正気なのですかね大鷲は。しかし明日からは修行場に来ないかもしれませんな」

 清三郎は呟くと横になった。


 翌朝、小川で顔を洗って修行場に行ってみると、木の天辺の枝に大鷲が留まっていた。清三郎がやってきたことに気付くと上空に飛び立ち、たちまち旋回を始めた。


「餌を与えた恩人に、さらに攻撃を仕掛ける気ですか。やれやれ」こんな事が自然界であって良いのか。清三郎は心から疑問に思った。しかし現実に目の前で起こっている以上、受け止める必要がある。


 清三郎が木の天辺まで上ると、大鷲が直ぐに攻撃してきた。しかもこれまでの倍はあろうかという速度で急降下してきた。昨夜与えた猪肉の効果なのか。これに驚いた清三郎は呼吸を乱したまま隣の木に飛び移った。


 案の定、足を滑らせた。すかさず縄を枝に投げつける。ぐっと左腕に体重がのしかかる。大鷲はそのまま清三郎に攻撃してきた。縄にぶら下がったままなので、大鷲を蹴飛ばしてやった。大鷲が怯んだすきに枝に上る。


 直ぐに呼吸を整える。そして大鷲から距離を取るため別の枝に飛び移った。今度は枝に着地できた。幹に手を添えるだけで立つ事ができた。


 しかし今の大鷲の攻撃はこれまで見たことのない素早い急降下だった。まるで弓から放たれた矢のようだった。思わず慌てたが一度目にすれば大丈夫だ。もう慌てることはない。


 いかに早い攻撃であろうと呼吸を整え、心を落ち着ける。周囲の霊力を感じ取る。大鷲が空に戻った。今度は旋回することなく直ぐに急降下を始めた。やはり速度が増している。


 しかし清三郎は慌てることなく霊力で描いたとおりの枝に飛び移った。大きく揺れる枝にも動じることはない。大鷲が連続攻撃の様子を見せたので直ぐに隣の木に飛び移る。それでもなお攻撃しようとするので大鷲に的を絞らせないよう何度も樹々を飛び移った。


 途中縄の世話にもなった。が、枝への着地はかなり上達している。着地後の木の揺れに対しても充分対応できている。霊力の感じ方で全てが変わった。


 大鷲が再び上空へ戻った。旋回している。清三郎が大鷲に大声で叫んだ。

「もう拙者に適わんと分かったでしょう。もう堪えてくれませんか!」


 大鷲は「クワー」と甲高く一声鳴くと、急降下を開始した。清三郎は直ぐに心を落ち着かせると接触直前で別の木に飛び移った。連続攻撃をしかけてくるので直ぐに別の木に飛び移る。


 大鷲が羽を羽ばたかせ宙に浮いている。物凄い殺気だ。清三郎はさらに木を飛び移って距離を取った。 

 その日は日が暮れるまでに十数回の攻撃を受けた。しかし今日も生き残った。


 霊力を感じることで大鷲の攻撃を瞬時に察知することができ、これに対応した動きが取れるようになった。



 清三郎は久しく体と着物を洗っていなかったので岩場に行く前に小川に向かった。手拭いで体をこすると垢がたっぷりと出た。着物も適当に洗ってやった。


 ふんどしのまま岩場に戻ると何とそこには大鷲が立っているではないか。さすがに清三郎は驚いたが昼間のような殺気は全く感じられなかった。


「お主、まさかまた餌の無心に来たのではないでしょうね」

 清三郎の問いには答えず片方の羽を広げ、くちばしで毛繕いしている。清三郎は呆れ顔だ。


 火を起こし保存用に取っておいた猪の頭を焼いてやることにした。聞くところによれば、猪の頬肉と脳みそは格別うまいらしい。が、清三郎はいざという時のために保存用に取っておいたがとても食べる気にはなれなかった。


 まるごと焼いた猪の頭に塩を振りかけて大鷲の前に置いてやる。足を上手に使って食べている。その様子を眺めていると可愛らしく思える。だいたいこの時期に大鷲がこの場所にいること自体が不思議であった。


 大鷲は渡り鳥のはず。春にはロシアへ戻ると聞いている。それが何故ここで清三郎が焼いてやった猪の頭を食っているのか。


 大鷲は猪の頭に満足したのか「クワー」と鳴くと何処かへ飛び去った。「やれやれ」清三郎は呟くと焼けた猪の肩肉を食べて腹八分目にした。そして座禅を組み瞑想に入った。


 一切の雑念を捨て無心になる。呼吸を意識して樹海と一体となる。周囲の霊力を感じ取る。鳥海山は活火山と聞いたことがあるが、地底深くに流れる溶岩流を感じることができた。その流れは至って穏やかでしばらく噴火することはなさそうだ。瞑想を解いた。


 着物が乾いたので羽織って横になった。清三郎は「あの大鷲、餌の恩をあだで返すとは。明日も来るでしょうか。もし明日来れば目にものを見せますぞ」などと思いながらいつの間にか眠っていた。


 翌朝、小川で顔を洗って修行場に来てみると、やはりと言うべきか大鷲が木の天辺に留まっていた。清三郎は下から大鷲に向かって


「お主、恩というものを知らないのですか! 見れば立派な大鷲。空の神と言っても過言ではないしょう。しかし攻撃してくるのなら覚悟しなさい」


と大声で叫んだ。清三郎が木を上り始めると大鷲は上空を旋回し始めた。木の天辺まで上ると大鷲が直ぐに急降下してきた。


 清三郎は大鷲が眼前で両翼を広げ足を出すのを待っていた。その両足首を両手で掴んだ。大鷲は驚いたのか羽をばたつかせた。それでも清三郎は手を離さない。


 すると大鷲はくちばしで清三郎の頭を攻撃した。清三郎は頭を左右に振って難なく避ける。大鷲は必死に羽ばたいて逃げようとする。そして清三郎は両手を放してやった。


「拙者に適わんことが分かったであろう。いい加減もう帰りなされ」

 清三郎の叫びに逆らうように再度上空から攻撃を仕掛けて来た。清三郎が呼吸を整える。そして周囲の霊力を感じ取る。


 すると頭に七本の木が鮮明に映し出された。大鷲が襲い掛かった瞬間、右、後ろ、左、それぞれの木に自由に飛び移った。あえて縄は封印した。今では枝の曲がりの反発を利用して木を一つ飛ばして十四尺(約4m)の木の枝に飛び移ることができるようになった。


 枝の反発を利用して、大鷲にその場で何度も上下に飛んで見せる。その間の呼吸も忘れない。霊力の流れを肌で感じ取る。大鷲は清三郎と対峙するように羽ばたいてその場に浮いている。


「拙者の勝ちでござろう。何度攻撃してもかすり傷一つ付けられませぬぞ」

 清三郎が大鷲に伝えるとそれまで凄まじかった大鷲の殺気がすっと消えていった。そして大きく羽ばたくと空高く舞い上がり飛び去った。


「ふう」清三郎は大きく深呼吸すると、今しがた樹々を飛び移った術を思い返した。呼吸を整える。無心になり周囲の霊力を感じ取る。七本の樹々が頭に映し出される。そして思うままに樹々を飛び移った。


 枝の反発を利用して十四尺の枝に飛び移る。さらにその枝の反発を利用して一つ飛ばしの枝に飛び移った。


 突如突風が清三郎を襲った。しかし清三郎はその突風に身を任す。すると体が宙に浮き風に流される。が冷静に縄を木に投げ付け木の枝に着地した。


「はあ」清三郎はゆっくりと息を吐いた。そしてさらにゆっくりと息を吸う。地上から十六間(約30m)の木の上で両手を広げ、ゆっくりと片足で立つ。そのままの姿勢で腰を落とす。


 片方の足は前方に向けている。その間の呼吸も忘れない。動きに連動するよう呼吸する。腰を落としたまま枝に着けた軸足をさっと変える。片足のまま腰を上げると隣の木に飛び移った。


 片足で着地し枝の反発は膝を曲げて吸収して立ち姿を安定させる。

 無心で訓練しているといつの間にか日が暮れていた。木から降り、小川で顔を洗い、体を手拭いで拭くと岩場の洞窟に戻る。


 すると大鷲が入り口で待っていた。どうやら猪肉が相当気に入ったようだ。昼間の大鷲とは打って変わって全く殺気がない。大鷲の傍を歩いて洞窟に入っても動じる様子はなかった。


 いやそれどころではなかった。清三郎の後ろを着いて来ているではないか。清三郎は大鷲の行動を訝しんだがしばらく無視することにした。火を起こして吊るした猪肉を焼く。


 今日はモモ肉があるのでそれも一緒に焼いてやった。焼きあがったモモ肉に塩を振りかけて大鷲の前に置いてやると足を使って上手に食べた。清三郎も焼けた個所から短刀で肉を切り食べる。


 清三郎は腹八分目になると、座禅を組みいつもの瞑想に入った。大鷲はモモ肉に満足したようだが洞窟から出ていく気配がない。清三郎は気になって目を開けると何と大鷲は地面に伏せているではないか。


 完全に足を腹に折りたたんで休んでいる。顎まで地面に付けていた。思わず清三郎が尋ねた。

「お主、まさかそこで寝るつもりではないでしょうね」


 清三郎の言葉が分かったのかどうか定かでないが、大鷲は態勢を変えて腹を上に向けた。まるで犬が甘えているようだ。仕方なく清三郎が腹を擦ってやる。すると「ココココー」と鳩のような声で気持ちよさそうに鳴いた。


 不思議なもので大鷲がそのような態度を取ると清三郎もとても可愛いと思い、瞑想を中断し、両手で腹を擦ってやった。やはり鳩のような鳴き声で大喜びの様子だった。仰向けになっている大鷲の羽を広げても抵抗しない。


 若干汚れているので手拭いで拭いてやった。するとどうだ。気持ちよかったのか気に入ったのか、逆の羽を自分で広げたではないか。清三郎は呆れ顔で片方の羽も手拭いで拭いてやった。


 こうなったらとことんまでやってやろうという気になった。小川まで行き手拭いを洗って絞った。洞窟に戻り大鷲の体中を拭いてやった。鋭い目元も拭いてやったが全く嫌がらなかった。大人しいものだ。


 ここまで体を綺麗にしてやって、明日、また清三郎を襲ってきたらその時は裏切り行為として処刑してやろうかと思った。


「まあ、好きにしなされ」

 清三郎は大鷲にそう言うと、横になった。どうやら大鷲もここで寝るようだ。


 頼もしいやら迷惑やら大鷲の気持ちは分からないので何とも言えないが、先ほどの様子から寝込みを襲われることはないだろう。

 清三郎はいつの間にか寝入っていた。


 翌朝、目が覚めると大鷲は傍で毛繕いをしていた。洞窟から外に出ると、ちょこちょこと歩いて着いてくる。外に出て小川に向かうと飛んで着いて来た。清三郎が顔を洗うと大鷲は水浴びというのか、ばしゃばしゃとやっている。


 とても可愛く思えた。「さて修行場ではどうなりますかな」清三郎が呟くと大鷲は「クワー」とひと鳴きして飛び立とうした。


 その時だ。小川の川上約二十八間(約50m)のところに大熊が現れた。既にこちらに気付いて走りだそうとしていた。今の清三郎の力であればその辺に転がっている棒切れで直ぐに殺せる。

 

 しかし清三郎にある考えが浮かんだ。大鷲が自分の命令を聞くかどうか試したくなったのだ。大鷲も大熊の殺気に気付いたようだ。清三郎は大鷲に身振り手振りを加えてこう伝えた。


「よいですか。熊がこちらに走ってきます。お主は羽ばたいて威嚇してください。そして熊が『ウオー』と叫んで立ち上がったら飛び去るのです。立ち上がった熊は前足で攻撃してくるので必ず飛び去るのですよ。分かりましたか」


 そう伝えている間に大熊はそこまで走ってきていた。大鷲は大きく両翼を広げると大熊に向かって羽ばたいていった。さらに大熊の目の前で「クワー」と鳴いて見事に威嚇しているではなか。


 清三郎は大鷲の頭の良さに心から驚いた。こうなったら大鷲の頭の良さに応えてやらねばならない。

 清三郎はその辺に落ちていた棒切れを拾うと素早く大熊の後ろに回った。予想通り大熊が立ち上がった。


 大鷲は言いつけ通り直ぐに飛び去った。清三郎は大熊の後ろから首めがけて棒切れを突き差した。大熊は死の咆哮を上げるとどさっと倒れた。


 大鷲が戻って来た。倒れた大熊の上に着地した。

 清三郎が「拙者の言うとおり、よう立ち回りましたな。お主は本当に頭が良いようです。お見事。素晴らしい。感動しました」と言いながら大鷲を両手で撫でてやる。


 大鷲も「クワー」と鳴いて清三郎に応えた。

「それでは修行場に向かいましょうか」

 清三郎がそう告げると大鷲は修行場の方向に飛び去った。


 清三郎が到着すると大鷲は木の天辺で待機していた。清三郎が木に上り始める。天辺の枝まで上ると大鷲が羽ばたいて清三郎の隣に着地した。体を摺り寄せてくる。意外と甘えん坊だった。


 これで清三郎の決心が着いた。

「お主、私の従者になるつもりがありますか。これから一生私と生活するということです。どうですか。分かりますか」


 清三郎が話すと大鷲は「クワックワックワー」とひと際甲高く鳴いてさらに体を摺り寄せて来た。どうやら清三郎と一緒に生活する気満々のようだ。


「よし。分かりました。それならばお主に名前を授けましょう。出羽の地にちなんで『出羽神でわしん』という名はどうでしょう」


 清三郎が大鷲に名前を与えた途端、大鷲が一瞬白い霊力に包まれたように感じた。出羽神は飛び立つと何度も何度も鳴きながら空中を旋回した。空中を舞う速度も以前よりはるかに増したようで、今清三郎に急降下を仕掛けて来れば見事にやられるかも知れないほどだった。


「出羽神、拙者の肩に留まってくれますか」

 清三郎が命令すると出羽神はたちまち急降下し、清三郎の前で羽ばたくとゆっくり清三郎の肩に留まった。爪は丸めているようだ。


 大鷲に爪を丸める能力があるのかどうか分からないが、もし無いのなら名前を授けたことによって新たな能力が備わったことにしようと清三郎は思った。


「よし。出羽神、とてもお利口ですぞ。では木の枝に移動しなさい」

 すると出羽神は羽ばたいて清三郎の肩から離れると傍の枝に留まった。出羽神の頭の良さに感動した清三郎は思わず出羽神を両手で擦ってやった。出羽神は鳩の鳴き声で喜んだ。


 可愛い相棒が出来たことで嬉しい清三郎であったが「はっ」と気付いた。今腰を落として出羽神を擦っている場所は地上十六間(約30m)の木の天辺だった。無意識の内に出羽神を両手で擦っていたが、細い枝の上であることを忘れていた。


 これまでの清三郎であれば冷や汗をかくところだが、今の清三郎は冷静だった。出羽神に触れたまま直ぐに呼吸を整え、周囲の霊力に集中する。大自然に育まれた霊力を通じて己の存在を感じ取る。


 そして出羽神、周囲の樹々、出羽の樹海をも霊力として感じ取ることが出来た。清三郎は心で驚いた。周囲の存在を目で見て実感するのではなく霊力で実感できているからだ。


 清三郎は目を閉じた。そしてその場に立つ。この世界の全ての生命の源である霊力を実感していた。これから突風が来る。霊力が告げていた。清三郎は周囲の霊力を突風が来る方向に集めて防壁を創った。やがて来た突風は霊力に守られた清三郎を避けて通過した。


 清三郎はゆっくりとその場に腰を落とし、座禅を組んだ。霊力を感じることで恐怖は全くなかった。木の揺れ、枝の揺れも霊力で全て感じ取れる。そのまま瞑想に入った。



「クワー」遠くから出羽神の鳴き声が聞こえる。「クワー」また聞こえた。

 清三郎は我に返った。気が付くと細い枝の上で座禅を組み、瞑想していた。周囲はすっかり暗くなっていた。


 出羽神は主人の修行を邪魔することなくじっと待っていたが、腹が減って我慢できなくなり鳴いて清三郎に知らせたのだった。


 清三郎は今の状況に感動を覚えた。ついにこの枝の上で座禅を組むことが出来たのだ。恐怖も全く感じない。ただ出羽神の鳴き声が餌の催促であることも分かった。


「出羽神申し訳ない。時間を忘れてしまいました。直ぐに寝床に戻りましょうか」清三郎は直ぐに木を降りた。小川に寄りたいが腹を減らした出羽神に申し訳ないので寝床に直行した。直ぐに火を起こし吊るした猪肉に火を通す。


「出羽神、今日は好物の頭がありますぞ」

 話しながら猪の頭を焼いてやる。頭が焼きあがると塩を振りかけ出羽神の前に置いた。「熱いからゆっくり食べなされ」出羽神は両翼を広げた。


 清三郎はその行為が感謝の気持ちと理解した。しかしあらためて両翼を広げた出羽神は美しかった。足を上手に使って肉を食べる出羽神は本当に可愛い。


 清三郎は肉を食べる出羽神を擦りながら「もう少しの辛抱ですぞ。もう少しこの場所で修行すれば、出羽神の家族が待っている江戸に戻りますぞ。もう少し辛抱なされよ」と話してやった。


 清三郎は今日の修行を振り返った。体感した霊力によって当初の目的であった座禅が組めた。そして恐怖も一切感じなかった。しかしそれ以上に大きなものを得ることが出来るかもしれないという期待が生じていた。


 それは突風に対して霊力の壁を創ったことだった。清三郎は考える。どうしてあのような事が出来たのだろうかと。


「明日からは霊力の勉強ですな」清三郎は出羽神に話しかけたが、満腹になったのか既に寝息をたてていた。清三郎も軽く猪肉を食べると横になった。



 それから四日間、日の出から日没まで清三郎は木の天辺で座禅を組み瞑想した。

 霊力とは生命の源であり、世界の生命全てに宿っていることを理解した。そして霊力を強く感じれば感じるほど、目で見ずとも自分の周囲の状態について、まるで見ているかのように分かることも理解できた。


 霊力を心で感じれば操ることもできると理解した。

 木の枝で座禅を組むこと、その場所がどんなに高い場所であろうと霊力を操る術を手に入れた清三郎にとってはどうでも良いこととなっていた。


 今、清三郎は霊力を体に纏って瞑想していた。その中で清三郎は景虎の能力を身に着けた。景虎のように舞い、景虎のように剣技を振るう。清三郎自身が景虎と同化した。それは全ての生命に宿る霊力によって得た力だった。


 そして清三郎は出羽神がなぜこの地に降臨し、己を攻撃したのか悟った。出羽神自体が強い霊力の持ち主であり、清三郎の心に宿っていた強力な霊力を引き出すための鍵だったのである。


 出羽神は鍵の役割をしっかりとこなし、清三郎の霊力を引き出したのだ。出羽神をこの地に差し向けた者が神であったのか仏であったのか、はたまた謙信が崇拝した戦いの神、毘沙門天であったのかは分からない。


 だが出羽神が清三郎の霊力を開花させ景虎となる鍵であったことだけは事実だった。そうでなければ清三郎の言葉を理解できるはずがなかった。


 自然の力とは何と恐ろしいものか。その使い方次第で強力な「善」又は「悪」になる。景虎の力を得た清三郎には自然が生み出す霊力を上手く使いこなす責任が生じる。その責任はこの上なく重大だ。


 清三郎は己の心に問いかける。「清三郎、お前は強大な霊力に責任を持って向き合い、それを使うことが出来るか」清三郎は自信を持って答える。「拙者、そのような力がなくとも心強い味方が既におりまする。この力が必要となればその時に、必要な分だけ利用させて頂きましょう」


 清三郎が瞑想を解いた。眼前に広がる奥羽山脈をじっと見据える。清三郎の左帯に「鶴姫一文字」と「謙信景光」が現れた。


 清三郎は座禅を組んだまま右手で鶴姫一文字の柄に手をかけ、左手で鞘を握る。

「はっ!」凄まじい気迫とともに居合い貫きした。座禅を組んでいた姿勢は片膝立ちとなっていた。目にも留まらぬ早業だった。


「はあぁ」清三郎はゆっくりと息を吐くと鞘を体の正面真横に出し、鶴姫一文字をゆっくりと納める。そして左帯にしっかりと戻した。


 剣筋は一切ぶれることなく、思った通りに一閃した。剣の型を取り、鞘に納めたことで清三郎の心が深海のように静まり心が落ち着いた。己の剣を得た瞬間だった。


 清三郎は傍で飽きることなく修行をじっと見ていた出羽神に告げた。

「この地での修行は終わりました。出羽神のおかげで死を克服しただけでなく、己の剣を得ることが出来ました。感謝申し上げる」清三郎は出羽神に片膝立ちのまま頭を下げた。


 出羽神は清三郎に褒められて体を摺り寄せた。清三郎が頭を撫でてやる。

「さあ、寝床に戻って残った猪肉を全部たいらげますか。明朝江戸に向かって出立しますぞ」


「クワー」出羽神も喜んでいるようだ。

 清三郎が霊力を解くと、腰の両刀も消えた。


 清三郎は修行のために江戸を出立する折、家族に向こう半年は戻れないだろうと告げていた。だが出羽神のおかげで一か月の修行で当初の目標であった死の恐怖を克服した上、己の剣まで得ることができたのだ。

 

 出羽神には感謝してもしきれない恩を感じていた。

 猪肉をたいらげ、出羽神と横になると、清三郎は出羽神に「出羽神、拙者はそなたに私の従者になりますかと問いましたが、拙者の間違いでした。


 そなたは私の従者ではではありません。そなたは私の友ですぞ。これからはそのつもりでいてくだされ」

 

 仰向けになった出羽神の腹を擦ってやりながら清三郎は自分の気持ちを出羽神に伝えた。出羽神は鳩の鳴き声でこれに応えた。


 出羽山地最後の夜が更けていった。

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