第十話
「ありがとう。僕は運がいいタイミングで来たみたいだ。……こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、ちょっとアイデアに煮詰まっていてね。昔からそんな時は鉛筆を倒して倒れた方向に歩くことにしているんだ。そうすると何かヒントになることに出会える」
ふふふと思わず笑いが漏れる。
「知ってます」
「え?」
「社員のほとんどは知ってましたよ。社長が鉛筆を倒して散歩に出かけること。真似してる社員もいますよ?」
社長が驚いた顔をする。
「え?知られてたの?」
くすくすとあまりにも社長が驚いた顔をするものだからまた笑ってしまった。
「転ばぬ先の杖をもじって、つぶれぬ先の鉛筆ということを言っている人もいましたよ」
「つぶれぬ先の鉛筆……」
むむぅーと社長が眉を寄せる。
「冷めないうちにどうぞ」
ミルクと砂糖も使いやすいように目の前に差し出す。
「ああ、そうだね。いただくよ」
社長が砂糖を3さじ。ミルクをたっぷりコーヒーに入れる。
「甘党という噂は本当だったんですね」
「あ?そんなことまで噂に……いや、あの、ほら、脳みその栄養になるから、砂糖はね?疲れた時にも甘い物はね?」
言い訳するように両手をふる社長。
これは、これ以上社長に関する噂は教えない方がいいよね。
会議で社長にオッケーをもらいたいときは、お茶と一緒にお茶菓子を出すといいと言われていたとか。それも甘ければ甘いほど、社長の答えも甘くなるという噂があったとか。
「それより、えーっと、古田さん、僕のことは、もう社員じゃないので名前で呼んでもらえるかな?その、会社の外で社長と呼ばれるのは……」
「分かりました」
とはいえ、社長は社長だよねぇ。高橋有玖。
……ん?書類に明記された社長の名前を見ることはよくあったから、覚えてるけど……。有玖……ってなんて読むんだろう?
有は、ゆう?
玖の字は、ひさ、き、く、……って読み方があったはず。他にもあったかな……。まぁ、苗字で呼ぶから関係ないか。
「おいしい……なんだか、懐かしい味のするホットケーキだ!」
社長の顔がぱぁっと輝いた。
「懐かしい?ホットケーキを食べるのが久しぶりとか?」
「いや、何度かホットケーキミックスを買って自分でも作ったことがあるんだけど、その味と違って、昔、毎朝のように朝食で食べてた味に似てる」
母親の作ったホットケーキの味ってことかな?
「それならもしかして、ホットケーキミックスを使わずに作っているからかもしれませんね。香料類とか入ってないですし」
社長の目がキラキラと輝く。
うう、眼鏡を通してでも、すごいキラキラがまっすぐ飛んできます。
こういう喜びや期待や嬉しさがまっすぐに人に向けられるから、社員は社長を喜ばせようといろいろと頑張っていたなんて知らないだろうなぁ。
がっかりした時は、それはもう、頭やお尻にしゅんっと垂れた耳やしっぽの幻が見えると、企画部の子が言っていたっけ。がっかりしているのに「いいですね」と褒められるのでいたたまれないと……。もちろん「もう少しこうしても見てください」と言葉が続くんだけど、ぜんぜんいいと思ってないのが分かるので心が痛いと。
うん、なんか、社長のこのキラキラの目を見ると、その子の気持ちが分かる。
これ、見ちゃうと、そうじゃない顔とのギャップが分かりやすそう。
「すごい、ホットケーキミックスを使わなくてもホットケーキが作れるんですね!」
……。
え?キラキラの理由はそこ?ハードル低いですけど……。