#15.冬の陽炎
揺れ動く水面の上。
ゆらり、ゆら、ゆらりと踊るように舞うその歪んだ空間が、わずかに色あせたように変わっていき。
ニーニャの沖合わずかの場所に、それは現れた。
巨大な竜骨を晒す、ボロ板切れを組み合わせたような軍船が一隻。
ぎち、ぎちりと悲鳴のような音をあげながら、波に押され風に煽られ、少しずつ、少しずつ、ニーニャへと向かってゆく。
『ああ、我がニーニャの民よ、何故我々に気づいてくれないのだ……?』
そんな廃船同然の軍船の甲板上に、一人、物憂げな表情の男が立っていた。
まだ年の頃は40にも満たない無精ひげの男。
三角帽を被りながら指揮棒を手に、「何故なのだ」と、焦れたようにニーニャの港を見つめる。
街の光が見えてからいかほどが経過したか。
あれほど焦がれたニーニャの町に、ようやく、ようやくたどり着くことができたのだ。
これほど待ち望んだ事はない。
そう思いながら、早く、少しでも早くとニーニャに向かおうとしていたのに、何故だか、町の民は自分達に気づく素振りすらしないのだ。
いいや、彼らの方を見る事はあった。
だが、ほとんどの者はこちら側を見るや怯えたような顔になり、海岸から目を背けるように離れていってしまう。
何が起きているのか解らないまま、彼は――提督は、今もまた、ニーニャの町を見つめるのだ。
真赤に染まるニーニャの町。
自分が最後に見たあの光景と比べ、いくらか寂れたようにも見えるその港がどこか寂しく。
そんなだから、彼は「一体私達が居ない間に何が起きたのだ」と、首を傾げていた。
不思議で仕方ないとばかりに。なぜそんな事になっているのか、理解が及ばないとばかりに。
《にゃー》
そんな中でも、彼らを出迎えてくれる者は居た。
一羽の海鳥。
既にボロボロになったマストの上に着地し、また《にゃー》と鳴いた。
『……お前、変わっているな』
そんな久方ぶりの『来客』の姿に、提督は頬を緩めながら語り掛ける。
鳴き声だけならばウミネコのようだったが、見た目はカモメのようでもあり。
だが、翼は茶色く、ウバスズメのようでもある。
このような鳥もいるのか、と、今までの自分の知識にない海鳥の姿に、感嘆していた。
(……何なのかしら、この船。船体そのものは普通の船樹で作られているようだけれど……幻影でもなく、乗る事が出来るし)
一方、海鳥の視点で見ると、これはとても知性的なモノの見方がなされていた。
他でもないベラドンナである。
本人的には数少ない知識でカモメに化けたつもりだったが、その特異な姿の所為で提督に興味を持たれている事には気づいていなかった。
(甲板上には……人魂と、ゴースト……? 立派な服装ね。船長かしら?)
マストの上から見つめる船上は、おおよそ船幽霊らしき不気味な光景が広がっていた。
規則的な動きを続ける大型の人魂がいくつもあって、そうして、一人だけぽつんと、幽霊じみた男が立っていたのだ。
そのいでたちから「恐らくは偉い人だったに違いない」とベラドンナは判断したが、流石に軍に詳しい訳ではない彼女には、彼が提督であったことなどは解るはずもなく。
ただ、遠目に見ただけで、彼だけがそのようになっていると、そのように感じていた。
(……トーマスさんは近づいただけで砲撃に晒されたと仰っていたけれど、大砲はどちらも前方にしかついてないのね。後ろ側に回れば、砲撃される事もないかしら……?)
船の周りを軽く飛んで回り、砲台の位置や死角になりうる場所の確認などを行う。
少なくとも、見た限りでは前方の砲台でカバーできる範囲以外、脅威となりそうな武装は存在していなかった。
(後は……この方達が、何を考えているのか、が解れば――)
再びマストの上に着地したベラドンナは、夕べの内にトーマスから聞いた事を思い出しながら、船上を眺める。
視線の先には、提督。
「――ご婦人は、ずっと気にしてらっしゃったのだ。故人が何を求めこの町に戻ってきたのかを。今、彼らが何を求めているのかを」
「大切な人を待つ気持ちは、私にも解るつもりですわ。そうして、二度と戻らないのだと知った時の悲しみも――」
「うむ……そなたも中々に辛い思いをしたらしいとは聞いておる。ベラドンナ殿。事情次第ではな、船幽霊をただ迎撃して、それで終わりにしたいとは思っていないのだよ、私はな」
「解りますわ。ではトーマス殿、できる限り、『彼ら』が何を求めているのか、それを探ってまいります」
「うむ、頼む。本来の筋からは離れてしまうが、これは……私の、あの戦争を生き延びた者としての願いでもあるのだ」
「……はい」
(あの時のトーマス殿は、とても悲しそうだったわ……戦争の事は何も知らないけれど、あの時代を生きた人達には、何か深く思う所があるのかもしれないわね)
アリサ婦人の気持ちは解っていても、トーマスの気持ちに関しては半分しか理解できない。
それがもどかしく、ベラドンナは溜息をつく。
(でも、彼らが本当に港への、ニーニャへの帰還を望んでの……その長い航海の、最後の幕を引く為にここに来たというのなら、私も、彼らには幸せな最期を迎えて欲しいと思いますわ)
心の中で十字を切りながら、ベラドンナは粛々とした気持ちで下段へと降りる。
提督の立つ中心の、そのすぐ目の前。
ゆらゆらと揺れている、陽炎のような男の姿に、ベラドンナは若干、涙ぐんでしまった。
『ははは、人懐こい奴だな。ビスケットでもご馳走してやりたいところだが……すまんなあ、食料はもう底を尽きてしまっていて』
今にも消えてしまいそうなほど存在が希薄になっているというのに。
その存在にすらノイズが走り始めているというのに。
提督は、自分に近寄ってきてくれた海鳥に、嬉しそうに手を差し出し、「ちちち」と、まるで猫でも招き寄せるように笑い掛ける。
『私の部下のべリアンという男がな、こっそり妻からの差し入れのクッキーを隠し持っていたんだが……あいつはこれに触ろうとするとひどく怒ってなあ。まあ、まだ若い嫁さんだからな。可愛くて仕方なかったんだろう。娘も幼くて、これも可愛い盛りだと聞いていたが』
勝手に語りかけてくる提督の姿に、ベラドンナはじ、と、その瞳を見つめ続ける。
まるで自分が死んでいないかのような、活き活きとした眼。
死して尚光を失っていないその若い瞳は、まるで自分の夫の生前を見ているようで、酷く胸を締め付けられるものがあった。
(……あの人も、あんな事になる前にはこんな風に笑ってくれていたのかしら。私達の事を思い出して)
悪魔となって尚、忘れる事の出来ない悲劇。
苦痛とも思える過去を思い出すという行為に、しかしベラドンナは苦しみながらも、どこか暖かいものを感じ始めていた。
そう、辛い過去は、同時に幸せな、大切な人との思い出でもあったのだ。
『私も……ついぞ妻子を持つことはなかったが、あのニーニャが私にとっての妻のようなものなのだ。我ら王国海軍の誇り! あの美しきニーニャの港! これさえあれば、と思っていたのだが、なあ』
ため息混じりに甲板先のニーニャ港を見つめ、提督は深いため息をつく。
そうはならなかった。それを見る事は叶わなかったのだと、虚しさの霧に包まれながらに。
『……戦時下故何が起きても不思議ではないが……彼らは、私達を迎えてはくれなくなったのだろうか? ああ、もどかしい! 叶うならば今すぐにでもニーニャに駆けつけ何が起きたのか知りたいのに、この船はいつまで経ってもニーニャに辿り着いてはくれぬ! 風は吹き、我が船上のマストは大いに風に揺れているというのに!』
提督殿は、大いに焦れていた。
夢にまで見た愛するニーニャの今の姿に、なぜそうなっているのかが理解できずに、彼なりに心配していたのだ。
今すぐにでも駆けつけたい。だが、自分達ではそれが叶わぬ。
船から身動きのとれぬ彼にとって、これほど切ない事はなかった。
『せめて、ニーニャから誰ぞかが来てくれれば、困っているのなら助けを求めてくれれば、出来る限りの助力をしたいのだが……それとも、今我らを迎えてくれるのは、海鳥のお前だけだというのだろうか……』
彼らは、戦争が終わった事など知らなかった。
今も尚戦時中のままで、戦い続けた末、なんとか生還したと思い込んでいたのだ。
だからこそ、提督は憂いていた。
自分達で力になれるならば、何でもやってやりたいと思っていたのだ。
そうしてやはり、自分達を迎えて欲しいとも願っていたのだ。
あの愛する港町の民に。
(……やはり、この方々は戦場から帰還するつもりでニーニャに向かっていたようだわ。だとしたら、ニーニャには攻撃するつもりはないのかしら……?)
提督の独白はいつまでも続くかに思えたが、合間合間で、ベラドンナはこの提督の、そして船内の人魂を見つめ、彼らの想いを悟った。
少なくとも、今の段階ではニーニャに向けての害意はない。
むしろ彼ら自身が、ニーニャに何かあらば救出に向かうくらいの気概なのではないだろうか、と。
(でも……彼らは戦争が終わっているのを知らない。今のままニーニャに接近すれば、住民の反応次第で何かしら勘違いをして、予想外の行動をとる可能性もありそうね……)
あくまで可能性の段階でしかないものの、ニーニャにとっての最悪を想定すると、どうしてもそのような方向になってしまう。
実際、小舟で接近しただけで砲撃された漁師もいたという話だから、何が起きるのかは解らない。
このいい身なりをした船長らしき男が、何かの勘違いでニーニャに向けて砲撃を開始するという結末も、完全に無くなった訳ではないのだ。
『ああ、ニーニャよ、どうか無事であってくれ……そうして無事であったなら、どうかあの日我らを送ってくれた時のように笑顔で迎えてはくれまいか。それだけが……それだけが我らの生きる望みだというのに』
まるで役者か何かのように大仰に手を広げながら、提督殿は寂しげに、悲しげにニーニャを見つめ、一人ごちていた。
(……あの日の笑顔で、迎えて欲しい)
この男の願いとも取れる言葉を噛みしめるように心の中で呟きながら、ベラドンナはその想いを確かに受け取り、ひとまずは船上から飛び立つ。
今一度船の上空を旋回し、次第に船体が薄れていくのを確認してから、彼女はニーニャへと戻っていった。