#13.老婦人の追憶
厳かな艦隊の出陣式。
華やかな港町は、ここ数日でひと際多くの人が港へと集まり、海の戦いへと赴く水兵らを見送っていた。
冬の晴れ日は海も穏やかで、小さな魚達が幾匹も船の周りを飛んで見せる。
精強な水兵達が小さく見えるほどに巨大な船の群れ。
人々は、その勇壮な姿にうっとりとしながら、悠然と港から離れてゆく姿を目に焼き付けていったのだ。
艦隊の中で最も美しい旗艦『クイーン・パメラ』がエルセリア海軍を示すフラグを開くと、人々はハッと我に返ったように、艦隊に向け手を振り、声を挙げ始める。
「がんばれよーっ」
「無事に帰ってきてねー!」
「パパ―、頑張って!!」
「悪いグラチヌス海軍をやっつけちまえ! 期待してるぜ、海軍の旦那がた!!」
「あなたーっ、あなたが帰ってくるまで私、ずっと待ってるから! 必ず帰ってきてくださいねー!!」
様々な声があった。
応援する声こそ大きいが、それに応えて手を振る水兵達の中には、親しい者や家族と別れるのが辛く、涙してしまうものもいた。
白と青の水兵服。鍛え抜かれた海の男達でも、身内との別れはやはり、寂しいのだ。
そうして、だからこそ彼らは戦いに赴く。
戦わねば、戦って勝たねば、この美しき町も、あの大切な人々も守る事ができないのだから、と。
歯を食いしばりながら。拳を握り締めながら。
精一杯に手を振り続け、そうして、男達は覚悟を決めていったのだ。
「……」
「ママ……パパ、いっちゃったね。もうみえなくなっちゃうよ?」
「……っ、そう、ね」
そんな中、遠くなってゆく艦隊を見守る母娘の姿があった。
この町ではそう珍しくもない、軍人の夫を持つ妻と、その娘である。
まだ幼少の娘には、父が戦地に行く事の意味をあまり理解できず、「おっきなフネすごかったね」「すいへーさんたちかっこよかったね」などと、思いついた感想ばかりを口にしていたが。
母親の方は、これからの生活の不安と、夫の無事とを想い、笑顔で娘の顔を見る事もできずにいた。
まだ若い母親である。これから幸せな家庭を夫と共に築いていこうとしていた矢先の出陣であった。
娘も生まれ、夫も喜んでくれていたというのに。
その娘が育ち切るより先に、夫は海の向こうへと旅立ってしまったのだ。
寂しさも勿論あるが、それ以上に恐れの方が強く、歓声を向ける多くの住民とは裏腹に、辛い気持ちばかりが噴出してしまいそうになっていた。
海とは、様々なモノを人々に与えてくれる恵みの領域。
それでいて、時として様々なモノを人々から奪い去っていく絶望の領域でもあった。
ただ漁に行く時でさえ命がけだというのに、戦いになど赴けばどうなる事か。
戦事に疎い彼女にも、それがどれだけ危険な事かは想像に容易く。
せめて、せめて夫は無事に帰ってきますように、と、願う事しかできずにいたのだ。
そんな無力な自分を呪いながら、それでも夫が無事帰って来た時に、胸を張って出迎えることができるように。
彼女は、母親として頑張らなくてはならなかった。
戦時中の世界である。
軍人の妻は、夫が戦地に向かったままでも、町の人々から優しく支えられた。
母親一人では苦しい事があっても、町の人々は「軍人さんには世話になっているから」と進んで手を貸してくれたり、助言してくれたりする。
大変なはずの子育ても、同じような境遇の軍人の妻同士でコミュニティを形成して、なんとか上手くやれていたのだ。
そうして、国は国家運営上重要な役割を果たすこの港町に、莫大な支援を送っていた。
少なくとも戦時中、市民が物資に困る事はなく、物価も比較的低い水準のまま、片親の家庭でも暮らしていける程度には収まっていた。
軍人の妻にはその上で手厚い支援が滞りなく続けられた。
子供達はすくすくと育っていき、「いつかお父さんみたいになるんだ」「パパみたいな軍人さんと結婚するの」と、憧れの水兵を思い出しながら、目をキラキラさせて夢を語ったものである。
最後に海軍がこの町の港から出陣して、十年ほどが経過した。
もうこの頃になると、世界中を血と絶望と欲望に染め抜いた大戦は大分勢いを失い、様々な国家がある程度のまとまりを以て落ち着き始めていた。
大戦中盤から終盤にかけて大陸中を大暴れしていたグラチヌスも、侵略と遷都を続けた末に当時最強の陸軍国だったラナニアと衝突し敗走、ラナニア海軍による帝都強襲を受け儚い結末を迎える事となっていた。
当初ラナニア海軍と拮抗すると言われたはずの最新鋭の大艦隊も何故か出撃してこなかった為、帝都はいともたやすく陥落したのだとか、そんな噂が流れるほどにあっさりと滅亡したのだ。
その間、エルセリアはどさくさまぎれに北方に進出、多くの土地を手に入れラナニアとは対峙したまま、陸上では一切武器を交えることなく睨みあい、そのまま和睦となって終戦を迎えた。
脅威となるグラチヌスは滅び、険悪だったラナニアとも和睦が成立した。
世界は平和になりつつある。
これなら当然、送り出した人達も無事に戻ってくるに違いないと、軍人の妻達は毎日のように港に立ち、大切な人の帰りをいつまでも待ち続けた。
「お母さん、もう真っ暗だよ? お家に入らないの?」
そんな婦人達の中に、この母娘はいた。
もう陽が落ちてどれほど経つか。
昼間ならば町の住民もいくらかは見に来るが、流石にこの時間帯ともなると、いつもと同じ顔ぶれしか立っていない。
「もうちょっとだけ。もうちょっとだけ、ね」
「……うん」
急かす娘を優しく諭しながら、「もうちょっとだけ待って頂戴」と、視線を海の向こうへと向ける母親。
その場にいた多くの女性が、やはり彼女と同じように一心のまま海を眺め、そして……涙を堪えていた。
彼女達は、もう解っていたのだ。
大切な人が、きっともう戻らないのだと。
あまりにも時間が経ちすぎていた。
最初こそ「船が故障してしまって難儀しているに違いないわ」「きっと今は他の港で補給をしているはずよ」と、自分達で慰めるようにそれらしい事を言い合っていたが。
もう、十年である。
流石にほとんどの者が「きっとあの人は帰ってこないのだ」と、理解してしまった。
帰ってこない人の死を受け入れるには、十年という時間は十分だったのだ。
それでも、それでも心の底では「どうか奇跡よ起きて」と、祈らずにはいられず。
彼女達は今日も、夜遅くまでその場を動けぬまま、戻らぬ人を待ち続けていた。
「……お母さん」
「ごめんなさい、アリサ。大丈夫……大丈夫だから」
心配そうに母親を見上げる娘は、声もロクにあげられぬまま涙を流す母に頭を撫でられ、「どうして謝るの?」と、首を傾げていた。
ここは港。笑顔で大切な人を迎える場所だと母から聞いていたのに。
その母が涙を流していたのだ。何かを我慢するように、口元をこわばらせながら。
だから、少女にはそれが不思議で仕方なかった。
なんで悲しんでいるのか。何を悲しんでいるのか。
まだ少女は、それが理解できるほどには大人ではなかった。
更に幾年月が経過した。
戦が終わり、艦隊の戻らぬ港は、やがて国からの援助も打ち切られるようになった。
沢山いた軍人の妻達も、ほとんどが遺族補償の手続きが容易な王都に移り住んでいった。
港から、船を待つ人の姿が徐々に消えていった。
あれほど賑やかだった町は、最初から住んでいた住民以外ほとんどいなくなり。
沢山いた子供達も、残ったのはわずかばかりだった。
それでも、諦めきれずに待ち続ける者はいた。
現実を受け入れきれない者。
受け入れた上で、それでも心の整理がつかず、待つしかできない者。
大切な人の後を追おうと港に立ち、飛び込む勇気が出せずに惨めな気持ちのまま海を眺めている者もいた。
この頃になると住民らも彼女達の扱いに困り、腫物であるかのように距離を取るようになっていた。
「――あの頃は、ただただ母を見上げているのが辛くって。見上げてしまえば、母が泣いているのが見えてしまう。けれど、やっぱり私はまだ子供だったから、いつまでもそこから動かずに身を震わせていた母が心配になってしまって、結局見上げてしまうのよ、何度も何度も、後悔しながら」
港沿いの小さな家にて。
老婦人アリサとトーマスは、昔を懐かしむように窓から見える海を眺めていた。
町にいる間だけでも、足の不自由なこのアリサの役に立てる事はないかと訪れたトーマスであったが、不意に、昔語りなどをとつとつと語って聞かせてくれたのだ。
「ご婦人も、軍人の親を持つ身だったとは。はばかりながら、私も父が軍人でしてな。息子としてはただただ誇らしいばかりでしたが、そんな父を見送る母は、やはり貴方の言うようにどこか不安そうであった」
「見送る者は、いつだってそんな気持ちなのでしょうね。そんな中から無事に戻ってきてくれるのが、どれほどの奇跡の上での出来事なのか……」
「戦時中は、戦地で散る事すら名誉と言われていましたからな……無茶な作戦も『命を掛ければきっと叶う』の一点張りで。父も戦場で散り、『お前の父は名誉の戦死を遂げたのだ』『ああ、なんと誇らしい英雄殿なのだ』と、人々から称賛を受け……しかし、これがまた、母には辛い事だったようで」
あの頃の私は若かった、と、昔を思い出しながらに、トーマスは苦々しい顔になる。
今でこそ貫禄に満ちた元老兵は、しかし、当時はそんな後の姿が想像できぬほどに青臭く、目先の名誉、父と同じような道を進む事ばかりを望んでいたのだ。
たまたま生き残ったから今があるが、いつ死しても不思議ではない戦地の事。
平和の世ではさほど役にも立たぬ戦場での功を求め続けた若かりし日々には、彼なりに思うところがあった。
「悲しい事ではありますが……戦争というものはきっと、人の価値観などを変えてしまうのでしょうね。戦争の為ならば、勝つ為ならば、負けぬ為ならば、と、様々な事を塗り替えていき……やがて思考停止してしまうのでしょう」
「左様……恐ろしいことながら、私自身、その『戦争』という価値観に引きずられ、飲み込まれており申した。アレは一種の昂揚、洗脳にも近い心の躍動ですな……人は、きっとどこかで戦を求めてしまうのだ」
それが為、人は苦しみ続ける。
だが、やめられぬ。
人を殺し、人に殺され、奪い、奪われ、失い、得て、また無くす。
果たして人は、いつまでこのような真似を続けるのであろう、と、白髪眉を揺するように目を細め、変わらぬ海を見つめる。
「母のように、戦争の世界に取り残されてしまった人は、きっと、いつまでもそれを忘れることができないのでしょうね。そうは言いながら、私自身、この歳になるまでこの町、この海から離れる事が出来ません……」
「アリサ殿も待っておられる? 父上を?」
「……頭では解っているのです。それに、当時は知らなくとも、今の時代、『あの時に何が起きていたのか』を知る事はできますから……」
語りながらに、部屋の隅にある本棚から一冊、黒い表紙の本を取り出す。
それは、この国の近代史。
戦前直近から戦時中、そして戦後の最近に至るまで、細かくまとめられた歴史書だった。
「私の父は、とても大きな船の、操舵を任される立場だったとか。艦隊を指揮する提督からも強く信頼され、仲間達からも慕われていたのだと、怪我で出陣できなかった水兵さんに後から聞かされました」
「……これは」
しおりが挟まれたページ。
アリサが指さすのは、歴史の中の短い一文。
【58年 真冬の月】 アルメリス提督率いる主力艦隊、グラチヌス主力艦隊と交戦後、行方知れずに。帰還途中に嵐に遭い壊滅したものと思われる。
「……たった一行。これが、私の父の、この国に残った最後の軌跡なのです」
「名前すら載らぬ、名もなき水兵達の、その最後がこれ、か……」
「それでも、知る事が出来てよかったと思えました。母がずっと待ち続けた最愛の人が、どのように亡くなったのかを知る事が出来たのですから。その時にはもう母は亡くなっておりましたが、墓前でそれを伝える事が出来たのです」
「……アリサ殿」
目元を濡らしながらに、それでも嬉しそうに語るこの老婦人を労わるよう、トーマスはそっとその肩をさすり、歯を噛んでいた。
――待つ者は、それくらいしか得られぬのだ。
悲しいという気持ちを理解しながらも、それでも知る事ができたのは幸運なのだと、そう自分に言い聞かせねばならない。
それが、彼らの知る戦争。
海に消えた男達に許された、唯一の生きた証を語るものなのだから。
「アリサ殿は、此度の船幽霊、その艦隊の者が戻ってきたのでは、と考えていらっしゃる?」
「ええ……父が、そして艦隊の水兵さん達が今尚も町に還ろうとしているのでは、と。ですが……もう今となっては、あの方々を迎える者は一人も……私も、今では家から離れることすら難しくなってしまって」
ただ立っているだけで足が震えているのを、トーマスは気づいていた。
アリサ婦人は、杖無くしてはまともに歩くこともできない。
トーマスを助けた時には、偶然近くに漁師がいたのでなんとかなったが、本来、他者を助けられるような立場の人ではないのだ。
それでも、震える膝をなんとか踏ん張り、彼女は窓から海を見ようとしていた。
ようやく帰ってきたかもしれない大切なその人達を、生きているにも関わらず出迎える事が出来ない、それが無念で仕方ないという、そんな気持ちが、婦人の後姿から伝わっていた。
「彼らは、怒っているのかもしれません。戦地から戻ってきた自分達を迎えてくれないこの町の民に。自分達を待ってくれているはずだった妻子が、出迎えてくれない事に」
「……そうであろうか」
戦場に生きた男達が、果たしてそのような事で怒りを胸にするだろうか。
いいや、死した者達のすること、生者であるトーマスには知るべくもないが、それでも、「そんな事はない」と信じたかったのだ。
「ともかく、確かめねばなるまい。私の時には無理だったが、今回は頼れる仲間もいる。アリサ殿、どうぞ諦めなさらぬよう。いざという時はこのトーマス、身を挺して御身を守って見せよう」
「トーマスさん……ありがとうございます」
感謝というよりは、諦観にも似たようなその言葉。
それでも、自分を鬱陶しがらないこの老婦人に、トーマスは強い決心を秘める。
――この老骨めを助けてくださったこのご婦人に、せめてものご恩返しをしなければ。