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篠木の伝承 忘却の時代  作者: ながとみコケオ
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再び生と死の狭間で

 ぴちゃん。

 直ぐ横で水滴が落ちる音がして、弥素次は我に返った。何処だろうと思う。冷やりとした空気が頬を撫で、水滴の落ちる音は、遠くからも近くからも聴こえていた。

 洞窟のようだが、目の前は何一つ見えない闇。一体何処なのか、弥素次自身にも分からない。気分的に重く感じる雰囲気は、前にも感じたことがあると思う。

 徐に右手を前に出してみると、硬い物に触った。慎重に触れた右手を右へ動かしてみる。表面は凹凸のない平らな面が続いたかと思うと、出っ張るように角のある部分に行き当たる。更に動かすと、今度は凹凸があり、角に当たる。角から先は、何もない。弥素次が触った物は人口的に作られた物なのだろうか。角は、直角だった。角に直角に沿って、右手を動かしてみる。奥行きはない板のようで、右の中指より少しだけ長いだろう。裏は、どうなっているのだろうか。

 触ろうとして、右手首を誰かに掴まれた。一瞬、身体を硬くする。手首を掴んでいるのは、手だ。異常に冷たく、妙に柔らかく感じる手。見えなかったが女の手だと気付いたのは、喉を鳴らすような笑い声が聞こえたから。

「死魂の女神」

 また、自分は来たのかと、溜息混じりに弥素次は思う。前回のように動けないわけではないものの、急に手首を掴まれては、寿命が縮まってしまいそうだ。

「よう来たのう。何用だ?」

 相変わらず、耳を塞ぎたくなる声だと思う。

「あまり、来たいとは思わないのですが、用があるのでしょうね」

 前回といい、今回といい、ここに来る時は弥素次が意識していない分、始末が悪いと思う。

「お前は、用もなしに来たのか?」

「ここに来てしまう時は、意識をしておりませんので、今から考えなくてはいけないのです。少し、待って頂けますか」

 前回のように、畏縮することはなさそうだ。弥素次が平常心を保てるだけ、状況は良い。

「面白い奴よのう、ここに来て用件を考える者はおらぬぞ」

 喉を鳴らすような笑い声が、洞窟の中で不気味に響く。確かに来てから用件を考える者は、いないだろう。しかし、弥素次としては用件を考える前に来てしまう為、その場で考えなくてはならなくなる。

「ええ、分かっています」

 喉を鳴らすような笑い声は、不気味ながら楽しげに聞こえた。死魂の女神は、弥素次の言葉が余程面白かったと見える。

「お前、妖霊山の主からアリトレウスのことを聞いていたな」

「はい、聞いております」

 さすがに、女神をやっているだけある。昨日の遣り取りを、何処からか見ていたようだ。

「娘が呑み込まれた靄のことも」

 死魂の女神の言葉で、弥素次は聞きたいと思っていることに行き当たる。そうか、自分は聞きたいと思っていたから、生と死の狭間にきてしまったのか。

「聞きたいことを、思い出しました。前にここに来た時に、あれと呼んでいた者がいたと思うのですが、あれとは悪心の神のことでしょうか」

 ふっと、前触れなく笑い声が止まった。聞いてはいけないことを、聞いてしまったか。

「そうだ。あれは、わらわの目を盗んで、生魂の女神の域へ逃げてしまった」

「では、悪心の神は、アリトレウスに存在していたのですか」

 死魂の女神が知っているということは、アリトレウスで生れたのかも確認出来る筈だと思い、聞いてみる。

「確かに存在していた。正確には、悪心の神としてではなく、人として生きていたと言うべきであろう」

 人だったのなら、連も小闘竜にも悪心の神の存在が分からなかったのは納得がいく。

「悪心の神となってしまった者のことを、ご存知なのですか?」

 死魂の女神が、悪心の神が人だったと断言したということは、素性も分かっているのではないだろうか。

「知っておる」

「教えてくださいませんか?」

 教えてもらえるのかは、確証がない。しかし、聞かなくては、何も教えてくれそうにもない。聞いても教えてくれない可能性は十分あるが、聞かないよりは良い。

「お前は、誰だと思う?」

「分かりません。ですが、カルフでないことを祈ります」

 連の話で、一番悪心の神となってしまいそうなのはカルフだった。だが、妙に弥素次と重なる部分があるように思えてしまう。出来れば、違うことを祈りたい。

「カルフか。あれは、違うな」

 死魂の女神の言葉に、内心安堵する。では、一体誰なのか。

「では、誰が?」

「教えたい処だが、簡単には教えられぬ」

 やはり、直ぐに教えてはもらえないらしい。

「どうすれば、教えてもらえますか?」

「大樹に残した死者達を、そろそろこちらに連れねばならぬ。しかし、わらわは媒介無しで、お前のいる世界には行けぬ。行った処で、存在すら出来ぬのだ。そこでだ、大樹で生存し、尚且つここに来れるお前に媒介の役目をしてもらいたい」

 そうかと、弥素次はふと思い出した。死魂の女神が存在を維持できるのは生と死の狭間までで、生魂の女神が支配する大樹や大海には、行ったとしても存在出来ず、人前に姿を現せない。逆に、生魂の女神は、死魂の女神が支配する目の前の扉から向こうには、存在できなかった筈。どちらにも行けるのは、分境の女神だけだが、今は姿がない。媒介を介すれば、姿を見せることが出来るのか。

「お引き受けしますが、どうしたら良いのです?」

「玄封を抜け。それだけで良い」

 一番、困ることを言ってくれる。玄封の鞘を抜く鍵があると言われたが、現時点でも鍵が何なのかもどうしたらいいのかも分からないまま、一度も抜いたことがないのだから。

「女神である貴女でしたら、私が未だに玄封の鞘を抜いたことがないことくらい、お分かりでしょうに」

「知っておる。靄は、再び娘を呑む。娘と共に、呑まれれば良い。お前が考えるよりも、簡単に抜けてしまう」

 喉を鳴らすような、含んだ笑いが聴こえてくる。靄の中なら、弥素次も危機感を感じて、鞘を抜く手段を無意識にとってしまうのかもしれない。

「分かりました」

 短く答えると、娘と死魂の女神が呟いた。

「あれは、ティナに瓜二つだな。最も、ティナの方は品があったが」

「育也は、ティナに似ているのですか」

 育也が話していた誰かにやっと見つけたと言われたのは、ティナと間違えられているのか。しかし、弥素次の問いには答えず、死魂の女神は喉を鳴らすような不気味な笑い声を上げていただけだった。

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