#9.かつて栄えた港町の今
港町ニーニャは、大国エルセリアの南端。いくつもある港町の一つである。
国内では最も古く、歴史的な造船場や市場などがあり、古くからなじみのある魚商などにはこの町で買い付けする者も多かった。
かつて世界中で『戦争』が続いていた時代では、国唯一の港町だった為に都会として栄え、軍船も数多く寄港していた重要拠点の一つであったが、今のニーニャはどちらかというと静かな、古びた印象を受ける田舎町であった。
町の東寄りの高台にある、町と港とが一望できる宿屋『海鳥の止まり木亭』。ここがカオル達の当面の拠点であった。
入ってすぐにトーマスが「あのご婦人が心配なので」と街へ出ていき、ベラドンナもまた「情報収集を試みてみますわ」と蝙蝠形態になって夜空を羽ばたいていった為、とりあえずすることの無いカオルとサララは「それじゃあ私達はお風呂にでも入りますか」と、サララの提案もあって身体を休める事にした。
勿論、浴場は別々である。
カオルは今、穏やかで、だけれど少し寂しい夜の漁師町の様子を、廊下の窓辺から見つめていた。
風呂上りになんとなしに目に入った景色がふと気になって、じっと見入っていたのだ。
「お客さん? どうされました?」
声がして振り向けば、そこには宿屋の主だという若い娘が立っていた。
青いヘアバンドとシルバーブロンドの髪が美しい、ちょっと時代がかったような装飾のお嬢様めいた服装のお姉さん。
姉妹で切り盛りしているのだと聞いていたが、そんな娘がきさくな話しかけてくれて、カオルも一瞬だけどきっとしてしまう。
「いや、なんていうか……こういう町って、久しぶりに見るなあって思ってさ」
建物の造りだとか、そこに住んでいる人だとかはまるで違うが。
それでも、カオルにはこの町が、どこか懐かしく思えたのだ。
「子供の頃、親に連れられてこういう町に旅行に来た事があってさ。なんか、思い出してたんだ」
「なるほど。海の方ではなく町を見てらっしゃったようなので、何か思い入れでもあるのかと思いましたが、そういう事でしたか」
納得したようにニコニコと頷く娘。
カオルはまた窓の先へと視線を戻す。
娘もその隣に立ち、同じように眺めていた。
「静かで、人もあんまりいなくてさ。海だけはきれいなんだけど、ちょっと寂しく感じる風景で」
「それじゃあ、この町にぴったり当てはまっちゃいますね」
「そうなんだよな。だけど、それを見たのがずっと昔で……いや、ずっと昔のように思えちゃって、ちょっとだけ悲しくなってな」
「楽しい思い出だったんですね」
「そうなんだろうな。だから遠いんだ」
カオルにとっては子供の頃の記憶。
両親とまだ一緒に居られた頃の、楽しかった向こうでの思い出。
恐らくは二度と会う事の出来ない、両親と過ごした日々。
忘れ去った訳ではないそんなものを、カオルは今まで思い出す事すらなく過ごしていたことに気づいて、途端に物悲しくなったのだ。
涙を流すことはなかった。あの日々に帰りたいと思う事もなかった。
けれど、どこか悔いるような、自分がとんでもなく遠い場所にいるような気がして、辛くなる。
「ここまで歩いてて思ったけど、この町って若い人、あんまりいないよな」
「そうですねぇ。私みたいに親から継いだ店を持ってる人以外は、結構出て行っちゃったりしますから。王都の近くにも大きな港町があるらしいですし、皆そっちにいっちゃうんでしょうね」
「もったいないよな。こんないい町なのに」
「住んでみれば結構楽しいんですけどね。でも、皆遠いところに行きたくなるみたいで」
これも人の性なんでしょうかね、と、どこか大人びた達観した事を言う娘に、カオルも「そうかもな」と、結んでいた口元を緩める。
そう、人は遠くに行きたがるものなのだ。
自分もまた、そうして遠くに来たのだから。
「海は、変わらずに綺麗なんですけどね……」
「変わらないよなあ、海は」
空と同化した夜の海は、どこまでも果てが無いかのようにそこに在った。
カオルが昔見た海と同じ、世界のどこに行っても同じような、そんな海。
静かな夜に聞こえる、ざぁという音が、どこか心の中で揺れているように感じられて、カオルはノスタルジックな気持ちに引き戻される。
そうして、そんな雰囲気から目を背けるように、窓辺に背を向けたのだ。
「船幽霊がいなきゃ、ここももっと楽しく暮らせるはずだよな」
「お客さん……?」
「いやその、その為に来たからさ。船幽霊、結構出てるんだろ?」
そもそもの目的を忘れてはいけない。
ブレるつもりはなかった。
カオルは今、船幽霊の対処の為、ここにきているのだから。
娘は、カオルの『船幽霊』という言葉に明らかに動揺を見せていた。
それまでニコニコとした愛らしい笑顔を向けてくれていた愛想のいい女主だったが、「どこでその話を?」と、困惑したように頬を引きつらせている。
「俺の連れに爺さんが居ただろ? あの人、今は辞めちゃったけど城兵隊長なんてやってた人でさ。少し前に、船幽霊に挑んで返り討ちにあったらしいんだ」
「まあ! そんな、無茶なことを……」
「ほんとにな。だけど、その後に助けてくれた人のために、船幽霊をなんとかしたいって頼まれてさ。それで来たんだよな」
「そういう事でしたか……失礼しました。お客さん達は、この町の為に来てくださったんですね」
最初こそ困惑していた娘ではあったが、カオル達が噂を聞きつけて興味本位で来た訳ではない事、船幽霊の問題を解決する為に来た事を知り、安堵するように息をついていた。
「船幽霊の件で、旅の方や商人の方が町に来てくれなくなっては困るので……少し前に町で、『どうにかして町の外にこの話が漏れないようにしなくては』って話し合ってたんです。その矢先だったので、ちょっとびっくりしてしまって」
「外に広まってる話だと思ったって事?」
「はい。私達が思っている以上に、噂として国中に広がってしまってるんじゃって……でも、違ったんですね。ああ、びっくりした」
「まだそこまでは広がってないと思うぜ。俺も、その爺さんからの手紙で初めて知った訳だしな」
だが、ここまで話してカオルは「その手紙の宛先がお姫様だった事」を失念していた事を思い出した。
噂として広まっているかは別として、少なくとも国にはこの問題が知れてしまっているのだ。
ただ、実際にはまだ何も動いていないようなので、「早いうちに解決できりゃ問題ないよな」と割り切る事にした。
カオルもなんだかんだ、事なかれ主義である。
「――船幽霊自体は、毎週同じ日、同じ時刻に出現するようなのです。段々と沖合から港に近づいてきていて、進路上にあるものは砲撃してきて……まだこちらには撃ってきませんが、その内港や町にも撃たれるのでは、と、皆不安がっています」
「そりゃそうだよな。いつ自分たちが攻撃されるかなんて思ったら、怖くて夜も寝られないぜ」
「そうなんですよね……船幽霊が現れ始めてからまだ二月くらいですけど、不気味がって町から離れる人も出てきていて……町としては、深刻な悩みになっています」
大体はトーマスから聞いた情報と同じだが、町の人がそれだけ不安な気持ちに晒されている事は、カオルとしては見過ごせないポイントだった。
困っている人がいるなら、やはり無視はできないのだ。英雄としては。
「やっぱり、幽霊っていうくらいだし、夜中に出てくるのかい?」
「いいえ。何故か昼間に現れるのです。それも、一番陽が高い時刻に」
「昼に現れるのか……幽霊の癖に妙に気合入ってるというか」
砲撃してくることといい、全然幽霊らしからぬ特徴だった。
幽霊船と言えばこの手の話の最たるものだが、真昼間に堂々と現れる幽霊も珍しい。
「最初に発見したのは沖に出ていた漁師の人達でした。遠くの方からこちらに向かってくる大きな船に、最初は見間違えか、どこかから迷い込んできた遭難船なんじゃないかって言われてたんです」
「砲撃してこなきゃそう思うよなあ」
「はい。その内の一人が、確かめるために小舟で近づいていって……その時に、乗り込む為にモリを手に持っていたんですが、砲撃されてしまって――」
「その人は?」
「幸い最初は外れたようで、海に投げ出されてすぐに仲間に助けられたらしいですけど……こちらに戻ってから、それとは別の理由で亡くなってしまいました」
「それは……残念だな」
貴重なその時の話を聞けるものと期待してしまったが、本人がもういないのならどうしようもなかった。
そもそものところ、今回に限って言えばトーマスからの話が一番それに近いモノとも思えたので、その体験談を聞く意味があるかも微妙なところだったが。
「ただの幽霊なら見なかったことにすればいいですけど、近づいたら攻撃してくるようでは、無視し続ける訳にもいきません……だからと迂闊に近づけば撃たれる訳ですし、向こうからは少しずつ近づいているのが解って、今ではもう港から見える距離にまで……」
「結構深刻な状況だよな、対処するにも、できる人がいない訳だし」
「そうなんです。軍艦でもあれば話が違うんでしょうが、今のこの町には魚漁船しかありませんし。正直、途方に暮れていました」
住民ではどうにもできない。だというのに船幽霊はどんどん近づいてくる。
これは住民にとっては相当なプレッシャーのはずだった。
何故、何が目的で近づいてくるのかも解らない。そして対処のしようがない。
町の命運に突然課せられたカウントダウン。
カオルをして、徐々に状況の不味さが理解できて、また海へと視線を向ける。
海は、変わらないまま。
だが、町は確かに変わろうとしているのだ。
このまま放置すれば、とても悲しい事になるかもしれない。
ノスタルジーすら感じられぬ廃墟となった町を見るのは、カオルも避けたかった。
「ハーヴィー姉さん、角部屋のお客さんが、姉さんを呼んでくれって――」
「あら、そう。解ったわ。ありがとうリシュア。それではお客さん、どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとな」
住民からはあまり実のある情報は聞けなさそうだと思ったあたりで、娘は廊下の奥から姿を現した少女に声を掛けられ、ぺこりとお辞儀して去っていった。
後に残されたのは、カオルと『リシュア』と呼ばれた少女のみである。
「ハーヴィー姉さんは、婚約者がいるから口説いても無駄ですよ?」
「いや、そんな気はないけど」
幼いながらませた事を言う娘だった。
カオルも思わず噴きそうになって堪える。
「そうですか。前にも姉さんとばかり話してる人が居て、恋人の女性に怒られてましたから」
「確かに美人さんだけどな」
「えへへ、そうです。姉さんは美人さんなんです」
姉の事を褒められると嬉しいのか、リシュアは機嫌よさげにぺかーっと笑顔になる。
まだまだ幼いが、中々に姉想いらしかった。
微笑ましいと思いながら、カオルはハーヴィーの消えていった客室のドアを見つめる。
「他にも客がいたんだな、ここ」
町は静かで、ここに訪れる客も少ないのでは、と思っていたのだが、それでも他に宿泊客が居たのだ。
どんな客なのか、ちょっと気になっていた。
「変わった雰囲気の方でしたけどね。宝石みたいな透き通る青い髪がとっても綺麗な若奥様でした」
「へぇ。女の人ひとりでこの町になあ」
「あんまりお話なさらない方なので、町に来た目的とかは知らないですけどね。何か姉さんに用があるみたいで、呼びはしたものの……一体どんなお話なのやら」
部屋へと消えた姉が気になるのか、リシュアもちらちらとドアの方を見たり見なかったりしていた。
その仕草がどこかコミカルにも見えて、ちょっと面白い。
年少の女の子が敬語で話しているのも、カオル的にはちょっと面白かった。
「それはそうとお客さん?」
「なんだ?」
「さっきからそちらで……じっとこちらを見ている猫耳のお姉さんは、お連れの方ですよね?」
「……うん?」
リシュアに指摘され、手先で示された方を見ると、そこにはサララがいた。
廊下の角から物言わぬままにこちらを見ていたのだ。
「じー」
「いや、そんなところで見てないでこっちにこいよ」
何故そんなところで様子を窺っていたのか謎だったが、とにかくカオルは手をちょいちょいと振って「こっちゃこい」と誘い込む。
サララも「えへへ、すみません」と後ろ髪をなでながらとことこ寄ってきた。
どうやら風呂上りらしくほかほかで、とてもいい香りがしていた。
「お風呂上がりなので一緒に夜風にでもーと思ったのですが、何やら宿屋の娘さんがたとお喋りしていたようなので、遠慮しちゃいました」
「そ、そうだったのか……ふーん」
カオルにとってはちょっとしたひやひやものであった。
元々そんな気はなかったとはいえ、もしここでカオルがハーヴィー相手に色気の一つも見せたらその時点で「浮気者!」と涙目になりながら顔を引っ掻かれるに違いなかったのだから。
ベラドンナが仲間になった時の事を思い出しながら、カオルは苦々しい思い出を忘れるように頭を振った。
「邪魔な訳ないだろ。ちょっと船幽霊について聞いてたんだよ」
「ふ、船幽霊!?」
船幽霊と聞き途端に悲鳴をあげ縮こまってしまったリシュア。
何事かと視線を向けるカオルだったが、顔を青くしてビクビクと震えているのを見て「ああそうか」と納得する。
「別に、噂として聞きつけて来たわけじゃないから安心しろよ」
「そ、そうではなくって……あの、ゆ、ゆゆゆ、幽霊とか、いませんからっ!」
「へっ?」
「そ、そんなの迷信ですっ! いるはずありませんっ!」
「……ああ、なるほど」
「何納得してるんです!? 違いますからねっ!? 別に私、幽霊が怖いとかそんな――」
どうやら船幽霊が怖かったらしい。
言葉遣いなどで大人ぶっていても、やはり見た目通りのお子様であった。
(癒やされるな)
(無理しちゃって、可愛いですねえ)
寄ってきたサララと二人して、その微笑ましいワタワタとした様を見て頬を緩めていた。